ぴか の観劇(芸術鑑賞)日記

宝塚から始まった観劇人生。ミュージカル、ストレートプレイ、歌舞伎、映画やTVドラマ等も書きます。

08/08/15 終戦記念日に『ビッグイシュー』100号のご紹介

2008-08-15 23:59:17 | 観劇

63回目の終戦の日。日本では敗戦の日なのに太平洋戦争の終戦の日という。韓国では解放を祝う日でもある。戦没者の冥福はもちろんしっかり祈りたい。しかしながらその過ちを繰り返さないための取り組みがもっと必要に思える。

太平洋戦争という歴史的汚点も政府としてしっかり総括し、後の世代にきちんとした歴史教育をしてこれず、その戦争で迷惑をかけた国々からいまだに怒りをぶつけられている日本。靖国神社の公式参拝も小泉が現職の首相でやってしまえばなんとなく「個人の信念でしたいのであれば首相が靖国神社に参拝してもそんなに悪いことじゃないんじゃないの」という人が増えてしまうというくらい、日本の世論はフラフラと頼りない。ドイツは敗戦後まもない時期からナチのしたことを歴史の教科書にどう記述すべきかを周囲の国々と協議して決めている。日本はようやく近年の摩擦で始めようという合意ができたばかり......。
ドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」を見た時の記事はこちら
戦争もあらゆる事故も事件も被害を受けた人々がつらいことを忘れたいという気持ちは否定できない。しかしながら加害者、またはそのことを起こした当事者責任者が忘れたいという気持ちは周囲は断じて許してはならないと私は思う。そこらへんを追及しきれないというのは、日本人の悪い国民性なのかもしれないと憂いてしまう。

こんな日に元気が出るように『ビッグイシュー』100号をご紹介したい。以前もご紹介の記事を書いた。
『ビッグイシュー』100号の特集は「戦争は克服できる」。29年間米国陸軍に在籍し16年間外交官として活躍しながら、イラク戦争開戦の日に辞任したアン・ライトさんはいま平和活動家に。陸軍時代は軍事作戦後の民間和解プロジェクトに参加したというし、軍隊といってもいろんな仕事があるものだと思わされた。ブッシュ政権になってからの外交政策との溝が深くなり、イラク戦争の日にパウエル国務長官に辞表を提出したという。同じ女性でもライス国務長官となんという違いだろう。
5月の「9条平和会議」にも来日され、その時に取材したインタビュー記事だった。
「私の国アメリカは心から9条を必要としています」
「世界中の国々が平和を政策に掲げる日を待ち望んでいます。対話は弾丸に勝るのですから」
私も気を長く持っていかなければと、励まされた。毎号買っているわけではなく公式サイトでのチェックが遅れたせいで最新号の1号前になってしまった。しかしながらバックナンバーも販売員さんに「前の号ありますか?」と聞いてあればその場で買うことができる。創刊100号スペシャル対談などもあり、読み応えがあっておすすめである。


08/08/12 名古屋の姪っ子2の夏休み

2008-08-14 23:58:59 | おでかけ、旅行

父の百日祭りを新暦のお盆近くにやったこともあり、旧盆のお墓参りは秋のお彼岸に繰り延べ。
今年大学生になった名古屋の姪っ子2の夏休みということで、東京見物に母親=妹1と一緒にやってきて妹2の家に4泊していった。母には来ていることを言わずに隠密行動。なぜ顔を出さないと大騒ぎされるし、それはイコール母親を中心に行動しなければ気がすまないという我侭に付き合っていたら娘中心に遊んでやることができないというわけだ。
その中で私も付き合ったのだが、12日の夕方は恵比寿ガーデンプレイス。渋谷に出かけて5時で上がれる私と湘南新宿ラインで北本まで帰りたい皆で落ち合いやすいのが恵比寿と思いついた次第。昼間はお台場に行ってきた一行と私が合流し、散策と食事をしてきた。
恵比寿麦酒記念館くらい観たかったが、受付終了が17:00ということでパンフレットだけもらってきた。またの機会に見学してみたい。
映画「花より男子ファイナル」では、この写真の正面のシャトーレストランの前で小栗旬演じる花沢類が神父役で結婚式という場面があった。姪っ子2は映画は未見だったがテレビドラマは見ていたらしく、道明寺とつくしの待ち合わせの場所は見つけてキャアキャアと写真を撮っていた。青春だぁ。

さて早めの夕ご飯はガイドブックでおすすめの「キムカツ恵比寿本店」へ。ロース肉を25層にした豚カツは柔らかく食べやすくて美味しかった。私は今月特別メニューのゴーヤ入りにしてみたが苦味も加わってよりさっぱりといただけた(まぁ帰宅してから胃もたれ用の胃薬は飲んだけれど)。ビールも妹1が飲んだだけなのだった(^^ゞ

写真は妹1のデジカメで撮影したものを妹2が家でプリントアウトしてくれた。それを携帯で接写。右下の白は私の帽子で左下は妹2の帽子。

08/08/12 日航機事故から23年で実現したことと映画「クライマーズ・ハイ」

2008-08-12 23:59:46 | 映画(映画館、DVD、TVを含む)

1985年8/12に起きた日航ジャンボ機墜落事故から今日で23年。報道で今年ようやく実現したことを読んで、溜息が出た。以下、それぞれの公式サイトより一部を引用。
「事故から23年 17遺品を展示(毎日新聞)
日航によると、群馬県上野村の墜落現場から見つかった遺品のうち、約2700点が引き取り手のないまま羽田空港内で保管されている。(中略)遺品について、日航は当初、「だびに付して上野村の慰霊の園にまつりたい」との意向を遺族に示した。一方、遺族は「事故を忘れないためにも、遺品は保存すべきだ」と強く要望し、長く話し合いが続けられた。
日航が方針を変えたのは、05年に安全上のトラブルが相次いだのがきっかけ。墜落事故を「負の遺産」でなく安全意識の原点にしようと考え、06年4月、社員研修を主目的とした安全啓発センターを開設。事故機の一部や乗客が家族に残したメモなどを展示した。遺品についても、事故の悲惨さが伝わるものをと遺族と検討し、展示が実現した。見学は11日から3日間は遺族と関係者、18日から一般も受け付ける。」

「忘れたい過去、忘れぬ教訓に 日航機墜落、遺品を展示(朝日新聞)
(前略)JALは当初、これらを焼却し、灰を慰霊施設に納めるつもりだった。遺族の反発で焼却は取りやめになったが、保存や展示を求める遺族の意向には応じてこなかった経緯がある。ある幹部は「『早く忘れたい』、という思いが働いた」と打ち明ける。」

しかしながら、安全上のトラブルが絶えないことと遺族の方々の粘り強い働きかけで今年から公開が実現したという。それにこんなに長い年月を要するというところに溜息が出てしまった。会社が自分たちの失敗は早く忘れたいということで公開を応じてこなかったというのはなんという傲慢さだろう。これは日本人の国民性なんだろうか。と嘆きつつも、せっかくの展示実現だ。事故を知らない世代の若い職員にもきちんと教訓を伝えていくために役立って欲しい。

さて、今月の映画の日に娘と映画「クライマーズ・ハイ」を観ている。観るのがつらそうという予想もあってなかなか腰が上がらなかったが、ブログ仲間の皆さんの評判もよく、意を決して観てきた次第。結論的には見応えのある作品だった。
この歴史的な事故を忘れないためにも、簡単だがしっかりアップしておこう。

ウィキペディアの「クライマーズ・ハイ」の項より
原作者の横山秀夫が「上毛新聞記者時代に遭遇した日本航空123便墜落事故をもとに、事故時の群馬県の架空の地元新聞社を舞台にしたもの」とある。あらすじも出演者もそちらに詳しく書かれているので省略。
冒頭、職場の山登りの会の友人同士である悠木和雅(堤真一)と安西耿一郎(高嶋政宏)がそれぞれの息子と山でキャンプしている場面に少々遅れた。そのせいでストーリーがわかりにくいのかと思いつつ観ていく。
悠木は妻と離婚しているので息子とは一緒に暮らしていない。映画は悠木が老いてからその息子との関係性を修復するために安西の遺児の協力で安西と事故の起きた日に登るはずだった群馬県内最大の難関・谷川岳の衝立岩に登る場面と日航機事故の全権デスクになっての1週間が行ったりきたりするのだが、私には少々煩わしく感じてしまった。悠木も安西もワンマン社長の白河(山崎努)に振り回されていて、安西は会社を辞めようとするふんぎりをつけるための衝立岩登山だったが、悠木と待ち合わせの間にくも膜下出血で過労死。そしてこの1週間の最後で悠木にとっての衝立岩である白河を乗り越えるというクライマックスを迎えるというドラマだったように思う。だから登山家たちの用語の「クライマーズ・ハイ」ということなのだろう。

高嶋政宏はとにかくカッコはよくない役を熱演。植物人間になってしまった姿まで、頭をしっかり剃って本気モードはいい。
堤真一演じる悠木は新聞記者になる原点になった映画での「チェック、ダブルチェック」を信念のようにしてジャーナリストとして生きている。それを若手に伝える気概が素晴らしい。息子との葛藤もそれが息子に理解されていたことで乗り越えられそうな気配に最後は安心できるのだが、その揺れるまなざしも堤ならではの魅力。
堺雅人も常にスクープをねらう若手記者・佐山達哉をすごい迫力で熱演。「喪服の似合うエレクトラ」の弟オリン役から注目してきただけに、最近の大河ドラマの将軍家定さまでのブレイクも嬉しく、映画での活躍も頼もしい。
それになんといっても白河社長の山崎努の嫌らしい(セクハラだけでなく)人間ぶりが秀逸(笑)
若手女性記者・玉置千鶴子の尾野真千子も女性差別意識の根強い職場の中で必死に頑張る姿に1980年代の自分が重なってウルウル。
大久保・連赤事件のスクープで社会部長になった等々力庸平の遠藤憲一の魅力を今回初めて理解した。「覇王別姫」のような舞台よりも映像ではその魅力が生きるようだ。堤真一とのガチンコ場面や次第に応援モードになる男の複雑な感情を実に渋く見せてくれた。

1985年というと社会人になって3年くらい。職場の様子もいちいち自分の職場のそれを思い出しながら見ていた。そうそう電話中心でFAXが大会社の取引先から入っていっていたっけ。オンラインなんてまだまだだったとか・・・・・・。
この日航機123便の事故の報道の記憶も甦る。犠牲になった男性がご家族への遺書を手帳に書き込んでいて、それが報道された時と同様、映画の中でも読み上げられた時に涙が込み上げた。
悠木たちがスクープしようとして思いとどまった「圧力隔壁破損」が事故原因という報道もしっかり覚えている。遺体確認で全国から集まった家族たちに、地元紙として自社の紙面を届けるということへのこだわりがあったことなどは知らなかった。
新聞社という企業体の中で編集部門と販売部門との関係の物凄さなどにはあらためてびっくりさせられた。そういう騒乱まで引き起こしながらも「チェック、ダブルチェック」での確信を持てなければ「俺には抜けない」という悠木の姿に胸を打たれた。

観ていない方にはDVDででもいいから是非にとおすすめしたい。写真は発売予定のDVD。
監督は原田眞人ということで、過去の作品を見たら役所広司主演の「突入せよ!『あさま山荘』事件」を観ていた。連合赤軍事件でつながるのかぁ。「わが魂は輝く水なり」を早く書けということかなぁとまたあせる。

08/07/31 歌舞伎座千穐楽夜の部②「高野聖」魔人の純心

2008-08-10 00:28:49 | 観劇

七月歌舞伎全体の概観記事でもふれているが、「高野聖」単独の感想も書いて完結!
「玉三郎座頭の七月大歌舞伎を貫いたもの・・・」
【高野聖(こうやひじり)】
今回の主な配役は以下の通り。
女=玉三郎 僧・宗朝=海老蔵
親仁=歌六 次郎=尾上右近
薬売=市蔵 猟師=男女蔵
百姓=右之助

冒頭は年配の僧が並んで経を読む姿のアップ映像が幕に映し出され、読経の声が響く。その幕が上がって明るくなると飛騨から信州へ抜ける道が二手に分かれるところ。間に立つ巨木が悩ましい女体に見える装置に目を奪われる。これは隠し絵そのもの。これで修行僧が煩悩の責め苦にあう話だというイメージが湧く。
薬売が猟師に松本への道を尋ねると、本道は雨でややしばらく小川のようになっているが近道を絶対に行くのではないと忠告。遅れてさしかかる宗朝道連れになろうと言う。ゆっくり行くからと断るといろいろ因縁をつけて傲慢な薬売は近道を行ってしまう。そこにさしかかった百姓に近道の恐ろしさを詳しく聞いた宗朝は薬売を見捨てられずに連れ戻すために近道を進んでいく。
険しい山谷を表す大道具が回り、そこに黒衣がぬめり感のある大蛇を操っていたりする舞台は、3階席からだと全体が把握できて迫力もあって面白かった。初日からの評判はその通りだと思った。

山奥の孤家をみつけると厩には馬がつながれている。声をかけると一人の女が出てくる。疲労困憊の宗朝は屋根の下の片隅にでも泊めてほしいと乞う。女はそれを許し、自分は米を洗いに降りるからと崖下の流れで汗を流すようにすすめる。崖下に降りていく様子を客席に下りて通路を通り、花道から戻ると流れになるという装置も演出も見事。玉三郎が客席を通る演出をするのは初めてとも聞いた。
女に紹介された親仁の口真似で宗朝が「嬢様」と呼ぶと女は喜び、照れながらも親身になって沐浴をもすすめる。13年前の洪水の後で新しくできた流れだが、夏は涼しく冬は暖かく癒されると言う。強いすすめに負けて身体を流しているといつのまにか女も裸になり、宗朝が途中の森で蛭に吸われた背中の傷を掌で優しく洗い清めてくれた。その場面は、床にシートの切れ目を入れて肩から上をさらすという演出。海老蔵は鍛え上げた胸も美しいが何やら肩から背中に肌の色と同じ色の下着をつけていた。白く塗った玉三郎の上半身とこすれても失礼にならないようにしているのだろうか、などと妄想も楽しい。3階B席からだ玉三郎のまっ平らなお胸の方まで見えてしまうのはまた楽しからずや。

途中で蟇蛙や猿などが慕い寄るのを女が叱りつける様子に驚きながらも、その美しさと優しさに心を動かされた宗朝。女の肌にふれるまいと煩悩と闘い自分を制している。その心の強さに女はますます純な様子を見せるので女を「白桃の花」のようだとも言ってしまう。
女は心身障害を持つ次郎の世話をしている。下男のような親仁がつながれた馬を売りに行き、その金で食べ物などを買ってくるという。その馬は宗朝を見ると何か訴えたげな様子で暴れる。胸をはだけて見せて大人しくさせたり、夜中に獣たちが女を慕ってくるのを「今夜はお客様があるよ」と叱責したりする様子に恐れ慄く宗朝。一心に経文を唱えて夜を明かす。
ここも幕をうまく使って蝙蝠やムササビの姿の影絵と声で怪しい雰囲気を醸し出す。「ライオンキング」のジュリーテイモアがアジアの影絵の手法を取り入れていたことを思い出しながら、まさにアジアンテイストの演出を堪能。

翌朝、女は宗朝をしっかり送り出し別れを告げる。松本へ向かう宗朝が修行を続けるよりも女を救うために戻る方がいいのではないかと迷い足をとどめている。そこで戻ってくる親仁と遭遇。親仁は宗朝が人間のままでいることに驚き、そのことの意味を悟り、宗朝の迷いをも指摘。修行を続けることをすすめるために女のこれまでと今を語り始める。
父親の手術の失敗で不具者になってしまった次郎を世話しているうちに女と自分が孤家で洪水をまぬがれて生き残ったこと。元は不思議な力を持ちながらも人間だった女が新しい水の流れに身を浸すうちに妖力をつけ、肉欲で近づく男を弄び飽きると動物にしてしまうという。魔人になった女が人間のままにしたのだから修行を続けろというのだ。
「白桃の花、魔人の姿」とつぶやきながら遥かに女の面影を追いながら、煩悩から吹っ切れた表情を見せる宗朝の海老蔵が一人残る幕切れ。

実はご一緒していた玲小姐さんがどうしても早く帰らないといけないというので、hitomiさんと席を玉突きで移動。後半の孤家場面への場面転換時に一階の一等席の10列目の通路脇で見ることができ、遠くからと近くから一回で両方堪能させていただいた。感謝m(_ _)m

泉鏡花の小説を石川耕士が脚色、玉三郎と相談しながら仕上げたという今回の舞台。歌舞伎座としては異色の舞台だったと思うが私は大変面白かった。舞台の完成度としては「夜叉ヶ池」の再演の方に軍配を上げるが、今回の2本でまたまた鏡花の美学が玉三郎によって歌舞伎座に満たされた。
こういう舞台と昼の部の古典を並べることで、深山幽谷の異界の者たちの「純心」を描いた玉三郎。美しく優しく、そして厳しさも秘めて人間である観客の心への問いかけをされているような気がした。

写真は今回の公演の独自両面チラシの裏面。表面は「義経千本桜 吉野山」の写真になっている。               
7/26昼の部①「鳥居前」
7/26昼の部②竹本のみの「吉野山」
7/26昼の部③「四の切」
7/31千穐楽夜の部①「夜叉ヶ池」

08/07/31 歌舞伎座夜の部①「夜叉ヶ池」再演でバージョンアップ!

2008-08-09 10:30:10 | 観劇

先日は歌舞伎座の七月公演全体を概観した記事を書いた。夜の泉鏡花作品だけでなく昼の狐忠信の通し上演も含め、座頭の玉三郎丈はどんな世界を描き出したかったのかなどを考察してみた次第。そこでも書いたが七月の作品は全て深山幽谷を舞台にしている。写真は今回公演の筋書表紙。ゴールドのチラシにも使われている山と谷の風景。まずは「夜叉ヶ池」から個別の感想も書いていこう。
「玉三郎座頭の七月大歌舞伎を貫いたもの・・・」

【夜叉ヶ池(やしゃがいけ)】
一昨年の歌舞伎座公演の時の記事はこちら
あらすじは省略。今回の配役は以下の通り。
百合=春猿 白雪姫=笑三郎
萩原晃=段治郎 山沢学円=市川右近
万年姥=吉弥 黒和尚鯰入=猿弥
穴隈鉱蔵=薪車 畑上嘉伝次=寿猿

今回は観る前に古本屋でGETしておいた戯曲で予習済み。
晃「水は、美しい。いつ見ても・・・・・・美しいな。」で始まる冒頭の百合と晃夫婦の会話。前回はなんとなく聞き流してしまっていたが今回はじっくり楽しめた。家の前の小川で米を洗っている百合を綺麗だと褒めるのに水から褒めるのだ。手伝おうかとか、お腹が空いたとかいうことを百合とじゃらじゃら話している内容なのだが、とにかく台詞が美しく、段治郎と春猿の芝居もいいものだから純な若夫婦の他愛のない会話に引き込まれてしまう。
右近の山沢が前回よりもまたぐっとよくなった。健康的に引き締まって台詞もこもらなくなって、3人での会話の場面を渡辺保氏も褒めていたが、なるほどと思わされた。

黒和尚鯰入が猿弥になって、鯉七と大蟹五郎との3人での会話から白雪姫の登場までの芝居もより濃くなった。白雪姫が二役となり笑三郎のキャスティングに期待していたが、予想をはるかに上回る。冷たく凛とした妖怪の姫君としては春猿よりも適役。白山剣ヶ峰千蛇ヶ池の公達に会いにいきたい気持ちがほとばしり、神との約束を破ることを恐れよと万年姥が必死で止めても暴走はとまらない。吉弥の姥の姫に対する思いも初演より深い。その白雪を冷静にさせる百合の子守唄。
白雪「・・・私がこの村を沈めたら、美しい人の命もあるまい。鐘を搗けば仇だけれども、この家の二人は、嫉ましいが羨ましい。おとなしゅうしてあやかろうな」
「美しい人」というのは百合の美しさをいうのかと当初は思っていたが、今回は美しい心を持つ百合と晃夫婦をさすのだと気がついた。妖かしの者も純心を持つ人間には敬意を払うのだ。

古くからの多くの人々の命を守るための伝説を信じ、人里離れた孤家に世も捨てて愛する者と二人で細々と日々を暮らす夫婦の純心。親友を見つけた山沢も二人の姿に打たれて晃を世に戻すことをしない。
伝説に守られているはずの村人が伝説を守る鐘楼守を馬鹿にし、旱には雨乞いに夜叉ヶ池の主に贄を捧げればよいという野蛮な言い伝えを信じている。これは目に見える供え物をするパフォーマンス重視=効果があればそれを司った者への権威付けが簡単にできるという俗っぽい信仰の真似事なのか。百合を裸にして牛に乗せて池まで連れていけば雨が降ると言い張る。薪車の穴隈鉱蔵を頭に抱いて頑迷暴虐の民、好演(笑)
山沢の浄土真宗の坊主としての説得にも耳を貸さない村人たち。騒動の中、晃が傷つくと百合は鎌で自分の胸を刺して死ぬことで混乱を収めようとする。
丑三つの鐘を鳴らさないことを決意し撞木を切り落とすと地響きを立てて池は決壊。それを見届けて晃も喉を掻っ切って自害。白雪と夜叉ヶ池の眷属たちが村人たちを洪水の中で屠りさる。

さぁ最後だ。ここで期待していたのは戯曲通りに二役が生きる幕切れを期待していた私。
白雪「この新しい鐘ヶ淵はお二人の住居にしよう。皆おいで。私は剣ヶ峰へ行くよ。・・・・・・もうゆきかよいは思いのまま。お百合さん、お百合さん、いっしょに唄をうたいましょうね。」忽ちまた暗し。既にして巨鐘水にあり。晃、お百合と二人、晃は竜頭に頬杖つき、お百合は下に水に裳をひいて、うしろに反らして手をつき、打仰いで、熟と顔を見合わせにっこりと笑む。時に月の光煌々たり。学円、高く一人鐘楼に佇み、水に臨んで、一揖し、合掌す。月いよいよ明なり。

残念、これはなかった。笑三郎を中心に眷属たちが並んで絵面に極まっての幕切れだった。そうか、これは女形のどちらを立てるかによって最後が違うのだろうなぁと合点したが、やっぱり二役だから早替りしなくていいから原作通りの演出で観たいなぁと思ってしまった次第。
7/26昼の部①「鳥居前」
7/26昼の部②竹本のみの「吉野山」
7/26昼の部③「四の切」

08/08/08 「北京五輪開会式」伝統とモダンの融合

2008-08-08 23:59:15 | テレビ

中国でおめでたい数字とされる8が並ぶ日時2008年8月8日の午後8時8分、「北京五輪」が開幕!最近スポーツ観戦への興味が失せてしまっているが、開会式のショーはいつも楽しみにしているのでTVにしっかりスイッチオン!

最後に中国に行ったのは2001年6月。仕事で上海→杭州に出張したのだが、丁度その滞在時に北京でのオリンピック開催が決まった。その時の雰囲気がわかる上海の街路の写真があるはずと、ポケットアルバムを何冊か漁ったら出てきた。その写真を携帯で接写してアップ。

アジアで3度目の夏季五輪ということで、1964年の東京→88年のソウル→2008年の北京とほぼ20年間隔だ。北京の大気汚染問題とか食品の安全性問題とか出場する選手たちの健康によくないという悪い評判がしきりと取り沙汰されていた。確かにそういう国ではある。
1983年に私が新婚旅行で行った時、車窓からいろいろ見えた政治スローガンのデッカイ看板。その中に食品衛生法をつくろうという内容の標語とイラストが描かれていたものだ。その頃の印象は1960年代の日本のイメージ。そこからあれよあれよと発展してきた。上海は3回行ったが、その度に大きく変容して驚かされた。

社会主義の計画経済から資本主義の手法を一気に取り入れて、経済も目をみはる発展を遂げた。しかしアンバランスも激しい。環境破壊も貧富の格差拡大もあまりにも著しい。きめの細かい政策をとるのはなかなか難しそうだ。国民性ということもある。お上に従順に従う日本人とは全く違い、家族や同族の結束で全て乗り切っていく。悪く言えば公共意識が弱い。そういう国民性は歴史の中でそのようにならざるを得なかったのだろうと理解している。日本人の国民性も歴史の中でつくられたのと同じだ。

選手の皆さんにはあまりいい環境での競技参加とはならないと思われるが、なるべく自衛しながらベストを尽くして欲しい。

さて、開会式のエンターテインメントには度肝を抜かれた。1000人もの男性が整然と古代の打楽器「缶」を打ち鳴らして孔子の言葉を唱和。総監督は映画監督のチャン・イーモアとのこと。大きな画面で紙漉きや筆づくりの様子を見せ、中国での紙の発明を表す。その前に使われていた竹簡を持ち、3000人いたという孔子の弟子のイメージの扮装で竹簡を楽器のようにも打ち鳴らす。

大きな巻紙が会場に広げられるとその真ん中の大きな白紙に何人もの男女が踊りながら身体につけた筆で水墨画を描き出す。その上から天女が舞い降りる。幕が大勢に持ち上げられて動くその上で女性が優美に踊る。シルクロードで世界に広がった中国の絹布の衣裳が美しい。女性の美しい衣裳や髪型は壁画に描かれた古代の美女たちのもの。映画でも一緒に組んだデザイナーの石岡暎子も参加しているそうだ。

その幕が吊り上げられると明の時代に発明された活版印刷の活版の文字を模したものが上下し、波のようにうねったり大きな文字を作り出す。いろいろな字体で浮き上がる文字は「和」。平和の和だ。コンピュータか何かで動かしているのかいや人か?最後には被っていた直方体を持ち上げて男性が姿を現わす。

大きなオールを持った男性がそれを立てて並べるとそれには船団の絵になる。海のシルクロードだ。その時代の海の英雄の鄭和のイメージの男性も登場。西洋の国々よりも先に大航海時代を迎えていたが、それを支えたのは羅針盤の発明。
京劇を彷彿する場面は清代のイメージか。

この間観た芝居でも活用されていた電光掲示板に使われるLEDを身につけた1000人が何重もの円をつくって四角い幕を囲む。円は天、角は地を表すのだそうだ。天地は一体のもの。
その電気の光が変化すると鳥の姿が現れる。メーンスタジアムは「鳥の巣」という愛称がつけられているが、そこに舞い降りたのは平和の象徴の鳩。ここでも平和のイメージが!オリンピックは平和の祭典だものねぇ。(日本では古来、鳩は戦の神の八幡さまのお使いだったが、戦後は平和の象徴になった?!)

上から今度は宇宙飛行士が舞い降りて巻紙の上には現在の中国の映像。中国を代表するピアニストと5歳の女の子がピアノの連弾。幕の上にも子どもたちが登場して水墨画に水色と緑色を塗る。破壊された環境を未来を担う子どもたちが回復させていく。ここに希望があるはずというメッセージか。

下から現れてきた大きな球体。ちょっといびつであったがそれは何人もの人が逆さに吊り下がって舞うためのレールが何段もとりつけられているためだ。その球体はこの地球だった。世界の子どもたちから寄せられた顔写真の大きなプリントを持った大勢の人。やはりこの子どもたちに託せる地球を守ることが大切なんだって!
中国の5000年の歴史を誇り、現代の世界の課題「平和」と「環境」を掲げ、そのための世界の融和の祭典の北京五輪の成功をというメッセージたっぷりのショーだった。
最後の北京五輪テーマ曲を歌った男女の歌手は中国のポップスの男性歌手と女性はサラ・ブライトマン。東洋と西洋の融和のイメージかな。

選手団の入場行進の順番もいつものアルファベット順でないのが新鮮。ただ中国文字で国名を表して画数が少ない順というのであれば、その字をもっとわかるように示して欲しかった。日本にない漢字もあるだろうからプラカードを大写しにするとかできなかったのだろうか。

思ったよりも見ごたえのあるエンターテインメントを観ることができた。同じアジア人として誇りのようなものまで感じてしまった。同じアジア人のはずだよなぁ。
途中で出てきた昆曲の場面では、玉三郎が昆劇を合同で上演して中国で途絶えた女形芸の復活に貢献していたなぁとかの思いもよぎる。
中国と日本との関係は不幸な時代の清算が不十分なせいで、いろいろと相互不信が根強いが、そこをなんとか乗り越えていい関係を築いていかないと、日本には明るい未来がないんじゃないか。
などなど、興奮して観ていたら、アレアレ教育TVでやっていた「わが魂は輝く水なり」を録画するのも忘れていた。今は途中から録画しながらBGMにしてこの記事を書いているのだが、なかなかいいもんである。

08/08/05 玉三郎座頭の七月大歌舞伎を貫いたもの・・・

2008-08-05 23:58:11 | 観劇

昨日も今日も関東を局地的で強烈な雷雨が襲う。日本は亜熱帯になりつつあるという異常気象の現われ。環境に傲慢な人間への報いではないか。今日などは職場の窓から稲光が射し、間もなく地響きを立てる雷鳴におののいた。

一昨年の七月大歌舞伎で玉三郎の鏡花作品一挙上演について考えた記事を書いたが、今回も反芻しながらいろいろと考えが浮かんでくる。
今回は夜の部だけ鏡花作品だが、昼の部を狐忠信の通し上演としたこととの関連もなんとなくイメージが湧いてきた。
手がかりのひとつは今回の公演のゴールドの方のチラシだ。その前のシルバーのチラシは篠山紀信撮影の玉三郎・海老蔵のツーショットのスチール写真(「吉野山」「高野聖」)を両面にした贅沢なもの。ゴールドの方はその2つの写真を下の方に小さく入れて上には深山幽谷の墨絵のようなモノクロ写真を入れている。
今回の演目はいずれも深山幽谷を舞台にしている作品だ。そしていずれも人間界を離れた存在が支配する世界が繰り広げられる。

「義経千本桜」では狐忠信。「夜叉ヶ池」の主の白雪姫、「高野聖」の女。そしてその異界の者たちの見せる「純心」が胸をうつ。その「純心」は異界の者でも持っているというところがインパクトを強めている。

「義経千本桜」では狐ですら肉親への情愛があるのにそれに恵まれない人間=義経の悲劇が際立つ。
「夜叉ヶ池」の百合も背中に鱗が8枚あったのを見たとされている。その人間離れした美しさで心の美しい晃を村にとどめて鐘楼守にしてしまったというところにある程度の超能力を持った存在だったことがうかがわれる。「夜叉ヶ池」の主・白雪姫の恋情の激しい噴出から神との約束を破る暴走を抑えることができたのが百合の子守唄だということからも、白雪は百合への同族的シンパシーを感じたのだろう。人間が昔々の約束を忘れ果てて、鐘を鳴らさなかったことで夜叉ヶ池が決壊。その洪水で人々は死に絶えるが百合と晃は新しくできた鐘淵の主とされる。こうしてふたりの純心は永遠の愛の生活を保障された。

玉三郎のコメントにもある今回の鏡花作品はいずれも洪水の前と後という上の句と下の句の関係という指摘もさらにイメージを膨らませる。白雪と百合と「高野聖」の女はいずれも元は人間の女であり、それが水の力で異界の存在に生まれ変わったり、異界の力を身につけたりしている。白雪と百合は決然と自死した身体を水につけることで永遠の存在になった。
一方、「高野聖」の女は医者の娘であった時から持っていた超能力が、洪水で村が死に絶えた中を生き残り、新しくできた流れに身を浸すことで呪わしい力までを身につけてしまったのだ。「聖女か魔性の女か」というよりは「魔人」の域に入ってしまったのだと思えた。

その魔人は美しく、孤家に迷い込んだ男たちが劣情を抱けば即座に動物の姿に変えてしまう。それは誇り高かった女がそれまでに抱いてしまった「男というものはどうせそういう醜い存在」という思い込みを確認するや否や、その魔力で与えてしまう罰に違いない。蝙蝠や蟇や猿にした者たちに対して「お前たちは生意気だよ」と一喝する態度で推測できる。洪水から一緒に生き残った白痴の次郎と親仁はそういう劣情を抱く男たちではないので共同生活が送れるのだ。

馬に買えた薬売りを追って現われた高野聖の宗朝のような男には、女は会ったことがなかったようだ。親仁もすぐに動物にされるとたかをくくっていた宗朝を、女も当初そのように見ていただろう。宗朝のおばさんくらいの年の女に敬意を込めて「嬢様」と呼んでくれたことから、魔人の本性はなりをひそめ、人間だった頃の「純心」が呼び覚まされる。できればここで一緒に添いたいという気にもなるが、宗朝の煩悩と闘う志の強さを見てとって、きっぱりと送り出すのだと思った。

別れてからしばらくして女を救いたいという気を起こしていた宗朝の姿を親仁が見つけて思い切らす。
宗朝が「白桃の花、魔人の姿」と一言もらし、じっと彼方を見つめての幕切れ。石川耕士の台詞なのか、非常に心に残った。
このお話も修行中の僧侶の見た煩悩の夢なのかもしれないという。それであれば、まさに「夢幻能」的な作劇である。
異界の者の「純心」を描いた世界から再び目覚めての打ち出しとなった。

写真は公式サイトより今回の公演のチラシの画像。
7/26昼の部①「鳥居前」
7/26昼の部②竹本のみの「吉野山」
7/26昼の部③「四の切」
7/31千穐楽夜の部①「夜叉ヶ池」
7/31千穐楽夜の部②「高野聖」魔人の純心

08/07/26 歌舞伎座昼の部③「四の切」

2008-08-04 23:56:13 | 観劇

七月の「四の切」競演が話題だったが、国立劇場の音羽屋型での歌昇の狐忠信は観る事ができなかったのはちょっと残念。
さて、海老蔵の「四の切」は今回も澤潟屋型だが、猿之助の指導は受けていないらしい。海老蔵が音羽屋型をしないのは共演することの多い菊之助に「そっちは任せたぜ」という感じなのだろうか(笑)市川家の弟子筋の猿之助がここまで完成させた澤潟屋を宗家の御曹司が継承することの方が話題になる。また、宙乗りなどのケレンが海老蔵の体育会系の身体能力と面白いことをやりたいという志向にマッチしているのだと推測している。
昨年3月歌舞伎座「川連法眼館」の記事はこちら=前回の海老蔵の「四の切」もリンクあり。
今回の配役は以下の通り。
佐藤忠信/源九郎狐=海老蔵
静御前=玉三郎 源義経=門之助
川連法眼=寿猿 妻飛鳥=吉弥 
駿河次郎=薪車 亀井六郎=猿弥

川連法眼の妻飛鳥が黒い髪で出てきたことにまず注目。白で見慣れていたが年の離れた妻の設定にすれば黒でもおかしくないわけだ。吉弥は夜の部も姥の白鬘なので好ましい。寿猿・吉弥で二人の会話がきっぱりしていて次の場面も楽しみになる。生締の鬘で登場する本物の佐藤忠信の海老蔵がまことにカッコいい。相対する門之助も実にいい義経だ。2004年7月の「修善寺物語」の頼家がとてもよかったが、こういう御曹司の役がハマる役者は貴重だ。
そこに忠信を同道した静御前の玉三郎が登場。忠信が先に対面をしたことをなじる台詞「ハテ、まんがちなお人じゃなぁ」も玉三郎の静がしゃべるととてもしっくりするのは、玉三郎にして初めて静御前としての誇り高さを感じることができたからだと思えた。そして同道して感じた腑に落ちないことを思い出す台詞も然り。小袖の違いで同一人物ではないと見破る台詞も赤い旅衣での「吉野山」があると本当に納得がいった。文楽では旅衣の下に赤い衣が覗くので矛盾がないのだ。玉三郎静の台詞は、キビキビとすすんでいくので、緊迫感があるのがさすがだ。

薪車の駿河次郎が猿弥の亀井六郎とともに呼び出されて並ぶのも満足。
初音の鼓を打って登場する忠信は「吉野山」とは違う小袖を着ているが、これはもうご愛嬌(笑)鬘も鬢の毛を両脇に長く垂らしている。登場から思いっきり狐モード。
さて要チェックの狐言葉。高い音遣いが不安定な海老蔵、前回はあまりのオカマ風声にずっこけたが、今回は進歩がハッキリみてとれた。
鼓になった親が「早や帰れ」と言っているから帰るが「お名残惜しかるまいか」と嘆く源九郎狐の親を乞う純な気持ちのいじらしさ。涙を流しての熱演には、特に海老蔵贔屓でない私でも心を動かされた。これは義経が法皇ご下賜の鼓を与えるのも無理がない。

悪法師との立ち回りもなかなか楽しい。床上に玉三郎静と門之介もいて絵面に極まるのが実に贅沢。そして最後のお楽しみの源九郎狐の宙乗り。三階の鳥屋に向かって全身を欣喜雀躍させている。満面の笑みがまた海老蔵ではというはじけ方。思わず宙乗りのすごい笑いの舞台写真を一枚買い足してしまったくらい(^^ゞ

七月歌舞伎の昼夜貫くキーワードは「純心」とみた!!夜の部の記事でその辺も書いていくつもりだ。→書きました!
「玉三郎座頭の七月大歌舞伎を貫いたもの・・・」
写真は、歌舞伎座の「七月大歌舞伎」の垂れ幕。       
7/26昼の部①「鳥居前」
7/26昼の部②竹本のみの「吉野山」
7/31千穐楽夜の部①「夜叉ヶ池」
7/31千穐楽夜の部②「高野聖」魔人の純心

08/08/03 八月の観劇などの予定、ほか

2008-08-03 23:56:43 | 観劇

8月最初の日曜日は、珍しく8時起き。金曜から土曜にかけてじっくり寝ることができたせいだろう。二度寝もできそうになく、天気がよさそうなので、エアコン2台のフィルター掃除を思いつく。窓を開け放ってエアコンなしで汗だくで作業。フィルターも前の方の開くパーツも全部はずして洗ってお日様に干した。
ホットケーキを焼いて食べてから、かねて懸案していた1年ぶりのスポーツクラブ行きも決行。年配の女性のインストラクターのヨガのクラスはなかなかよかった。ただし、深呼吸をするのがつらいのにまいった。喘息ってこうやって肺の機能が落ちるんだなぁと実感。
帰宅してから回転式の乾燥機のフィルターも分解洗浄して干したり、掃除機をかけたりと久々に気合を入れてのお掃除デーとなった。

あまりに頑張りすぎてへばってしまい、観劇記事アップどころでなくなるところも今の私の気力体力の限界。

さて、今月の観劇などの予定は以下の通り。
1(金)MOVIXさいたま:「クライマーズ・ハイ」=3ヶ月連続で娘と映画の日を活用。
10(日)歌舞伎座第一部・第二部
17(日)明治座:「元禄めおと合戦」=母のリクエスト。
24(日)彩の国芸術劇場:「ガラスの仮面」
27(水)歌舞伎座夜の部
29(金)PARCO劇場:「ウーマン・イン・ブラック」

名古屋の姪っ子がもしかしたら大学の夏休みということで遊びにくるかもしれない。そうしたら母が宝塚を見せたいと張り切っているが、チケットとれるのかなぁ。たかをくくっているけど、とれなければ「ミス・サイゴン」を一緒に観ようかと提案してあげよう。

それと、パソコンがネットにつながらないと騒いでいた頃に19万アクセスを超えていました。遅ればせながら、皆様のアクセスに感謝申し上げますm(_ _)m