光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

雪の匂いのするとき

2007-12-26 18:56:14 | 散策
  海に近いので、天気がいいと日中は北風が吹く日が多い。これが秋なら、ちょうど体を冷やしてくれて心地よいものだが、これから本格的な冬を迎える、北陸の、今ごろの北風は、冷たい。これは、海に近いほど冷たいようで、海に出てみると、加えて蒸発している、水分やらそれと一緒になった塩分やら、塩化マグネシュームで、少し体がべとつくはずである。ここはある程度、海からはなれているから、その感触はない。しかし、平地といっていいから、この風は、風の道でなくても、かなり強いまま、この辺りまでやって来る。
  飛行機だとどうかというと、今日は幸い晴れであるから視界はきいて、割と楽に、180度ターンをやっているように見うけられた。南側は、県境の山が接近していて、離着陸とも、北へ、あるいは北からということになり、北風の場合、離陸はそのままでいいが、着陸の場合は、最後に北に向かわないといけなく、このかなり高度な技術のいる180度ターンを余儀なくされる。
  最も、もっと怖いというか、難しいものが、これから先待ち構えていて、それは、侵入路が見えないと言っていい状態のときの着陸である。わずかな雲の切れ間を待つため、上空を旋回している。この状態は、普通ではわからないものだが、この冬場でなくても、気象条件の悪いときに、羽田からの最終便が、定刻の午後9時をかなり遅れて、着陸するということもあるから、見当は付く。実際に見ているわけではないが、エンジン音でわかる。さらに、着陸出来ずに引き返すこともあり、その場合、朝一番の定刻便より、早く、侵入、着陸体勢に入って、あー、きのうは最終便は降りることが出来なかったのか、と思うと同時に、ご苦労様といいたくもなる。

  何だか雪を、ここの辺りでは見ることをなく過ごしてきたが、週末あたりから、寒気が入り、いよいよ本物の雪が舞うような気配である。年末年始と重なる。

  今日の風というのも、私はあまり気にしてなかった。最も、朝が1℃台で、しかしこれが例年並という、いくら晴れでもそんなに気温は上がるはずもなく、やっぱりという感じで、北風の冷たさを味わいに外に出た。先に、少し書いておくと、ラジオでは、アナウンサの方は、コートは要らないくらい暖かでした、という言葉を発したので、広くて狭い、反対か、地球を感じ、さらに、同じく読まれたメールは、今日は暖かでポカポカして気持ちいいお天気です、というから、さらに地球の、ある地域の広さを感じた。それに反して、なんて寒いんだろうと思うのは年齢のせいか、フトコロのせいか、それとも実際に寒いせいか、全部だろう。
  派手な色のウインドブレーカを着ても、暖かくはなく、寒さに慣れる日だと思って背中を丸めた。無事用事も済まして、それで、やっぱり寒いが、一体雪はどうなるのか、お正月は雪景色になるのか、など考えている。ある広場から先は、もう何もないといってよく、港に近いところが見えているが、そのあたりに来て、遠い海とその先に見えるものを想像する。どうも雪は見えない。当たり前だ。雪の匂いはどうか、それも残念なことにない。最も、まだ今日はお日様が出ていて、少しは暖かく、その広い景色を見渡せるところで、深呼吸も出来たのだが、これが、ホントに雪がしんしん降るようでは、もう鼻も手で覆わないといけなくなる。
  雪の匂いは今のところない、と思う。これに、油の匂いなどするようになったら、それこそ世の中おしまいということになりはしないか。

  年末、年始は、荒れ模様、さて、鉢に植えてある植物はかろうじて生きているから、これをあるところに移さないといけない。それはいつか。




  朝の東の空。CCDには、肉眼ではわからない色々な色が見えていて、この色の大きさが魅力である。こんな大きいキャンバスはないと思う。




  セイタカアワダチソウ。23日の撮影だが、今日はこの「白いもの」が、強い風に乗って、いよいよ宙を舞い始める。そうゆう光景は、見るのが初めてのような気がして、この植物があたりに繁茂する理由もようやくわかった。

未来・2007年9月

2007-12-26 17:00:56 | 散策
  2007年の7月から、ライトレールに出会うことが出来た。
  ライトレールに会いにいっているような感じもあった。
  何が起こるかわからないもので、夢だけはいつまでも持っていたい。

  そのとき、お隣の、富山地方鉄道、さらにJRへといく可能性は
  あったかどうか、これはまだ曖昧だったが、遠くからは眺めていたから、
  その後の予想は出来たが、
  書けるのは、ここでは、ここまで。

  2007年の9月、少し秋らしい感じもする9月18日。




  タテハチョウのうち、アカタテハ、ヒメアカタテハは、
  ずいぶんと撮っていて、
  この辺りに多いチョウでもあることが、推察された。
  このチョウと花はよく似合う。

  秋のコスモスではなくて、菊に近い仲間?。



  蕾の数は、無論、有限だけど、無限に近い数があるようで、
  これは楽しい。実際、これらの多くの蕾は、すべては
  多分咲いてはいないのではないか。
  写真だと一気に秋だけど、実際はどうだったか、はっきりしない。

男の毛髪論議

2007-12-26 07:15:13 | 散策
  朝のお天気、晴れ。快晴のようだが、薄い雲があるように思える。風はなく、穏やか。室温7℃、びっしり結露。
  きのうの夜も晴れていて、このままでいくと、明日は冷えるとわかる。アメダスの、外気温1.4℃、これはやはり寒い。明るさはというと、手ぶれ警告が出る程度。
  月も、火星も見えるお天気で、久しぶりの晴れ。それで、もうこれ以上お天気のことも星のことも書くことはなく、ある種の晴れ上がり現象について。先ほど、髭をそるため自分の顔を見るが、息でガラスが曇る。それにしても、はげたと思う。しかし、「はげ」という言葉もあまり使いたくないもので、ここは晴れ上がりという言葉に変えてみよう。
  運転手さんと話しをする。先にご自身の年齢を言われて、そうですかと内心うなづくが、私も若いとはいえないので、晴れ上がりのことに付いて、白状する。毛は短めなのであるが、まーお客さんを相手に、晴れていますねとは言えない。よって、こちらから晴れ上がったと言うわけである。

  そんな話題に興味はなかろうと思うが、そうでもなく、なぜかその方は、男の晴れ上がりについて、あの何とかさんという人がいるでしょ、TVによく出る、あの方、植毛ですよ、ときたから、世の中はわからないものである。確かに、自分の毛がどんどんなくなっていくのは、悲しい。また、毛というものも、そこに生えているときこそ、大切にされるが、そこから抜け落ちると、不潔というか、忌み嫌うものの代表のように扱われて、その落差がひどく、この毛の不幸というものを如実に示している。
  話しは、他のタレントさんにも飛び、そういわれると、まあ、あの方もお歳だから、ということでもう終わりになると思ったが、ばっさりと毛を刈ってしまう方もおられますよね、と言うとまた一盛り上がりしてそれはようやく収束した。それにしても、毛に千というお金、単位は想像してください、を使うのは、普通では考えられないが、映像の世界で生きていくためには、それはあり得ると再確認する時間であった。

  私の毛も後ろばかりのびて、当たり前だが、もうそれを前に持ってくることも可能であるが、だんだん長くなると鬱陶しくなり、ばっさりと完全晴れ上がりにしたら気持ちがいいと何度か思うことがある。しかし、そうなると、顔を頭の骨格というものもあらわになって、これが見られたものではない。どうも、人ではないようなので、躊躇する。しかし、これも時間の問題で、そのうち、そうゆうものも何とも思わなくなるだろう。
  あっさりと、完全晴れ上がり状態にしたい。これが、今の気持ちである。
  それにしても寒くて、手はかじかむ。