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ねこ庭の独り言

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「変節した学者 たち」 - 7 ( 東京教育大学教授 家永三郎氏 )

2017-02-24 20:06:47 | 徒然の記

 〈 『歴史の教訓』   家永三郎氏 

  まず、氏の略歴を紹介します。

   ・大正2年、愛知県生まれ、平成14年に89才で没

   ・日本の思想家として著名

   ・東京教育大学の教授を長く務め、東京大学や東京女子大学でも、日本思想史の講義を担当

   ・父君は、陸軍少将・家永直太朗氏

 講演会での氏の意見を、紹介します。

  ・私の掲げました題目は、ごらんになっただけでは、なんのことか分からないだろうと思います。

  ・歴史を勉強していますので、歴史家の立場より、過去の歴史の中から我々が学ぶべきものを汲み取り、憲法との関連で考えてみたいと名づけた次第です。

  ・今から80年ほども遡る、明治10年代のことでありますが、われわれ日本人が、かってまだ近代的な憲法を持たなかった時代です。

  ・国内において、二つの意見が激しく対立していました。

  ・民間では、極めて民主主義的な憲法を作ろうとする、強い動きがありました。

  ・明治10年前後まで、非常に高まっておりました民主的な憲法を作ろうとする国民の意識が、切り崩されまして、結局前近代的な、天皇制イデオロギーを中核とする「明治憲法」が、国家権力の一方的なイニシアチィブで作られてしまいました。

  明治の元勲たちが、西欧文明と日本との国力の差にいかに驚嘆したか。西欧列強の植民地支配の恐ろしさを知っているだけに、どれほどの危機感を抱いて政治の舵取りをしていたのか。

 氏は歴史家と自らを紹介していますが、明治政府を糾弾するだけで、当時の状況を語りません。氏の話を聞きますと、当時の日本では、「民主主義」と「国家主義」の二大勢力の対立があったように聞こえます。

   ・政府は、権力をもって「自由民権運動」を弾圧すると同時に、教育を強く統制することによって、国民意識を根本的に切り替えようとするに至ったのであります。

  ・学校では、基本的人権を教えるより、むしろ権力者に対する、国民の従順な気持ちを養成しようと、こういうことになってしまったのであります。

  ・当時の教科書で、愛国という言葉が使われておりますが、もとより広い意味での愛国ではなく、軍国主義的な、あるいは民主主義と切り離された、国家主義という意味での、愛国というものを意味するものであります。

  ・明治初年からその後期にかけて、日本の教育政策が大きく転換していった経過を、あらまし申し上げました。

  ・教育を通して与えられる影響が、どんなに大きなものであるかということは、われわれが自分の過去を振り返ってみれば、よく分かることです。

  ・最近読んだ本のことは忘れても、小学校時代に教わった教科書の内容は、挿絵とか文章の配列に至るまで、ありありと思い浮かべることができるくらいです。

  ・そういう大きな影響力を持つ教育が、政府の権力によって切り替えられましたことを、明治の歴史で学びました。

  ・私は、単にこういう事実が昔あったことを申したいのでなく、実はそれとまったく同じことが、私たちの目の前で繰り返されていると、申し上げたいのです。

  ・せっかく「日本国憲法」の精神が、国民に浸透してきた時だというのに、政府が教育を通じて、これをなし崩しにしようとしているのです。

 占領軍の対日本政策が、民主化より再軍備へと変わったため、政府の主張も再軍備へ向かい、憲法改正へ動いていると氏が説明します。この意見について私は、半分当たっているが、半分は間違っていると考えます。

 日本の保守政治家なら、アメリカの政策がどうであっても、「憲法改正」が頭にあります。アメリカに魂を売り渡した宮沢教授でさえ、マッカーサーの憲法押しつけは「国際法違反」と知っていたのですから、保守政治家たちがいつまでも黙っているはずがありません。

 立派な言葉が使ってあるからといって、国情に合わない憲法を有り難がっているというのは、私のような人間でも屈辱と考えます。

 ネットの世界では、先日の宮沢氏と同様、家永氏についても多くの批判があります、真偽は確認できませんが、その一つを参考情報として紹介します。

  ・家永は当初から反権力志向だというわけではなく、青年期には、陸軍士官学校の教官を志望していた。

  ・試験に合格しても、胃腸に慢性的な持病があり、身体検査で落とされるという経歴を持っている。

  ・戦後は昭和天皇にご進講したり、学習院初等科の学生だった皇太子殿下に、歴史をご進講するなど、皇室との関わりを持っていた。

  ・昭和22年出版の『史学雑誌 』に、『教育勅語成立の思想史的考察』という論文を出し、昭和23年には、斎藤書店から出版した本に、『日本思想史の諸問題』という論文を掲載し、この中で家永は、明治天皇と「教育勅語」を高く評価している。

  ・また、昭和22年に冨山房から出版した『新日本史』でも、明治天皇に対する尊崇の文章を記述しており、戦後も数年間は、穏健かつ保守的な史観に依拠する立場を取っていた。

 論文や文章が掲載されていないため、紹介できないのが残念ですが、それらがあれば、氏の変節ぶりが一目瞭然になったはずです。

  氏を批判した人物の意見を、紹介します。

  ・家永の思想が、反権力的なものに変化したのは、逆コースと呼ばれる、昭和25年代の社会状況に対する反発が背景にあり、そのころに、憲法と大学自治に対する認識の変化があったといわれている。

   ・それは敗戦直後の、手のひらを返したような言論界、思想界の豹変ぶりや、歴史学界における史的唯物論の風靡に違和感を抱き、反発の姿勢を示したことによる。
 
  ・特に昭和35年に刊行した『植木枝盛研究 』以降は、人権理念を自らの思想の中核に据え、国家権力と対峙する姿勢で問題に取り組むようになった。
 
 信念のある学者なら、世の中がどう動こうと泰然としていると私は思います。敗戦直後の言論界、思想界の豹変に反発したと言って、自分が一緒になって豹変してどうするのでしょう。
 
 朝日新聞に沢山の話題を提供し、売り上げに貢献したためか、氏は亡くなったのちにも、朝日新聞に厚遇され守られました。
 
 GHQの協力者となった宮沢俊義氏は、紛れもない獅子身中の虫でしたが、家永氏も同じ虫の仲間です。予想した通り不愉快な夜となりました。
 
 幸い本日は休肝日なので、アルコールは無しです。呑めば悪酔いするに決まっていますから、本当に良かったと思います。
コメント (2)
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