Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

入念な指揮指導の大成果

2018-07-27 | 
ペトレンコ監督下のミュンヘンでの最後の楽劇「ジークフリート」について語ろう。結果からすると二月の課題は悉く解決されていた。少なくとも管弦楽においては遣り尽した。それどころか大きな問題となっていた最終シーンでのフォイルの雑音が、素材がエステル系かに代えられていて、殆ど邪魔にならなくなった。以前は材質の音だけでなく反射の影響も大きかった。あれだけの大きさの軽い素材となると可成りの予算を使ったに違いない。その価値は充分にあった。だからフィナーレにも違和感が無くなり、普通に楽しめるようになったと思う。比重が増して波は出来ていなかったがそんなことはどちらでもよい。ケントナガノはそれ以上に大きな音を出していたのだろう。

先ずは聴きながらメモを取っていた三幕のメモを解析しながら最初から見て行くと、一場のエルダとさすらい人のディアローグではヴィオラがこれまたDolceで演奏するところがある。Bで例のザックスが父性を歌うように「勇敢な若者」と来て、「恐れを知らないからだ」とさすらい人のモノローグの中である。どうも課題だったようで、上手くヴィオラが絡んでいた。確かここでOKサインが出ていたように思うが、金管にもドルチェが付いているので高みから識別し難い。兎に角ここは2015年のバイロイトではその前の小節のディミヌエンドからpになっているのにも拘らずヴァイオリンが出て仕舞っている。2015年は2014年と違って演奏が粗かったので特に三幕は評判が悪かったが、実際に録音を確かめるとその調子の演奏程度であった。

キリル・ペトレンコの演奏実践の特徴は、こうした殆ど学術的と呼べるような細やかな譜読みとその演奏実践能力から、初めて創作の意図を明らかにするという事でしかない。その能力が特に表れていたのが二場である。ジークフリートとさすらい人の変わりばんこのディアローグであるが、一幕の超絶ほどには目立たないのだが、指揮を見ていたらそのテムピの切り替えの見事さにあっけにとられた。楽匠は細かく設定しているのだが、一体どこの誰がここまで完璧に指揮をしただろうか?歴史的にも今まで居なかったと思う。バイロイトの時と比較するまでも無く、この変化のさせ方が見事になっているのは手兵の管弦楽だからに違いない。ここだけでも成果なのだが、Dのブルックナーの交響曲のように響くseligeOedeとなる三場でも木管のアンサムブルにOKサインが出された。中声部のヴィオラと同じように、聞こえるか聞こえないような音量を保ちながら、音楽の核を支える。木管の場合は特にそのまま音色に係ることだ。そして管弦楽全体がスタッカートを刻む。

二幕における演奏は、ホルン主席のヨハネス・デングラーが不調だった様でもあり二月における演奏水準には至らなかったかもしれない ― 三幕でそちらをもっと音を出してみろと鼓舞していたのが分かった、演奏者のリハビリまでを遣ってしまうのか、この音楽監督は。そもそも「ヴァルキューレ」も「神々の黄昏」ツィクルスAで可成りの程度で完成していたのだが、この「ジークフリート」だけは音楽監督の意思からするとまだまだの気持ちが強かった中でも、二幕は既に域に達していた。

それでも手元のメモに従って幾つかの点だけは触れておかねばならぬ。一場ではさすらい人とアルベリヒとのデイアローグとなるのだが、勿論一幕におけるミ-メとの問答ほどではないが、ここでも二人のセリフの尻を噛ませる部分などで、その変化を見事に付けていた。二場になるとファーフナーの死へと向かい、ここでもピチカートから三連符となる巨人の動機の対旋律が低弦で奏される一方ヴィオラに受け継がれたりするのだが、大抵はティムパニ―に消されて誰も気が付かない。やはりここでもヴィオラ陣がモノを言う。三場のミーメとアルベリヒの争いはシークフリートとミーメの対話に繋がるが、その中でもミーメの歌う「Wilkommen」の後のヴィオラのパッセージとクラリネットは見事で、前回も印象に残ったアンドレアス・シャーブラスは更に吹き込んでいるようにも感じた。その他、オーボエのジョルジュ・グヴァノゼダッチ、ファゴットのホルガー・シンコェーテそしてバスクラリネットのマルティナ・ベックシュテッケマンなど座付き楽団以上の腕の冴えがあった。皆に共通しているのはブラームスの交響曲などの時とは違って最後の締めまでをしっかりと吹けていて、有り得るのはペトレンコの棒がより丁寧になっているとしか考えられなかった。それとは別に、巨人の動機に関与するピチッカートをアクセント強く弾かせていて吃驚した。その根拠は巨人の動機なのだろうが、2014年の名演は比較的そうなのだが、可成り乱れた2015年の方は全くしっかり弾かれていない。最後の年はよほどの練習妨害活動があったとしか思えない ― ペトレンコは、本当は下りるところだが、皆の為に我慢すると語っていた。

秀逸な木管器奏者群や向上心の強いヴィオラ陣について触れたが、その出来が結集して皆が終演を待たずに大喝采する出来となったのが一幕であった。この幕の音楽の特殊性については既に書いたが、明らかにその想定の上を行く演奏だった。一場における殆ど室内楽的なアンサムブルに続いて、二場でさすらい人のコッホが歌い出すと更に空気が変わった。やはりそのベルカントの声が高く尚且つ柔らかく響くことで、ミーメの歌との対照が際立った。二月には非常に良かったミーメ役のヴォルフガンク・アプリンガーシュネーハッケの歌は不調だったから余計だ。その柔らかさはまさしく指揮の技術によっても形成されていた。二場における鍛冶場でのそのハムマーを下ろす重力加減がそのまま指揮の「叩き」と「抜き」に顕著で、「指揮とはこうするものだ」と謂わんばかりで、技術的にも超一流の指揮であるのはそれだけでも明らかなのだ。しかしその技術の卓越だけで終わらずに、鋭い叩きと素早い自由自在の変化、まさに私がルツェルンで楽しみにしている「舞踏の権化」の彼の指揮であり、あれを実体験すると超一流の技術を超えた天才の仕業でしかないと納得した筈だ。それが異様な一幕後の大喝采として表れた。

私などは前方からそれを見ていたものだから息が止まりそうになった。百年に一度の卓越した指揮者であるとそれを目撃したならば多くの人が納得すると思う。拍の変化で指揮台で後ろ飛びまでしてしまうのは、効率云々よりもそれほどの大きな断層を「一振り」の中に組み込むにはあれしかないのだろう。それに適うような演奏を座付き管弦楽団が遣らかしたことも驚愕であり、観客同様に二幕では少し息を抜いたのは仕方がない。まさしくそれが楽匠の書いた楽譜である。しかし、印象としては、より拍を深く取っているのか、バイロイトでの演奏などよりも余裕があって、表現の幅が明らかに広がっていた。恐らくテムピとしては変わらないのだろうが、それだけ管弦楽が弾き込んで来ていたという事ではなかろうか。この辺りの課題の作り方や合意形成や目標の置き方が凄いと思う。勿論それは私が期待していたことそのものにほかならなかったのではあるが。それでも終幕最後の小節が終わって拍手が始まると同時に若いコンツェルトマイスターに業務連絡をしていて、その内容は冷めないうちの「今後の留意点」だったかもしれない。なんと恐ろしい人だ。

もう少し細かいところは楽譜を見返してみなければ確認して詳細として語れない。そして個人的にはルツェルンでの二つのプログラムの方へと意識が向いている。それでも今回とても勉強になったのはヴァークナーの楽劇における指揮というもので、大分プチーニにおけるそれとは指示の出し方が異なっていて驚いた。勿論正確な拍子を打つのだが、プッチーニに置けるように歌手と管弦楽の二段構えは流石に阿修羅ではないので無理なようで、必要なキューを小まめに歌手におくる以外は管弦楽を細かく指揮していた。その必要がある編成であり、音楽であると同時に、歌手の声を押さえるところは極限られていて ― ミーメにだけであった ―、科白の中でその拍節が守られれば、管弦楽に合ってくるという事でしかなさそうだ。そもそも歌手がどこの音に合わせて歌っているのかさえも不明なところも多々あった ― ピアノ譜と合わせてみないと分からないか。大管弦楽のオペラの難しさであろうが、その分歌手に任されることも多そうだ。

タイトルロールのフィンケの声は、先日の韓国人ほどではないが、こちらが管弦楽のソロを聞き取ろうとしても声が大き過ぎて被ってしまって喧しかった。逆にそれ程舞台で何が聞こえるかというのは楽劇の特殊な技術的な話題であろう。同じロージェの隣に座ったのはオーストラリアからの人で「ヴァルキューレ」では王のロージュの一列目に居たらしい。彼は演出云々で不満のようで、もう一組のミュンヘン近郊の夫婦も音の時差と視界の制限を苦情していた。それほどあのロージュは特殊で、もう少し安くしてもらうと嬉しいが、私はその金額以上に素晴らしい体験をした。全く見ていなくてもしっかり聞いているのでブリュンヒルデのシュテムメも二月よりも良いと思った。コッホのさすらい人については既に書いたが、間違いなくヴォータンよりも当たり役だ。ペトレンコの指示は恐らくピアノ稽古からのその協調作業がそのまま表れる出し方で、歌手によって構い方が異なるのは当然なのかもしれない。



参照:
ジークフリートへの音色 2018-07-25 | 音
鋭い視線を浴びせる 2018-07-16 | 女


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