Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

苦みの余韻の芸術

2017-02-11 | 
リヒャルト・シュトラウス作曲「ばらの騎士」観劇は思いがけない価値があった。今まで実演のオペラとしてザルツブルクとバーデンバーデンで、其々ヴィ-ンのアンサムブルとベルリンのフィルハーモニカ―公演で体験しており、その他もサイレント映画などでも観ている。しかし、初演当時にドレスデンへの臨時列車を運行するほどの人気に匹敵する芸術的な価値にまでは思いが至らなかった。恐らく時代の雰囲気とか環境にその齟齬感の起因を無意識に求めるしかなかった。

当夜の公演も女声三人の二人が変わっており、マルシャリンは代役が、朝起きたら声が出なくなったゾフィー役は陰で代役に歌って貰うという舞台であったが、そのオットー・シェンクの演出に初めて感動した。何度も映像で見ている筈だが、細部の演劇指導も異なるのか素晴らしい場面が幾つかあった。帰宅後調べてみると1974年に東京でもクライバーの指揮で上演されていて、柴田南雄は案の定批判していて、その前にミュンヘンで体験したクライバー指揮の古い演出の方がよかったと書いている。東京では濃厚でやり過ぎの演出だとなるが、古い方の演出では管弦楽はあの酔っ払いの指揮だった筈だ。

ペトレンコ指揮では第一幕冒頭のテムポも早く、木管のパッセージも音を充分に制御できずにホルンの吹き上がりのエクスタシー以前に、既に音が弾けてしまっていた。なるほど幕が開いて二人はベットで戯れているのだが、「マクベス夫人」の真っ只中とは異なって余韻のようなものである。柴田の語るものとの相違が既にここにあり、ホルンの吹き上がりは暗示程度に抑えられている。その後の展開もテムポの変化にメリハリがつけられていて、早いパッセージは早く、遅いところはとても快適なテムポとなるころにやっと落ち着いて来る。座付き管弦楽団への要求としてはとても高く、来年までに何とかなるぐらいの目標であろう。そこでベルリンの楽団の演奏と比較するのも間違っており、またマゼール指揮のヴィ-ンのそれではとても上手に解決していたように記憶する。この点に関してはペトレンコ指揮は容赦が無く、ヴァークナーの演奏でも回数を重ねないと音が飛び跳ねるような危険があるのだ。

それにしてもオックス男爵の場面においても、「神々の黄昏」のギービッフンゲン家のパロディーを示唆したり、「アリアドネ」に繋がる当時の作曲家の書法がとても上手に出ていると感じさせるのは正しいテムポが室内楽的な書法を綺麗に響かしているからに違いない。要するに厚塗りすればするほど訳が分からなくなる音楽と声楽の絡みがとても上手に再現されていたことには違いないのである。

マルシャリンとオクタビアンの幕終わりの場面は殊の外素晴らしかった。「真夜中に目が覚めて」のところで、チェレスタの時報に続いてトロムボーンがピアノで変ロ調の中抜け和音が印象的に響いた ― 気になったのでクライバーのそれを比べるとpが音量として解釈されているようでしっかり響いていなかったのに対して、ベームの録音では正しいpが発声されていた。そこからリタルタンドを挟んでの展開まで、全くキッチュさとは無縁で、その点ではベームのそれと双璧だが、声との絡みではリズムが柔軟なだけに遥かにスムーズであり、硬軟の転換が鮮やかでとても音楽的だった。再度ベームのドレスデンでの録音を比較すると、マルシャリンが全くもってヨーデルを歌い、その前にオックス役のクルト・ベーメが全くヴィーン訛りで歌っていることと合わせて、指揮者がプロデューサーと共に意識してオーストリア風を表現している。

第二幕においては銀の薔薇を携えてのオクタビアンの登場が少女漫画的な情景となるのであるが、ここがキッチュな情景とならないためには正しいテムポ運びが肝心であるということだろう。そしてそこから続くゾフィーと薔薇の使者との場面が銀細工のようなとても細やかな多感な音楽であることを初めて気が付かされた。正しく高品質な音楽芸術なのだ。

そして薔薇の使者がオックス男爵に剣を抜く場面となるのであるが、その後のヴィーナーヴァルツァーの場面におけるパロディーが見事だった。オックス男爵の歌がここまでハーブに響いたことがあるだろうか?カール・ベーム指揮の録音でもそこまでは至っていないので、我々は作曲家本人のそれを想像するしかないのである。管弦楽の書法の響かせ方にしてもペトレンコ指揮に最も近いのはシュトラウス自作自演指揮ではないかと思う。その技巧化され、外されたヴィーナーヴァルツァーの綾が苦みを含んだ響きへと変わっていくところの妙、これが今まで充分に聞き取れなかった。管弦楽の書法の綾である。リズムの精査でもある。まさにサイモン・ラトルが語った「気が狂うほどの和声の精緻さ」となる。

第三幕は、前半の男爵が起こすスキャンダルと後半の三重唱へ連なる場面との対照となるが、前半での和声の進行に当時の作曲事情にも思いを馳せ、後半は当然ながらこの作品における今までの書法の決算となる。歌われるということに関してもその管弦楽と相まって明白になるところである。要するに正しく歌い、それが演奏されることによって作曲家が目指した楽劇の姿が示される。その演奏実践が精緻であれば精緻なほど正しくその真意が伝わることになる ― なるほど幕前の休憩時に常連らしき三人のおばさんたちが話していたが。「ペトレンコにテクストのそれまでは求められない」と一人が語ったのでこちらも少し反応したようだ。つまり、作曲家が目指した言葉が聞き取れる歌唱ということになる。逆にそれならば、テロップ無しでそれが出来たのはいつ頃のどのようなアンサムブルかとなる。指揮者では一番近いところではベームやカイルベルト指揮となるのかもしれないが、少なくともそれでも戦前とは全く違うだろう。今回の代役のマルシャリンは北ドイツで活躍して日本の二国劇場でも歌っているミシャエラ・カウネという人であったが ― ポートレートの写真は見た覚えがあり、バッハか何かを歌っていたのか? ―、リハーサルを充分できていなかったにしても、ハンディーを差し引きすれば十二分の出来だった。あれだけ明瞭ならば問題が無いばかりか、演技指導もしっかりと身に着けていて特に第一幕では感動させた。ゾフィーが口パクの幕切れとなったので、マルシャリンの歌でほぼ終結を迎える ― 「最後の四つの歌」の声と管弦楽が織りなすアンサムブルを思い浮かべればよい。そしてそれに続くデュオにてこれまた当然ながら第一幕における低声部の「夢の気配」が伏線となっていて、ここでは「まるで夢のよう」へとそのリズムが変容されている。

ここでヨーデルの寂寥感、ヴィーナーヴァルツァーからコラールへのセマンティックな展開を考慮すると、カール・ベーム博士の見識は正しいとなる ― そもそもホフマンスタールとシュトラウスの往復文書を読むまでもなくパロディーの主点をどこに置くかである。その一方、今回のような所謂含み味の苦みは感じられない。それは木管を中心とした音色と和声の精査が充分ではなかったということになるのであろうか ― ベーム指揮の扱きまくった即物的な弦の響きだけではやや片手落ちになっていたということでもある。マルシャリンの苦みに劣らず、男爵のそれにも苦々しさが溢れていた。こうした音楽芸術は、日本で繰り返し繰り返し披露したクライバー指揮「ばらの騎士」には全く欠けていたものであり、カラヤン時代には忘れ去られていたもので、インターナショナルな市場では甘く、口当たりのいいものしか受けなかったということでもあろう。正しくミネラル風味を感じさせない口当たりの良いワインと同じ市場であったのだろう。



参照:
伯林の薔薇への期待の相違 2015-03-29 | 音
ペトレンコ教授のナクソス島 2015-10-22 | 音
九月の四つの最後の響き 2016-09-23 | 音
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