長く使っているものの寿命というものもあるので、仕方なしにあるものを買う。今使っているバッグなども、もともと貰いものだが、それをウン十年使っていて、途中で空中分解するときの恐怖というものもあるので、やっぱり買うかである。他にバッグというとあることはあるが、どれもピリッと来るものはない。仕方ない。
スーパに買い物いゆく。今は、マイバッグであって、かなり昔は、マイ籠が当たり前で、今使っているのは、普通のポリだか、塩ビだかわからないが、そのお店で昔は貰っていたもの。それを何度も使うことにしている。この耐久性は、かなりある。エッジの鋭い、例えば、同じようなもので出来ている、スチロール製のものなどは、その角が当たって、ビニルだかは破れる。それでも軽めだと、そこにテープを張る。この底力は大したもので、なかなか途中歩いて袋が分解して、買ったものが散らかって、というひどい目にもまだっあっていない。しかしそれも、あり得る。
こうゆうことを考えると、やはりどっか知らないところを歩いていて、途中肩からぶら下げているバッグがスローモーションVTRのように、壊れて中のものが道に散らばることを想像すると、余計に恐怖感に襲われて、これを買わないといけないと思う。でも、それが、はたしてどの程度の強度を持つか、耐久性を持つかわからないので、今使っている、ウン十年前のものをそのまま捨てるわけにもゆかず、こうしてものは増える。
それに比べて、なくなってゆくものがある。からっぽといってもいいかも知れない。余裕がない。ついつい、声のトーンが上がってしまう。なんだか知らないがいつもイライラしている。昔は別なことで悩んだり、泣きべそをかいていたが、今はそうゆうことはないが、イライラやら、頭にカチカチくることは多い。本の少しのことが気にかかる。これは、しかし昔からかも知れない。人の器は、大きくはならないようだ。性格というものも変わらないようだし。これをいかに小さくしないか、そこんところが問題。
自分でもイヤになるのは、自分でやってそれを忘れたりすること。一つのことが済むと、もう安心している。例えば、書かないといけない葉書きなどを、どうにか書いた。それを、明日投函する、決めた。それをバッグに入れた。明日が来て、それから予定の時間にその葉書を投函した。これで、まずは一仕事すんだ、おいおい、その程度のことかい。そうなんです。それはうまくいった。それから、さて、押印もしたが、なぜか帰って来ると、どこを探しても判子がない。どこさいったへくさん。こんな方言はないと思うが、それがないのである。まさか、眼鏡みたいに、自分の頭の上に乗っかっている、そうゆうことはない。幸いにして、それはどこかからか出て来た。まったく持って底抜けの感じである。
十分に反省。謙虚であれ、と思うが、それも明日になれば忘れている。
いつもの散歩道。
キカラスウリの実は、なぜかまだぶら下がっている。もう周りの植物に支えられているのかも知れない。
キカラスウリがぶら下がっている梅の木の、梅の実。いかにも爽やかな気がする。しかし、これをそのまま食べる動物もいないようである。この察知力は、本能から来るものだろうか。
少し、植物が密なところのアヤメ。ドイツアヤメの感じがする。昔はどうだったか、あったか、なかったか。
なんだかよくわからないものを見つけた。どこかで、見たかも知れない。
目がくらくらする感じ。どこにこんなものが。動物のような格好であるし、でもまだ、さほどグロテスクではないからいい方かも。
スーパに買い物いゆく。今は、マイバッグであって、かなり昔は、マイ籠が当たり前で、今使っているのは、普通のポリだか、塩ビだかわからないが、そのお店で昔は貰っていたもの。それを何度も使うことにしている。この耐久性は、かなりある。エッジの鋭い、例えば、同じようなもので出来ている、スチロール製のものなどは、その角が当たって、ビニルだかは破れる。それでも軽めだと、そこにテープを張る。この底力は大したもので、なかなか途中歩いて袋が分解して、買ったものが散らかって、というひどい目にもまだっあっていない。しかしそれも、あり得る。
こうゆうことを考えると、やはりどっか知らないところを歩いていて、途中肩からぶら下げているバッグがスローモーションVTRのように、壊れて中のものが道に散らばることを想像すると、余計に恐怖感に襲われて、これを買わないといけないと思う。でも、それが、はたしてどの程度の強度を持つか、耐久性を持つかわからないので、今使っている、ウン十年前のものをそのまま捨てるわけにもゆかず、こうしてものは増える。
それに比べて、なくなってゆくものがある。からっぽといってもいいかも知れない。余裕がない。ついつい、声のトーンが上がってしまう。なんだか知らないがいつもイライラしている。昔は別なことで悩んだり、泣きべそをかいていたが、今はそうゆうことはないが、イライラやら、頭にカチカチくることは多い。本の少しのことが気にかかる。これは、しかし昔からかも知れない。人の器は、大きくはならないようだ。性格というものも変わらないようだし。これをいかに小さくしないか、そこんところが問題。
自分でもイヤになるのは、自分でやってそれを忘れたりすること。一つのことが済むと、もう安心している。例えば、書かないといけない葉書きなどを、どうにか書いた。それを、明日投函する、決めた。それをバッグに入れた。明日が来て、それから予定の時間にその葉書を投函した。これで、まずは一仕事すんだ、おいおい、その程度のことかい。そうなんです。それはうまくいった。それから、さて、押印もしたが、なぜか帰って来ると、どこを探しても判子がない。どこさいったへくさん。こんな方言はないと思うが、それがないのである。まさか、眼鏡みたいに、自分の頭の上に乗っかっている、そうゆうことはない。幸いにして、それはどこかからか出て来た。まったく持って底抜けの感じである。
十分に反省。謙虚であれ、と思うが、それも明日になれば忘れている。
いつもの散歩道。
キカラスウリの実は、なぜかまだぶら下がっている。もう周りの植物に支えられているのかも知れない。
キカラスウリがぶら下がっている梅の木の、梅の実。いかにも爽やかな気がする。しかし、これをそのまま食べる動物もいないようである。この察知力は、本能から来るものだろうか。
少し、植物が密なところのアヤメ。ドイツアヤメの感じがする。昔はどうだったか、あったか、なかったか。
なんだかよくわからないものを見つけた。どこかで、見たかも知れない。
目がくらくらする感じ。どこにこんなものが。動物のような格好であるし、でもまだ、さほどグロテスクではないからいい方かも。