今年(2012年)の暑い盆が過ぎた。
それでも、まだ暑い。外では蝉が生き急ぐように、夜になっても鳴き続けている。
最近、庭に雀が顔を出すようになったので、葉の形をした底の丸い皿を2つ置いて、米粒と水を時々差し入れている。
また、先日、盆の日(8月15日)には、庭の草むらからタイルに、トカゲ(蜥蜴)が姿を現した。先月姿を見せたカナヘビに続き、トカゲも生きていたとは。(写真)
盆には、亡くなった人が帰ってくるという。今年の盆は、僕は佐賀の実家には帰らなかったので、空き家の家に父と母は帰ってきただろうか。それとも、トカゲに姿を変えて現れたのだろうか。
そんな思いを抱かせる映画が「異人たちの夏」(監督:大林宣彦1988年松竹)である。
テレビの脚本を書いている中年の男(風間杜夫)は、現在妻と別居し離婚調停中で、今は都心のマンションに一人で住んでいる。
暑い夏の日の午後だった。男は仕事の後ふと思いついて、子どもの頃まで暮らした浅草に行ってみる。浅草をぶらぶら散策したあと寄ってみた浅草演芸劇場で、客席に一人の男(片岡鶴太郎)を見つける。その男も自分を見つけ、親しげな目線を向ける。
何とその見知った男とは、彼の父親だった。劇場を出たあと父親は、ちょっと寄っていくかと言って、自分の家へ連れていく。そこは、路地を入ったアパートの2階で、久しぶりじゃない、もっと早く来ると思っていたのに、と言いながら母親(秋吉久美子)が顔を出した。
部屋の卓袱台で、3人でビールを飲み、とめどもない話をしながら楽しい時間を過ごす。
父も母も若い。男が子どもの頃3人で写っている写真のままの顔姿だ。
それもそのはずだ。男の両親は彼が12歳の時、交通事故で死んでいるのだ。
男はすっかりくつろいで遅くなり、「また来いよ」、「本当にいらっしゃいよ」と、父と母に言われ、アパートをあとにした。男は、またとない幸福感に満たされていた。
それはそうだ。死んだはずの父と母と、思いもがけずに楽しいひとときを過ごしたのだから。
帰りのタクシーの中で、ビルの明かりを見ながら男の心は躍り、そして思う。
「嬉しかった。街の明かりがきらめき、信号の色まで美しかった。こんな夜なら、誰にだって優しくできる」
マンションに着くと、同じマンションの違う階に住んでいる女(名取裕子)が立っていた。
先日の夜、寂しいのでよろしければお酒でも一緒にと、シャンペンを抱えて、突然男の部屋にやって来た女だ。そのときは、執拗な女の誘いにも男はつれなく断ったが、この夜は違う。
男は、別の日に、女を部屋に招き入れる。
よく見れば女は魅惑的だ。二人で酒を飲みながら、女は独り言のようにつぶやく。
「過ぎ去ったことは取り返しがつかないと言うけれど、そんなことはない。自分の過去なんだから、好きなように取り返せばいいじゃない」
妻とも別れ自由なシングル・ライフを送っている男は、この女と恋仲になり、性に耽溺する。
その後、男はしばしば浅草の父と母のところに行くようになる。
父とキャッチボールをやる。母の作ったアイスクリームを食べる。一緒にビールを飲む。花札遊びをする。
母の手を握り、「お母さんの手だね。幻なんかじゃないんだね」と、男はつぶやく。
男は、人知れぬ楽しい時間と場所を持った。それに、恋人ともいえる彼女も現れた。しかし、男は周りの人間から、どうしたの、最近やつれて、と言われ始める。自分では気づかないのだが、男の容貌は急激に衰退しているのだった。
その異常さに気付いた、別れた妻を想う仕事仲間の男(永島敏行)に、もう死んだはずの父母には会わない方がいいと忠告を受ける。恋人ともいえる彼女も、今の自分の顔をちゃんと見て、と言う。男が、ようやく自分の映った顔を見ると、妖怪のような顔があった。
男は父母と会うのはこれで最後と決めて、子どもの頃に誕生日に食べていたすき焼きを食べに父母を誘う。
昔懐かしい浅草を3人で歩き、すき焼きの店「今半」に入る。座敷の部屋に上がる途中の窓辺に雀が舞いおりてきて、母はあらっと言って、立ち止まる。
父と母との最後の食事になるすき焼きだ。夏だけどすき焼きだ。
まだ食事の途中で、父と母は、「おまえに会えてよかったよ」と、もう時間がないことを言った。男は、それが永遠の別れと気がついた。男は涙をためて「行かないで」と言ったが、それが虚しい言葉だとわかっていた。
「体を大事にね」「もう会えねぇだろうが」と、母と父は言った。
男は、「ありがとうございます」と言うのが精いっぱいだった。父と母は静かにほほ笑みかけたまま姿を消し、異界へ帰っていった。
男は涙をこらえて、父と母がすき焼きを口にした箸を、ハンカチに包むのだった。形見の品のように。
夏に帰ってきた父と母との、至福の日々が終わった。
やはり、幻の時間だったのだ。
男は、路地を入った父母が住んでいたアパートに行ってみる。そこは、取り壊される予定の廃屋だった。まるで、「雨月物語」のように。
しかし、異界の人は、父と母だけではなかった。寂しさに耐えられなくて男のもとにやって来た同じマンションの女も、実は異界の人だった。
*
今はない、父と母との団らんがいい。父とやったキャッチボール、母の愛のこもった何気ない小言、家族での花札、どれもみんな僕の中にも残る心の奥の一頁だ。
そして、父と母との最後の晩餐となったすき焼き。僕も、最後の晩餐は何にする?と問われれば、迷うことなく、すき焼きと答えている。
映画「異人たちとの夏」は、原作が山田太一で、 脚本が市川森一という絶妙の組み合わせだ。山田はもともと映画界出身で脚本家だが、「異人たちとの夏」は小説として発表し、自分で脚本してもいいものを市川森一に任せた。自分が書いた物語を同業者の市川がどう料理するか、自分にないものを見たかったのだろう。
この物語と同じく、山田太一は少年時代を浅草で過ごしている。
僕は、昨年(2011年)12月に死去した長崎出身の市川森一の抒情性溢れる、単発ドラマの脚本が好きだった。
監督もまた幻想性、抒情性過剰とも思える「転校生」「時をかける少女」の大林宣彦である。セピア色調の映画をとらせたら右に出る者がいない。
「蒲田行進曲」が出色の風間杜夫は、都会のナイーブな男をやらせるといい味がある。
父親役の片岡鶴太郎の、板前職人は適役だ。現在(2012年)放映中の朝ドラ「梅ちゃん先生」(主演:堀北真希)の下町の職人親父に通じるものがある。
母親役の秋吉久美子は、「旅の重さ」でデビューし、若くして「赤ちょうちん」「妹」「あにいもうと」などで好演し、その感性から名女優になるだろうと予感された。この映画製作当時33歳だが、まだ美しさと名優の片鱗を色濃く残している。
名取裕子は、変わらず色っぽい。最近はドラマで活躍しているが、この人は年をとらない。秋吉久美子より若いが、昔から大人っぽかったのだ。
*
<追記>映画の中の映画
男(風間杜夫)が同じマンションの女(名取裕子)を自分の部屋に招いて、ブランデーを飲みながら2人で妖しい会話をしているとき、部屋ではテレビが流れている。といって、2人はテレビを見ていたわけではない。薄暗い部屋で、2人の会話の合間に音声のないテレビの映像が映し出される。
夜の暗い部屋でのテレビの四角い画面には、絵の具で描いたような青空が写る。その大自然の青空の下ではしゃぎまわる2人の女。
そのテレビで映されたのは、高峰秀子と小林トシ子が演じる映画「カルメン故郷に帰る」(監督:木下恵介、1951年松竹)だった。画面の高峰はさっそうと上着を脱ぎすてブラジャー姿になるのだが、どこまでも健康的だ。テレビの前の男と女も、服を脱ぎ絡み合うのだが、決して健康的でなく、それはナメクジを連想させるように、病的な世界を予感させる。
映画の中の映画。劇中劇。
過去の恩師の記念碑的作品と現在進行形の自分(山田)の作品、大自然の田舎の青空の下と都会の夜の薄闇の下を対比したかったのだろうか。
原作者の山田太一は大学卒業後、一時松竹に入社し、監督木下恵介に師事している。「カルメン故郷に帰る」は、木下の監督による日本初のカラー映画である。
*
盆は過ぎていった。
しかし、暑さはまだ続く。
そして、誰もが年をとる。父や母のように。
死んだ人は、死んだ時のままだが。
それでも、まだ暑い。外では蝉が生き急ぐように、夜になっても鳴き続けている。
最近、庭に雀が顔を出すようになったので、葉の形をした底の丸い皿を2つ置いて、米粒と水を時々差し入れている。
また、先日、盆の日(8月15日)には、庭の草むらからタイルに、トカゲ(蜥蜴)が姿を現した。先月姿を見せたカナヘビに続き、トカゲも生きていたとは。(写真)
盆には、亡くなった人が帰ってくるという。今年の盆は、僕は佐賀の実家には帰らなかったので、空き家の家に父と母は帰ってきただろうか。それとも、トカゲに姿を変えて現れたのだろうか。
そんな思いを抱かせる映画が「異人たちの夏」(監督:大林宣彦1988年松竹)である。
テレビの脚本を書いている中年の男(風間杜夫)は、現在妻と別居し離婚調停中で、今は都心のマンションに一人で住んでいる。
暑い夏の日の午後だった。男は仕事の後ふと思いついて、子どもの頃まで暮らした浅草に行ってみる。浅草をぶらぶら散策したあと寄ってみた浅草演芸劇場で、客席に一人の男(片岡鶴太郎)を見つける。その男も自分を見つけ、親しげな目線を向ける。
何とその見知った男とは、彼の父親だった。劇場を出たあと父親は、ちょっと寄っていくかと言って、自分の家へ連れていく。そこは、路地を入ったアパートの2階で、久しぶりじゃない、もっと早く来ると思っていたのに、と言いながら母親(秋吉久美子)が顔を出した。
部屋の卓袱台で、3人でビールを飲み、とめどもない話をしながら楽しい時間を過ごす。
父も母も若い。男が子どもの頃3人で写っている写真のままの顔姿だ。
それもそのはずだ。男の両親は彼が12歳の時、交通事故で死んでいるのだ。
男はすっかりくつろいで遅くなり、「また来いよ」、「本当にいらっしゃいよ」と、父と母に言われ、アパートをあとにした。男は、またとない幸福感に満たされていた。
それはそうだ。死んだはずの父と母と、思いもがけずに楽しいひとときを過ごしたのだから。
帰りのタクシーの中で、ビルの明かりを見ながら男の心は躍り、そして思う。
「嬉しかった。街の明かりがきらめき、信号の色まで美しかった。こんな夜なら、誰にだって優しくできる」
マンションに着くと、同じマンションの違う階に住んでいる女(名取裕子)が立っていた。
先日の夜、寂しいのでよろしければお酒でも一緒にと、シャンペンを抱えて、突然男の部屋にやって来た女だ。そのときは、執拗な女の誘いにも男はつれなく断ったが、この夜は違う。
男は、別の日に、女を部屋に招き入れる。
よく見れば女は魅惑的だ。二人で酒を飲みながら、女は独り言のようにつぶやく。
「過ぎ去ったことは取り返しがつかないと言うけれど、そんなことはない。自分の過去なんだから、好きなように取り返せばいいじゃない」
妻とも別れ自由なシングル・ライフを送っている男は、この女と恋仲になり、性に耽溺する。
その後、男はしばしば浅草の父と母のところに行くようになる。
父とキャッチボールをやる。母の作ったアイスクリームを食べる。一緒にビールを飲む。花札遊びをする。
母の手を握り、「お母さんの手だね。幻なんかじゃないんだね」と、男はつぶやく。
男は、人知れぬ楽しい時間と場所を持った。それに、恋人ともいえる彼女も現れた。しかし、男は周りの人間から、どうしたの、最近やつれて、と言われ始める。自分では気づかないのだが、男の容貌は急激に衰退しているのだった。
その異常さに気付いた、別れた妻を想う仕事仲間の男(永島敏行)に、もう死んだはずの父母には会わない方がいいと忠告を受ける。恋人ともいえる彼女も、今の自分の顔をちゃんと見て、と言う。男が、ようやく自分の映った顔を見ると、妖怪のような顔があった。
男は父母と会うのはこれで最後と決めて、子どもの頃に誕生日に食べていたすき焼きを食べに父母を誘う。
昔懐かしい浅草を3人で歩き、すき焼きの店「今半」に入る。座敷の部屋に上がる途中の窓辺に雀が舞いおりてきて、母はあらっと言って、立ち止まる。
父と母との最後の食事になるすき焼きだ。夏だけどすき焼きだ。
まだ食事の途中で、父と母は、「おまえに会えてよかったよ」と、もう時間がないことを言った。男は、それが永遠の別れと気がついた。男は涙をためて「行かないで」と言ったが、それが虚しい言葉だとわかっていた。
「体を大事にね」「もう会えねぇだろうが」と、母と父は言った。
男は、「ありがとうございます」と言うのが精いっぱいだった。父と母は静かにほほ笑みかけたまま姿を消し、異界へ帰っていった。
男は涙をこらえて、父と母がすき焼きを口にした箸を、ハンカチに包むのだった。形見の品のように。
夏に帰ってきた父と母との、至福の日々が終わった。
やはり、幻の時間だったのだ。
男は、路地を入った父母が住んでいたアパートに行ってみる。そこは、取り壊される予定の廃屋だった。まるで、「雨月物語」のように。
しかし、異界の人は、父と母だけではなかった。寂しさに耐えられなくて男のもとにやって来た同じマンションの女も、実は異界の人だった。
*
今はない、父と母との団らんがいい。父とやったキャッチボール、母の愛のこもった何気ない小言、家族での花札、どれもみんな僕の中にも残る心の奥の一頁だ。
そして、父と母との最後の晩餐となったすき焼き。僕も、最後の晩餐は何にする?と問われれば、迷うことなく、すき焼きと答えている。
映画「異人たちとの夏」は、原作が山田太一で、 脚本が市川森一という絶妙の組み合わせだ。山田はもともと映画界出身で脚本家だが、「異人たちとの夏」は小説として発表し、自分で脚本してもいいものを市川森一に任せた。自分が書いた物語を同業者の市川がどう料理するか、自分にないものを見たかったのだろう。
この物語と同じく、山田太一は少年時代を浅草で過ごしている。
僕は、昨年(2011年)12月に死去した長崎出身の市川森一の抒情性溢れる、単発ドラマの脚本が好きだった。
監督もまた幻想性、抒情性過剰とも思える「転校生」「時をかける少女」の大林宣彦である。セピア色調の映画をとらせたら右に出る者がいない。
「蒲田行進曲」が出色の風間杜夫は、都会のナイーブな男をやらせるといい味がある。
父親役の片岡鶴太郎の、板前職人は適役だ。現在(2012年)放映中の朝ドラ「梅ちゃん先生」(主演:堀北真希)の下町の職人親父に通じるものがある。
母親役の秋吉久美子は、「旅の重さ」でデビューし、若くして「赤ちょうちん」「妹」「あにいもうと」などで好演し、その感性から名女優になるだろうと予感された。この映画製作当時33歳だが、まだ美しさと名優の片鱗を色濃く残している。
名取裕子は、変わらず色っぽい。最近はドラマで活躍しているが、この人は年をとらない。秋吉久美子より若いが、昔から大人っぽかったのだ。
*
<追記>映画の中の映画
男(風間杜夫)が同じマンションの女(名取裕子)を自分の部屋に招いて、ブランデーを飲みながら2人で妖しい会話をしているとき、部屋ではテレビが流れている。といって、2人はテレビを見ていたわけではない。薄暗い部屋で、2人の会話の合間に音声のないテレビの映像が映し出される。
夜の暗い部屋でのテレビの四角い画面には、絵の具で描いたような青空が写る。その大自然の青空の下ではしゃぎまわる2人の女。
そのテレビで映されたのは、高峰秀子と小林トシ子が演じる映画「カルメン故郷に帰る」(監督:木下恵介、1951年松竹)だった。画面の高峰はさっそうと上着を脱ぎすてブラジャー姿になるのだが、どこまでも健康的だ。テレビの前の男と女も、服を脱ぎ絡み合うのだが、決して健康的でなく、それはナメクジを連想させるように、病的な世界を予感させる。
映画の中の映画。劇中劇。
過去の恩師の記念碑的作品と現在進行形の自分(山田)の作品、大自然の田舎の青空の下と都会の夜の薄闇の下を対比したかったのだろうか。
原作者の山田太一は大学卒業後、一時松竹に入社し、監督木下恵介に師事している。「カルメン故郷に帰る」は、木下の監督による日本初のカラー映画である。
*
盆は過ぎていった。
しかし、暑さはまだ続く。
そして、誰もが年をとる。父や母のように。
死んだ人は、死んだ時のままだが。
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