かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

外濠公園通りの青春➀ 1964年東京と本との関わり 

2019-09-12 01:16:35 | 人生は記憶
 街はいつでも 後ろ姿の幸せばかり……
  ――「ウナ・セラ・ディ東京」(作詞:岩谷時子、作曲:宮川泰)

 *「東京」の1960年代

 九州の佐賀の田舎の高校を卒業した私は、結局、東京の私立の大学に行くことになった。
 私が上京した年の1964年は、日本は経済成長の最中で、東京オリンピックの開催もあって“東京”がことさらクローズアップされていた。
 東京は、まだ輝いていた。
 レコード各社の競作となった「東京五輪音頭」をはじめ、ザ・ピーナツや和田弘とマヒナスターズらが歌った「ウナ・セラ・ディ東京」、「ワン・レイニー・ナイト・イン東京」、西田佐知子の「東京ブルース」、新川二朗の「東京の灯よいつまでも」など、東京を唄った歌が巷に流れていた。
 この年流行った「あゝ上野駅」も、ある意味東京賛歌と言えるだろう。

 私が入学した法政大学は、東京・市ヶ谷(東京都千代田区)にあった。
 今も残る外濠の高台に、当時はモダンな校舎が聳えていて(今では27階建てのタワーが聳えている)、学校の前には四谷から飯田橋まで延びる外濠公園の通りが広がっている。この外濠公園通りは、春になると桜の並木道となり、学生にとっては格好のキャンパスの役割を果たしていた。
 
 上京したその年の4月、駅の売店や本屋で今までのものとは毛色の変わった表紙の雑誌が目についた。ストレートの短いズボンに、髪を7/3に分けたアイビールックの若い男が並ぶイラストだった。
 描かれた顔のすべてが濃いチョコレート色なので、私はどうして真夏の海辺でもないのにこんな褐色にしたのだろうと思ったぐらいだった。
 それは芸能誌の「平凡」を出版している平凡出版社(現マガジンハウス)が新しく発行した、日本初の男性週刊誌「平凡パンチ」だった。その後、大橋歩のパステルで描く、その褐色の顔のアイビールックの表紙は、「平凡パンチ」の顔となって長く続いていく。
 そう言えば、このイラスト風の軽い男がクラスにもいるなあと私は思った。私はといえば、ジャケットやスーツなどは持っていないので、高校時代の延長の学生服で学校へ行っていた。当時は、体育会系でなくても、地方から来た学生のなかでは学生服は珍しくなかった。
 しかし、私の身近な者のなかには「朝日ジャーナル」を読んでいるのはいたが、「平凡パンチ」を読んでいる男はいなかった。

 *経済学部文学科へ

 私が大学で経済学部を選んだのは、経済学が好きでも経済学を勉強しようと意欲を持っていたからでもない。高校の進路決定の3年時、どう考えても物理と化学が苦手では理科系には向いてないと思い、文系にした。
 では文系のなかでは、学部はどうしょうと考える。当時の文系は今のように様々な学部があるのではなく、教育学部を別にすると、主に文学部、法学部、経済学部だった。
 文学部は、学問としてではなく本(文学)は自分で読めばいいと考えた。法学部は、膨大な法律書を暗記しないといけないようなので向いてないと感じた。となると経済学部が残った。
 つまり、消去法で経済学部を選んだにすぎない。

 大学では、第2外国語を選ばなくてはならなかった。経済学ではドイツ語を選ぶ人間が多かったが、僕はフランス語を選んだ。当時フランスが好きだったわけではなく、ドイツよりフランスが洒落ているなと感じている程度だった。

 私が大学に入って最初に買った本は、教科書、フランス語の辞書は別として、「世界十五大哲学」(大井正、寺沢恒信共著)である。
 この本は、ソクラテス、プラトン、アリストテレスの古代ギリシャ哲学者から、デカルト、カント、ヘーゲル、キルケゴール、それにマルクスとエンゲルス、サルトルまで、代表的な哲学者の思想が紹介・解説された、哲学入門書ともいえる本だった。
 専門的な経済学はこれから否応なく学ぶのであるから、それに偏ることなく哲学から裾野を広げようと思ったのだった。
 授業では経済学を学び、個人では文学を嗜好。それは私にとって心地よい選択だった。
 当時はまともな恋愛もしたことがなかったが、ずいぶん後にであるが、僕は遊び心で自分の出身(専門)を「経済学部文学科恋愛専科」と称していた。「恋愛専科」と言っても、若い女の子にはピンとこないだろうが、スザンヌ・プレシェット主演映画の「恋愛専科」から借りたものだ。

 *ほろ苦い思いの「富士見坂文学」

 入学して、すぐに「文芸研究会」というクラブの門を叩いた。何となく文学に関わっていたかったのだ。クラブでは、「富士見坂文学」という文芸創作誌を不定期に出していた。
 私は、その頃は詩を時折ノートに書いていたぐらいのもので、いずれ小説でも書いてみようかといった程度だった。

 大学の授業は、当時としては近代的な建築の「55・58年館」の教室で大部分が行われた。※「変貌する大学」①②(ブログ2019.4.)参照。
 大学の正面のフロント部分に、置き去りにされた遺跡のような六角校舎と呼ばれていた古い建物があった。1、2年の教養課程は、この中の教室で行われるときもあった。
 文芸研究会は、この六角校舎の各部室が集まっている地下室にあり、いつ行っても暗かった。
 それに僕は、中学時代は放課後図書館に通っていたぐらい文芸関係の本を読んでいたのだが、高校時代はまったく文芸本を読んでいなかった。3年間の文学的空白は大きく、部室に行っても、先輩たちの現代文学の話について行けずに、部室では無口な新入生だった。それに、「富士見坂文学」に掲載されている創作、作品は、私には理解不可能なものだった。
 入部したすぐ、10人ぐらいいた新1年生は何か作品を発表することになり、私は詩を提出した。まだ小説を書いて提出した新入生はいなかったと思う。
 「富士見坂文学」には、新入生の中から他の男の1編の詩が載った。それは会話体の、私から見たらふざけたような詩だった。こんな奇を衒った詩が評価されるのかと、決して僻みではない、ある種の落胆と失望が生じた。
 私のはセンチメンタルな詩だったが、もっとも煩(うるさ)そうな先輩が、どういうわけか、こういう詩は個人的には好きだなあと評価してくれた。といっても、その後その先輩と親しく話したことはない。

 その年(1964年)の上半期の芥川賞は柴田翔の「されどわれらが日々――」だった。この本は、日本共産党が武装闘争の方針を撤回した1955年の第6回全国協議会(六全協)前後の時代、学生運動に挫折した東大の学生を描いたものだった。
 60年安保闘争で挫折した学生運動であったが、各大学ではその火は燃え続けていたこともあり、学生の間では評判になりベストセラーとなった。
 当時私は学生運動に触れ始めた時期であり、前衛的で難解な大江健三郎を義務感のように読んでいたこともあり、この小説は物足りない印象だった。
 そして、その年の下半期の直木賞は永井路子の「炎環」だった。(安西篤子の「張少子の話」と同時受賞)
 後に出版社に入り、永井先生の本の出版に携わり、懇意にさせて頂くようになるとは思いもよらなかった。

 しかし、何といってもこの年(1964年)最大の話題作は、中央大生の河野實と同志社大生の大島みち子の往復書簡集である「愛と死を見つめて」(大和書房)であろう。
 またたく間に驚異的なベストセラーとなり、私も買ったのだった。
 のちに、大空眞弓、山本学主演でテレビドラマ化、吉永小百合、浜田光夫主演で日活にて映画化、青山和子で日本コロムビアにてレコード化された。
 当時小さな出版社にすぎなかった大和書房だが、この本のベストセラーによってビルを建てたといわれている。

 私は文芸研究会の部室には滅多に顔を出さない幽霊部員のような状態で、作品を書くこともないままに過ぎていった。やがて2年も終わりの頃、先輩から同学年の部員に、そろそろ創作(小説)を書いてくれ、と言われた。
 私は取り繕うように、「赤い苔地」という短編小説を書いて提出した。それはタイトルを見ただけでも訝しげな、ミケランジェロ・アントニオーニ監督、モニカ・ヴィッティ主演の映画「赤い砂漠」に影響を受けた、自分でもひどい内容と言える小説だった。
 当然のごとく私の作品は「富士見坂文学」に掲載されることなく、作品に対する何の反響もなく、それ以後、私は部室の扉を開くことなく、自然退部したのだった。
 この例のように、私はこの頃すでに、本(小説)より映画に影響を受けていた。
 そして「富士見坂文学」は、ほろ苦い思い出となった。

 *ため息のでるよな、大学新聞の「小指の思い出」

 1966年の秋、「法政大学新聞」(法政大学新聞学会発行)の「大学祭特集号」で、「文芸コンクール入選作」の創作(小説)、詩の2部門が掲載された。年に1度のこのコンクールは、ここ3年入選作がないという厳しい選考でもあった。
 大学新聞主催の文芸コンクールは、大江健三郎(東京大)、倉橋由美子(明治大)らを輩出したことなどで、学生独自の発表の場として注目されていた。
 時代は変わり、大学祭と言えば今では「ミス〇〇大」が話題となるが。
 
 創作入選作は、「海の榾火(ほだび)」で、三神弘。入選作者は第二経済学部の学生で、私と同学年だった。
 私には鮮烈だった。私は、その小説を味わうように何度も読んだのだった。
 「海の夏はとうに終わったはずなのに、美沙子はぼくのところへ帰ってはこなかった。
 ぼくは海へ美沙子を訪ねていった。
 夏のはじめに、美沙子の指を強く噛んで、まあるく歯の跡をつけて以来、ぼくたちはそのひと夏を逢ってはいなかった。」
 この出だしの文のように、小説全体に詩情があふれていて、私は巧いなあと感心するとともに、ため息をついた。印象派の絵画のような小説だった。
 このとき、伊東ゆかりの「小指の想い出」(作詞:有馬三恵子)は、まだ発売されてはいない。曲が発売されたのは、翌年である。
 創作部門の選者の中村真一郎は、いくつかの候補作のなかで「文学的に完成度の高いこの作品を入選とすることにした」としたうえで「この作者は既に作家になっていると感じられた」と、選後評で書いている。
 選者の中村真一郎は、当時すでに名は知れ渡っていたが、古今東西にわたる文学的教養をもとに、「四季」4部作を発表するなど、長く知的大御所として存在した。

 三神弘は、のちに「三日芝居」で「すばる文学賞」を受賞する。作品を書き続けていたのだ。

 ちなみに詩部門の選者は、大学でフランス語を教えていた詩人で法政大助教授だった清岡卓行であった。清岡は3年後の1969年に、小説「アカシアの大連」で芥川賞を受賞する。

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