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パンダ イン・マイ・ライフ

ようこそ panda in my lifeの部屋へ。
音楽と本、そしてちょっとグルメなナチュラルエッセイ

死のある風景 吉村 昭 22

2008-09-23 | 吉村 昭
今日は秋分の日。祝日である。また、彼岸の中日。祝日法では「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」とある。

吉村昭は「死」をテーマにいくつもの短編小説がある。
7つの短編からなる「見えない橋」は2002年(平成14年)7月刊行。

出所者の死に場所を探す「見えない橋」
ダンボールで公園に寝起きする浮浪者の死を描く「都会」
断崖からの自殺者とその家族・関係者を描く「漁火」
小学校の同級生の死を通して、生きるものたちの死へカウントダウンを描く「消えた町」
小説を通し知り合った戦争未亡人のその後「時間」
母の死とその家族を実体験に基づき語る「夜の道」
など。

社会派といわれる吉村が固執し、描き続けるテーマは「死」である。それは一方で生との対比となる。
彼のライフワーク、短編小説。まさに岸壁に向かって釣り糸を垂れる心情という。
決して焦らず、魚がかかるのを待つ。そして、短編集を出すと次のスタートラインに立つという。

壮絶な生き様 「アメリカ彦蔵」 吉村 昭 21

2008-09-14 | 吉村 昭
吉村昭の「アメリカ彦蔵」(平成11年(2001)刊)。
彦太郎は幕末の頃、1837年に兵庫県に生まれ、船乗りになる。
それが13歳の時、時化に遭い、太平洋を東に流される。いわゆる漂流である。気象情報も無く、まさに神頼みの航海であった時代に、幾人もの人たちが恐ろしくつらい目にあったことであろう。
その彦太郎、彦蔵は、15歳の時アメリカに渡る事になる。電報や機関車に触れ、サンフランシスコ、ニューヨーク、ワシントンを訪れる。時の日本人としておそらく初めてのことではないのか。
漂流という空前絶後の体験が太平洋を結ぶ。そして9年ぶりに帰国を果たす。
吉村は彦蔵も含め、この漂流民に注目し、その足跡を丁寧に追う。
なぜ、日本人漂流民が多く、アメリカ船に救われたのか。太平洋と捕鯨、清への綿花輸出などまさに国際経済とのかかわりから、アメリカ人の人道的な側面も触れながら、時代が彦蔵を離さない。
国内は攘夷から開国へと大きく時代が変わり明治維新を迎え、アジアではアヘン戦争から日清戦争、アメリカでは南北戦争とまさに大きな時代の流れを彦蔵は身をもって体験することになる。
通訳としてその経験を生かしながらも、日本人として、そしてアメリカ人として、その間を漂流する彦蔵。
この激動の時代に、一市民が生死をかけた壮絶な体験をし続けたことに絶句する。まさに時代に翻弄され続けながら生きた一つの証言がここにある。
吉村はそれを賛美するでもなく、明治30年、61歳で亡くなるまでをただ淡々と描く。人の幸せとは何なのか、時はあまりに残酷である。

天災と人災と 「関東大震災」 吉村 昭 20

2008-08-30 | 吉村 昭
9月1日は、昭和36年に制定された「防災の日」。
もちろん、この日は、今から85年前の大正12年(1923)9月1日午前11時58分、まさに正午を迎えようとしたその時、相模湾を震源とする大地震「関東大震災」が起きた日である。

吉村はこの惨状をさまざまな視点から描く。「関東大震災」は昭和48年刊行の力作である。
大地震は60年ごとに起こるかどうかの学説の対立から紐解き、その日を迎える。
地震は直接には建物の倒壊や津波が人を飲み込み、電車などの交通機関を狙い打つ。
それだけではない。20万人もの人々を混乱と死に追いやったのは、火事による被害でもあった。お昼時であったことに加え、特に学校や研究所にあった薬品がその原因という。また、無責任な情報が流され、避難した人々を火が襲う。荷車や鬢付け油などに熱風が襲いかかり、更なる被害拡大をもたらした。熱さから逃れるために入った池や沼などでの溺死も。

これだけではない、当時の社会情勢や情報手段の不足からデマや暴動が起きる。大津波や富士山爆発といった流言、自警団と称する暴力的な輩の出没、強奪・暴力、朝鮮人来襲説、大杉栄事件といった事件が民心をゆがめ、被害を拡大していく。これは人間がなせる業である。
その後の死体処理や糞尿問題、思わず目を背けたくなるような記述もある。

今年6月には岩手・宮城内陸地震、昨年7月には新潟県中越沖地震、3月には能登半島地震、17年8月には宮城県沖、16年10月には新潟県中越地震、15年9月には十勝沖地震と、最近でも多くの死傷者を出した大規模な地震の発生は枚挙に暇がない。

吉村はあとがきで「両親から聞く人心の混乱に戦慄した。災害時の人間に対する恐怖感が私に筆をとらせた最大の動機である」と記す。
この80年で人間は進歩したのだろうか。簡単に親や子を殺害し、ただむしゃくしゃと社会への不満を理由に見知らぬ人を死に追いやる。現代も狂気と隣り合わせの日々なのか。

自然と人間 「羆嵐」 吉村 昭 19

2008-08-23 | 吉村 昭
大正4年12月、北海道の開拓村を襲った恐怖の数日。
極寒の地で起きた羆(ヒグマ)による住民男女6人の殺戮とその終焉を、記録に基づきドキュメンタリータッチで描く「羆嵐(くまあらし)」(昭和52年(1977)刊)
人間のいいかげんさと弱さ、自然界の恐ろしさを、吉村らしい洞察力と構成力、研ぎ澄まされた緊張感のある文体でタイトに仕上げた。
後にラジオドラマにもなった。

戦争と人間 「遠い日の戦争」 吉村 昭 18

2008-08-10 | 吉村 昭
8月15日には終戦の日。戦争は人間に何をもたらすのか。
吉村昭は「遠い日の戦争」で、時に翻弄される人間たちを描く。

福岡の西部軍指令本部で防空情報主任の清原琢也は、敗戦の日の昭和20年8月15日に、日本を焦土化した米軍捕虜兵を斬首し、やがて戦争犯罪人となる。
必死で逃亡する彼に親族、部下、同僚は手のひらを返したように冷たい。また、裁判での上官の見苦しい責任回避のコメントも。
時の流れとともに9年間の刑務所生活に終わりを告げ、昭和32年に出所する。戦争犯罪人が戦争犠牲者となる。

吉村はただ、戦争末期の国土の状況や敗戦を通した人や世間の移り変わりを淡々と綴る。
吉村は何を語りたかったのだろう。この作品は昭和53年(1978)刊行。
戦争の悲惨さか、不条理さか。勝者と敗者の論理か。組織の冷徹さか。大きな流れに巻かれる人間のしたたかさか。それとも風見鶏となるべく保身に囚われた人間の性か。
このような人の姿は、敗戦が時間として遠くなった今でも変わらないのではないかと思わせる。

プロジェクト○ 「光る壁画」吉村 昭 17

2008-08-01 | 吉村 昭
胃カメラを飲む時は「何でこんなつらい思いまでして」と思う。最近は鼻から入れる方式もあり、助かっている。

「光る壁画」(昭和56年(1981)発刊)は、戦後まもなく開発されたいわゆる「胃カメラ」誕生の話である。
読者には医療機器関係者もいて、書かれている内容の正確さに驚くという(「夜明けの雷鳴」(文春文庫)の解説)。

人ののどの広さは14ミリ。そこに入れるカメラのフラッシュ用豆電球は5ミリ、フィルムは6ミリ。
さまざまな人たちが、まさに使命として開発を遂げる世界。まさに旧国営放送の「プロジェクト○」の吉村版である。

人も捨てたものではないと思わせる。
偽装、虚偽、無責任。さまざまな信頼が揺らぐ昨今、戦後まもない日本人の空気が新鮮なものに映る。

エッセイ集「蟹の縦ばい」 吉村 昭 16

2008-07-27 | 吉村 昭
連日、暑い日が続く。夜中に目が覚めることがある。そんなとき、お勧めは吉村昭のエッセイ。
緊張感あふれるストーリーは眠れなくなり、悲しく重いストーリーは夢見が悪い。
その点、吉村のエッセイ「蟹の縦ばい」:文春文庫昭和54年(1979)は、全編おだやかな作風とユーモラスさに溢れる短編集。とても心地よい。

著書が40歳代から50歳代に雑誌に掲載されたものの編集もの。内容も旅行記や食べ物、出会いなどでほんわかと人を包む。。
軽妙なリズムの吉村節が生きる。短編や歴史小説とは異なる作風で氏の懐の深さに感服する。

スランプは進歩のあらわれ「将棋と煙草」、勇気と親切「一円硬貨」、飲み方指南「無粋な男」、戦争の爪あと「デイゴの花」
定年「お巡りさん」、土地の顔「タクシー運転手」、親切「姫路への旅」、死後の妻たち「夫の死と花笠音頭」
馴染み客「ある女の死」、オジサンと呼ばれて「平均寿命」、酒づきあいの変化「仕上げの時期」
酒癖「よっぱらいの話」、浅草への想い「私のふるさと」
飲食店員ウォッチングやソース・米飯礼賛の項も。

「酒は仕事の原動力、信条は他人様に迷惑をかけないこと」と氏らしいマナー論もある。
つれあいである作家津村節子氏との項「亭主の素顔」もあり、興味深い。

純粋さ 「桜田門外の変」 吉村 昭 15

2008-07-11 | 吉村 昭
桜田門外の変。安政7年3月3日(1860年)、水戸藩の浪士ら18名(内1名は薩摩藩)が江戸城桜田門外にて襲撃し大老・井伊直弼を暗殺した事件。

吉村は平成2年(1990)、この事件を現場指揮者たる関鉄之助を中心に取り上げた。

前半は、尊皇攘夷の考えと相容れない開国を進める幕府と水戸藩の確執、安政の大獄などに憤る水戸藩士たちを、そして桜田門外の変をドキュメンタリータッチで。
後半は、薩摩藩の決起もなく、水戸藩、彦根藩、幕府の押し殺した対応と鉄之助の逃亡の日々を鉄之助の日記をもとに丁寧に描く。

変のわずか8年後、明治政府が樹立する。幕府の権威の失墜と、薩英戦争・下関戦争による攘夷論の急激な低下が、尊王攘夷を尊王倒幕へ向かわせる。

まさに激動の時を迎える。

それにしても、純粋な若者たちの行動と組織の保身・確執の対比、そして時代の流れのむなしさが、逃避行のわびしさを余計に際立たせる。

清廉な官僚の一生 川路聖謨「落日の宴」 吉村 昭 14 

2008-06-23 | 吉村 昭
吉村は、一人の幕末の官僚にスポットを当てた。勘定奉行としてロシアのプチャーチンとの交渉にあたり、1854年に日露和親条約を締結に寄与した川路聖謨(かわじ としあきら)である。「落日の宴」(平成8年(1996)発刊)。

1801年に九州の小吏の家に生まれた。父とともに江戸へ出て勉学に励み、17歳で登用試験に合格。その後、40歳で佐渡奉行、46歳で奈良奉行、51歳で大阪町奉行、53歳で勘定奉行と上り詰めた。明晰な頭脳、判断力、人格ともに卓越した人物として吉村は評価する。

アメリカとの開国という中、ロシア、アメリカ、イギリスが相次いで、日本に開国を求める。一方、ロシアは、ヨーロッパにおいてイギリス・フランスと交戦状態に入る。また、国内では尊王攘夷の運動がもたげつつあった。
交渉での凛とした態度、情報収集の確かさを河路の日記から丹念に描くとともに、その時起きた、下田地震や津波の恐ろしさ、幕府の対応にも言及している。
それは逆に川路が、それらのことをきちんととらえる能力と才覚を持っていたことに他ならない。また、その律儀で清廉、公正な性格にも触れ、まさに国政・政治に携わるものの模範として評価するのである。
勘定奉行筆頭という最高位に上り詰めるも、阿部、堀田、井伊と幕閣の変遷とともに官僚としての悲哀も。

官僚として頂点に立ったときの自戒の言葉も身に染み入る。
「相手の意見に反論する時は、つとめておだやかな言葉を使い、憎しみを抱くな。相手が道理に反することを口にしても、それが職務を損なうものでないなら心にとどめるな。枝葉末節のことにこだわるようになり、役職をおろそかにするようになる」
「確固とした意見を持ち、その上で多くの意見を聞くべき、いたずらに衆議に身を任すことは決してしてはいけない。いったん衆議に従った上は自分の意見は忘れ、それに固執すべきではない」「多忙を理由に、人に対する対応を粗略にするな」など。
そしていずれは職を辞するときが来る。「知らぬうちに過ちをおかすときが来る。自分がその役職につくには任が重かった現れで、上司を恨むな」と。

慶応4年1868年、まさに江戸時代最後の年に幕府の終焉とともに68歳で自ら死への道を選ぶ。生まれる時も一人、死ぬ時も一人。

吉村はいわゆる英雄を取り上げない。歴史的事件にかかわる組織の中の一人に焦点を絞り、その清廉な人格や信念ある哲学を語る。
「主人公に大きな魅力を感じなければ、小説を書く気になれない」「彼の人間性が、私には興味深い」「幕府が倒れ、江戸城を官軍に明け渡すことが決まった時、かれは短銃自殺をする。こういう人物が私は好きだ」(「わたしの流儀」(短銃)新潮文庫)。

時代に翻弄される日本 「ニコライ遭難」 吉村 昭 13

2008-06-16 | 吉村 昭
ニコライ2世(1868年(明治元年)~1918年(大正7年))。ロシア革命によるロシア帝国の最後の皇帝であり、1891年(明治24年)に皇太子時代に日本を訪れ、いわゆる大津事件に巻き込まれた。

吉村は、この時期の作品を多く書いている。「海の史劇」(昭和47年(1972))、「ポーツマスの旗」(昭和54年・1979)などである。
明治維新の余韻を強く残す日本が、世界の大国のさまざまな思惑の中で、大きな波に飲み込まれる。
アジア大陸の東の小国である日本が、まさに大国ロシアのさまざまな牽制、進出の中で、大きな試練を受けることになる。
吉村は「ニコライ遭難」で、この大津事件を取り上げた(平成5年・1993)。
維新後20年あまりで、大きな危機に陥った日本の試練。国難ともいえる事態がどうなったのか。また、犯罪に対する裁判は。

ここでも誠意と信念は、吉村の大きく信ずるところとなる。

現代日本を知る上で、長い鎖国の時代から、グローバルな世界へといきなり門戸を開いた日本の生き様に触れることができる。
最後の2章で、犯人や、英雄と騒がれた皇太子を救った2人の日本人、また、ニコライ2世の最後がさりげなく語られる。そこに流転ともいうべき人の運命がある。

我々に投げかけるものも大きい。