かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

「ドレスメーキング」の時代② 1968年、変革、ファッションの季節

2020-08-27 19:17:08 | 人生は記憶
 Where have all the flowers gone,long time passing?
 Where have all the flowers gone,long time ago?
 花はどこに行ったの?
 ずいぶん時が過ぎたけど
 花はどこに行ったの?
 もうずいぶん前のことだけど
 「Where have all the flowers gone?(花はどこへ行った)」 (Pete Seeger)

 *1968年という熱い波

 1968(昭和43)年、私は服飾誌「ドレスメーキング」の編集者として社会人の第一歩を踏み出した。私のなかで政治の季節は終わっていたが、1960年代の後半という時代は大きな変革の季節であった。
 巷ではママス&パパスの「夢のカリファルニア」やスコット・マッケンジーの「花のサンフランシスコ」が流れ、若者たちの自由さと軽やかそうな振る舞いは、仄かなアメリカへの憧れを抱かせるものであった。
 このような軽やかな風潮の裏側には、アメリカのヴェトナム戦争の泥沼化が潜んでいて、そこから漏れてくるものは、ヒッピーに象徴される若者による反戦や退廃を含んだカウンターカルチャーだった。
 「ラブ・アンド・ピース」を唱える彼らはフラワー・チルドレンと呼ばれ、それはいつしかフラワー・ムーヴメントと譬えられた。
 そのなかで、長髪やフォークロア調の服装、Tシャツにデニムのベルボトム、マリファナやサイケデリック、などの多様なファッション、社会現象・風俗を生み出した。

 このような動きは、ストリートを中心に若者の特異なファッションを生み出しスインギング・ロンドンと呼ばれていたイギリスにも漂っていたし、フランスでは学生を中心にくすぶり続けていた反体制へのエネルギーの燃焼が、1968年にはパリのフランス5月革命を生みだした。
 こうした欧米の動きは、日本にも飛び火し、若者の文化や学生運動にも影響を与えていた。
 中国では、当時は実態が不明だった中国文化大革命が進行していて、「造反有理」という言葉が流れ来ていた。
 1960年代後半、既存の政治や文化に対するアンチテーゼのムーヴメントは、今でいうグローバリゼーション化していたと言っていい。
 しかし、あの時代の象徴的だった花、フラワーはどこへ行ったのか?

 Where have all the flowers gone?
 Young girls have picked them everyone.
 Oh, when will they ever learn?
 花はどこへ行ったの?
 若い女の子はそれを摘んでしまった
 あぁ、いつになったらわかるの?
 「Where have all the flowers gone?(花はどこへ行った)」

 *ファッションは既製服の時代へ

 戦後、ファッションはフランスのパリを中心に動いてきた。日本のファッションはフランス・パリのモードに影響を受けながらも、というよりパリを中心とした欧米のモードを吸収しながら、洋裁とともに発展していった。
 パリのモードといえば、パリのオートクチュールのことといってよかった。ディオール、バレンシアガ、シャネル、ジバンシィ、バルマン、カルダン、最初はディオール店にいたのち独立したイヴ・サンローラン、クレージュなどをはじめとする、クチュリエたちによる春夏行われるパリ・コレクションの発表が、世界のファッションの流行を左右した。

 1960年代に入り、アメリカを主流とした消費者層の増大に伴いアパレル、既製服産業は急速に発展し、オートクチュールは衰退化を見せ始める。
 それまで、ファッションは、貴族や富裕層、映画スターのものであり、パリのオートクチュールや一部のハイファッションの人たちによって造られ流布されていた。一般の人にとってファッションとは、上から降ってくるもので雑誌や映画の中のものだった。
 しかし、既製服の普及とともに、街中から若者を中心に独自のファッションが生まれてくる。オートクチュールと関係のないモッズ、ヒッピー、ジーンズ、ミニ・スカートなどストリート・ファッションが現れたのだった。
 ファッションは服装のみならず、若者の行動・風俗・文化に影響を与えつつ、1960年代は大きな変革の流れの中にいた。

 こうしたファッションの変化は、自ずとパリのオートクチュールにも表れた。プレタポルテの出現である。
 「プレタポルテ」とは、フランス語で「準備ができている」という意味の「プレpret」と「着る」という「ア・ポルテa-porter」を合わせた造語で、すぐに着られる服、つまり既製服という意味である。英語での「ready-to-wear」である。
 ちなみに「オートクチュール」(haute couture)は、フランス語で「高い」「高級な」を意味する女性形容詞「オートhaute」と、「縫製」「仕立て服」の女性形名詞「クチュールcouture」で、高級仕立服を意味する。基本的に、パリ・クチュール組合(通称サンディカ La Chambre Syndicale de la Couture Parisienne)の加盟店である高級衣裳店を指す。

 この新しく現れたプレタポルテは、それまであった既製服と差別化を図るために使われた。そのため、日本では「高級既製服」と言われる。
 プレタポルテを最初の発表したオートクチュールのクチュリエはアンドレ・クレージュだが、衝撃を呼んだのは、1966年、イヴ・サンローランがプレタポルテのブティックを、オートクチュールのメゾンが並ぶセーヌ川右岸の反対側にオープンしたことである。名前もあえて左岸「リヴ・ゴーシュ」を付した「Yves Saint- Laurent rive gauche」とした。
 その後、多くのクチュリエがプレタポルテに力をいれるようになっていった。

 *ミニ・スカートの出現

 1960年代に入り、スインギング・ロンドンと呼ばれたロンドンのストリートを中心に短いスカート丈は見られていたが、65年にマリ・クワントがミニ・スカートを発表する。
 翌年には、クレージュがパリのオートクチュールで発表したこともあって、ミニ・スカートは一部の若者のものから幅広く公認されたものとなっていった。ストリートから発したミニ・スカートは、オートクチュールも呑み込み、全世界に広まっていったのだ。
 わが国でも1967(昭和42)年に、「小枝のような」という意味を持つイギリスのファッション・モデルのツイッギーが来日し、ミニ・スカートは一気に人気が広がっていった。
 さらに、スカート丈によって、ミディ、ミモレ、マクシとスカートは細分化した呼び方が生まれてくる。

 *

 私たち、私とカメラマンが入社した1968年、「ドレスメーキング」も、その波の中にいた。服飾誌が戦後日本のファッション誌の役割として、最後の光芒を放っていた季節であった。
 「an・an」(平凡出版)が創刊される2年前のことだ。

 ※写真は、「ドレスメーキング」1968(昭和43)年8月号、モデル:プラバー・シェス、カメラ:藤井秀喜
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