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愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

伯備国分寺石仏

2009年11月05日 | 石仏:その他

いつごろ誰が何のために刻んだのか??石仏といえるかどうかさえちょっと疑問な程の異形ぶりです・・・、ここは鳥取県倉吉市の社小学校。

石仏だと聞かなければとても石仏だとは信じがたい顔つき、こんな自由奔放な表現の石仏が?信仰の対象とされていたとは思えない。

この石仏は明治末ごろ近くの伯耆国分寺跡から出土したといわれていていて、校門を入った前庭にさも子供の卒業記念作品よろしく置かれているのが微笑ましくもある。

石仏は5体で、高さ最大で85cm、幅は約30cmで、一体以外は方形の輝石安山岩前面に半肉彫りで刻まれている。

像が刻まれている石材は、伯耆国分寺の塔基壇に使用されていた石材が転用されたものだといわれていますが、制作年代や作者は全く不明。

写真でも見ても解るように一種独特、異様な顔つきで、薬師三尊や羅漢像ではないかという説もあるようですが、最大の像など不埒な僕には、まるで男根を抱えているようにも見えたりする(そんな事はないか??)。

一説には寛政十年(1798年)5月から7月に伯耆を訪れていた木喰上人が造ったものだと言う説も有るらしいが確証はないという。

この伯耆国分寺石仏にしろ、北条五百羅漢石仏にしろ、石仏の域を超え、かの岡本太郎流に言えば「芸術は爆発だ」の感を強くする。

撮影2008.9.21

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大岩山日石寺・不動明王磨崖石仏

2009年11月03日 | 石仏:その他

富山方面に行ったら石仏ファンにはどうしてもここは逃せない処。

以前からどうしても行きたかったかったのですが、今回立山の巨杉を訪ねると同時にこの地も訪問することにした。

富山市内で宿を取って朝一番の訪問となったここはあの立山町の隣、上市町大岩日石寺。

JR富山駅近くのホテルから約30分、立山連峰の裾野にあって「大岩のお不動さん」と呼んで親しまれている余り聞きなれない真言蜜宗の総本山だそうです。

長閑な里山、大岩集落のドン突き、山裾の斜面を拓いて境内があって、一気に車で境内の駐車場にと車を登らせる。

総本山にしてはさほど広くない境内から一段上に上ると左手正面に鉄筋コンクリート製の大きな本堂?(不動堂)があって、その内陣の奥壁にこの磨崖石仏が刻まれている。

現在もしっかり信仰の中に有って、どこかの観光寺院のように拝観料を取るでもなく又写真撮影お断りでもなく実に嬉しいが磨崖仏の前には大きな護摩壇があってその分室内は薄暗く、とてもストロボなしでの撮影は無理、勿論このような信仰の場で三脚を据え付けるほど無粋でもないので写真の出来は期待できない。

寺伝では神亀2年(725年)、行基(ぎょうぎ)が北陸伝道の折、一大巨岩を発見、不動明王ほか四体の尊像を刻みつけたのがこの寺の開基と伝えている。

薄暗い上に、まさに信仰の対象としての石仏ゆえそれほど真近に近づく事も出来かねるが、その迫力は並ならぬものが有る。

凝灰岩の岩山に突き出た大岩に、高さ6m幅11m奥行き2.2mの龕を穿ち、上前方に約20度傾斜した面に五体の仏たちが彫られている。

中尊不動明王坐像は特に見事で、半肉彫り、像高3.13m、大きさもさることながら、ずば抜けた迫力で見る者を圧倒させる力強さがあって今でも脈々と息づいているようにさえ感じられる。

脇侍の制多迦童子、矜羯羅童子は共に像高2.14m、あって、この不動三尊が平安後期当初のものであるといわれ、間にある阿弥陀如来座像と行基菩薩坐像は後の追刻だと言われています。

磨崖仏に覆いをかける形で本堂が建造されていて風化磨耗も少なく、石仏としての不動明王では規模といい、その出来栄えの見事さといい、最高のものだと言えます。

ただ惜しい事に室町時代に上杉勢の兵火に遭い、また昭和42年(1967年)に本堂が火事に遭ったためか?、向かって左の2体、制多迦童子像、行基菩薩坐像は共に損傷が激しく判然としない。

昭和49年には大岩日石寺磨崖仏として国の重要文化財に指定されている。 

撮影2009.11.1

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福井県南越前町 言奈(いうな)地蔵

2009年10月19日 | 石仏:その他

石仏としてはそれほど優れたものではなさそうに見えますが・・・・

福井県の嶺南と嶺北を隔てる分岐点、木ノ芽峠の直ぐ近くに有るこの「言奈地蔵」には興味深い逸話が残されていて興味深い。

北国街道、湖北の木の本宿よりR365を北進する事約30分、大きなトチの木が深い谷の崖から背伸びしているかのように見える栃の木峠につく。

ここより左手山手に入る林道を進む事約10分強、林道とは言え道路は快適なアスファルト。(所どころダートもあったかな??)

林道脇にそれと解る看板があって、少し手入れは行き届いてないが、斜面の間道を登りつめると、この東屋のような趣の有る萱葺きの地蔵堂に出会う。

ここは、かつて都と北陸諸国とを結ぶ交通の難所、平安初期に開削された古い官道で、敦賀から今庄へ抜ける最短路でもあり 気候や方言などもここを境に一変すると言われていますが現在では直下近くを北陸道敦賀トンネルやR476の敦賀から今庄へ抜ける木の芽トンネルが貫通していて、全く車にも出合わない。

地蔵堂の正面の扉は、ふいの参拝者のためか鍵はかけられず誰でも真近に参拝できるようにに成っている。

巨大な自然石の正面に、等身大の稚拙な彫りで野趣にとんだ地蔵菩薩を刻んでいる。

言い伝えに依るとこれは弘法大師の化身だと言われていて、掲示板のような謂れを伝えていると言う・・・・。

「地蔵は言わぬが、おのれ言うな。」・・・・・、う~~~ん含蓄の有る言葉、いつの世も人間って大して変わらないもんですね。

ふと石の地蔵さんが苦笑いして、今にも喋り出しそうな気がしてくる。

ここより500mほど手前には旧北陸道、「木の芽峠」の石畳が残り、一軒家の前川家が今に街道筋の面影をとどめている。

ここは遥か人里はなれた山の中、栃の木峠から板取宿近くの国道までの間、殆ど車にも出会うことは無かった。

撮影2008.7.5

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