8月15日は終戦の日。多くの戦史文学を書き残した吉村昭の作品は、やはりこの8月がふさわしい。
吉村昭の「零式戦闘機(れいしきせんとうき)」は、昭和43年(1968)刊行。「戦艦武蔵」と並ぶ戦史文学の記念碑である。
日本の航空機製作は大正から昭和にかけて本格化する。その歴史の浅さの中、技術者たちのたゆまぬ努力で昭和15年7月、皇紀2600年にちなみ、零式艦上戦闘機は世に出る。
昭和12年の日中戦争、昭和14年の欧州世界大戦。昭和16年12月にはハワイ真珠湾の攻撃などによる米英蘭開戦とまさに日本は戦争の泥沼に突き進む。零式戦闘機はその優れた航続力、速力、火力、操縦性能で敵機を圧倒するが、9ヵ月後には、アメリカの技術力、資源、物量に圧倒され始める。
一方で、日本はあくまでも零式にこだわり、その改良、製造にこだわり続け、多くの飛行機。搭乗員を失い続ける。また、日本本土への空襲も激化の一途をたどる。
吉村は、前半は誕生秘話、そして零戦の活躍を、後半は、戦争の拡大と敗色が濃くなるさまざまな作戦、そして敗戦までを零戦を通し、描く。全編を通し、「牛」が登場する。なんと、飛行機部品運搬のため、名古屋の工場と岐阜の飛行場を行き来していたのは牛車であった。
攻撃は最大の防御という名の下に防弾装置は2の次にされた。19年末には、零戦に爆弾を搭載し、敵艦に体当たり攻撃を加え始める。吉村は「戦争指導者たちの無能さの犠牲にされたと同時に、戦争という巨大な怪物の無気味な口に痛ましくも呑みこまれていった」と。
零式艦上戦闘機の誕生から末路をたどりながら、日本が行なった戦争の姿をあらわにした。
吉村昭の「零式戦闘機(れいしきせんとうき)」は、昭和43年(1968)刊行。「戦艦武蔵」と並ぶ戦史文学の記念碑である。
日本の航空機製作は大正から昭和にかけて本格化する。その歴史の浅さの中、技術者たちのたゆまぬ努力で昭和15年7月、皇紀2600年にちなみ、零式艦上戦闘機は世に出る。
昭和12年の日中戦争、昭和14年の欧州世界大戦。昭和16年12月にはハワイ真珠湾の攻撃などによる米英蘭開戦とまさに日本は戦争の泥沼に突き進む。零式戦闘機はその優れた航続力、速力、火力、操縦性能で敵機を圧倒するが、9ヵ月後には、アメリカの技術力、資源、物量に圧倒され始める。
一方で、日本はあくまでも零式にこだわり、その改良、製造にこだわり続け、多くの飛行機。搭乗員を失い続ける。また、日本本土への空襲も激化の一途をたどる。
吉村は、前半は誕生秘話、そして零戦の活躍を、後半は、戦争の拡大と敗色が濃くなるさまざまな作戦、そして敗戦までを零戦を通し、描く。全編を通し、「牛」が登場する。なんと、飛行機部品運搬のため、名古屋の工場と岐阜の飛行場を行き来していたのは牛車であった。
攻撃は最大の防御という名の下に防弾装置は2の次にされた。19年末には、零戦に爆弾を搭載し、敵艦に体当たり攻撃を加え始める。吉村は「戦争指導者たちの無能さの犠牲にされたと同時に、戦争という巨大な怪物の無気味な口に痛ましくも呑みこまれていった」と。
零式艦上戦闘機の誕生から末路をたどりながら、日本が行なった戦争の姿をあらわにした。