かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

パンデミック下の東京五輪

2021-09-03 03:38:52 | 人生は記憶
 *① 1年遅れの東京五輪2020

 第32回オリンピック競技大会東京大会(東京五輪)が、2021(令和3)年8月8日、17日間の幕を閉じた。
 2020年開催の東京五輪は、世界に感染が拡大した新型コロナウイルスのパンデミック影響により、史上初の翌2021年に1年延期となった。1年延期にもかかわらずパンデミックは収まらず、大会が開催された2021年の7月は、東京都は4度目の緊急事態宣言下となっていた。
 「コロナに打ち勝った証しとして…」を標榜に、都や政府は五輪開催実施の旗を振っていたが、7月23日の大会が始まる直前まで、日本国内では反対の意見が大勢を占めていた。
 こうした多難なハンディを抱えて、本当に開催できるのであろうかという暗雲の漂うなか、東京五輪は開催された。それは開催というより、決行されたといってもよい。
 海外から参加する選手やスタッフの行動は規制され、大会競技もほとんどが無観客で行われるという、史上稀な大会となった。
 この希少で貴重な五輪大会のことは、個人的にも記録しておかなくてはいけない。
 
 なお、「コロナ禍」と記されることが多いが、ここでは、コロナ状況のもとという意味で「コロナ下」と記した。

 *② 1964年の東京五輪の記憶

 前の東京五輪が開催されたのは1964(昭和39)年である。
 私は大学入学で上京した、その年であった。
 巷では井沢八郎の「ああ上野駅」が流れ、「雨の外苑、夜霧の日比谷…」と東京の街を甘く歌った新川二朗の「東京の灯よいつまでも」が私の心を浮き浮きとさせていた。
 この年開催された東京五輪は、アジア初のオリンピックということもあって、今思えば日本国中熱狂的であったのだ。
 とはいえ振り返ってみれば、私は九州の田舎から出てきて初めての東京暮らし、何より初めての一人での自由な生活で、初めて人生の第一歩を踏み出したという思いが強かった。そのなかでのオリンピックは、色濃い季節の移ろいのなかで夏の終わりの打ち上げ花火のように過ぎていった。

 開催式の日(1964年10月10日)、五輪の丸い輪が、フワフワと青い空に浮かんだ。そして、強く印象に残っているのは、最終聖火ランナーが私と同じ年の早稲田の学生だったことだ。
 空気のように感じていた五輪でも、競技が始まれば次々とニュースは入ってくる。
 当時、西武沿線の豊島園の一軒屋の二階での下宿生活で、私はテレビを持っていなかったので情報といえば新聞がほとんどだった。が、同じ下宿の他の部屋の学生がテレビを持っていたので、時々見せてもらいに行った。
 その頃、一人暮らしの学生がテレビを持っていたのは珍しいことだった。半世紀たった今の若者も、ネット情報世代でテレビ離れになりつつあるようだ。

 オリンピックの競技が始まり、まず日本選手最初の金メダリストとして耳目に入ってきたのは、重量挙げの三宅義信の名前だった。そして、みんなが騒いでいたのは、東洋の魔女と称された日本女子バレーボールで、大松監督の「おれについてこい」の指導文句も話題となった。それと、ウルトラCと名付けられた技を連発した男子体操だった。
 優美な女子体操のチェコスロバキアのチャスラフスカは、「東京五輪の華」と呼ばれた。
 この大会から新しく採用されたのが柔道。日本の武術からきている柔道は本来体重別ではなかったが、この大会では軽・中・重量に無差別の4階級制(現在は7階級制)で行われた。
 柔道はまだ世界にさほど普及していなかったこともあって、日本が全階級金メダル独占と思われていた。ところが無差別級決勝で神永昭夫が敗れ、オランダのヘーシンクが金メダルを勝ち取った。このことが、その後の柔道の国際化への大きな要因となったといえる。

 *③ 最初で最後の五輪ライブ観戦は、伝説のアベベ

 1964年10月21日、男子マラソンが行われた。
 コースは、代々木の国立競技場をスタートし、ひたすら国道20号線(甲州街道)を走り、調布で折り返して再び国立競技場へ戻ってくるというものだった。
 私が住んでいた2階の下宿は4部屋で、3部屋が大学は違うが私と同じ地方からやって来た大学1年生で、なぜか一人だけ東京出身という若い会社員が住んでいた。その彼が近くに住んでいる私の大学の先輩2人を連れて来て、私に一緒にマラソンを見に行こうと誘った。
 断る理由などない。私は二つ返事で了承し、一緒にオリンピックのマラソンを見に行くことにした。一人の先輩は岐阜県恵那市出身で、気のいい人だった。
 こうして、4人で代々木の国立競技場に向かった。国立競技場に続くコースの道路の周辺は見物客でいっぱいだった。私たちはゴールのある競技場内の入場券を持っているわけではないので、当然競技場の外のコース道の脇で比較的見やすい場所を選んで、選手が来るのを待った。

 男子マラソンは、エチオピアのアベベ・ビキラ選手が出場するというので大きな話題になっていた。アベベ選手は、前回五輪の1960年ローマ大会ですい星のごとく現れ、当時の世界新記録で優勝し、しかも彼は裸足で走っていたという、一躍世界中でヒーローとなった人である。
 裸足で走り、史上最高の舞台の五輪大会で、世界最高記録で、優勝金メダルとは、現在話題のタイムを縮める効果を追求した厚底シューズやスーパーシューズの氾濫するマラソン現状から見ると、考えられないほどの素朴といおうか原点の走りを見せられたのだった。

 待ちに待ったトップランナーがやって来た。
 やはりアベベだった。彼は、私たちの前を、やや俯き顔の哲学者のような顔をして、あっという間に通り過ぎていった。大本命がトップで来たことを、私たちは当然の出来事のように受け取っていた。そのときの、アベベの走る写真が今でも私の手元に残っている。
 後ろに迫ってくるものはいない、アベベの独走だった。だいぶん(4分ほど)たって、2番手で日本人の円谷幸吉選手が姿を見せた。それからちょっとしてイギリスのベイジル・ヒートリー選手が続いた。
 そして、次々と選手が走り過ぎて国立競技場に吸い込まれていった。
 後でニュースで知ったのだが、アベベの優勝タイムは、それまでのヒートリーの記録を1分44秒縮める2時間12分11秒2の世界最高記録であった。そして、史上初のマラソン五輪2連覇を記録したのだった。
 競技場前で2位で走った円谷は、競技場の中のトラックでヒートリーにかわされて3位銅メダルであった。これは、陸上競技唯一のメダルであった。
 男子マラソンには日本人選手は3人出場し、君原健二選手が8位、寺沢徹選手が15位であった。

 *④ 不協和音のなか、東京五輪の高い視聴率

 今回2021年の東京五輪は、57年前の五輪のように、みんなから何の疑いもなく祝福を受けるとか、大きな期待を持って迎えられるという現象はなかった。
 それでも、大会が始まると、みんなテレビやネットでそれを見た。複雑な空気のなかで始まった。
 7月23日夜に東京五輪開会式を生中継したNHKの平均世帯視聴率(ビデオリサーチ調べ)は、関東地区で56.4%を記録した。これは、夏季五輪の開会式としては過去最高の1964年東京大会の61.2%に迫る、思いもよらぬ高視聴率だった。
 予想を超える人々がテレビで五輪を観ていたことに、少し驚いた。

 競技別のテレビの視聴率(ビデオリサーチ調べ、関東地区、世帯)でも、高視聴率が続出した。主な競技をあげてみる。
 「野球・決勝・日本×アメリカ」37・0%。
 「陸上・男子マラソン」31・4% 
 「サッカー・男子準決勝・日本×スペイン」30.8%。
 「卓球・女子団体決勝・日本×中国」26・3% 
 「柔道・3位決定戦・男子60kg級」24・2%

 8月8日の閉会式の世帯平均視聴率が46・7%だった。夏季大会の閉会式では、1972(昭47)年のミュンヘン大会の46・9%に次ぐ数字だった。2012年ロンドン大会が11・6%、2016年前回リオ大会が7・5%だったことを見ると、いかに高い数字だったかがわかる。
 なお、1964(昭和39)年の東京大会の閉会式は63・2%を記録している。

 *⑤ 野球、念願の金メダル

 私も、野球とソフトボールは全試合テレビで観る結果となった。
 野球は、日本は準決勝で韓国を5-2、決勝でアメリカを2-0で破り、初めて金メダルを獲得。正式競技になった1992年バルセロナ五輪から6度目の出場での悲願達成となった。
 結果は、金・日本、銀・アメリカ、銅・ドミニカ共和国であった。
 女子のソフトボールは、日本は決勝でアメリカに2-0で勝ち、13年前の北京大会以来となる金メダルを獲得した。主戦投手は、北京大会に続いて上野由岐子選手。
 女子のソフトボールの試合をちゃんと観たのは初めてで、野球と少しルールが違うところがあるが、一塁ベースが2つあるのには驚きの発見だった。
 しかし、野球、ソフトボールともにヨーロッパ、とりわけフランスではあまり普及していないこともあって、2024年のパリ大会では実施されない予定となっている。

 野球日本代表チーム<侍ジャパン>の主なるスターティング・メンバーと代表24選手を記しておこう。
 <監督> 稲葉篤紀
 1番(指)山田哲人(ヤクルト)
 2番(遊)坂本勇人(巨人)
 3番(左)吉田正尚(オリックス)
 4番(右)鈴木誠也(広島)
 5番(一)浅村栄斗(楽天)
 6番(中)柳田悠岐(ソフトバンク)
 7番(二)菊池涼介(広島)
 8番(三)村上宗隆(ヤクルト)
 9番(捕)甲斐拓也(ソフトバンク)
 (野手)近藤健介(日本ハム)、源田壮亮(西武)、栗原陵矢(ソフトバンク)、梅野隆太郎(阪神)
 (投手)山本由伸(オリックス)、森下暢仁(広島)、田中将大(楽天)、千賀滉大(ソフトバンク)、伊藤大海(日本ハム)、大野雄大(中日)、青柳晃洋(阪神)、岩崎優(阪神)、山﨑康晃(DeNA)、平良海馬(西武)、栗林良吏(広島)

 *⑥ 2021年の東京五輪の記録

 2021年に行われた第32回オリンピック競技大会(東京五輪)は、205の国・地域(ロシアは個人資格での参加)と難民選手団合わせて約1万1千人の選手が参加した。
 日本は、史上最多の金メダル27個を含む計58個のメダルを獲得した。
 上位の国のメダル獲得数は、アメリカの金39個を含む計113個、中国の金38個を含む計88個、イギリスの金22個を含む計65個、ROC(ロシア・オリンピック委員会)の金20個を含む計71個、があげられる。
 なお、1964年東京五輪では、日本はそれまでの記録を大幅に破る金16個を含む計29個のメダル獲得数だった。

 また、印象に残ったことは、
 開会式にて、オリンピック発祥の地として毎回最初に入場するギリシャに次いで、シリア、南スーダン、イラン、アフガニスタンなど11カ国出身の代表による、難民選手団が2番目に入場した。
 ロシアは組織的ドーピングの影響を受け、国名は使われずROC(ロシア・オリンピック委員会)のもとで参加した。
 大会合宿先からウガンダの男子ウエイトリフティング選手が失踪。4日後に見つかり大会に出場することなく本国に帰国させられた。動機は「日本で働きたかった」ということ。
 ベラルーシの女子陸上選手が帰国直前に、政権の弾圧を怖れてポーランドに亡命した。

 8月24日、東京2020パラリンピックの開会式が行われ、同大会が始まった。

 *⑦ コロナ下のワクチン接種と、アイスランドのある五輪の風景

 そして東京五輪では、「ホストタウン」という日本の全国の自治体と東京五輪に参加する国・地域の選手との多様な交流を実現させようという取り組みがある。
 コロナウイルスによるパンデミックで、今東京大会ではおそらくどこも思うような活動はできなかったと思うが、私の住む東京都多摩市では、アイスランド共和国のホストタウンとなっている。
 アイスランドは日本とのなじみは薄いが、国名の漢字表記は氷島、氷州、愛撒倫などである。北大西洋の島国で、グリーンランドの東、イギリスの北西、北極圏の南に位置し、島の大きさは韓国(大韓民国)とほぼ同じ面積である。
 首都はレイキャヴィクで、総人口は約35万人と少ない。漁業が盛んで、日本と同じく鯨漁も行っている。地熱発電をはじめ再生可能エネルギー発電を積極的に行っており、エネルギー政策先進国である。
 多摩市の広報誌では、アイスランドの参加選手の紹介も掲載している。それによると、事前キャンプを行っている選手もいるようだが、コロナ状況下で地元交流も控えているようである。

 コロナのワクチン接種は、先進国と途上国の格差が問題になっているなか、遅れていたわが国でも医療関係者から一般の高齢者、続いてそれ以下の年齢者へと漸次速度を上げて接種が進んでいる。
 一般者接種においては、5月に入り、自治体ごとに高齢者より予約接種券が配送され、電話とネットによる予約受付が行われ、それに伴い接種が始まった。ワクチン供給数が限られたこともあり、当初は予約電話は繋がらず、ネットによる予約もすぐに受付終了となるなど、その騒ぎがニュースとなった。
 多摩市では、高齢者先行の予約受け付けが5月6日に始まり、私も受け付け開始の9時すぐにネット接続を試みたが、あっという間に受付終了。3日目にやっと予約が取れ、5月22日1回目、3週間後の6月12日に2回目のワクチン接種を終えた。

 そのワクチン接種会場が、市の公民館の他、「リンクフォレスト」のホールで行われた。
 リンクフォレストとは、多摩センター駅と唐木田駅の間に、去年できたばかりのKDDIの宿泊施設のビルで、私にはいつも通る馴染みの通りにあることもあり、この会場で受けた。
 現在多摩市では、ここのみがワクチン接種会場となっている。
 この多摩センター駅から続く、歩行者専用の通りの真ん中に立つ街灯には、アイスランドの国旗と、「多摩市はアイスランドのホストタウンです」と書かれた市章が並んで掲げられ風になびいている。
 東京五輪が開催されている証しを、静かに宣言しているかのようである。
 その街灯の柱に、「新型コロナワクチン接種会場」の看板が設けられている。その先の右(西)側に聳える真新しいビルが、ワクチン接種会場である。(写真)

 東京五輪とワクチン接種会場……コロナ下での東京五輪を象徴する風景であり、この年、この時期だけの景色である。

 *⑧ 五輪のレガシー(遺産)とは?

 世論が二分するパンデミック下で行われた2021年の東京五輪の評価は、後世、何年か何十年か経って決まるものだろう。時がたった後、歴史の評価は定まっていく。
 8月17日の朝日新聞の紙上で、佐藤卓己(京都大学大学院教授)氏は、今回の五輪のレガシーについて、こう述べている。
 「レガシーとは、時間の中でつくられていくものです。何をレガシーとするのかという作業は今から始まります」
 そのレガシーをつくるために、何をどう記録し、記憶するのか。それが重要であると。

 *追伸
 9月3日の昼、パンデミック下の東京五輪の開催決行の原動力となった菅義偉総理大臣が、突然のことだが、差し迫った自民党総裁選(9月17日告示、27日投開票)に立候補しないと表明した。
 この人の評価も、歴史に委ねたい。



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