Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

蕎麦アレルギーに冒されると

2009-04-11 | 料理
昨晩、散歩から帰ってきて、ざっと汗を流した。そして、昔近所に住んでいたエンジニアが日本へ帰任するというので、態々ブルッセルから留守中に持ってきてくれていた日本蕎麦の乾麺を食する。

郵便桶に放り込むであったので、日本人妻を義理の娘に持つ近隣の者などに電話を掛けて確かめたり、可能性のある者をピックアップする。すると留守中に電話が掛かってきた番号を見つける。

蕎麦は一時夏の食事として日本から取り寄せていた時期もあった。それほど暑い夏を過ごした事もあったのだが、ここ十年ほどは殆ど食していない。毒入り乾麺でないことが分かったので愉しみに茹で上げる。

日本食材とはご無沙汰なのだが、こうして手元にあると仇のようにして食べてしまうのである。250Gの袋を釜揚げにして一挙に食べてしまった。蕎麦は好きなのだが子供の頃からのアレルギーがある。流石にこれだけ一挙に食べると気分が悪くなればなるほど、蕎麦粉がしっかりと入っていたと嬉しくなるのだ。アレルギーと堪らない美味さは紙一重なのだ。

お茶も飲まずに、天然麹のリースリングを引っ掛けて寝床についた。明け方、魘された。夢の内容や設定もさることながら、そこではたと、前日の森の中を彷徨った事や最近認めていた文章の節々に深層心理のようなものを見つけて、筋肉痛に病めながらも、愕然とする。

これでは夢判断では無く、文章判断と言うに近い。さらに考えると、散歩の途上にふと考えた事にもそうした影が差し掛かっている。文章表現から、夢を見て、夢から現実の行動が映し出されるように感じる。それは、散歩の途上に考えていた情感的なものが思考に影響すると言う事でもあり、そもそもそうした情感的な影響のないところに純粋思考が存在するかという問いかけでもある。夢であろうが、文章であろうが、思考であろうが、そこに時間軸が存在しないと仮定すれば、そこに境界域が生じないと言うのは、特に情感的な思考を前面に押し出す芸術文化表現では当然の事なのである。



写真:森を散策中に見つけた木に宿る茸。
コメント (4)
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