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パンダ イン・マイ・ライフ

ようこそ panda in my lifeの部屋へ。
音楽と本、そしてちょっとグルメなナチュラルエッセイ

吉村昭とP,P&M エッセイ集「街のはなし」吉村 昭 32

2009-03-20 | 吉村 昭
吉村昭のエッセイ集に「街のはなし」がある。
平成に入り、女性向け月刊誌に6年間掲載された「箸袋から」という連載をまとめたものだ。(平成8年(1996)発刊)
これがまたおもしろい。女性向け雑誌であるから、女性論やファッション、結婚や見合いはもちろん、マナーや習慣、そして氏得意の食まで幅広い。
アメリカのフォークグループ「ピーター・ポール&マリー(P,P&M)」のアナログディスクを聞きながら読んでいたのだが、何か似ているのである。
つまり、個人とグループ、活字と音楽の手法は異なるが、さまざまな視点と題材、心地よい後味は同じなのだ。
P,P&Mもメッセージソングやカントリー、民謡、童謡からポップスまで、3人はハーモニーとギターで人生を語る。

仮に電気もない無人島に行くとしたら、吉村昭のエッセイ集はどれも離せないと思う。

非情と熱情と 「長英逃亡」 吉村 昭 31

2009-03-07 | 吉村 昭
吉村には「逃亡物」というジャンルがあり、逃げるという行為をテーマにいくつかの作品がある。「遠い日の戦争」は先の大戦後の現代物であるが、江戸後期の作品がこの「長英逃亡」である。
高野長英(たかのちょうえい)文化元年5月5日(1804年6月12日) - 嘉永3年10月30日(1850年12月3日)は、江戸後期に活躍した医師・蘭学者である。
幕府が外国の脅威を感じ始めていた頃、いわゆる蛮社の獄(蘭学者への言論弾圧事件。幕府目付鳥居耀蔵が首謀者)で天保10年(1839)、36歳で入牢。5年間の入牢を経て、41歳で獄舎に火をつけ逃亡。以来、6年4ヶ月にも及ぶ逃亡の記が「長英逃亡」(昭和59年・1984)刊である。
共同体意識が強い時代に、江戸内に潜伏以来、群馬・新潟・岩手そして江戸、そして西へ。大阪、四国の宇和島、広島、そしてまた江戸へとさまざまな温情を受けながら逃げ伸びる。そこには危険や罪を犯してまでも知的財産である長英を生かそうという熱い信念を持つ人々がいた。
長英はその間、捕縛への恐怖と不安を抱えながら、日本の将来を憂慮し、西洋の兵書を翻訳し、世に送り続けた。しかし、江戸で捕まり死亡する。

吉村は、美談にせず、その凄惨ともいうべき、逃亡の日々をきちんと追い続ける。晩年に自ら顔にやけどを負わせながらも、生きることに執着する凄惨な長英の姿も浮かび上がらせる。

しかし、脱獄して、2ヶ月で鳥居が失脚し、西洋への関心が高まる。また、長英の力を頼みにしていた薩摩・島津斉彬も、長英の死後3ヵ月後に藩主になるなど、その情熱とはうらはらに数奇で過酷な運命が長英を襲う。
そして、死して13年後に明治維新を迎える。もう少し、生まれるのが遅ければ、長英の人生はまったく、違ったものになったのに違いない。

人間の情熱は凄い。しかし、その運命にもてあそばれる姿は惨めであり、人間は弱い。
なかなか読み応えのある、文庫上・下巻である。

サラリーマン小説「亭主の家出」 吉村 昭 30

2009-02-14 | 吉村 昭
「亭主の家出」は、吉村昭異色のサラリーマン小説である。昭和52年(1977)の作品。絶版で、図書館で借りて読んだ。

ホテルの結婚式・披露宴の予約課の課長、鯉沼彦九は42歳。結婚15年、妻の公子、中2の息子と中1の娘がいる。朝早く満員電車に乗り、そばをすすり、仕事場へ。帰りも空腹を満たすために、途中飲み屋で酒を傾ける毎日の中で、彦九は家出を決意する。
披露宴模様で結婚事情、妻とは、家庭観など、サラリーマン生活の中で味わう、ほろ苦い12の短編で構成する。
出勤のこと、勤務のこと、酒のこと、休日のこと、食べるということ、華燭の典のこと、夫婦喧嘩のこと、妻と子のこと、巫女のこと、館のこと、理想郷のこと、電話のこと、角刈りのこと、殿様のこと。
さすがに短編は、凝縮され、それぞれに深い味わいがある。30年も前の作品だが、違和感がないのが不思議。

まるで、小鉢に入れられた料理が次々と出され、それぞれの個性が堪能できるがごとく。そして、全編をお酒が包み、芳醇な時間がもたらさせる。いい本と出会えた。

旅行鞄のなか 吉村 昭 29

2009-02-07 | 吉村 昭
旅を主題に、1970年代から80年代に書かれたかかれた45の短編からなる。
吉村のエッセイは、やはりすばらしい。本に出合える喜びをいつも感じることができる。それに期待をうらぎらないのだから、すごい。平成元年(1989)5月刊行。文庫は92年8月。

取材秘話ともいうべき「小説と旅」から

富山市を訪れた『高熱隋道』
人の英知「人間という動物」
浦和、群馬、上越を旅する『長英逃亡』の旅
逃げる小説『破獄』『遠い日の戦争』『光る壁画』
大阪。婦人を亡くした悲しみ。『虹の翼』
「鯨と鎖国」
沖縄を舞台に『殉国』
北海道を舞台に『蜜蜂乱舞』
札幌の食を語る「旅の夜」
ワープロやファクスに戸惑う「鉋と万年筆」
資料収集の難しさ『花渡る海』
仕来りを考える「通夜・葬儀について」
書評委員体験を語る「F氏からの電話」

そして、「旅で訪れたさまざまな地」から

取材で網走、宇和島
弟の死。義妹と訪れた静岡
大学の同級生と行く長崎「添乗員の旅」
昭和43年に訪れた南アフリカのケープタウン「お伽の国」
船旅と北海道
長崎の人情を愛でる「運転手さん」
戦後間もない秋田への食糧買出しの旅「私と鉄道」
青森で出会った角巻の女「お晩すー」
パリのホテルでの出来事。もったいないの精神「手洗いの電灯」
福井のお祭りで出会った老人の笑顔と死。「ゆっくり、ゆっくり」

ほかに吉村の読書遍歴や、作家との出会いと別れ。

さまざまなシーンとともに語られる珠玉のエッセイの数々。堪能あれ。

移植手術 「神々の沈黙」 吉村 昭 28

2009-01-18 | 吉村 昭
昨日、兵庫で頭部外傷で入院中の30代男性が脳死と判定され、その男性の心臓と肺が大阪の30代男性に、肝臓は福岡の50代男性に、腎臓の片方とすい臓が東京の40代女性に、もう片方の腎臓は兵庫の50代男性に移植されたという。
病気で苦しむ人々に、死を迎える人が臓器を提供する。
平成9年(1997)10月16日「臓器移植法」が施行されたことにより、心臓停止後の腎臓と角膜の移植に加え、脳死からの心臓、肝臓、肺、腎臓、膵臓、小腸などの移植が法律上可能になったという。しかし、提供者(ドナー)の環境整備や技術上、倫理上の問題、そして移植後の生存率の問題などがあるとされる。

吉村昭は、昭和42年(1967)12月3日に南アメリカで行われた世界初の心臓移植手術に興味を持ち、昭和44年(1969)12月に「神々の沈黙」を発刊した。自身が肺結核を病み、手術を経ていることから、著作からも医術に関心の高いことを伺わせる。

吉村はそのあとがきから、この手術を「外科医の業績としてではなく、人間の本質そのものに関するものも含んでいる」と書いている。
1例目は18日間生きながらえ、1例目の手術の3日後にアメリカで生後間もない嬰児が移植を受ける。これが2例目だが、6時間後に死亡。この手術には日本人医師も参加している。
心臓は体に1つしかない臓器であるから、それを取り上げるということは死を意味する。つまり提供者の死をもって、移植者は生を受ける。ここに根本的な人道的問題が存在する。
翌昭和43年(1968)1月2日に南アメリカで行われた3例目は、人種差別と金銭的問題が絡み、波紋を投げかけた。4例目はアメリカで。1月6日に手術し、21日後に死亡。5例目はアメリカで1月9日手術し、12時間後に死亡するなど死亡率の高さが問題になる。また、提供者の死の判定問題や移植者の拒絶反応など、未解決の問題も山積した。

そして、この43年8月には世界で30例目となる移植が日本で行われた。そこには医学のみではなく、人道的、法律的問題も絡み、執刀医は殺人容疑で告発された。

吉村の著述は、世界で3例目となる移植者が死を迎える昭和44年(1969)8月で終わりを告げる。医者の立場ではなく、移植者・提供者を含めた患者の立場から、その経緯をドキュメンタリで綴る迫真のノヴェルである。

日本で2例目の心臓移植手術が行われたのは、30年を経た平成11年(1999)のことであった。

成人の日と職 「碇星」 吉村 昭 27

2009-01-12 | 吉村 昭
今日は成人の日。各地の式典も夏や正月、昨日行われたところも多く、昔とは様変わりです。
西高東低の気圧配置が強まり、降雪や突風も。
昨年からの経済危機は、あらためて「職」とは何かを問うています。
成人式の華やかさと、雇用システムと経営の危うさにあえぐ人々、そして日本の政治状況が、この寒波で余計に身につまされます。

そんな中、吉村昭の「碇星」という短編集を読みました。8つの短編集で平成11年(1999)に刊行されました。

特に退職をテーマした5編が秀逸です。自営業であろうが、サラリーマン家業であろうが、いつか社会の第一線を去る日が来ます。
上司の愛人の面倒を次々に部下へとつなぐ「飲み友達」、孤独を分かち合う3人の男たち「喫煙コーナー」、友人の死からその孤独感を感じる「受話器」、退職を機に妻に去られる「寒牡丹」、再就職が会社の葬儀係りという「碇星」(カシオペア座)。
そして、戦争時の思い出「牛乳瓶」「光る干潟」、命の恩人である医師の死と孫の存在を通して、血族を語る「花火」です。

戦争文学や幕末の歴史物など、その長編にファンも多い吉村は、短編小説を竹の節に例えます。「それがなければ竹の幹である長編小説はもろくも折れてしまう」と。再び長編小説に向かう活力を回復する術だというのです。

作品に触れながら、自分がいなくなった死後のことを思わず考えてしまいました。吉村昭は、私にいつもさまざまな思いを交錯させる作家です。

女3代記 「ふぉん・しいほるとの娘」 吉村 昭26

2009-01-02 | 吉村 昭
年末年始に読もうと思っていた1冊がこの「ふぉん・しいほるとの娘」である。新潮文庫で上巻は632ページ、下巻は667ページの大作。

フォン・シーボルトはドイツの医師。オランダ使節の一人として文政6年(1823)7月に長崎出島へ。鳴滝塾を創設し、日本にいた6年の間に西洋医学教育に尽力するとともに、将軍家斉に謁見。出国の際、鎖国時代の日本で日本地図や国政などの情報収集に努め、母国に送ろうとして、文政12年(1829)12月にスパイ容疑で国外追放となった。これがいわゆるシーボルト事件である。

吉村昭の「ふぉん・しいほるとの娘」は、昭和50年(1975)6月から連載が始まり、昭和53年(1978)3月に刊行された。吉村昭51歳の時である。このシーボルトと日本での妻、お滝と娘お稲、そして、その娘タダの3代に渡る物語である。

文政6年(1823)のシーボルト来日から、お稲の死の明治36年(1903)までを描く。お稲の産科医としての成長とともに安政4年(1857)のシーボルト再来日や慶応2年(1866)のシーボルトの死、また、慶応4年(1868)のお滝の死が語られる。
まさに変革期に翻弄される、異国人との血に運命付けられる女性の生き様がさまざまな人との出会いやつながり、そしてその地域の生活臭や歴史、時代背景とともに語られる一大叙事詩である。

舞台も長崎、宇和島、岡山、東京とめまぐるしく、また、世情もペリー来航、蛮社の獄、安政の大獄、桜田門外の変、生麦事件、大政奉還、王政復古など明治維新前後の日本の動きを克明に描き出す。

氏の資料収集のすごさは巻末の参考資料一覧でも知ることができる.
舞台となる長崎や宇和島、岡山などの様子や、お滝、お稲を取り巻く人々の営み、政治状況などがそこかしこに散りばめられ、人の息遣いが聞こえる肉厚の読み物になっている。

昭和33年(1958)31歳で文壇デビューを果たし、私小説家として歩んでいた吉村が、40代前後から長編として戦史小説にも歩みを進めた。「戦艦武蔵」(昭和41年)、「海の史劇」(昭和47年)などである。そしてその後、「長英逃亡」((昭和59年)、「桜田門外の変」(平成2年)、「落日の宴」(平成8年)、「生麦事件」(平成10年)など、明治維新前後を描くようになった。「ふぉん・しいほるとの娘」は、この歴史小説群の先駆的記念碑的作品である。

お見舞い 「お医者さん・患者さん」 吉村 昭 25

2008-12-23 | 吉村 昭
知人が入院したという知らせを受け、見舞いに行った。
いつもながら、逡巡してしまう。

つまり、病院とは病いと戦う場であり、そこに見舞いと称して、他人が健康をひけらかしに行くことが、入院している人にとっていい気持ちがするのだろうか、自己満足ではないか、といつも考えるからである。

これは吉村昭も同じ考えをもっていて、昭和40年代を中心に書いたエッセイ「お医者さん・患者さん」(昭和60年・1985)で述べている。

この本には、吉村が小さい頃からこれまで感じた、医者についてのさまざまな視点がある。医者の資質や手術など、専門性が高い医療の場面で、とかく立場が一方的になりがちな医者と患者の話はもちろんのこと、西洋医学と東洋医学、、動物実験や胃カメラの話、禿と癌、戦争と医者、自殺についてなど、いつもながらの鋭い見識に感服させられる。
他に医者に関する著述も多い。
著者自信が結核を患い、二十歳の頃、戦後間もない昭和23年に胸の手術をした経験があるので、さらに説得力が増す。

波乱万丈の人生 高松陵雲 「夜明けの雷鳴」 吉村 昭 24

2008-12-13 | 吉村 昭
NHK大河ドラマ「篤姫」もいよいよ明日が最終回。江戸城無血開城から明治維新後へといよいよファイナルである。

高松陵雲(1836生まれ)を取り上げた「夜明けの雷鳴」(平成12年/2000刊行)である。
明治維新の際、箱館戦争で傷病者の治療にあたった医師。明治に入り、貧民を無料で診察する組織「同愛会」を設立した。

吉村昭の歴史小説には、医師がよく登場する。最初の陸軍軍医総監となった松本良順、「解体新書」に取り組んだ前野良沢、杉田玄白、種痘の普及に生涯をかけた福井の町医師、笠原良策などである。

その中でも陵雲の生涯はまさに波乱万丈であろう。幕末に福岡県の庄屋に3男として生まれ、20歳で久留米藩へ。医師を目指し、次男を頼り江戸へ。将軍に仕えた有名な蘭方医の石川桜所を師事、蘭学を修める。その京都行きに随行した陵雲は、一橋家に仕えた友人の知遇で、一橋家の医師となる。そして、この一橋家当主が15代、最後の徳川将軍慶喜となり、弟昭武の、パリ万博行きに随行することとなる。
陵雲31歳の時である。フランス医学を学ぶ傍ら、日本では大政奉還、鳥羽・伏見の戦いとまさに、主家の存続にかかわる大事態が発生。陵雲は、帰国後、幕臣として、箱館戦争にて、西洋で学んだ敵味方無く支える治療に徹することとなる。
その後、榎本軍降伏後、敗軍の医師として忸怩たる思いで東京、水戸、静岡へと空虚な日々を過ごす。結婚や廃藩置県など、めまぐるしく移り変わる環境の中で、市井の医師としての道を歩む陵雲。
しかし、明治9年の旧藩士が起こすさまざまな乱、明治10年(1977)には西南戦争が起きる。41歳の時。明治10年に東京で民間救護団体の同愛社を設立した。大正5年(1916年)、81歳で死去。

医師として、大きな時代のうねりの中で、フランスで学んだ病院経営を常に実践する信念。吉村の歴史小説の登場人物は、皆、清廉で稜々たる気骨の持ち主である。吉村の視点は揺るぎない。
また、勝者と敗者を考えさせる作品でもある。巻末の箱館戦争時、病院患者を戦争から救った敵方2名の薩摩兵士の末期が利く。村橋は行く方知れずで死亡、池田も侘しい生活者となっていた。

ほっと一息 エッセイ集「わたしの流儀」 吉村 昭 23

2008-11-23 | 吉村 昭
やっぱ随筆だね。吉村 昭は。

そういうと吉村ファンにはお叱りを受けるかもしれない。

しかし、平成10年(1998)に刊行された「わたしの流儀」(新潮文庫)は、「小説」「言葉」「人との出会い」「食」「旅」「歳を重ねる」と6つのジャンルに味わい深い随筆を残す。

日々の軋轢やストレスの中で、オアシスを見つけた気分だ。

中でも「睡眠」は大好きな作品。とかく、世はストレス社会。その中で、夜中、目が覚め、寝付けないこともある。吉村は眠れぬことなど一切気にかけないという。
20歳からの3年にも及ぶ肺結核の闘病生活。とにかく病床に臥していたという。小さい頃のことなど考えながら体を横たえる。体が休養する時間だから、読書などしないという著者。青春を病とともに過ごした吉村昭の言葉は時として重い。

一編の注釈よりも一読を勧めたい。