お昼ころから風が強く、それまでは晴れたり曇ったりのお天気。
最近は、もう冬でもないので、ほとんどネットで天気図を見ることもなくなった。予報も見ることがなくなって、一つはあまりにモニタの見過ぎはよくないことがはっきりしたからで、必要なとき以外は、最小限にする事にしている、そうゆうこともある。
視力というものは、近視程度ならさほど怖いとも思わないが、もちろん近視で、乱視でもあるけれど、一番気になるのが、白内障である。先日、姉がやって来て、なにやら話しをしていて、ふとそばを通りかかると、点眼薬をさしている。ので、なにかと思えば、白内障の予防薬というもので、そうゆうものかと思った。これは、あまり遺伝とかは関係しないようであって、老化とともに必然的になるような感じもしている。そうゆうことにならないようなこともやらないといけない、これがかなりはっきりして来た、と思う。
目の疲れは、これはかなりある。目の老化もある。段々、近くのものは、眼鏡をはずさないとわからなくなってくる。ただある程度の大きさの文字を見るには、眼鏡が要らなくなって楽である。この点が、遠視の老眼の方との大きな違いで、しかし、ある程度の距離より向こうは無論眼鏡がないと、まったく何もわからない。一旦眼鏡をはずすという作業はいとも簡単であるが、いざさて眼鏡はどこにいった、となるとこれが大変であるが、そうゆうことは本とか雑誌とか、あるいはここの書き込みにも書かれていて、その珍妙な話しは色々ある。特に、それ以上に、おかしいということもないのであるが、一番惨めなのは踏んづけてぺちゃんこ、ということで、眼鏡はなるべく高いところに置くことにしている。いずれにしろ、眼鏡は必要で、そのー、ときにどこにいった、と言うことになることが多い。これは本当である。
目に五月の新緑がいいかどうか、それははっきりしないが、まっほどほどの運動は、目にもいいし、その他の体にもいいだろうと思う。そう思って、歩くことにしている。なるべくなら、遠くを見るのがいいようである。どうしても、普段は目の前とか、それから本に雑誌に数字に文書に、モニタに、財布の中身に、細かい文字で書かれた使用説明書の、なお一層細かい文字を見ないといけない時代になりつつある。
肝心要の表記は、下の方に、それもまたまた細かい文字で書かれているから、この先思い遣られる。どないしたらいいのだろう。ごく普通の国語辞典の漢字を見るときに、どうも棒が一本か二本か、それとも三本か、裸眼で見てわからないときがあって、仕方なくおまけのような、ルーペ、拡大鏡、虫眼鏡を使う。これなども、もう少しまともなものを使いたいと思うが、どうしたらいいか。
ここまで、ぼやきを書いてみると、さすがにもういいと思う。西の空が、風があるが明るく、そちらの方を眺める。県境の山々がときに見えていいはずだが、それもはっきりしない。田んぼの水は、西日を強く反射している。明日の天気はどうか、これを見ているだけではわからない。
長く、あるものを「ヒメジョオン」と書いてきたが、ただハルジオンであってもおかしくはなく、しかしもう一度よく参考にさせてもらっている植物のページを見て、これはやっぱり「ハルジオン」だと思った。かなり断定に近い。
アヤメ、ハナショウブ、カキツバタも、やはり見ていると違うようであって、キショウブというものも出てきた。黄色の花もここに登場したが、あれはもしかしたら、キショウブかもと思いなおした。
こんな感じで、ハルジオンはここに咲いている。最近は空き地に少しあるくらい。
ハルジオンの咲き具合は、なかなか目にはいいようである。
虫がいる。虫もかなり必死で蜜を吸っている。見かけない虫。
左の花の上に、ハナアブがちょこんといる。
この花を見ていると、あちこちに虫がいることがわかる。おそらく、チョウなどもいておかしくはないが、それがなぜか見かけない。
最近は、もう冬でもないので、ほとんどネットで天気図を見ることもなくなった。予報も見ることがなくなって、一つはあまりにモニタの見過ぎはよくないことがはっきりしたからで、必要なとき以外は、最小限にする事にしている、そうゆうこともある。
視力というものは、近視程度ならさほど怖いとも思わないが、もちろん近視で、乱視でもあるけれど、一番気になるのが、白内障である。先日、姉がやって来て、なにやら話しをしていて、ふとそばを通りかかると、点眼薬をさしている。ので、なにかと思えば、白内障の予防薬というもので、そうゆうものかと思った。これは、あまり遺伝とかは関係しないようであって、老化とともに必然的になるような感じもしている。そうゆうことにならないようなこともやらないといけない、これがかなりはっきりして来た、と思う。
目の疲れは、これはかなりある。目の老化もある。段々、近くのものは、眼鏡をはずさないとわからなくなってくる。ただある程度の大きさの文字を見るには、眼鏡が要らなくなって楽である。この点が、遠視の老眼の方との大きな違いで、しかし、ある程度の距離より向こうは無論眼鏡がないと、まったく何もわからない。一旦眼鏡をはずすという作業はいとも簡単であるが、いざさて眼鏡はどこにいった、となるとこれが大変であるが、そうゆうことは本とか雑誌とか、あるいはここの書き込みにも書かれていて、その珍妙な話しは色々ある。特に、それ以上に、おかしいということもないのであるが、一番惨めなのは踏んづけてぺちゃんこ、ということで、眼鏡はなるべく高いところに置くことにしている。いずれにしろ、眼鏡は必要で、そのー、ときにどこにいった、と言うことになることが多い。これは本当である。
目に五月の新緑がいいかどうか、それははっきりしないが、まっほどほどの運動は、目にもいいし、その他の体にもいいだろうと思う。そう思って、歩くことにしている。なるべくなら、遠くを見るのがいいようである。どうしても、普段は目の前とか、それから本に雑誌に数字に文書に、モニタに、財布の中身に、細かい文字で書かれた使用説明書の、なお一層細かい文字を見ないといけない時代になりつつある。
肝心要の表記は、下の方に、それもまたまた細かい文字で書かれているから、この先思い遣られる。どないしたらいいのだろう。ごく普通の国語辞典の漢字を見るときに、どうも棒が一本か二本か、それとも三本か、裸眼で見てわからないときがあって、仕方なくおまけのような、ルーペ、拡大鏡、虫眼鏡を使う。これなども、もう少しまともなものを使いたいと思うが、どうしたらいいか。
ここまで、ぼやきを書いてみると、さすがにもういいと思う。西の空が、風があるが明るく、そちらの方を眺める。県境の山々がときに見えていいはずだが、それもはっきりしない。田んぼの水は、西日を強く反射している。明日の天気はどうか、これを見ているだけではわからない。
長く、あるものを「ヒメジョオン」と書いてきたが、ただハルジオンであってもおかしくはなく、しかしもう一度よく参考にさせてもらっている植物のページを見て、これはやっぱり「ハルジオン」だと思った。かなり断定に近い。
アヤメ、ハナショウブ、カキツバタも、やはり見ていると違うようであって、キショウブというものも出てきた。黄色の花もここに登場したが、あれはもしかしたら、キショウブかもと思いなおした。
こんな感じで、ハルジオンはここに咲いている。最近は空き地に少しあるくらい。
ハルジオンの咲き具合は、なかなか目にはいいようである。
虫がいる。虫もかなり必死で蜜を吸っている。見かけない虫。
左の花の上に、ハナアブがちょこんといる。
この花を見ていると、あちこちに虫がいることがわかる。おそらく、チョウなどもいておかしくはないが、それがなぜか見かけない。