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パンダ イン・マイ・ライフ

ようこそ panda in my lifeの部屋へ。
音楽と本、そしてちょっとグルメなナチュラルエッセイ

「零式戦闘機」と終戦 吉村 昭 42

2010-08-15 | 吉村 昭
8月15日は終戦の日。多くの戦史文学を書き残した吉村昭の作品は、やはりこの8月がふさわしい。

吉村昭の「零式戦闘機(れいしきせんとうき)」は、昭和43年(1968)刊行。「戦艦武蔵」と並ぶ戦史文学の記念碑である。

日本の航空機製作は大正から昭和にかけて本格化する。その歴史の浅さの中、技術者たちのたゆまぬ努力で昭和15年7月、皇紀2600年にちなみ、零式艦上戦闘機は世に出る。

昭和12年の日中戦争、昭和14年の欧州世界大戦。昭和16年12月にはハワイ真珠湾の攻撃などによる米英蘭開戦とまさに日本は戦争の泥沼に突き進む。零式戦闘機はその優れた航続力、速力、火力、操縦性能で敵機を圧倒するが、9ヵ月後には、アメリカの技術力、資源、物量に圧倒され始める。
一方で、日本はあくまでも零式にこだわり、その改良、製造にこだわり続け、多くの飛行機。搭乗員を失い続ける。また、日本本土への空襲も激化の一途をたどる。

吉村は、前半は誕生秘話、そして零戦の活躍を、後半は、戦争の拡大と敗色が濃くなるさまざまな作戦、そして敗戦までを零戦を通し、描く。全編を通し、「牛」が登場する。なんと、飛行機部品運搬のため、名古屋の工場と岐阜の飛行場を行き来していたのは牛車であった。

攻撃は最大の防御という名の下に防弾装置は2の次にされた。19年末には、零戦に爆弾を搭載し、敵艦に体当たり攻撃を加え始める。吉村は「戦争指導者たちの無能さの犠牲にされたと同時に、戦争という巨大な怪物の無気味な口に痛ましくも呑みこまれていった」と。

零式艦上戦闘機の誕生から末路をたどりながら、日本が行なった戦争の姿をあらわにした。

チリ沿岸地震 「三陸海岸大津波」 吉村 昭 41

2010-03-07 | 吉村 昭
先週の日曜日は、マスコミは一色に彩られた。テレビ番組も大きく変更された。見たい番組が変更となり、がっくりであったが、何せ津波のことだからことは甚大だ。

吉村昭の「三陸海岸大津波」(昭和45年1970中公新書、文庫化平成59年1984)は、その自然景観と営みの純朴さに惹かれている、青森・岩手・宮城の3件の太平洋沿岸の三陸海岸で、甚大な被害をもたらしてきた「津波」をルポルタージュした記録文学である。
三陸海岸の形状と太平洋に面していることから、この辺りは昔から地震による津波被害を被ってきた。まちの存続さえ危ぶまれることも。
近代でも、明治29年二万六千人以上、昭和8年三千名、昭和35年チリ地震百名余り、そして昭和48年の十勝沖地震である。
吉村は、体験者の談はもちろん、被害状況はもちろん、津波のシステムや観測データなど、焦点を絞り、その惨状を浮かび上がらせる。

情報網発展や防災施設の建設で、被害も飛躍的に減少した。しかし、いつ起きるかわからない天災の常習地帯でありながら、営みを続ける人間の感性とは。

叶わぬ夢 二宮忠八 吉村 昭 40

2009-10-03 | 吉村 昭
100年に1度の経済危機、そして、政治の主宰者は自民党から民主党へ。おおきな変革がこの国にも押し寄せ、多くの人たちを飲み込んでいく。

人生の転機が幾たびか訪れても、独力で飛行機製作の夢を追い続けた人がいた。戦前の教科書に載っていた二宮忠八の物語を、吉村昭は「虹の翼」(昭和55年(1980)刊行)で紹介している。戦史や維新ものではない、吉村には珍しい伝記ものである。

慶応2年に生まれ、昭和11年に71歳で亡くなった二宮は、激動の明治・大正の時代を生き抜いた。その一生はまさに波乱万丈、苦節の日々であった。

愛媛県八幡浜市に生まれた二宮は、有数な海産物問屋に生まれたが、破産という出来事に遭遇し、小学校のみを卒業、子守や店の小僧として生き、明治20年、22歳で陸軍に入り、薬剤手として日清戦争を経験する。
明治31年、33歳で陸軍を辞し、大阪の製薬会社に入る。東京進出の成功や企業合併など、産業の発展に奮闘しながらも、日露戦争の勃発など、激動の時代を経、明治45年、49歳で粉飾決算の責をとり辞任するに至る。
その間、一貫して飛行機開発の夢を見続けるものの、個人としてとても開発には手が届かず、ドイツのツェッペリン伯爵、アメリカのライト兄弟などにより、忠八の夢は叶えられて行く。

忠八の生き様が、日清戦争、三国干渉、日露戦争といった大きな激動の歴史や、飛行機の開発、大阪の製薬業界の発展とともに綴られる。

軍隊や企業の組織論もあり、読み応え充分である。

死のある風景 吉村 昭 39 

2009-08-16 | 吉村 昭
昨日、菩提寺のご住職がお亡くなりになった。一昨日には息子さんが家に来られ、お経をあげていただいた。
死はいつも生と隣り合わせにあることを実感する。ましてや昨日は終戦記念日。甲子園の高校野球大会時の黙祷は、平和のありがたさを、また、戦争の悲惨さを体言する。
吉村昭は、常に戦争の現実に目を向けてきた。「死のある風景」は、吉村昭の短編集。昭和末期の13年間に書かれた10篇の私小説からなる。平成元年(1989)10月刊行。文庫表紙の入道雲が、印象的だ。

「金魚」。終戦の年3月に中学を卒業した私は、それまで周りの皆が出征していくのを目の当たりにしていた。若者にとって戦争とは。
「煤煙」。戦後間もない東京で、物資不足の中、餓死した屍を横目に見ながら、4人で汽車に乗り、秋田へ米を入手に行く。しかし、米は統制品で売買や交換は禁じられていた。
「初富士」。普段正月を家で過ごす私は、嫂や弟夫婦と富士山近くの菩提寺に参る気になる。住職たちとつかのまの一こま。
「早春」。叔母が私に話があるという。叔父が余命いくばくもないという中、叔母は叔父のいる前で、叔父の女性遍歴を語りだす。
「秋の声」。肝機能の低下で禁酒を余儀なくされる。その私に馴染みの飲み屋の女主人が、子宮ガンで亡くなったと聞く。
「標本」。昭和23年に肺結核治療のため、5本の肋(あばら)骨を切除した。その骨が病院にあるという。
「油蝉」。68歳になる従妹が亡くなった。静岡に葬式に出かける私。従妹の人生と次々に訪れる一族の死と向き合う。
「緑雨」。その昔、同人雑誌でいっしょだったある女性の告別式に誘われた。了解したものの参加するかどうか迷う私。
「白い壁」。耳の病気で入院した私は、そこでさまざまな病と闘う人たちと出会う。元気に退院する後ろめたさと向き合うことになる。
「屋形船」。誘われて花火大会を見に隅田川へ船で出た私。40年前の終戦直後には数多くの死体が漂い流れていた。

「死」は生の行き着くところであり、いろいろな場面で、死は我々に生をいやがうえにも考えさせる。まさにどう生きるか、どう生きているかと直面する。

遠い幻影 吉村 昭 38

2009-07-26 | 吉村 昭
竹は節があるから強靭なのだ。短編小説はまさにこの竹にとっての節であり、一定の時間を空けて書かなければ、もろくも折れてしまうという吉村昭。
12の短編のうち、平成18年(2006)に79歳で死去した吉村の12の短編。平成10年(1998)刊行。
「梅の蕾」 平成7年(1995) 無医村の村長、早瀬は必死の思いで医師堂本の家族での移住を実現する。しかし、堂本夫人の死によりまた、危機が訪れる。 
「青い星」 戦争で死んだ次兄に隠し子がいる。梅村は会うために名古屋のトンカツ屋を訪れる。
「ジングルベル」 平成元年(1989) 刑務官の北畠は、あと半月で出所の工藤が逃走したことに気付く。その理由はパチンコ屋から流れるジングルベルだった。
「アルバム」 官立大学を辞した北川は、息子も娘も独り立ちし、家を建て直す。そこで働く根本からアルバムを預かる。そこにはかつてプロボクサーとして一名を馳せた根本の記録があった。
「光る藻」 平成6年(1994) 戦後、予備校に通っていた私は、父が経営している工場に来た、両親のいない3歳下の良雄と出会う。良雄は食用蛙をとることが上手だった。 
「父親の旅」 平成7年(1995) 定年退職した菊岡の一人娘、久美子は夫と5歳になる一人娘を残し、失踪する。1年半後、北海道にいる久美子を引き取りに出かける。
「尾行」 昭和58年(1983) 大学生の節夫は興信所のアルバイトをする。妻の素行を依頼され、現場を突き止めるが・・・。
「夾竹桃」 昭和50年(1975) お手伝いに来ていた房子は母子家庭であった。その房子の父親が見つかった。房子の男性遍歴の悲哀を描く。
桜まつり 平成7年(1995) 長兄に隠し子がいる。遺産相続をめぐり、島野は長兄の娘由利子と会うことになる。 
「クルージング」 平成8年(1996) 東京湾でのクルージング。そこで出会った小学生の1年後輩。50年前の焼夷弾に焼かれる街のある日を思い出す。
「眼」 平成8年(1996) 家と駅の間にある公園に住む浮浪者。彼を取り巻く人々を描く。
「遠い幻影」 平成10年(1998) 昭和15年に戦地に赴く兄を両親とともに見送る。その記憶を機に思い出す列車事故の記憶をたどる。

平成に入ってからの作品が主であり、油の乗り切った日々の作品群。常に死の影がその根底にある吉村が、今回は生きることを前面に出している。
お盆が近づくと、いつも死を考えさせられる。戦争や男女の機微、運、健康など人生にあるさまざまな運命を受け入れつつも、前向きに生を信じていく。人生の処方箋がここにある。

沖縄県慰霊の日「殉国」 吉村 昭  37

2009-07-04 | 吉村 昭
6月23日(火) は、沖縄県慰霊の日であった。昭和20年(1945)の終戦の年、4月にアメリカ軍が沖縄本島に上陸する。10万人弱の沖縄民間人死者・行方不明者があり、県民の4分の1が犠牲となったといわれる。よくアメリカ軍が撮影した火炎放射器で洞穴を焼き尽くすカラー映像が流される。
この沖縄戦が、組織的戦闘が終結した日が6月23日とされている。

昭和57年(1982)6月に発刊。1991年11月に文庫化された「殉国、陸軍二等兵 比嘉真一」。

終戦の年の昭和20年3月末のアメリカ軍の沖縄上陸作戦を、当時14歳の沖縄県立第1中等学校の3年生、比嘉真一の目を通して描く力作。

昭和20年3月25日に3年生以上に召集令状が。そして陸軍二等兵に命じられる中学生たち。

鉄血勤皇隊第1中学校隊として負傷者搬送の任務の中、砲弾落下の恐怖と凄惨な病院壕の様子。自決。

少年少女の純粋な心と追い詰められる島の人たち。

その様子が淡々と描かれる。そこには主観も美化もない。写実主義に徹する吉村。

一途な想いと組織 「白い航跡」 吉村昭 36

2009-05-30 | 吉村 昭
新型インフルエンザの国内発生から1ヶ月余り。いまだ全国に混乱が発生している。国や自治体、企業、そして個人のさまざまな対応に賛否がある。
岩波文庫の「寺田寅彦随筆集」の5巻に「小爆発2件」という随筆があり、昭和10年の浅間山爆発時に居合わせた著者が、沓掛駅での様子をもとに、「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた。」と述べている。

明治時代に、自らの信念に基づいて、病と組織に立ち向かった一人の医師がいた。高木兼寛(たかき かねひろ)、1849~大正9年(1920)。72歳で没。海軍軍医。その一生を描く「白い航跡」。平成元年(1989)から翌90年に新聞掲載。平成3年(1991)に単行本。平成4年(1994)に文庫化。
宮崎県の大工の息子に生まれ、15歳で鹿児島の蘭学塾へ。そして、20歳で1868年の鳥羽伏見の戦い、奥羽戦争に従軍し、イギリス医学に驚愕、明治3年(1870)に22歳で鹿児島でイギリス人医師に師事。明治5年(1872)、師の推薦で海軍医師に。明治8年(1875)に5年半のイギリス留学。
前半は、そのひたむきな勉学の姿勢を明らかにする。
後半は、帰国後、海軍で問題になっていた脚気の改善に取り組むところから。
その原因が白米主義と栄養バランスにあると見抜き、食改善に取り組み、日清戦争明治27年(1894)・日露戦争明治37年(1904)までに成果を出す。
脚気対策を渋る海軍に対し、軍部、大臣、皇族に訴え、実験を果たす熱意、そしてその結果が出るまでの緊張感。
しかし、その頃の日本は、脚気に対して、陸軍のドイツ風の学理主義を取り入れ、細菌説をとっていた。陸軍や医学界からのすさまじいまでの弾圧に耐える兼寛。
結局、ビタミン不足が脚気の原因とわかるのは大正も終わりの頃であった。西欧では、この兼寛の英断に大きな評価を与えていた。
それに比べ、権威に固執し、脚気対策を怠り、明治の日清・日露戦争で、脚気による多大な人的損失を出した陸軍とは。

明治25年(1892)に軍を退官。東京慈恵医院、東京病院の院長として、その職務に専念する姿は凄まじい。また、イギリス医療の現場から看護婦の育成を実践し、明治19年(1880)に日本で初の看護婦教習所を開設した。
まさに一生を通じて、医療の改革に取り組んだ。医道一筋。それもその視点は常に人道主義にあった。
また、吉村は、郵便・断髪・お歯黒など、維新直後の世相も盛り込み、幅を広げている。

飽くなき探究心と、それを実現する実行力。すごいの一言。それに比べ組織の壁は厚い。いつの時代でもそうなのか。

維新文学の精華「彰義隊」 吉村 昭 35 

2009-05-02 | 吉村 昭
この4月から岩波書店が、「吉村昭歴史小説集成」全8巻を刊行する。1990年に新潮社が刊行した「自選作品集」以後の作品で、いわゆる幕末維新物の集成だ。この「彰義隊」も5月8日に第2回配本第2巻に収録される。
吉村昭は平成18年(2006)7月に亡くなる。「彰義隊」はその1年前、平成17年(2005)11月に刊行され、今年の1月1日に文庫化された最後の歴史小説である。

この題名からもわかるように明治維新のさなか、上野東叡山寛永寺で慶応4年(1868)5月15日に起きた彰義隊の戦いを軸に、寛永寺の山主、弘化4年(1847)生まれの皇族の輪王寺宮能久親王の一生を語る。

物語は慶応4年正月3日の鳥羽・伏見の戦いから始まる。
この際、将軍慶喜は大阪城を脱出し、海路、江戸城へと逃げる。一方、朝廷側は慶喜追討を掲げ、2月に江戸へ。江戸では慶喜助命嘆願の動きと朝廷と一戦交える動きが交錯する。
2月12日に慶喜は朝廷の理解を得るため、寛永寺で謹慎。輪王寺宮に朝廷への説得を依頼する。22歳の輪王寺宮は、江戸を戦災から救うべく、一路京へと向かう。しかし、東征大将軍の有栖川宮はこれを拒否。失意のうちに3月19日に江戸へ帰る。そこでは、慶喜を守るため、幕臣により彰義隊が結成されていた。
このような中、4月11日に慶喜は水戸へ隠居謹慎し、4月21日に有栖川宮は無血開城した江戸城へ入る。

将軍がいなくなった江戸。彰義隊もその守るべき主を失い、寛永寺、輪王寺宮を警護する形にその存在が変わる。ここに悲劇の始まりがある。
朝廷軍と彰義隊はにらみ合う形となり、5月15日に大村益次郎指揮の朝廷軍は寛永寺を攻撃、彰義隊は敗れ、輪王寺宮の流転の日々が始まる。
浅草、市ヶ谷、そして5月15日に海路、北方の平潟(茨城県)へ。6月1日に磐木平、会津(福島)、6月25日に米沢(山形)と。
その頃、奇しくも朝廷軍に対抗すべく、奥羽25藩と北越6藩による奥羽越列藩同盟が5月3日に結成されていた。
この列藩同盟の盟主として7月10日に仙台へと入る輪王寺宮。しかし、9月11日には米沢藩が降伏、仙台藩も軍門に下り、9月22日には壮絶な戦いの末、会津藩が降伏することとなる。
宮は朝廷に帰順し、11月19日に京へと入り、幽閉の日々が続く。この1年はまさに激動の1年であった。

伏見満宮能久親王となった宮は、明治3年(1870)に東京へ向かい、明治4年に留学のため、ドイツへと向かう。明治5年に北白川宮家を相続。ドイツで6年余りの過ごし、明治10年(1877)に帰国する。
明治11年(1878)に陸軍へ。明治14年陸軍大佐、明治25年に中将へ。明治27年には日清戦争が勃発。翌年明治28年(1895)には清国が降伏したものの、台湾に不穏な動きが起こり、5月に宮は台湾へと向かう。
しかし、10月に病に倒れ、この地で亡くなる。11月11日には国葬が営まれた。

皇族として生まれた宮が京から江戸へ。寛永寺の僧侶として過ごしながら、朝敵として流転の日々を耐え、外遊、軍人として外国の地で亡くなるという、数奇な運命。
逃亡の題材をいくつも残した吉村文学。その歴史版の精華が、最後の「彰義隊」である。

人生とは 「花渡る海」 吉村 昭 34

2009-04-12 | 吉村 昭
「花渡る海」は昭和60年(1985)に吉村昭が発刊した長編小説である。
江戸時代末期に広島県出身の船乗り、久蔵が、シベリアで習得した種痘を広島で普及しようとしていたという事実に興味をもった氏が久蔵の手記をもとに執筆したものである。

文化2年(1805)に大阪を出向した船は悪天候のため遭難、3か月の漂流を経、厳寒の地、シベリアに漂着する。
そして3年半を経、27歳で日本に帰国。その間、寒さのため、9人の隣人を亡くし、日本では母と兄も死去していた。
自らも凍傷により足先の切断という過酷な運命を乗り越える。
しかし、シベリアの医師に教わり、持ち帰った種痘の普及も時の藩の無理解のため頓挫し、帰国後儲けた4人の子も早逝する。
久蔵は嘉永6年(1853)の黒船来航の年に67歳でその生涯を閉じている。

未熟な造船技術や天候予知能力、操船技術などを背景に、まさに船底一枚の下は地獄という時代に、運命をもてあそばれた一人の船乗りの人生を、その記述をもとに丁寧に吉村は語る。
漂流と、寒さ、そして異国の地での暮らしは壮絶である。また、帰国後の世に受け入れられない久蔵のやるせなさも身につまされる。
吉村昭は、こういう歴史のかげに埋もれた一生ときちんと向き合う。

蜜蜂乱舞 吉村 昭 33

2009-03-30 | 吉村 昭
桜の開花が、春の到来を告げる。
「蜜蜂乱舞」は、綿密な取材に裏打ちされた養蜂一家の物語。吉村にしてはめずらしい現代家庭を描く。昭和49年(1974)に1年間、家の光の雑誌に掲載された。昭和62年(1987)に文庫化。

鹿児島の鹿屋市に住む有島伊八郎(56歳)と利恵、高校2年生の典子。そこに大学を中退し、消息を絶っていた息子俊一(24歳)が妻の弘子(19歳)を連れて帰ってくる。

養蜂業は、蜂が花から得た蜜を採取して市場へ流す。花の咲く時期は短く、そのため、蜂の群れを連れて花を求め北へ移動する。

有島家も4月に菜種、下旬にはレンゲと九州を北上。典子を残し、7ヶ月の旅に向かう。
長野県松本でアカシア、6月には秋田十和田湖でアカシア、6月30日には北海道へ。
十勝平野でソバ、7月下旬シナノキ、1月は野宿、キャンプしながら9月まで採蜜を行い、11月下旬に帰郷する。

女王蜂と雌の働き蜂、採卵を促すための雄蜂という秩序ある蜂の生態と、変動する人間社会の営みが対比して描かれる。

途中、暑さや振動に弱い蜜蜂の生態や、移動時の渋滞や停車がもたらす混乱。大水による巣箱の被害、スズメバチの来襲やヒグマの恐怖。
伐採や農地の減少で厳しくなる花の確保など、自然に委ねざる終えない厳しい現実がそこにある。
巣箱を騙し取られる。馬車の馬に蜂が群がるパニック。老人を刺し、廃業する業者。

また、嫁姑論や、交通事故を起こし刑務所に入っている弘子の兄の出所、長旅ゆえに離婚や失踪する養蜂業者などの挿話。
そして、特攻機の基地となっていた鹿屋を舞台に、若い航空隊員の生命を代償とした死の出撃と戦後の暮らしがエピソードとして加わる。

厳しい自然と現実。そこに自らを委ねる家族の絆。まるでホームドラマを見ているような映像的な吉村の文章と構成がいい。