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ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

田中英道氏 -6 「スサノオの尊 も西方系であった」

2020-05-01 18:39:23 | 徒然の記

  田中氏の話を、紹介します。

  ・「スサノオの尊」が、あまりに乱暴狼藉をするので、嘆き悲しんだ「天照大神」が、岩の洞窟に隠れてしまわれ、世界が真っ暗になり、大変なことになりました。

  ・「天岩戸」( あまのいわと  ) と言う、有名な話です。

  ・これが原因で「スサノオの尊」は、東北から出雲へ追放されます。出雲ではちゃんと国を治め、出雲大社を作ります。「大国主命」( おおくにぬしのみこと  )は、「スサノオ」の6代目の息子にあたります。

 神話をよく知らないため、聞き違いがあるのかもしれませんが、心に残るのが、「秦氏の源流が、スサノオである。」という言葉です。

 つまり、氏は秦氏だけでなく、「スサノオの尊」も帰化したユダヤ人だと説明します。何でもかんでも、帰化したユダヤ人にするのかと、無知な学徒である私は、先生に逆らっていけないと思っていても、やはり即座に信じられません。

 4年前、出雲の叔父が亡くなった時、遺品の蔵書の一部を、叔母が分けてくれました。その中に、山崎謙氏の著書『出雲大社の謎』がありました。偶然とは有難いもので、氏の著作を思い出しました。

  ・出雲大社は、本殿以外にも付属する神社が多い。

  ・本殿裏には、大国主の命の岳父といわれる、須佐之男神 (すさのおのみこと) を祀る、素鵞の社 ( そがのしゃ ) 、本殿脇には大国主の命の妻である、多紀理比売 ( たぎりひめ ) を祀る、筑紫社などの、各社がある。

 何度も出雲大社を訪ねていますが、眺めているだけなので、どこに何があったのか、何も覚えていません。「豚に真珠」、「猫に小判」という言葉は、私のためにあるようです。

 山崎氏の著作を読み、そんな由緒のある神社だったかと、驚いた記憶があります。さらに今回驚いたのは、この文章でした。

  ・世界一の木造建築といえば、東大寺大仏殿だ。

  ・私たちは、歴史の授業でそう習った。

  ・だが出雲大社の社伝によると、本殿の高さは、上古は97メートル、中古でも48メートルあったという。

  ・出雲大社本殿は、平安時代において、東大寺大仏殿より巨大だったというのだ。ちなみに現在の高さは、24メートルである。

 東大寺大仏殿の高さは、46.6メートルで、世界最大と言われています。大仏殿の前に立ち、大きさに圧倒された思い出がありますので、それを凌ぐ高さだったと説明され、言葉を失いました。

 出雲大社を作った「スサノオの尊」には、巨大な建造物を完成させるだけの、土木建築の知識と、技術があったということです。田中氏のいう、「スサノオの尊」は西方系の人であり、ユダヤ人であったという話がここで結びつきます。

 秦氏は天皇へのお礼として、応神天皇や仁徳天皇の「古墳」 ( 天皇御陵 )を作りました。エジプトのピラミッドに比肩する大古墳で、この技術と知識を持っているのが、ユダヤ人だというのが、氏の説です。

 前方後円墳は、秦氏が作った日本独特の墳墓で、こういう巨大なものは朝鮮にありません。

 日本には、全国に4,800から5,200基の前方後円墳が発見されていますが、朝鮮は半島の西南部に、小規模なものが10数基発見されているだけです。毒舌家の田中氏が、日本文化は、朝鮮が伝えたものでないとする根拠の一つがここにあります。

 太陽の光を計算し、星の位置から角度を計測する知識は、西方系の民族独特のものだとすれば、秦氏だけでなく、出雲大社を作った「スサノオの尊も、ユダヤ人であったとして、妥当性はあります。

 もし田中氏が、山崎氏の著作を知っていたら、東大寺大仏殿との比較を、語らないはずがありません。

 「大仏殿より巨大な出雲大社を作った、スサノオの尊が、 朝鮮から来た渡来人であるはずが、ありません。」

 「朝鮮には、そんな技術も、知識もありませんよ。」

  と、皮肉たっぷりで言うに決まっています。

 たいした自慢にもなりませんが、山崎氏の著作との関係で、「スサノオの尊」のユダヤ人説を納得するのは、おそらく私が初めてでしょう。

 と、自己満足したところで、「スサノオの尊」のシリーズを終わります。

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田中英道氏 - 5 「スサノオの尊 も西方系であった」

2020-05-01 09:13:59 | 徒然の記

   何の話からそうなったのか、氏が意外なことを言いました。

  ・一神教は、戦いの宗教ですが、もとを辿れば、ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、根っこは同じですからね。みんな、アブラハムの宗教です。

 ユダヤ教も、キリスト教もイスラム教も、別々の宗教だと思い今日まで来ました。そんなことを言う人と、出会ったことがありませんし、温故知新の読書でも読んだことがありません。

 ネットで調べてみると、なるほどありました。「アブラハムの宗教」として、ひとくくりになっています。76才にして知る、驚きの事実でした。

  ・「アブラハムの宗教」とは、聖書の預言者アブラハムの、宗教的伝統を受け継ぐと称する、「ユダヤ教」、「キリスト教」、「イスラム教」の、3 宗教のことである。

    ・2006 ( 平成18 ) 年現在、「アブラハムの宗教」の信者数は、約34億人と推計されている。」「うちキリスト教約21億人、イスラム教約13億人、ユダヤ教約1500万人。

 キリスト教の十字軍は、同じ仲間のイスラム教と、殺し合いをしていたことになります。幾つになっても、世界は知らないことだらけであると、教えられました。田中氏の講義と離れますが、息子たちのためにネットの説明を紹介します。

  ・『創世記』によると、アブラハムには、イシュマルとイサクという、2人の息子がいたと言う。

   ・イシュマルは、アブラハムの妻サラの奴隷ハガルが生んだ子で、イサクは、妻のサラが生んだ子である。

  ・ユダヤ人は、イサクの息子ヤコブの子孫であるといい、イスラム教のコーランは、アラブ人をイシュマルの子であるとする。

  ・ヤコブの別名が、イスラエルであることから、ユダヤ人は「イスラエルの民」と、呼ばれる。」「ユダヤ教」は、預言者モーゼの 「 十戒 」 を、元にする宗教である。「キリスト教」では、これを「旧約聖書」と呼ぶ。

  ・「キリスト教」は、ナザレのイエスを神の子として、救世主と認め、イエス以後の歴史を記した「 新約聖書 」を、「 旧約聖書 」 とともに聖典とする。

  ・「イスラム教」は、イエスとモーゼらユダヤの預言者たちを、神によって選び出され、神の言葉を伝える使命を帯びた者であると認め、「ムハンマド」を最後の預言者であるとした。

 日本人の中で、こんなことを知らないのは、私くらいのものなのでしょうか。

 それとも、ほとんどの人が、何も知らないまま暮らしているのでしょうか。この不可解さと複雑さを知りますと、日本神話の神様が、ややこしいなどと言えなくなります。

 田中氏の独り言は、私に、知識の森の深さを教えてくれました。そうなりますと、氏の説明を疑うのでなく、もっと素直に聞くべきであるという話になります。

  ・「高天原」( たかまがはら ) というのは、神話の話ではありません。縄文時代に実在した、国の名前です。

  ・それは関東地方にあり、天照大神と月読みの尊と、スサノオノ尊の三方が、分担して統治されていたのです。神々の姿にしてあるのは、文書を編纂した人たちの工夫です。

 関東地方に、「高天原」が実在していたというのは、氏が一貫して述べている学説で、折があるたびに述べています。「高天原」という時もありますが、「日高見国」(  ひたかみのくに  )  と述べる時もあります。

  ・鹿島、香取には、「高天原」という地名が、今でも残っています。

  ・当時の日本では、関東地方が一番人口が多くて栄えていたのです。近畿や九州より以前に、日本で一番先に開け文化が生まれた土地です。

  ・ここには天照大神がおられたというより、人々が太陽を拝み、信仰していたと言うことです。今の天皇の源流である、国父、つまり天皇 ( すめらみこと ) がおられました。

  ・そんならなぜ、『古事記』や『日本書紀』に、関東地方に関する記述がないのかと言いますと、文字が伝わったのが、秦氏以降だったからです。それまでの歴史は、みんな口伝だったのです。

 ここでもう一度、時代の流れを思い出してみます。

    縄文時代   (  紀元前約1万4,000年前 →   紀元前約1,500年前  )

                             土偶・土器

    弥生時代   (  紀元前約500年前 →     紀元300年代  )  

          銅剣・銅矛  神功皇后・応神天皇  秦氏百済より渡来・帰化  文字伝来

    古墳時代   (  紀元300年 →     紀元500年代  )  

    飛鳥時代   (  紀元600年 →     紀元700年代  ) 

          『古事記』・『日本書紀』

 氏が説明している「高天原」は、紀元前 約 1万4,000年から紀元前 約 1,500年にかけての、縄文時代の話です。

 『古事記』と『日本書紀』が編纂されたのは、 紀元700年代の飛鳥時代です。古いことなので、私は、縄文も飛鳥も、昔の話と引っ括っていましたが、計算してみると、こんなにも離れた時代だったのです。

  ・『記紀』の編者たちは、存在している古文書をもとにして、歴史を辿っています。

  ・文字のない時代のことは、確かなこととして、分からないから無視したのです。『記紀』に、関東地方の記述がない理由がここにあるんですね。

  ・しかし、昔から口伝でされてきた「祝詞 ( のりと )」 を調べれば、私の言うことが理解できますよ。ここには、ちゃんと「高天原」のことが述べられています。

 4年前に、山崎謙氏の著作『出雲大社の謎』を、読みました。その中には、次のように書かれていました。

  ・『古事記』は、皇室の系図と、関連する物語を元に書かれているが、『日本書紀』は、有力豪族から提出させた家記の内容が加えられている。

  ・だから、『古事記』が上中下の3巻であるのに対し、『日本書紀』は、全30巻と大部になっている。

 なるほど、田中氏の説明通りです。『記紀』は文字で書かれた古文書を元に、編纂されています。文字のない、遥か昔の縄文時代の事実が、漏れていると言う説も否定できなくなります。

 本日で終わる予定でしたが、横道にそれましたため、田中氏の雑談がまだ書き尽くせません。もう一回、それだけは書き残したいと思います。私の頭の整理のだけでなく、息子たちのためでもあります。

 予定は常に、未定です。「武漢コロナ」に振り回されている、今の日々なら、一層のことです。  

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