Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

政教分離の無為と有為

2006-07-10 | ワールドカップ06・10・14
フランス対イタリアの決勝戦を楽しみにした。ワインを冷やして、チョコチョコとやりながら森のハーブサラダを用意する。

フランスは我々にとって何よりも政教分離のお手本である。現代社会において宗教の意味するところは限られていて、ある種の文化でしかない。しかしこれが個人や基本共同体においての世界観であるのとは、峻別されるべきである。

先日、シュトュッツガルトの行政裁判所が、モスリムを信ずるドイツ人教師の訴えを認めて、頭巾を被った儘の授業を認めた。この問題は永年司法において扱われてきた問題で、現状の「禁止」を覆す判断であった。主な理由は、保守性の強い「黒い森地区」で行われているカトリック尼僧による授業との機会均等を挙げている。キリスト教のそれを欧州の中心文化として認めて、「それとは違う頭巾の禁止を不公平とはしない」とした司法判例とは、正反対の立場での判決であった。

この問題は、教室にある十字架や鳴り響く教会の鐘の音などへの見解との兼ね合いもあって、手短に書き纏める訳にはいかない。しかし、こうしたつまらないことが議論される、教会税を徴収する、ドイツ連邦共和国の信教の自由こそが大問題であろう。この点においては、フランスに比べて後進性を示していると言えるだろう。逆にこれは、新旧キリスト教会間の宗教対立が歴史的に止揚されて現今の大きな教会合同への流れに至っている歴史を物語っている。

先ごろもポーランド系の得点王ミロスラフ・クローゼの試合中における旧教的で素朴な宗教的仕草が話題となっていたが、これも彼が生粋のドイツ人で無い事を証明していた。

そしてフランスチームは、ジダンやアンリが公然とアラーに感謝する筈が無いからこそ素晴らしく偉大なのである。誰がそうした朴訥な姿をフランスチームに認める事が出来ようか。町に拡声器で流されるコーランの如くそれを公の場所で受け入れる素地は無い。

決勝戦前半を観て、偉大としか言うことの出来ないジダンのPKであったが、イタリアには組織された技術の秀逸を感じる。イタリアで窃盗団に狙われたら何も対抗処置は無いと思わせるに十分であった。そして、延長後半でのジダンの頭突きは、何よりも誰も認める事の出来ない仕草であった。延長前半のヘッディングをブフォンに止められて焼きが回ったと思ったのかどうか知らないが、大変スキャンダラスな幕切れであった。


参照:
リベラリズムの暴力と無力 [ 歴史・時事 ] / 2004-11-06
キッパ坊やとヒジャブ嬢ちゃん [ 歴史・時事 ] / 2004-11-06 
キルケゴールの考え方 [ 雑感 ] / 2005-11-07
コメント (6)
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