朝の予感がはずれたようで、今日は日中さほど暑さで苦しむことはなかった。さほどはである。それでも、日が出ると一気に暑く感じられて、ここはどうも熱帯に近い気候であると思わざるを得ない。その通り、動けば汗が出る。やはりダラダラと出るのである。
体のだるさがなくなったと思ったのが、先週の土曜日で、その日から外気温の最高が35℃くらいになって、そのだるさが復活した。早寝して、それで早起きかというとこれは違って、とてもじゃないが、4時半に新聞を配達するなど出来ない。一体いつごろ、その知らない配達の方は起きているのか、”きゅっ”という自転車のブレーキの音を聞くといつもそう思う。十分眠って青息で過ごして、今日は少し楽だった。まったく、なんて”だらな”生活をしているのだろう。それに、さらに、眠気がやって来るので、半ば死んでいる人のようでもある。ミイラというものがあるが、それに近いかも知れない。そのミイラがにょきっと起きだしたら、そうゆうことはないか。
いずれにしろ、曇り空で、風はこれはゆるい。どうするか迷ったが、このところミニカメラをポケットに入れてというのをやっていない。ここは、これを持つしかない。散歩の道も、この前歩いたのはいつか忘れている。大体が、午前の事も忘れるので、これは困るが、でもここが痛いとか、どうも歯がぐらつくとか、心拍が下がった、目が回った、そうゆうことははっきり覚えていて、ときに簡単によみがえる。痴呆の前兆みたいなものがある。これは自分でわかるものだ。
コスモスの花、そういえばこのコスモスの花をこの秋になって一度出した。ポツポツと咲き始めて、それも雨のときのものだった。あれから、何日たったか、再びその場所に行くと、いくらかその花の数は増えていた。
コスモスの花を撮るのは難しい。いつもそう思う。結局、接近して、少し離れて、かなり離れて、そのくらいのパターンしか頭に浮ばない。いつ見ても、魅力というか、誘引力のあるものは出来ないと思う。その点、写真雑誌なり、最近ではネットの、バイナリな世界でも、そこに登場するのは、これはいいねーと思うものばかりで、おそらくそうゆうものは私には撮れないだろう、と思ってしまう。
写真の世界も、なんでこんなのが一位ってなものが時にあって、これが出ると嬉しくなる。しかし、コスモスの場合、まずこうゆうのはない。こんなのが、なぜ載るかなんて思うことない。どうにか、そうゆうものに近寄りたいと思うが、何も思い浮かばない。今日も、そう思いつつ、いくつかのものをファイルにおさめた。
でも、コスモスそのものは高級種、だと思う。花の咲き具合もいい。ゆるく暑かったぶん、風も弱く、せいぜいユラユラという形容で足りる揺れ方であった。
このコスモスは、上品で、華麗で、清楚で、誉め言葉しかない。それが、画像になると、どうもいけない。どうしようもなく、なすすべがなく、ただボタンを押す。
色合いもいい。透過光と反射光の色の差が、これまた絶妙。もう少し、なんとか出来ないものか。コスモスの写真を見ると、いつもそうゆう思いにかられる。
体のだるさがなくなったと思ったのが、先週の土曜日で、その日から外気温の最高が35℃くらいになって、そのだるさが復活した。早寝して、それで早起きかというとこれは違って、とてもじゃないが、4時半に新聞を配達するなど出来ない。一体いつごろ、その知らない配達の方は起きているのか、”きゅっ”という自転車のブレーキの音を聞くといつもそう思う。十分眠って青息で過ごして、今日は少し楽だった。まったく、なんて”だらな”生活をしているのだろう。それに、さらに、眠気がやって来るので、半ば死んでいる人のようでもある。ミイラというものがあるが、それに近いかも知れない。そのミイラがにょきっと起きだしたら、そうゆうことはないか。
いずれにしろ、曇り空で、風はこれはゆるい。どうするか迷ったが、このところミニカメラをポケットに入れてというのをやっていない。ここは、これを持つしかない。散歩の道も、この前歩いたのはいつか忘れている。大体が、午前の事も忘れるので、これは困るが、でもここが痛いとか、どうも歯がぐらつくとか、心拍が下がった、目が回った、そうゆうことははっきり覚えていて、ときに簡単によみがえる。痴呆の前兆みたいなものがある。これは自分でわかるものだ。
コスモスの花、そういえばこのコスモスの花をこの秋になって一度出した。ポツポツと咲き始めて、それも雨のときのものだった。あれから、何日たったか、再びその場所に行くと、いくらかその花の数は増えていた。
コスモスの花を撮るのは難しい。いつもそう思う。結局、接近して、少し離れて、かなり離れて、そのくらいのパターンしか頭に浮ばない。いつ見ても、魅力というか、誘引力のあるものは出来ないと思う。その点、写真雑誌なり、最近ではネットの、バイナリな世界でも、そこに登場するのは、これはいいねーと思うものばかりで、おそらくそうゆうものは私には撮れないだろう、と思ってしまう。
写真の世界も、なんでこんなのが一位ってなものが時にあって、これが出ると嬉しくなる。しかし、コスモスの場合、まずこうゆうのはない。こんなのが、なぜ載るかなんて思うことない。どうにか、そうゆうものに近寄りたいと思うが、何も思い浮かばない。今日も、そう思いつつ、いくつかのものをファイルにおさめた。
でも、コスモスそのものは高級種、だと思う。花の咲き具合もいい。ゆるく暑かったぶん、風も弱く、せいぜいユラユラという形容で足りる揺れ方であった。
このコスモスは、上品で、華麗で、清楚で、誉め言葉しかない。それが、画像になると、どうもいけない。どうしようもなく、なすすべがなく、ただボタンを押す。
色合いもいい。透過光と反射光の色の差が、これまた絶妙。もう少し、なんとか出来ないものか。コスモスの写真を見ると、いつもそうゆう思いにかられる。