Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

アナーキズムの舞台神聖劇

2023-07-27 | マスメディア批評
承前)終了まで一通り流した。ラディオは念のために録音していたが、映像は流しておいて、ところどころ映像の方の音も流した。つまりオーディオ的にも把握して、演出も分かった。

結論からすると三幕の山をフィナーレのパルジファルの独唱に持って来ていて、そこを最大のダイナミックスで鳴らしていた。興行的に考えれば、その前の「一生馬鹿者」にテノールのシャーガーの顔つきがお似合いと、公演直後にツァイト紙のおばさんが語っていたが、それに尽きる。要するにその急遽代わりに歌った歌手のキャラクターと馬鹿声を百パーセント活かせていた。それはそこへの裏返りそうな声など聴きものであった。

独語歌唱がもう一息とされたやはり代わりに入ったガランチャの強い声とそしてアンフォルタスの上手な歌唱、そして何よりもグルネマンツの名唱がこの公演を価値あるものとしていた。

しかし、演出とその音楽指揮は完全にこの作品の宗教性を完璧に壊していた。抑々最後のフィナーレは浄化された後でのエピソードでしかない筈なのだが、その洗礼の音楽から聖金曜日への音楽へと全く「奇跡」が起こっていなかったのだ ― 楽匠への皮肉と受け留めるべきなのか。

3D眼鏡で見えたものは総合するとちゃちな映像で、最後には劇場崩壊の終焉のようなものもあったようで、愈々カタリーナ自身の自己崩壊が表現されたような塩梅となっている。しかしはっきりしていることは誰かが火をつけない限り、ヴァ―クナー家が無くなっても国の文化記念物としてその劇場は今後とも文化的に利用されることになっている。

そしてその眼鏡はどうも私の眼鏡グラスの瞳孔測定とは異なって眼球の動きに反応していないようで、顔を左右上下に動かさないと見れないらしい。1000ユーロもしてその機能は余りにも時代遅れではないのか。

そこに宗教性のサブカルチャー化などの形での表現はアナーキズムでしかありえない。ここにカタリーナなどと仕事をする連中の危うさを感じる。要するに反エリートであり、同時に芸術家気取りの連中なのだ。前回制作よりは今回の方が誰が観てもよかったと思わせるそのウラウフェンベルク演出のそれがあまりにも酷かったことでもあり、その人物自体がこうした仲間にも含まれていた。

「アシジの聖フランシスコ」の舞台に神聖なシムボルがなければいけないとするシュトッツガルトでの批判とこれは全く意味が異なる。何よりもそこを指摘できない評論家ばかりでこれが最も痛い。



参照:
精霊が肉体に宿る音楽 2023-07-10 | 音
輝く時へと譲るべき大人 2019-07-28 | 文学・思想

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