あまねく、植物の緑が目にしみるくらい、の気候であって、まったく地球も温暖化してしまったが、その割りに寒い話しが多く、どうしたものか、これまでは聞くだけというか、書物で知るだけというもう一つの現実が、どっかと存在して、それが日増しに大きくなるようで、これにはお手上げだが、対処法もわからず、おどおどし、また興ざめもする。
人は老いるものだけど、どうしてもその性格というかそうゆうもののあるところは顕著になって、被害妄想を持ったりもする。こうゆうものはよくあるのだが、「うち」の中でこの問題が起こると厄介というしかない。第三者は、そのことの一部終止を知ることはまずはないからで、適当にその隙間を読んでいる。そうゆうように自分というか、私も世間での出来事を理解してきて、多少は生き延びる方法にもつながるものとは思うものの、さて当事者になってみるとこれもどうしようもないくらい、複雑怪奇でどうにもこうにもならない。まだ、ましな方だとは思っているが。
認知症という言葉はわかりづらいものがあって、昔は老人性の痴呆症とか言われた。痴呆症状が出るというのはたしかなことで、つまりは世間に一般にいわれる常識の範囲を逸脱するということのようだが、これなどは、個人的にはよくあることである。これは差別用語のようで、たしかになーという感じはある。もともと人は、大体おかしなものであるという感覚はあって、自分だって君はおかしいといわれても、さほどなんとも思わないような感じというのは、早い時期からあった。あったというか、そうゆうこともないこともなく、そう言うしか対抗の方法がないという、これも少し理屈に合わないものだが、感じもあることは歪めない。
自分もまーおかしなこともあるなと思うこのごろだけど、もう一人の人が、これも「認知症」かどうかわからないところも多いが、お医者さんにもかかっているが、物忘れとかそうゆうところはもう普通であって、自分でもわかっているようだが、それ以外のことで欲求不満というか、我慢できないことがあるらしく、また寂しいとか、自分は馬鹿にされているということを繰り返し言われるので、こちらもどうしていいかわからず、そこでまたもやここに「愚痴」のようなことを書かざるを得ないのである。悲しいかな、どうしていいかわからない。だが、
これがいつも続くかというと、そうでもないのであって、だからもう少し何とか出来ないかと思う。無論、四六時中具合が悪いと訴えられても、これもよりどうしようもなくなる。これが、そうならないことを祈るだけだが、それにしても、弱ったものである。
でも、まだ外に出かける時間は持てる。これがあっても、なかってもあまりに変わりはないが、外の空気を吸った方はいいし、それで気分も転換できる。だが本質のところで、またいつもの問題に戻ってしまう。これに慣れるというのは、なかなか出来ないものである。出来るだけ冷静にあれと思うが、これが裏目に出るときもある。木々の緑はますます濃くなるし、それに加えて明るさも増してくる。
もうしばらくするとGWで、これにあまりに興味はないけれど、まっ多少は気分の転換になるようで、淡い期待を抱いている。
ツバメが空を舞う。またトビがそれよりもかなり空高く舞うときもあって、その姿が、まるでツバメのように見えるときもある。空を悠々と飛ぶ姿がある。
それでツバメの方というと、そろそろ巣作りの時間であって時々、その場所辺りを通るときは、観察をする。まだ、滅多に会うときはないのが普通だが、
どうしたことか、白と黒の模様は同じで、しかしその鳥はセキレイと思われる、その鳥がツバメのお宿と同じというか、少し離れて巣作りをしているようで、これにも少し驚いた。この白と黒のセキレイも一年中いるようでどこに棲んでいるかよくはわからなかった。そのセキレイが、ツバメと同じようなところに巣を作る。これは新しい発見で、セキレイも棲むところがだんだんと都市化してきたのかと思う。
小鳥の卵はカラスとか、に狙われる。こんなことは書かない方がいいか。鳥も鳥を敵に持つ。自然の掟の厳しさを見せ付けられる一面である。キジバトも同じように、他の誰にも気付かれないような、そうゆうところに巣を作る。この辺りの鳥は大体この辺りで生まれているのではないか。小動物の不思議を思う。
鳥の動きは活発だが、虫はというとそうではないようで、この辺りも少し寂しいものがある。
同じものが並ぶ。何か変わったものもない。で、タンポポかどうかわからないが、種が付く、冠毛。筆のようで、真っ白。
生き物の足、足の裏のようでもあり、奇妙な感じがする。
これは、西洋タンポポだろう、と思う。曇り空で、ちょっとゆるく開いている。
白ツツジに、虫。その最初で、ハエである。嫌われそうな感じがある。
花アブ。花アブも小さいものは小さく、これも大きくなって白ツツジの花弁にしがみついている。
同じようで、ちょっと違う、花アブ。この虫も風に揺れるツツジにしがみついて、なかなか逃げる気配はなった。
人は老いるものだけど、どうしてもその性格というかそうゆうもののあるところは顕著になって、被害妄想を持ったりもする。こうゆうものはよくあるのだが、「うち」の中でこの問題が起こると厄介というしかない。第三者は、そのことの一部終止を知ることはまずはないからで、適当にその隙間を読んでいる。そうゆうように自分というか、私も世間での出来事を理解してきて、多少は生き延びる方法にもつながるものとは思うものの、さて当事者になってみるとこれもどうしようもないくらい、複雑怪奇でどうにもこうにもならない。まだ、ましな方だとは思っているが。
認知症という言葉はわかりづらいものがあって、昔は老人性の痴呆症とか言われた。痴呆症状が出るというのはたしかなことで、つまりは世間に一般にいわれる常識の範囲を逸脱するということのようだが、これなどは、個人的にはよくあることである。これは差別用語のようで、たしかになーという感じはある。もともと人は、大体おかしなものであるという感覚はあって、自分だって君はおかしいといわれても、さほどなんとも思わないような感じというのは、早い時期からあった。あったというか、そうゆうこともないこともなく、そう言うしか対抗の方法がないという、これも少し理屈に合わないものだが、感じもあることは歪めない。
自分もまーおかしなこともあるなと思うこのごろだけど、もう一人の人が、これも「認知症」かどうかわからないところも多いが、お医者さんにもかかっているが、物忘れとかそうゆうところはもう普通であって、自分でもわかっているようだが、それ以外のことで欲求不満というか、我慢できないことがあるらしく、また寂しいとか、自分は馬鹿にされているということを繰り返し言われるので、こちらもどうしていいかわからず、そこでまたもやここに「愚痴」のようなことを書かざるを得ないのである。悲しいかな、どうしていいかわからない。だが、
これがいつも続くかというと、そうでもないのであって、だからもう少し何とか出来ないかと思う。無論、四六時中具合が悪いと訴えられても、これもよりどうしようもなくなる。これが、そうならないことを祈るだけだが、それにしても、弱ったものである。
でも、まだ外に出かける時間は持てる。これがあっても、なかってもあまりに変わりはないが、外の空気を吸った方はいいし、それで気分も転換できる。だが本質のところで、またいつもの問題に戻ってしまう。これに慣れるというのは、なかなか出来ないものである。出来るだけ冷静にあれと思うが、これが裏目に出るときもある。木々の緑はますます濃くなるし、それに加えて明るさも増してくる。
もうしばらくするとGWで、これにあまりに興味はないけれど、まっ多少は気分の転換になるようで、淡い期待を抱いている。
ツバメが空を舞う。またトビがそれよりもかなり空高く舞うときもあって、その姿が、まるでツバメのように見えるときもある。空を悠々と飛ぶ姿がある。
それでツバメの方というと、そろそろ巣作りの時間であって時々、その場所辺りを通るときは、観察をする。まだ、滅多に会うときはないのが普通だが、
どうしたことか、白と黒の模様は同じで、しかしその鳥はセキレイと思われる、その鳥がツバメのお宿と同じというか、少し離れて巣作りをしているようで、これにも少し驚いた。この白と黒のセキレイも一年中いるようでどこに棲んでいるかよくはわからなかった。そのセキレイが、ツバメと同じようなところに巣を作る。これは新しい発見で、セキレイも棲むところがだんだんと都市化してきたのかと思う。
小鳥の卵はカラスとか、に狙われる。こんなことは書かない方がいいか。鳥も鳥を敵に持つ。自然の掟の厳しさを見せ付けられる一面である。キジバトも同じように、他の誰にも気付かれないような、そうゆうところに巣を作る。この辺りの鳥は大体この辺りで生まれているのではないか。小動物の不思議を思う。
鳥の動きは活発だが、虫はというとそうではないようで、この辺りも少し寂しいものがある。
同じものが並ぶ。何か変わったものもない。で、タンポポかどうかわからないが、種が付く、冠毛。筆のようで、真っ白。
生き物の足、足の裏のようでもあり、奇妙な感じがする。
これは、西洋タンポポだろう、と思う。曇り空で、ちょっとゆるく開いている。
白ツツジに、虫。その最初で、ハエである。嫌われそうな感じがある。
花アブ。花アブも小さいものは小さく、これも大きくなって白ツツジの花弁にしがみついている。
同じようで、ちょっと違う、花アブ。この虫も風に揺れるツツジにしがみついて、なかなか逃げる気配はなった。