人生で、文学より映画の方が影響力が強かったと自負する、かつての映画好きの私であるが、過去の古い映画は録画・再放映で観ているけれど、封切の新しい映画からはとんと遠ざかっているのが現状である。
映画「ドライブ・マイ・カー」は、2021(令和3)年の第74回カンヌ国際映画祭で日本映画としては初となる脚本賞を受賞したのをはじめ、多くの映画祭で賞を受賞している話題の濱口竜介監督作品である。
であるから、これは見ておこうと、2月15日、久しぶりに近くの多摩センターの映画館に観に行った。この映画館は8スクリーンを持つ多上映システムだが、本作品は1日に夕方1回上映と限られていた。
まあ混んではいないだろうとタカをくくって上映時間5分前に受付窓口に行ったら、あと3席の空きしかなかった。中に入ったら、私の隣は空いていて、全体を見まわしても意外や空席が目立つ。ギリギリ遅れて入ってくる人が多いのかなと思っていたら、そうでもない。
すぐに、そのとき東京はコロナ蔓延防止等重点措置期間中なので、席は一つおきにしているのだ、と気がついた。だから、私の隣は空席なのだ。
ともあれ、映画は映画館で観るのはいい。
*愛の喪失と葛藤の行方を走る「ドライブ・マイ・カー」
脚本は、村上春樹の短編小説集「女のいない男たち」に収録された短編「ドライブ・マイ・カー」を基に濱口竜介、大江崇允の共同執筆によるものである。
簡単な粗筋を紹介する。
舞台俳優で演出家でもある主人公の中年の男(西島秀俊)は、元舞台俳優で脚本家である妻(霧島れいか)を愛し満ち足りた生活をしている。ある日、その妻が家に他の男を連れ込んで不倫しているのを知る。妻の不実を知りながら、男は気づいていない素振りを通し続ける。
が、妻は突然、脳梗塞で死ぬ。
それから2年後、広島での演劇祭の出演者選考および演出の仕事のため、男は自分の車で広島へ行く。
男は、仕事場と宿泊ホテルの往復に、専属の女性の運転手(三浦透子)を付けられ、自分の車をその無口な女性に任せることにする。
広島での舞台オーディションを受けに来た一人に、妻の不倫相手だった売れっ子の若手俳優(岡田将生)がいた。主人公の男は、妻の不倫相手と知りつつ彼を主役に選び、芝居の稽古は進む。芝居公開の日が近くなったころ、その主役の男が暴力事件で逮捕される。それで、主人公の男が代わりに主役をやることにし、公演は無事行われる。
この間、男と運転手の女性は、多くを話さなくとも次第に気心が通じるものを感じていた。公演が終わり、お互い過去の傷を知りあうと、二人は、車で彼女の故郷の北海道に行くのだった。
*定点言葉発送と俯瞰動画の文学的映画手法
この映画を観た直後の感想は以下のようなものであった(つい青い文となった)。
濱口竜介は、言葉を重視する文学的な映画監督である。
表面で交わされる日常会話と内面の会話を闘わせることで、二人の関係あるいは社会での関係から、その個人を晒そうとする。内面の言葉を相手と、あるいは自分と闘わすことで、その人となりを露出させていく。
その人となりは、すぐには現れないし、現れることを必ずしもその人は良しとしない。多くは呻吟するし抵抗もする。だから、多くの会話、あるいは独白が必要となるし、時間の経過も有することになる。
かつてヌーヴェル・ヴァーグの映画が、映画的でなかったように、彼の映画も映画的でないのかもしれない。
言葉を多く語り、この映画では劇中劇での言葉も物語に組み込み、さらに多国籍言語の混在を挿入させている。
高速道路をあるいは海岸線を運転して走る車を俯瞰的に映し出しているのが印象に残る。
*ルーツを垣間見た、濱口監督の大学院修了制作「PASSION」
昨年2021(令和3)年の11月6日、近くの小田急線・新百合ヶ丘で行われている「しんゆり映画祭」に出向いた。お目当ては、濱口竜介監督の「PASSION」(2008年制作)。
先に書いたように、私は最近の新作映画を観ていないので濱口監督なるものを知らなかったが、この映画が彼の東京藝術大学大学院映像研究科の修了制作とあるので興味をひいたのだ。
「PASSION」の簡単な粗筋は、久しぶりにかつての大学時代の同級生(であろう)数人が集まる。その中に、婚約しているカップルがいた。話の中で、期せずしてその男が他の友人である女と関係していたことが判明する。そのことにより、彼らのそれまでの関係が歪みだし、違った関係性に変換していくというものである。
物語の多くが会話対応で費やされ、なかでも男女3人のゲームとして、本音しか言わない会話劇が組み込まれているなど、心理劇と言えなくもない。
畳み込むようにダイアローグで進む物語は、小説家志望が若い頃に書く観念的な小説だと思った。それと同時に、それを映画で試みたという志の強さと本物性に、嫉妬に似た感情が沸いた。大学院とはいえ学生が作る映画とは思えない高度な出来なのだ。
私は少し前まで10年ほど、地元の「多摩映画祭」(TAMA CINEMA FORUM)で、新人による映画「TAMA NEW WAVE」コンペティションの一般審査員をやっていて、若者の映画を少し観てきたが、この「PASSION」は、若者の青さが強く匂うのに、それを逆手にとったような強引さを活かした、高い完成度なのである。
「PASSION」は、文学性の強い濱口監督のルーツだった。
*
「PASSION」で婚約者の不実の過去は、婚約解消という結末の、いわば一直線での愛の行路の別れとなる。
「ドライブ・マイ・カー」での妻の現在の不実は、黙認を装いながら葛藤を続け、二人の愛の本質を問うことなく妻を突然死させることによって、大きな愛の本題から別の本題へと、意図的に道をそらす。これが、この映画の本質なのだろうが。
「ドライブ・マイ・カー」は、「PASSION」の直線的な道が、幾年かの時をへて蛇行した道となったものを、俯瞰的に捉えようとした映画だといえよう。
映画「ドライブ・マイ・カー」は、2021(令和3)年の第74回カンヌ国際映画祭で日本映画としては初となる脚本賞を受賞したのをはじめ、多くの映画祭で賞を受賞している話題の濱口竜介監督作品である。
であるから、これは見ておこうと、2月15日、久しぶりに近くの多摩センターの映画館に観に行った。この映画館は8スクリーンを持つ多上映システムだが、本作品は1日に夕方1回上映と限られていた。
まあ混んではいないだろうとタカをくくって上映時間5分前に受付窓口に行ったら、あと3席の空きしかなかった。中に入ったら、私の隣は空いていて、全体を見まわしても意外や空席が目立つ。ギリギリ遅れて入ってくる人が多いのかなと思っていたら、そうでもない。
すぐに、そのとき東京はコロナ蔓延防止等重点措置期間中なので、席は一つおきにしているのだ、と気がついた。だから、私の隣は空席なのだ。
ともあれ、映画は映画館で観るのはいい。
*愛の喪失と葛藤の行方を走る「ドライブ・マイ・カー」
脚本は、村上春樹の短編小説集「女のいない男たち」に収録された短編「ドライブ・マイ・カー」を基に濱口竜介、大江崇允の共同執筆によるものである。
簡単な粗筋を紹介する。
舞台俳優で演出家でもある主人公の中年の男(西島秀俊)は、元舞台俳優で脚本家である妻(霧島れいか)を愛し満ち足りた生活をしている。ある日、その妻が家に他の男を連れ込んで不倫しているのを知る。妻の不実を知りながら、男は気づいていない素振りを通し続ける。
が、妻は突然、脳梗塞で死ぬ。
それから2年後、広島での演劇祭の出演者選考および演出の仕事のため、男は自分の車で広島へ行く。
男は、仕事場と宿泊ホテルの往復に、専属の女性の運転手(三浦透子)を付けられ、自分の車をその無口な女性に任せることにする。
広島での舞台オーディションを受けに来た一人に、妻の不倫相手だった売れっ子の若手俳優(岡田将生)がいた。主人公の男は、妻の不倫相手と知りつつ彼を主役に選び、芝居の稽古は進む。芝居公開の日が近くなったころ、その主役の男が暴力事件で逮捕される。それで、主人公の男が代わりに主役をやることにし、公演は無事行われる。
この間、男と運転手の女性は、多くを話さなくとも次第に気心が通じるものを感じていた。公演が終わり、お互い過去の傷を知りあうと、二人は、車で彼女の故郷の北海道に行くのだった。
*定点言葉発送と俯瞰動画の文学的映画手法
この映画を観た直後の感想は以下のようなものであった(つい青い文となった)。
濱口竜介は、言葉を重視する文学的な映画監督である。
表面で交わされる日常会話と内面の会話を闘わせることで、二人の関係あるいは社会での関係から、その個人を晒そうとする。内面の言葉を相手と、あるいは自分と闘わすことで、その人となりを露出させていく。
その人となりは、すぐには現れないし、現れることを必ずしもその人は良しとしない。多くは呻吟するし抵抗もする。だから、多くの会話、あるいは独白が必要となるし、時間の経過も有することになる。
かつてヌーヴェル・ヴァーグの映画が、映画的でなかったように、彼の映画も映画的でないのかもしれない。
言葉を多く語り、この映画では劇中劇での言葉も物語に組み込み、さらに多国籍言語の混在を挿入させている。
高速道路をあるいは海岸線を運転して走る車を俯瞰的に映し出しているのが印象に残る。
*ルーツを垣間見た、濱口監督の大学院修了制作「PASSION」
昨年2021(令和3)年の11月6日、近くの小田急線・新百合ヶ丘で行われている「しんゆり映画祭」に出向いた。お目当ては、濱口竜介監督の「PASSION」(2008年制作)。
先に書いたように、私は最近の新作映画を観ていないので濱口監督なるものを知らなかったが、この映画が彼の東京藝術大学大学院映像研究科の修了制作とあるので興味をひいたのだ。
「PASSION」の簡単な粗筋は、久しぶりにかつての大学時代の同級生(であろう)数人が集まる。その中に、婚約しているカップルがいた。話の中で、期せずしてその男が他の友人である女と関係していたことが判明する。そのことにより、彼らのそれまでの関係が歪みだし、違った関係性に変換していくというものである。
物語の多くが会話対応で費やされ、なかでも男女3人のゲームとして、本音しか言わない会話劇が組み込まれているなど、心理劇と言えなくもない。
畳み込むようにダイアローグで進む物語は、小説家志望が若い頃に書く観念的な小説だと思った。それと同時に、それを映画で試みたという志の強さと本物性に、嫉妬に似た感情が沸いた。大学院とはいえ学生が作る映画とは思えない高度な出来なのだ。
私は少し前まで10年ほど、地元の「多摩映画祭」(TAMA CINEMA FORUM)で、新人による映画「TAMA NEW WAVE」コンペティションの一般審査員をやっていて、若者の映画を少し観てきたが、この「PASSION」は、若者の青さが強く匂うのに、それを逆手にとったような強引さを活かした、高い完成度なのである。
「PASSION」は、文学性の強い濱口監督のルーツだった。
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「PASSION」で婚約者の不実の過去は、婚約解消という結末の、いわば一直線での愛の行路の別れとなる。
「ドライブ・マイ・カー」での妻の現在の不実は、黙認を装いながら葛藤を続け、二人の愛の本質を問うことなく妻を突然死させることによって、大きな愛の本題から別の本題へと、意図的に道をそらす。これが、この映画の本質なのだろうが。
「ドライブ・マイ・カー」は、「PASSION」の直線的な道が、幾年かの時をへて蛇行した道となったものを、俯瞰的に捉えようとした映画だといえよう。
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