Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

外国語学習の第六感

2006-10-29 | 文化一般
ベルリッツと言うシュヴァルツヴァルト出身の語学教師はアメリカへ移民した。後に世界中で大きく展開する語学学校の祖である。孫にチャールズ・ベルリッツなどと言う作家もいる。

フライブルクのベルリッツ語学学校に通ったことがあった。其処の方針は、テキストが示すように、口移しの語学習得である。子供は、文法など勉強せずに母国語をものとする。それを大人にも適用しろと言うコンセプトである。芸事の手習いに近い。

受講者に読み書きよりも、喋る聞く能力に問題があれば、そのメソッドは良いように短絡的に考える。結論は、自身での効果は全く良く無かったが、この方法はある前提があれば、やはり優れているのではないかと先週初めて気がついた。

既に紹介したがドイツ語の出来ない若いポーランド女性に、このテキストを見せて、少し試してみた。この語学学校でドイツ人教師がやる質問を試して、彼女の反応を窺った。すると、このメソッドの極意と言うのがこちらにも分かるようになって来た。

世界中で長く使われている方法だけに非常に良く出来ている。例えば、教則本には鉄道の時刻表が載っていて、その下欄に色々とダイヤグラムの内容を説明する9行ほどの文章が、正確で要領を得た文章で並んでいる。そして、先生が出す質問が載っていて、生徒は答えなければいけない。出来ない場合は、口移しとなる。

しかし、その文章に全ての要点が網羅されていて、言い替え ― これは言語による事象の抽象化であろう ― と必要な用例が凝縮してある。例えば、単数と複数の主語其々に対して動詞の変化形が、また前置詞などが完備していて、先生役がこれを正しく掻い摘んで模範解答を繰り返せば、自ずと文法用語無しに正確な語学が身につくと言うものである。

たしかに、「世界中どの子供も文法用語無しに鸚鵡返しに正確に喋れるようになりますよ」と言う主張がこのメソッドである。しかしこれは自分自身には大変難しかったことを思い出した。それではなぜ難しかったのか?

嘗て、この原因に、母国語と外国語の文法上の相違の大きさを考えていた。しかしそれは二次的なことではないかと思うようになった。また、アルファベットへの慣れ親しみと信頼と言語上の発音の相違を考えた。これは大きな理由として残ると現在も考える。

具体的に、今回先生役を試してみて幾つかのことが印象に残った。この場合の生徒はスラヴ語を母国語としていて、ドイツ語の中で生活しているにもかかわらず、ドイツ語が不自由である。しかし、ダイヤグラム等を見て理解する能力は十分にある。尚且つ、アルファベットに慣れているので、説明文を見れば音として読み取り、日ごろ聞いている様に感じることが出来る。

反対に、先生は模範解答を説明文の中に見つけていかないといけない。しかし、それを指し示すことで、文法等の説明は必要ない。同時に生徒は、模範解答を其処から探して行くジグソーパズルのようなゲーム感覚で学ぶことが出来る。

ここで、気が付く様にこれらは我々が母国語で行っている作業に変わらない。相違点は、模範解答が書きとめられているのではなくて、子供の頃から耳にしている言い方や用例が幾重にも記憶されている点であろう。

外国語学習の極意と言うものはないようだが、王道はあるような気がする。基本は、先ず情報摂取能力を高めることで、耳から目からの双方からを軸に例えば点字やリズム感などの感覚を使う五感全てを大切にする方法である。二つ目には、基礎パターンを如何に多く脳にしみこませて瞬時に取り出せるように小引き出しに整理して置けるかである。特に正確なスピーチや作文にはある種の類型があって、家庭での戯言― これがまさに家庭教育であるが ― とは違う定型が存在する。引き出しの数が多く、適材適所取り出せる知識とその引き出しへのアクセスの正確さと早さが必要とされる。これは、コンピューターでのデータの整理と再生に相当する。三つ目には、言語化などはもともと現実性を帯びたもので無く、事象の抽象化への作業であることの認識である。つまり、コミュニケーションや思索に必要なものであって、それ以上のものでも以下でもない。謂わば第六感と言うような感覚が研ぎ澄まされなければいけない。
コメント (4)
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