人生には、大きなターニング・ポイントが待ち受けている場合がある。
人は、いつどんなところで、運命ともいえる転機が待っているかわからない。それを黙って見逃す人もあれば、掴む人もある。
井原慶子は、法政大学経済学部に通う女子大生だった。モーグルスキーの活動費を捻出するためアルバイトで始めたモデルの延長で、レースクイーンとなる。そのことが、彼女の人生を変えるとは思ってもいなかった。
ところが、レースクイーンとしてサーキットへ行った際、カーレースに魅了されてしまった。そして、自分もレーサーとして走ってみたいと思う。とはいっても、彼女は運転免許すら持っていなかった。
若いときは、誰でも夢を抱く。しかし、夢は夢で終わる場合がほとんどだ。夢が大きければ大きいほど、乗り越えなければならない壁は高い。
先日、「井原慶子-究極の耐久レースへの挑戦」というテレビ・ドキュメンタリーを見た。
レースクイーンは女性の分野だが、カーレーサーといえば男性の戦場で、女性は稀だ。カーレーサーになりたいと思った彼女は、すぐさま自動車運転免許を取り、一直線にその道に進む。
そして、1999年、26歳でレース・ドライバーとしてデビューする。遅すぎるデビューを自覚した彼女は、本場イギリスにレーサーとして留学し、単身海外レースに参戦する。
男性に交じって、しかも海外で、女性一人参戦を続け、戦う舞台を高く登っていく。その間、精神的な苦難に落ち込んだ時期があったと告白している。
そして今年、24時間耐久レースの「ル・マン」に参戦した。あの映画「栄光のル・マン」の、世界の頂点ともいえるレースである。女性ではただ一人だった。
*
「栄光のル・マン」(監督:リー・H・カッティン、1971年米)は、スティーヴ・マックイーン主演の、24時間耐久レースの「ル・マン」を舞台にした映画である。
スティーヴ・マックイーンは、俳優の傍ら自身もレーサーとして活動しているほどの車好きで、彼自身が全力を投入した映画である。
僕は、先に「パピヨン」の項で書いたように、ハリウッドの映画にもマックイーンにも興味がなかったので、公開当時は見ていなかった。
しかし、井原慶子のドキュメンタリーを見たあと、この映画を観ることになった。
映画「栄光のル・マン」は、実際の1970年の「ル・マン」の24時間耐久レースにカメラを回しながら、映画を組み合わせるという、セミドキュメンタリー・タッチだった。画面から「ル・マン」の実際の熱狂が伝わってくる。
ル・マンは、パリから西に向かったところにある、フランスの小さな町である。この町を周る楕円形の一般道がコースとなり、24時間ぶっ続けで車を走らせるレースが行われるのである。このレースが行われる2日間は、海外からも含めて多くの人が集まり、町は熱狂に包まれる。
ル・マンの会場で、レースが始まる前に、このレースの説明が流れる。
「この最も過酷といえる24時間耐久レースは、G・ファルーとC・デュランが第1次大戦後に創設。いちばん近い町の名がコースの名に。
コースの全長は、1周13.469キロ、8.418マイルです。公道とサーキットの複合コースで、年間363日は一般通行が可能です。
約6キロの直線コース、ミュルサンヌ(直線コースの名)では最高速度が時速370キロを超えます。第1回開催は1923年、当時のラップ記録は9分39秒、平均速度は107.32キロでした。昨年(1969年)のラップ記録は3分22秒、平均速度は234.172キロまで達しています」
コースは、直線コースで速度が出すぎるために、何度か微調整されているが、全体では開設時からのコースと変わらず、現在まで約90年の歴史を刻んでいることになる。
マシンも改良され、タイムも映画撮影当時より速くなっているだろう。
映画は全編、ほとんど実際のレースおよびレース場での描写である。係員も観客も総出演である。
映画では、スティーヴ・マックイーンも、実際レースカーに乗り、走っている。
マックイーンは、のちに「ル・マン」に本気で参加しようとしたが、周囲の反対でやめざるを得なかったという。
映画の感想としては、モーターファンにとっては素晴らしい臨場感溢れる映像描写となっていたが、純粋な映画ファンとしてはストーリーとしては物足らなさを感じた。
しかし、「ル・マン」の醍醐味は味わえるし、スティーヴ・マックイーンも果たせなかったこのレースに、日本女性の井原慶子が挑戦したというのは感慨深い。
今年(2,012年)、「世界で活躍し『日本』を発信する日本人」の一人に彼女は選ばれた。
彼女は、「目的(夢)があったら、諦めないことです。諦めなければ、必ず実現します」と語る。
思わぬことから女性レーサーとして生きる井原慶子の、「英光のル・マン」への挑戦は続く。
人は、いつどんなところで、運命ともいえる転機が待っているかわからない。それを黙って見逃す人もあれば、掴む人もある。
井原慶子は、法政大学経済学部に通う女子大生だった。モーグルスキーの活動費を捻出するためアルバイトで始めたモデルの延長で、レースクイーンとなる。そのことが、彼女の人生を変えるとは思ってもいなかった。
ところが、レースクイーンとしてサーキットへ行った際、カーレースに魅了されてしまった。そして、自分もレーサーとして走ってみたいと思う。とはいっても、彼女は運転免許すら持っていなかった。
若いときは、誰でも夢を抱く。しかし、夢は夢で終わる場合がほとんどだ。夢が大きければ大きいほど、乗り越えなければならない壁は高い。
先日、「井原慶子-究極の耐久レースへの挑戦」というテレビ・ドキュメンタリーを見た。
レースクイーンは女性の分野だが、カーレーサーといえば男性の戦場で、女性は稀だ。カーレーサーになりたいと思った彼女は、すぐさま自動車運転免許を取り、一直線にその道に進む。
そして、1999年、26歳でレース・ドライバーとしてデビューする。遅すぎるデビューを自覚した彼女は、本場イギリスにレーサーとして留学し、単身海外レースに参戦する。
男性に交じって、しかも海外で、女性一人参戦を続け、戦う舞台を高く登っていく。その間、精神的な苦難に落ち込んだ時期があったと告白している。
そして今年、24時間耐久レースの「ル・マン」に参戦した。あの映画「栄光のル・マン」の、世界の頂点ともいえるレースである。女性ではただ一人だった。
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「栄光のル・マン」(監督:リー・H・カッティン、1971年米)は、スティーヴ・マックイーン主演の、24時間耐久レースの「ル・マン」を舞台にした映画である。
スティーヴ・マックイーンは、俳優の傍ら自身もレーサーとして活動しているほどの車好きで、彼自身が全力を投入した映画である。
僕は、先に「パピヨン」の項で書いたように、ハリウッドの映画にもマックイーンにも興味がなかったので、公開当時は見ていなかった。
しかし、井原慶子のドキュメンタリーを見たあと、この映画を観ることになった。
映画「栄光のル・マン」は、実際の1970年の「ル・マン」の24時間耐久レースにカメラを回しながら、映画を組み合わせるという、セミドキュメンタリー・タッチだった。画面から「ル・マン」の実際の熱狂が伝わってくる。
ル・マンは、パリから西に向かったところにある、フランスの小さな町である。この町を周る楕円形の一般道がコースとなり、24時間ぶっ続けで車を走らせるレースが行われるのである。このレースが行われる2日間は、海外からも含めて多くの人が集まり、町は熱狂に包まれる。
ル・マンの会場で、レースが始まる前に、このレースの説明が流れる。
「この最も過酷といえる24時間耐久レースは、G・ファルーとC・デュランが第1次大戦後に創設。いちばん近い町の名がコースの名に。
コースの全長は、1周13.469キロ、8.418マイルです。公道とサーキットの複合コースで、年間363日は一般通行が可能です。
約6キロの直線コース、ミュルサンヌ(直線コースの名)では最高速度が時速370キロを超えます。第1回開催は1923年、当時のラップ記録は9分39秒、平均速度は107.32キロでした。昨年(1969年)のラップ記録は3分22秒、平均速度は234.172キロまで達しています」
コースは、直線コースで速度が出すぎるために、何度か微調整されているが、全体では開設時からのコースと変わらず、現在まで約90年の歴史を刻んでいることになる。
マシンも改良され、タイムも映画撮影当時より速くなっているだろう。
映画は全編、ほとんど実際のレースおよびレース場での描写である。係員も観客も総出演である。
映画では、スティーヴ・マックイーンも、実際レースカーに乗り、走っている。
マックイーンは、のちに「ル・マン」に本気で参加しようとしたが、周囲の反対でやめざるを得なかったという。
映画の感想としては、モーターファンにとっては素晴らしい臨場感溢れる映像描写となっていたが、純粋な映画ファンとしてはストーリーとしては物足らなさを感じた。
しかし、「ル・マン」の醍醐味は味わえるし、スティーヴ・マックイーンも果たせなかったこのレースに、日本女性の井原慶子が挑戦したというのは感慨深い。
今年(2,012年)、「世界で活躍し『日本』を発信する日本人」の一人に彼女は選ばれた。
彼女は、「目的(夢)があったら、諦めないことです。諦めなければ、必ず実現します」と語る。
思わぬことから女性レーサーとして生きる井原慶子の、「英光のル・マン」への挑戦は続く。
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