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ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

「変節した学者 たち」 - 6 ( 掃き溜めの鶴 ? 戒能通孝氏 )

2017-02-23 20:32:27 | 徒然の記

 〈 『プライバシーの権利』   戒能通孝氏 

 今日は、この本の編集者である戒能通孝氏について紹介します。

 氏は明治41年に長野県で生まれ、東京帝国大学を昭和5年に卒業しています。穂積重遠、末弘厳太郎教授を師とし、在学中は、貧しい人が多く住む区域に定住し、住民と親しく触れ合って、その生活向上に努める社会運動に参加しています。

  卒業後満鉄調査部の「日満財政研究会」に参加し、軍による東亜を経済的に支える統制経済計画の策定に、関与しました。敗戦後には、東京裁判でA級戦犯と指定された、鈴木貞一氏の補佐弁護人を務めています。鈴木氏は「背広を着た軍人」と呼ばれ、東条英機の側近の一人だったため、GHQに目をつけられていた人物です。

  昭和24年に早稲田大学の教授、昭和29年には都立大学の教授となり、昭和39年教授を辞任した後は弁護士として活動します。農民側の弁護をした「小繋 ( こつなぎ ) 事件」や、金嬉老事件の弁護団長をしたことが氏を有名にしました。

  調べてみますと、中野氏や宮沢氏ほどの変節はありませんが、氏もまた、敗戦の日本を生きた一人です。氏は本書で、『プライバシーの権利』という表題で講演しています。

   ・プライバシーとは、何でもないことであります。
 
  ・要するに、自分の生活を大事にしたい、他人から覗き見されたり、覗き込んだようなことを書かれたり、話されたりしたくない、こういうことでありまして、この権利が尊重されねばならないのは、当然のことと思います。
 
  ・ところがこうしたプライバシーの権利は、過去において、そういう権利があることさえ考えさせない程度まで、保護が弱かった。
 
  ・プライバシーの社会的、国家的保護の弱かった理由は、どこにあるのか、それをまず考えてみるべきと、思うのであります。
 
 氏は、興味深い意見を述べます。
 
  ・日本の社会制度の基本が、家族制度にあったという考え方は、おそらく明治後半の日本憲法学を支配した、穂積八束博士あたりの創作でないかと存じます。家族制度が本格的に存在したのは、武士の間に限られていたようであります。 
 
  ・武士といっても、庶民同様に生活していた下級武士は含まれません。つまり下級武士や庶民の間にあっては、家族制度というものはじつは無かったのです。
 
 氏は庶民を支配したのは家でなく、村であったという、民俗学者橋浦泰雄氏の説を紹介します。村落生活で必要となる草や薪集めは、共同の場所で行われ、村が細かく管理規定を定めていた。あるいは最も大切な水も、村が管理していたと、氏は例をあげて村支配の実態を説明します。
 
  ・もっと大きかったのは、旧時代の「租税連帯納付制」でした。税が村全体にかかっていましたから、村は村民を働かせ、払えない人が出ないようにする必要が、ありました。
 
  ・村民を一人前にするため、若者組その他の規則がございました。
 
  ・一日に田を何枚植えるとか、草を何貫刈り取り、山まで何度往復するとか、こうした基準で、互いを監視したのです。
 
  ・村の支配者が、村民を一人前にするためには、結局村人の生活を裸にし、彼らを批判に晒すしかなかったのです。一面では、一人前の農民を作る役割を果たしていたのですが、他面では、プライバシーの欠如につながりました。
 
 だから日本の社会には、プライバシーという観念が育たなかったと、説明します。中級以上の武士たちはそうでなかったのなら、なぜ日本全体のような話に広がったのかと、疑問を持ちました。
 
 江戸末期から明治にかけて、日本の人口はおよそ3,000万人で、その内農民が約90%の2,700万人でした。武士の人口比率がたったの3.6%で、ここから下級武士を除外すれば、日本の社会制度の基本が家族制度にあったという考え方は、力を失います。
 
  ・プライバシーの欠如が引き起こす問題は、人間の強制的均一化でございます。隣がテレビを買ったから、自分の家でも買わなくなならないという競争心になります。隣の人は穏健思想だから、うちも穏健でないと一人前でない、とこうなります。
 
  ・これがもう一歩発展しますと、相互に活動を牽制しあって、お互いに何もさせないという社会になります。何か変わったことや前進的なことをすると、異常な人であり、出過ぎもんと、考える習慣を生み出していきます。
 
 最近の左翼学者が、「同調圧力」と言う聴き慣れない言葉で日本社会を語りますが、すでに戒能氏が分かりやすく説明しています。
 
  ・ところが社会の進歩は、常に何らかの意味において、他人から変な目で見られた人によって、切り開かれて来たのであります。
 
  ・社会科学の発達は、今なおそうであり、いわんや社会生活の改革が、そうした人なしにあり得ないということは、いうまでもない事実であります。
 
  ・私たち自身が他人の言葉に煽られ、そして煽られた結果、自分の運命を他人の手に任せたり、あるいは自分の問題を、他人が解決してくれると思い込んだり、考えたりしてはなりません。
 
  ・解決方法を、どうしたら自らの力で探し出すことができるか、そのためには先ず、くだらない話よりも、日常の会話で重要な問題を話す習慣を身につけたいと、思うものです。
 
  ・プライバシーの権利のつもりが、何か学校の道徳教育のようになりました。お許しいただきたいと存じます。
 
 ここで、氏の話が終わります。言われてみますと私の読書も、解決方法を自分の力で探すためです。氏の話は、日本人なら誰もが耳を傾ける内容です。「憲法問題研究会」の中に、氏のような人物がいたと知ったことを喜びます。
 
 明日は家永三郎氏ですから、こんな喜びは期待できません。こうなればもうケセラセラ、なるようになれです。お休みなさい。
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「変節した学者たち」 - 5 ( 何度も変節した憲法学者 宮沢俊義氏 )

2017-02-23 07:56:08 | 徒然の記

 〈 『神々の共存』   宮沢俊義氏 〉

 今日は日本の憲法学の第一人者と言われる、宮沢俊義氏です。氏は明治32年に長野県で生まれ、昭和51年に77才で亡くなっています。

 講演会での氏の意見を、紹介します。

  ・いったい政治における正義とは、なんでしょう。

  ・原始人にとっては、その属する部族の正義が、人間社会のただ一つの正義だったようです。その部族の正義を決めるのは誰かと言うと、それは多くの場合、その部族を守ってくれる神でありました。

  ・神は、喋ったり書いたりしませんから、生きた人間が代わって喋ったり書いたりしてくれなくては、神の言葉は人間に通じません。多くの場合、その神の代人となるのは、その部族の政治的支配者でした。

  ・つまり王の声が、神の声だったのです。

  ・しかし人間はやがて、自分の部族の正義とは違った正義を示す神が、存在することを知るようになります。王の声が神の声という原則に、疑いを持つようになります。

  ・いうまでもなく、これが人間の本質に内在する合理精神です。

  ・歴史は、同じ人間の社会でも昔と今では違う神が存在し、違う内容の正義が存在することを教えてくれました。

  ・日本でも昔は、殉死やハラキリや仇討ちが、正義に叶うと考えられていましたが、今ではそうでないことを私たちは知っています。 

 子供向けの童話みたいな話から、氏の意見は次第に戦前の日本への批判に繋がっていきます。憲法学の泰斗にしては、あまり知的でない中身です。 

   ・民主主義や自由主義は国体に反するから、それを否定するように教育しろと、全国の教員に指示したのが文部省でした。

  ・それから十年とたたないうちに、文部省が、教育は民主主義と自由主義にもとづかなくてはいけないと指示したことも、私たちは良く知っています。

 ここから本論が展開されますが、どう読んでもレベルの低い内容です。紹介するのがいやになりますが、信じてもらえないでしょうから続けます。

   ・人間は大まかに言って、次の二つの道のどちらかを取ることを余儀なくされると思います。

  ・第一の道は、自分の神をどこまでも主張する道です。この道に立てば、何が正義か確実に分かるわけですから、あらゆる手段で、それを排除して当然だということになります。

  ・日本国の正義が、人間社会でただ一つの正義だとすれば、天皇の 「みいつ 」 に  「まつろわぬ 」者どもは、 武力をもってでも「まつろわせる」のが正義になります。

  ・この道を進んだ当時の為政者たちは、これに逆らう者を、国の内外を問わず警察力や軍事力によって、徹底的に押さえつけようとしたのです。アウシュビッツの道もこれでしょう。

  ・ナチの指導者たちは、ユダヤ人を悪魔に間違いないと確信していましたから、平然と、いや冷然と、彼らを徹底的に処理しようとしたのでしょう。

 左翼反日たちが日本を非難するとき、二言目には「ナチの犯罪」を口にするのは、ここから来ていたのかと考えました。

 憲法の第一人者と言われる氏は、ヒトラーの『わが闘争』を読んでいたのでしょうか。本の中でヒトラーは、「ユダヤ人を悪魔だ」と一度も言っていません。彼がユダヤ人を嫌悪し、敵意を燃やしたのは、彼らがドイツやオーストリアで、経済と政治とマスコミを支配していたからです。

 不正確な意見を主張する氏に、私は疑問を抱きます。

 氏はなにか、天皇に個人的な恨みでもあるのか、頭から否定しようとしています。戦前の学界で自由主義思想が、排斥されたので我慢がならなかったのかもしれません。それならそのことについて語るべきで、わざわざナチスのユダヤ人迫害の話を持ち出す必要はありません。

  ・第二の道は第一の道と違って、自分の神や正義の他に、それと違ったさまざまな神や正義の存在を、承認する道です。

  ・自分の神や正義を守り続けるけれど、他の神が自分たちの神と並んで存在することを、承認し容認します。すなわち、多くの神々の共存ということです。

  ・日本の憲法は、二つの道のどちらを取るのでしょうか。「明治憲法」は、たぶん第一の道に傾いていたようです。

  ・これに対して、戦後の憲法の取る道が、第二の道であることはきわめて明瞭です。

  ・戦後の憲法は、思想、学問、表現の自由を確立しました。天皇の神格は否定され、天皇制の批判も自由になりました。

  ・戦後の憲法の取った道は、平和の道といってもいいと思います。反対の神々の存在を排除せずに、それらと共存しようとするからです。

 キリスト教国やイスラム国、あるいはインドのヒンズー王朝などでは、神の名においてどれだけの殺戮が行われたことでしょう。私の認識では、世界で一番神々に寛容な国が日本です。

 歴史の事実と比較すれば、日本は無原則と言われるほど寛容です。これが世界の常識ですが、氏の非常識な意見はどこから導かれるのでしょう。それを示唆する意見がありますので、参考のために紹介します。

 氏の変節の理由について、駒澤大学名誉教授の西修氏が、「東京帝大教授で憲法の権威であった宮沢には、GHQから相当の圧力があったであろう」、という意見を述べています。

  ・氏の学説は、変節を繰り返した。当初は「大日本帝国憲法」の講義の際、「憲法第一条から第三条まで、これは伝説です。講義の対象になりません。省きます」、として進歩的立場を示していた。

  ・美濃部達吉の天皇機関説が批判されると、岩波書店から出した『憲法略説』で、主張を次のように一変した。

  ・皇孫降臨の神勅以来、天照大御神の新孫この国に君臨し給ひ、長へに、わが国土および人民を統治し給ふべきことの原理が、確立した。

  ・現人神として、これを統治し給ふとする、民族的信念の法律的表現である。『神皇正統記』の著者が、『大日本は神国なり』と書いた所以もここに存すると、その主張は、神権主義に変化した。

 この意見が事実を述べているとするなら、氏が変節の学者だったと言うことになります。自分の変節した過去を隠し、正当化するため天皇を批判し、戦前の政府を批判していることになります。

  ・宮沢氏は敗戦後、松本烝治憲法大臣や美濃部教授とともに、助手として「帝国憲法」改正作業に従事していた時、外務省に対して「憲法草案」について、新憲法は必要なしとアドバイスしていた。」

  ・占領軍が松本大臣を嫌っていることを知ると、氏は彼らを裏切った。

  ・ここで占領軍に取り入れば自分は神のごとき権威になれると判断した。なぜならGHQは権力を振りかざすことはできても、細かな国際法や憲法学の議論ができなかったからだ。

  ・占領国による被占領国の憲法改正が、国際法違反であるということをGHQも認識していた。本来は無効である「日本国憲法」の正当化理論を、宮沢氏はひねり出した。

  ・その詭弁が、「8月革命説 」だ。

  ・つまり昭和20年8月15日に、日本では革命が起きていた。  日本は天皇主権の君主国から、まったく別の国民主権の共和国になった。すなわち昭和天皇が、共和国の初代天皇になる。

 「昭和革命説」について、私は一度も聞いたことがありません。宮沢氏が本当にこんな説を主張したのかと、詐欺かペテン師の話に聞こえます。しかし、同様の情報がネット上にありますから、あながち嘘と決めつけることもできません。

 グーグルで、「宮沢俊義」といれて検索しますと、類似の情報が沢山出てきます。敗戦後の日本で、反日左翼の氏が占領軍と一体となりどれだけ日本を破壊したかと、恐ろしいほどの数の情報があります。

 最後にその中の2つを紹介し、氏に関するブログを終わります。

 〈 1つ目の情報 〉

  ・昭和42年の『憲法講話』(岩波新書)で、氏は、天皇はただの公務員だと述べた、

  ・死去する年の昭和51年には、『全訂日本国憲法』(日本評論社)で、天皇はなんらの実質的な権力をもたず、ただ内閣の指示にしたがって、機械的に『めくら判』をおすだけのロボット的存在だと、解説した。

 〈 2つ目の情報 〉

  ・宮沢氏は当初 、「日本国憲法」の制定は日本国民が自発的自主的に行ったものではない。「大日本帝国憲法」は、部分的改正で十分ポツダム宣言に対応可能だという見解を持ち、「押しつけ憲法論」の立場に立っていた

 最後の2つの情報には、怒りしかありませんので今回は終わります。

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