かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

「ドレスメーキング」の時代① 洋裁の時代

2020-06-28 02:02:27 | 人生は記憶
 * 同期の桜

 散る桜 残る桜も 散る桜
         ――良寛

 桜はとうに散り、梅雨の最中の東京だが、わが同期の桜が散った。
 大学を卒業して、最初に入社した時の会社の同期の友人である。服飾誌、女性誌を中心に雑誌・書籍を発行していた出版社で、出版物の性格上、女性が圧倒的に多い会社であった。
 1968(昭和43)年4月春、新入社員14人のうち、男性は編集の私とカメラマンの彼の二人だった。唯一の男の同期の桜であった。発展途上にあった会社は、その年の7月、さらに14人の女性を中途採用した。

 その会社、鎌倉書房は1941(昭和16)年創立した当初は文芸書を出版していたが、戦後1949(昭和24)年、服飾誌「ドレスメーキング」を出版し、1964年(昭和39年、)婦人誌「マダム」を出版して、1960年代私が入社した頃は、服飾・料理関係書を中心とした生活書を出版して急成長をしていた。
 私は、会社を牽引してきた看板雑誌「ドレスメーキング」の編集部に配属された。編集部員は概ね各専門担当に分かれていたが、新人の私はファッション・カラーページおよびモノクロ1色情報ページの、ほゞ全方位のアシスタントから出発した。
 彼の所属するカメラ部には会社の専属カメラマンはすでに5人いて、彼は先輩カメラマンのアシスタントから出発した。当時一流カメラマンは、多く服飾誌で活躍していた。
 新人同士の二人は性格も思考形態も女性の好みもまったく違ったが、なぜか気が合い、仕事が終わったあとよく遊びまわった。二人は会えば、いまだありもしない自分たちの大器を壮語し、根拠もない才能を語りあった。
 彼は3年半ほど勤めた後、会社を辞めアメリカ放浪の旅に出発し、8か月ほどして帰国し、フリーランスのカメラマンとなった。
 その後、会うことも少なくなったが、人生の過去を振り返る年齢になった頃より、再び頻繁に会うようになった。幸か不幸か、彼もずっと独り身で、会うとすぐに入社した時の、若くて不遜な思考形態に戻ることができ、一過性とは知りつつも訳もなく元気になるのだった。
 後年、デジカメの普及もあってカメラマンとしての仕事は漸減していたが、カメラマンの魂はずっと持ち続けていた。
 その彼が、今年2020年の6月3日、癌がもとで死んだ。
 「ドレスメーキング」で出発した、同期の桜が散った。

 * 日本のファッションは、洋裁学校とミシンともに

 女性の洋服、つまり洋装は戦後急速に発展していった。
 戦前にも洋装はあったもののそれはほんの一部で、大部分の人は着物、和装だった。それが戦後のアメリカナイズと合理的便利さも伴って、またたく間に洋装は日本中に普及していった。
 まずは手作りのシンプルなデザインの簡単服のようなものから、次第にデザイン性のあるものにグレードアップしていくのだが、それを引っ張っていったのが、洋裁の技術を教える洋裁学校と洋裁に必要なミシンの普及であった。

 その洋裁学校は、ドレスメーカー女学院と文化服装学院が2大勢力で、他に田中千代服装学園、桑沢デザイン研究所などがあった。
 1960年代、いわゆるファッション雑誌といわれているものはなく、「ドレスメーキング」、「装苑」に代表される服飾雑誌がそれを担っていた。他に、「服装」(婦人生活社)、「若い女性」(講談社)を加えて服飾4誌と呼ばれることもあった。
 「ドレスメーキング」は鎌倉書房が出版していたが、ドレスメーカー女学院を創立した杉野芳子を監修としていたし、「装苑」は、文化服装学院出版局であった。また、「服装」は田中千代による監修であった。
 つまり、主流の服飾誌は、戦後、花嫁修業の一つとまで言われるようになった洋裁学校をバックボーンにしていて、洋裁人口の増加とともに部数を伸ばしていった。
 それはなぜかというと、服飾誌はファッション・スタイルの紹介とともに、洋服の作り方が掲載されていたからである。
 洋服の作り方には、基本としての原型があり、その原型は大きく分けてドレスメーカー女学院のドレメ式と文化服装学院の文化式があった。
 全国に系列校を増やしていった洋裁学校は、これらの原型に則っていたし、服飾雑誌もそれ抜きではなかった。

 ※2016(平成28)年度上半期放映のNHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」(高畑充希主演)の主人公は、戦後、「暮しの手帖」を創刊した大橋鎭子がモデル。この雑誌で、編集長の花森安治による、ドレメ式や文化式の原型・型紙を使わない、シンプルな直線裁ちによる和服の布などを使った洋服作りの提唱も、時代の趨勢として特筆したい。

 *家庭にミシンがあった頃

 洋裁の技術手段としてのミシンは戦前からあったが、飛躍的に発展・普及したのは洋装化の波がきた戦後である。
 1949(昭和24)年に部品が規格統一化されたことによる生産性の合理化、さらに手回し式や足踏み式から電動式への機械の発達が拍車をかけた。
 まだ女性の社会進出が限られていた時代、洋裁技術の習得は女性が自立し、手に職を持つ大きな手段であった。それは、女性にとって家計の手助けになるのはおろか、一家を支える収入にもなっていった。また、そのなかから自分の洋裁店(洋装店、後のブティック)を持つ女性も現れ、さらにデザイナーとして羽ばたいていく女性も出現していった。それにはミシンが必要であった。
 しかし、当時ミシンは決して安いものではなかった。月賦で買う人も多かった。
 ミシンがいかに人気があったかという証に、1950(昭和25)年から始まったお年玉付き年賀はがきの特等は、ジューキ社のミシンであった。後に、ミシンは花嫁道具の一つとまで言われるようになる。

 私の母も洋裁をやっていた。
 家には、庭に面した縁台の近くにつぎ足しで造ったミシン室があり、学校から帰ってくると奥からミシンを踏む音が聞こえてきた。母は、注文を受けた服をせっせとミシンで作っていた。そしてその部屋には、「ドレスメーキング」が置いてあった。
 子どもの頃、その本を出版している会社に入社するとは思いもよらなかったのだが、人生は分からないものである。

*写真は、創刊時1949(昭和24)年発行の「ドレスメーキング」No.2、3、4号

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