かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

現代ミステリー・ガイドのような、「二流小説家」

2012-03-21 00:40:32 | 本/小説:外国
 若いとき、名前は忘れたが有名な作家が「ミステリー小説は読まないようにしている」と話していたのが記憶の底にいまだに残っている。
 その理由が、純文学を読まなくなるからというのだった。つまり、面白くて、読書の傾向がそちらの方にいって、事件も殺人も起こらないどころか、深刻で堅苦しい純文学系統の小説を読む気が失せると困るからという主旨だった。
 そのとき、僕はなるほどと妙に感心したものだった。仕事もあるし、遊びもあるし、読書の時間は限られている。そこに割りあてる限られた時間で、何を読むかは重要だ。
 もともと読書にたいして時間を割いていないが、この作家の話を聞いてミステリーを読まない免罪符を得たような気分になった。
 それで、ミステリーはもっぱら映画やドラマで楽しむことにした。

 かといって、ミステリーはすべて読まないという頑なではない。書評などで興味を惹いた内容の本は、少しは読んではきた。
 「二流小説家」(デイヴィッド・ゴードン著、早川書房刊)は、その題名に惹かれた。「恋愛小説家」ではないが、二流小説家が主人公というのは、面白そうだ。
 そもそも、僕は二流小説家に憧れていた。
 一流小説家ではないから名前も顔も知られていない。初対面の相手から、「何をなさっているんですか?」と訊かれれば、「いや、ちょっと、小説を…」などとぼそぼそと答えるのだ。すると、相手は「ほう、どんな小説をお書きですか?」と興味深そうに探りを入れてくる。すると、「まあ、何ていうか、どちらかといえば恋愛小説ですかね」と、照れくさそうに少し下を向きながら答えるのだった。
 そんなことを、僕は妄想族だから思ったりもした。

 *

 「小説は冒頭の一文が何より肝心だ。唯一の例外と言えるのは、結びの一文だろう」
 小説「二流小説家」は、冒頭から、著者が姿を現す。そう、この小説の主人公は小説家で、二流小説家なのだ。複数のペンネームを使い分けて、安手のミステリーやSFやヴァンパイア、それにポルノの小説をシリーズとして書き続けてきた。出版の依頼がくるのだから、それぞれに、多くはないがそこそこの読者はついている。
 著者は、自分の思いを織り交ぜて、小説である物語に入っていく。
 「この小説を、ふさわしくも印象的な一文で始めたい理由はもうひとつある。それは、これがぼくの実名で、ぼく自身の声で世に出す初めての作品だということだ」
 実際、この「二流小説家」が、著者デイヴィッド・ゴードンのデビュー作なのだ。だから、彼は、自分のすべてをこの小説の中に投入している。これでもか、とばかりに。

 このぼくである主人公の二流小説家のところに、死刑執行を3カ月後に控えた、世間を騒がせた猟奇殺人犯から、告白本の依頼が舞い込んだのである。ベストセラー間違いなしだ。これで、二流小説家ともおさらばで、流行作家になるだろう。
 ぼく(主人公)は、獄中の猟奇殺人犯に面談・接触する。
 そこで殺人犯は、告白本をぼくに任せる代わりに、ある条件を出す。もちろん、流行作家になるためには、その条件なんて軽いものである。ぼくは彼の条件に従って行動する。

 話は、次々と得体のしれない人物が登場する。さらなる猟奇死体が出てくる。二流小説家は、探偵のように犯人を追いつめる。FBI特別捜査官が出てくる。物語の間に、著者の文学論や人生観がつぶやかれる。
 ミステリー、ハードボイルド、サイコ、ホラーの小説をミックスしたような展開だ。
 主人公は、ある時はエルキュール・ポアロのように緻密に推理し、フィリップ・マーロウのように危ない目にあうが騒ぎたてることもなく、ジェームス・ボンドほどではないが美人のストリッパーと濡れ場を演じるほど女性にももてるのだ。さらに、ジョン・H・ワトスン君のような冷静な助言をする女子高生のビジネス・パートナーである相棒がいる(ありえない設定だ)。
 猟奇殺人犯と主人公のやりとりは、「羊たちの沈黙」(原作:トマス・ハリス、監督:ジョナサン・デミ)の色彩が色濃く滲み出ている。
 物語の途中に、ぼく(主人公)の作品のSFやヴァンパイアの物語が挿入される。
 何もかもできすぎで、盛りだくさんだ。ミステリー、ハードボイルド、ホラー小説のコラージュあるいは見本市のようだ。なのに、結末は、意外!ではない。

 物語の「エピローグ」で、主人公は語る。
 「推理小説を書くにあたって一番厄介なのは、虚構の世界が現実ほどの謎には満ちてはいないという点にある。人生は文学がさしだした形式を打ち破る。」
 実際、現実社会は事件と殺人と謎に満ちている。世界を見渡せば、各地で一触即発の戦争の危機すら存在している。わが国とて一見平和そうだが、天災、人災で明日はどうなるかわからない。

 さらに、著者は続ける。ミステリーを客観視しているという、巧妙な本音と計算を含んだエピローグだ。
 「真の不安と危機感とは、次に何が起こるかをいっさい知らないことから、先の見えない“いま”を生きていることから生じるものなのだ。“いま”という時は、一瞬一瞬に類がなく、二度と繰り返されることがない。そして、ぼくらにわかっているのはただ一つ、それがいつかは終わるということだけだ。だからこそ、ぼくは大半の推理小説に落胆してしまうのだろう。そこに示される解答が、みずから蒔いた途方もない疑問に答えているとはとうてい思えないからだ。」

 著者は、読者の感想をも記してしまったようである。そして、いみじくも推理小説の限界をも自ら嘆いている。

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