かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

由紀さおりが歌う、1969年という時代

2012-03-05 02:29:26 | 人生は記憶
 由紀さおりが、アメリカのジャズオーケストラ、ピンク・マルティーニとジョイントして歌っている「1969」が全米をはじめ世界的にヒットしている、そういうニュースを昨年(20011年)の晩秋に聞いたとき、やっと世界が日本の歌謡曲をわかってくれたか、と思わず嬉しくなった。
 「1969」は、もともと童謡歌手だった彼女が「夜明けのスキャット」で歌謡曲デビューし大ヒットした年が1969(昭和44)年で、その前後の歌謡曲を中心に歌ったものだ。
 ピンク・マルティーニのリーダーであるトーマス・ローダーデールが、アメリカ・ポートランドのレコード店で、由紀さおりのデビューアルバム「夜明けのスキャット」を気まぐれに手にしたのが、扉を開いた第一歩だった。どんな歌が収められているかも知らず、5ドルで買ったこの中古レコードを、トーマスはその年の夏、ずっと繰り返し聴いていたという。
 出会いとはそういうものだ。
 そして、いくつかの曲折を経て、「1969」が世に出た。
 そこには、日本の歌謡曲、その全盛期のエスプリが収められた。
 僕も、今、1969年前後のレコード(CD)を繰り返し聴いている。

 1969年とは、どんな時代だったのか?
 燎原の火のように全国の大学に広がった全共闘運動が燃えあがる1968年の政治の季節が、東大安田講堂陥落に象徴されるように、燃え尽きたかのように一気に衰退へと向かった年でもあった。
 もちろん世相は、そのような政治の季節ばかりではなかった。いや、若者は政治の季節の終焉を自覚しつつも、どう世界と、簡単に言えばどう社会と、向き合っていいかわからずにいた年といっていい。あらゆるジャンルで、流れが大きく変わろうとしていた。
 華やぐ街、特に新宿には、反体制と退廃的な雰囲気を併せ持ったヒッピーやフーテンがたむろしていたし、アングラ(アンダーグラウンド)と称される芝居や映画が街の片隅や地下室で上演されていた。
 色彩はサイケデリックと呼ばれるPOPアートが氾濫し、男も派手な色彩に身を飾り始め、ピーコック革命などと呼ばれた。髪も肩に届くほどに長く伸び、指には彫金されたデザイン指輪が光った。
 それは、新しい時代の幕開けのようでもあり、終わりのようでもあった。

 *

 大学を卒業し出版社に身を置き、ファッション服飾誌の雑誌編集者として社会人をスタートさせた僕は、入社したての情熱は冷めて、中途半端な状況の自分とどう対処していいかわからずにいた。
 仕事が終わったあとは映画を見たり、新宿の雑踏を徘徊したりした。時に、同期入社のカメラマンと会社帰りに憂さを晴らしていた。
 仕事に、自分を見いだせないでいたのだ。今考えれば、青すぎると言おうか、独りよがりな考えだったと言わざるをえない。そもそも社会に出て、仕事に意義を見出そうとしたり、すぐに自分の好きなことができると期待するのが無理というものだ。

 それでも若さは僕だけでなく、時代そのものであったと言えよう。時代も若々しかったし、ファッションも新しい時代を迎えようとしていた。手作りのオーダーメイド、オートクチュールから既製服のプレタポルテに移ろうとしていたのだ。原宿や青山に、洋装店ならぬブティックが生まれていた。
 振り返れば、ファッション服飾雑誌は時代を映す仕事でもあった。仕事は最初は誰でもそうだが、先輩編集者のアシスタントである。毎月が、来たるべきファッション(流行)である洋服のデザイン依頼、撮影に日々明け暮れた。僕は、自分が何をやっているかわからずにいた。

 そんななか、最初に任された担当ページは忘れられない。わずかカラー3ページの繊維会社のタイアップで、前衛的なプリントの服を紹介するものだった。
 先輩編集者のサジェスチョンのなか、撮影場所は赤坂のディスコ「MUGEN ムゲン」、カメラマンは立木義浩。モデルは、真理アンヌ、山中真弓、我妻マリで、ページは完成した。
 「MUGEN」は、1968年赤坂にできた本格的ディスコのはしりであった。壁には、藤本晴美によって、アメリカ仕込みの最前衛のサイケデリックな照明が映し出されて、幻惑的な空間を作り出していた。
 
 また、服・ファッションの紹介という服飾雑誌の主流から外れた企画で、楽しみに出くわすこともあった。
 女性のファッションはスカート一辺倒から、1960年代後半にはパリ・オートクチュールのクレージュ、サンローランなどによって革新的なパンツ・ルックが市民権を得、日本でも裾の広いパンツであるパンタロンが流行の兆しを見せていた。
 それで、当時先端ともいえるパンタロン(パンツ)を愛用していて、それが似合うお洒落な芸能人に登場してもらい、その写真を撮ってインタビューするという、この本では異色の芸能企画だった。ミーハーでもある僕には、記憶に残る楽しい仕事となった。
 ちなみに、ミーハーとは、ミーちゃん、ハーちゃんを語源とする説があるが、当時は芸能雑誌の双璧である「明星」「平凡」からきた言葉だとも巷間言われた。

 この「わたしはパンタロン党」という企画で取材し登場してもらったのは、いずれも当時歌手としても活躍している、おしゃれな若い芸能人6人に絞った。
 15歳の時に「こまっちゃうナ」でデビューし、モデルとしても活躍していた山本リンダ。
 「虹色の湖」を大ヒットさせた中村晃子。
 「ゆうべの秘密」を大ヒットさせた小川知子。
 当時人気のマルチタレントであったシリア・ポール(のちにモコ・ビーバー・オリーブ3人組で「忘れたいのに」「海の底でうたう唄」などのヒット曲を出した)。
 「恋の呪文」などの歌謡曲も出した、エキゾチックなシャンソン歌手堀内美紀。
 西野バレエ団4人娘として歌って踊って活躍していた、「恋泥棒」の奈美悦子、である。
 みんなパンタロンがよく似合った。しかし、象徴的なピンキーとキラーズの今陽子が抜けていた。

 *

 時代は、「歌謡曲の季節」と言えた。
 時代も若く、歌の世界も若く、レコード会社にとらわれない才能あるフリーの作曲家や作詞家が数多く輩出した。
 作曲家では、いずみたく、すぎやまこういち、鈴木邦彦、筒美京平、村井邦彦、三木たかしなど。作詞家では、安井かずみ、岩谷時子、なかにし礼、山上路夫、橋本淳、阿久悠など。

 1968年のピンキーとキラーズの「恋の季節」(作詞:岩谷時子、作曲:いずみたく)は、「政治の季節」の終焉を象徴するかのように、また、男のグループが席巻したGS(グループ・サウンズ)の殻を打ち破るかのようだった。まだあどけなさの残るヴォーカルの今陽子は、黒の山高帽にパンタロンで、髭をたくわえた男のメンバー・キラーズを従えて登場した
 そして、黛ジュンの革新的なポップ歌謡となった「恋のハレルヤ」(作詞:なかにし礼、作曲:鈴木邦彦)に続く和風アレンジの「夕月」、若くして実力派歌手であった伊東ゆかりの「恋のしずく」、女優よりも歌手としてブレイクした小川知子の「ゆうべの秘密」、歌謡ポップスの名曲、石田あゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」(作詞:橋本淳、作曲:筒美京平)、と花のごとく出てきた女性ポップス歌手の路線は、1969年に流れ出ていた。

 翌年の1969年そうそう、由紀さおりの「夜明けのスキャット」(作詞:山上路夫、作曲:いずみたく)は、ワンコーラス目が歌詞のないハミングだけの画期的な歌だった。その短い歌詞の由紀の歌には透明感があった。
 小川知子は、「初恋のひと」(作詞:有馬三恵子、作曲:鈴木淳)を歌い、マスコミは劇的な死を遂げたレーサー福沢幸雄の死に歌のイメージをだぶらせた。
 1968年の政治の季節を残す歌としては、新谷のり子の「フランシーヌの場合は」があり、退廃的時代の雰囲気を持つ寺山修司作詞の「時には母のない子のように」をカルメン・マキが歌った。
 フォークソングのような千賀かほるの「真夜中のギター」、アン真理子の「悲しみは駆け足でやってくる」、森山良子の「禁じられた恋」、兼田みえ子の「私もあなたと泣いていい?」と多彩に、歌謡曲は広がっていった。
 そして、トーマス・ローダーデールがアルバム「1969」に入れることに執着したという、その年のレコード大賞のグランプリ、佐良直美の「いいじゃないの幸せならば」(作詞:岩谷時子、作曲:いずみたく)は、曲にやるせない哀愁を浸みこませている。
 
 1968年から1969年へ。
 時代は、「政治の季節」の終焉、いわゆる青春の蹉跌によるほろ苦い退廃と、それでもやるせない希望「恋の季節」を内包していた。

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