ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

戦争と沖縄 - 3 ( 舜天王、 尚巴志王、尚円王、尚真王 と薩摩藩 )

2018-07-11 13:36:19 | 徒然の記

 氏が語る沖縄の歴史を、紹介します。

 「歴史に残る初代の琉球王は、舜天王といわれています。」「その頃の沖縄には各地に沢山の領主がいて、それぞれが領地を、統治していました。ですから琉球王といっても、沖縄全土を統治していた訳ではありません。」

 「良港に恵まれ、農耕が栄えていた浦添一帯を統治していた舜天王が、最も大きな勢力であったと、思われます。」

 舜天王の即位が1187年といいますから、源頼朝が弟の義経と力を合わせ、平家と戦っている頃です。1187年には、平家が壇ノ浦で滅ぼされています。沖縄が日本と分かれば、日本史と合わせて話を進める方が分かりやすくて便利です。

 「舜天王は源為朝と、沖縄の女性との間に生まれた子だと、琉球の古い歴史書に書いてあります。」「それを裏付けるものとして沖縄には、運天港と牧港の地名が残っています。」

 氏の説明によりますと、

 運天港・・為朝は、自分の運命を天にゆだね、自然に流されるまま、船で辿り着いとい

      われ、港の名前が付けられた。

 牧 港 ・・為朝が帰ってしまった後、沖縄に残された妻子が、為朝を「待ちわびた

      港 (まちみなと )」が変化して牧港となった。・・という説です。

  舜天王から、義本王、英祖、玉城王と、王様が続きますが、詳しすぎるので省略し、沖縄で初めて統一国家を作った王様の話に飛びます。それが1492年に、偉業をなした、尚巴志王 ( しょうはし・おう ) でした。この王統を、第一尚氏と言います。

 1492年といえば、世界史ではコロンブスが、アメリカ大陸を発見した年です。日本は室町時代で、10代将軍義材 ( よしき ) の時です。足利幕府の権威が地に落ち、世はまさに、戦国時代へ突入しようとしていました。

 「この時代に琉球王国が交易した国は、中国はもとより、ベトナム、タイ、インドネシア、マレーシア、」「フイリピンや、朝鮮、日本の足利幕府など、アジアの全域にわたっていました。」

 「しかしそれから60年後に、第一尚氏は内紛により倒され、第二尚氏の王統へ移ります。」「初代尚円王から、その子尚真王になった時、琉球は華々しい発展を遂げました。」

 尚真王の大きな改革が四つあり、氏がこれを説明しています。文章でなく、項目にして列挙します。

  1. 中国との貿易の回数を増やした。

    3年に一度で行っていた貿易を、毎年行えるよう中国と交渉し認めさせた。

  2. 国王を頂点とする、身分制度を確立した。

    王、大名、士族と、統治される百姓  ( 農、工、商を含む平民の意 )

  3. 地方領主を首里の王都に集め、すべての武器を取り上げた。

  4. 中国、朝鮮から多量の書籍を輸入し、学問と仏教を奨励した。

  以後王朝の財政は貿易の利益で潤い、身分制が確立し、仏教と学問の普及で人心も安定しました。この時代は、「琉球の文芸復興期」とも呼ばれています。さすがに、うるま新報の社長だっただけあり、沖縄の知識は半端ではありません。知らないことばかりですから、学徒の私は氏の教えを拝聴します。

  「足利幕府は15世紀の半ば以来、琉球貿易の船は薩摩の印証を受けなければならないよう、薩摩に特権を与えてしまったので、薩摩と琉球の結びつきがますます深まりました。」

 「なぜ、このようなことになったのでしょうか。」「1440年に足利6代将軍義則が、陰謀を企てた弟の義昭を薩摩が打ち取った褒美として、島津忠国に琉球を与えたのが始まりです。」「それ以来島津氏は、琉球貿易を独占しようと考えるようになり、また琉球支配を、当然と思うようになりました。」

 この辺りになりますと、私の知らない話ばかりです。沖縄から見た日本史とでも、言えば良いのでしょうか。

  「豊臣の時代に秀吉は、亀井茲矩 ( これのり ) に、琉球の守とすることを約束しました。」「1582年に亀井は、琉球征伐に赴く準備をしたのですが、秀吉の朝鮮出兵のため断念させられました。」

 「当時倭寇と呼ばれる日本の海賊船が、中国沿岸を荒らしまわっていたため、中国は、日本の貿易船の中国への立ち入りを、禁止してしまい、足利幕府は大変困りました。」

 「そこで幕府も諸大名も、沖縄を利用し、中国やその他の国々と貿易をしようと、ひそかに考えていたのです。」「そのような、諸大名の考えを、薩摩はよく知っていましたので、なるべく早く沖縄を手に入れようと待ち構えていました。」

 この辺りが、私には理解できない部分です。足利幕府から、特権的地位を与えられていた薩摩も、秀吉に変わると無視されたのか。島津氏の立場も天下人の前では、不安定だったということでしょうか。

 「秀吉が死に、徳川家康が将軍になりました。」「家康が将軍になっても、琉球王からの慶賀使が来ないため、島津氏は、家康に琉球征伐を願いで許可を得ました。」

 「こうして薩摩は年来の計画を決行し、奄美大島諸島に攻め入り、次々と制服してしまいました。」「琉球王府は和睦の使者を、薩摩軍に送る計画を立てましたが、もう、手遅れでした。」「薩摩軍は沖縄本島の、今帰仁 ( なきじん ) の港に、押し寄せていました。」

 尚真王が、地方領主を首里の王都に集め、すべての武器を取り上げてしまったのですから、薩摩の強兵に敵うはずがありません。王府が今帰仁に送った和睦の使者も無視し、薩摩軍は那覇へ向かい、首里に攻め入り、首里城を手に入れました。琉球の尚寧王 ( しょうねい・おう ) は、城を出て降伏し薩摩へ連れて行かれました。

 もう一度氏の叙述の肝心な部分だけ、引用いたします。

  ・ 家康は薩摩の行動をたたえ、沖縄を島津の領地とすることを認めた。
 
  ・ 1611年島津氏は、琉球王国の処置の結論を出し、尚寧王一行は沖縄への帰国を許された。
 
 ・ 奄美大島諸島を除いた、沖縄本島、伊江島、久米島、伊是名島、伊平屋島、慶良間島、宮古島、八重山の範囲を、  琉球王の領地と決め、尚寧王を改めて王とた。
 
 これで沖縄の人々が、薩摩を敵視しする気持ちが分かりました。会社勤めをしていた頃、会津出身の役員の方と飲む機会がありました。部下から慕われる温厚な人物でしたが、酒が進み厳しい表情になりました。
 
 「薩摩と長州の人間は、断じて許せんのだ。」
怒っているのは、なんと幕末の話でした。平成になっても会津の人間は、薩摩と長州から受けた仕打ちが、忘れられないのかと驚きました。
 
 だから、池宮城氏の薩摩への怒りや恨み、あるいは本土の日本人への憤りが分かります。しかしこれはまだ沖縄の歴史の一部です。気の重いことですが、次回も続けなくてなりません。歴史は事実が大切ですから、沖縄の兄弟姉妹した経験を聞きましょう。
 
 息子たちには、くどくても念押しします。
 
 「歴史は、善悪や正義だけで判断できないことが、たくさんあります。」「まずは、事実を知ることです。日本のことだけでなく、周辺の国の状況や時代を知れば、きっと自ずと結論が出ます。」
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする