〈 『知られざる憲法討議』 我妻栄氏 〉
大学に入学したばかりの頃、
「我妻さんの『民法講話 』 だけは、買っとけよ。」
と先輩に助言され即実行しました。氏は「民法の第一人者」として、学生に語り継がれている学者でした。結局私は、氏の偉大さを実感することなく社会へ出て、今回55年ぶりに再会致しました。
何時ものように、氏の略歴を紹介します。
・明治30年、米沢市の生まれ、昭和48年に76才で没。
・東大で法学博士、民法学者、名誉教授
・米沢市の名誉市民、文化勲章を受章、没時叙勲では勲一等旭日大綬章。
現「日本国憲法」の制定に関係し、「家族法大改正」の立案担当者だったのですから、氏の一生は栄光と名誉に飾られています。次のようなネットの情報に接し、やっと氏の偉さを理解しています。
・金融資本主義の更なる発達により合理化が進むと、企業は人的要素を捨てて、自然人に代わる独立の法律関係の主体たる地位を確立する。
・ついには私的な性格さえ捨て、企業と国家との種々の結合や、国際資本と民族資本との間に、絶え間なき摩擦等の問題を産む、と氏は予測した。
・氏の予測は、現代社会にそのまま当てはまるものも多く、『近代法における債権の優越的地位』は、日本の民法史上不朽の名論文とされている。
米国の横暴なグローバル企業、ことに国境を無視した国際金融企業の悪辣さを、あの時代に予測したというのですから、大した学者です。凡庸な学生だった自分が理解できなくて当然だったと、これもまた納得しました。
そして今回、氏の講演によりさらに貴重な事実を教えてもらいました。
・終戦の翌年 ( 昭和21年 )に、当時の帝国大学総長南原繁は、学内に 「憲法研究委員会」を設けた。
・敗戦日本の再建のために、「大日本帝國憲法」を改正しなければならないことは、当時一般に信じられていただけでなく、政府はすでに改正事業に着手していた。
氏の説明を読むと、憲法が国にとってどれだけ大事なものかが伺い知れます。敗戦の翌年には、すでに政府が検討を開始していたのですから、放心してぼんやりと、GHQの提案を待っていたのではなかったということです。
・多数のすぐれた学者を持つ、東京帝国大学としても、これについて貢献する責務があると考えられたからであろう。発案者は南原総長であったが、学内にそうした気運がみなぎっていたことも、確かであった。
委員の一覧表が挿入されていますので、貴重な資料として紹介します。
委 員 長 宮沢俊義 ( 法学部 )
特別委員 高木八尺 ( 法学部 ) 杉村章三郎 岡 義武 末弘厳太郎
和辻哲郎 ( 文学部 ) 舞出長五郎 ( 経済学部 )
委 員 我妻 栄 ( 法学部 ) 横田喜三郎 神川彦松 尾高朝雄
田中二郎 刑部 荘 戸田貞三 ( 文学部 )
板沢武雄 大内兵衛 ( 経済学部 ) 矢内原忠男
大河内一男 丸山真男 ( 法学部助教授 ) 金子武蔵 ( 文学部助教授 )
左翼教授の名前が多く見られますが、メンバーの全員がそうであるのかについては、調べていません。
・委員会が議論を始めた時、突如として政府の「憲法改正要綱」が発表された。
・委員会が発足してから、わずか二十日の後である。そこで委員会は予定を変更し、追って発表された、「内閣草案 ( 政府案 )」と取り組むこととなった。
・「憲法改正要綱」について討議決定し、第一次報告書を作成した。
・次いで「内閣草案」について、逐条審議を重ねた上で、第二次の報告書を作成し、会の任務が終わり解散した。
・報告書は南原総長に提出され、総長は学内の有志に求められるままこれを示したが、正式に公表しなかった。
氏の講演をわざわざ紹介したのは、「日本国憲法」の制定過程での秘話が語られているからです。
・当委員会の討議の模様については、残念ながら記憶がない。だが、かすかに残っていることが二つある。
・ひとつは天皇制についてで、意外にも根深い対立があることを見出したことである。
・今一つは、「憲法改正要綱 」が発表された時の、多くの委員の驚きと喜びである。ここまで改正が企てられようとは、実のところ、多くの委員は夢にも思っていなかった。
・それは委員が漠然と予想していた成果を、大きく上回っていた。ここまでの改正ができるのなら、われわれはこれを支持することを根本の立場として、必要な修正を加えることに全力を傾けるべきだ。
・当時極秘にされていたその出所について、委員は大体のことを知っていた。しかも、これを「 押しつけられた不本意なもの 」と考えた者は一人もいなかった。
自由主義や社会主義を信じる教授たちは、戦前は保守の教授たちに攻撃され、押さえつけられていましたが、マッカーサー元帥の「お墨付き」が、彼らを解放しました。学内というより、広く学界での勢力争いに大勝したのですから、その驚きと喜びが分かります。
・委員のうちの相当の数が、貴族院議員、や法令制定を任務とする委員会の委員となったので、その際には、「憲法研究委員会」で得た知識を活用した。
東大の左翼教授たちは、政府委員として、あるいは議員として、その発言が重要視されるようになります。東大内にとどまらず、関西、近畿、中部、中国、四国、九州、北海道と、教授たちの連携が広がります。マッカーサー元帥と阿吽の呼吸で通じた彼らが一大勢力となり、現在の「憲法改正反対」勢力の先頭に立っています。
日本の頭脳とも言える学者たちなので、彼らが戦争や平和、自由、人権などについて意見を語り始めると、国民は疑いません。フランス革命やアメリカの独立、あるいはイギリスでの王と市民の戦いなど、歴史を背景に説明されると、博学ぶりだけでも感心させられます。
しかし私が問うてみたいのは、教授諸氏が、どうしてそれほど簡単に日本の歴史を捨ててしまえたのか、ということです。
立派な言葉が「憲法案」に書かれていたとしても、日本だけが間違った戦争をしたという極論までを嬉々と受け入れるのか、という疑問が消えません。生まれ育った国を足蹴にするような学者は、日本人の常識がないのかと思います。
こういう教授たちが栄光に輝いていても、私には、GHQを足がかりに出世し、反日左翼思想を広げた「獅子身中の虫」にしか見えません。
最後に、我妻氏のエピソードを紹介します。
敗戦後の日本で、氏がどれほど大きな影響力を持っていたのを示すものです。記事を掲載したのは、反日マスコミの筆頭である朝日新聞です。
・第二次岸内閣が、新日米安全保障条約のために、衆議院の会期延長と条約批准案の単独採決をおこなった直後の、昭和35年6月7日『朝日新聞』に、氏は「岸信介君に与える」と題した手記を発表した。
・ここで氏は岸首相の退陣を促し、条約批准書交換の日の昭和35年6月23日に、岸内閣は総辞職した。
辞職のタイミングが偶然重なったのかもしれませんが、反日左翼学者と朝日新聞のつながりは偶然ではありません。無念なエピソードです。