心の片隅に残る想い出
過ぎし日の想い出は淡い水彩画
散らばった写真に置き去りにされてしまった笑い
互いに交わすほほ笑み
過ぎし日の私たちに
――「The way we were」
「追憶」は、1973年アメリカ、1974(昭和49)年に日本公開の、バーブラ・ストライサンド、ロバート・レッドフォード主演のアメリカ映画のタイトルである。
原題は「The way we were」。
「The way (where) we were」とwhereが省略されているが、直訳すれば「私たちがいたところの道」。つまり、「かつて私たちがいた風景」、これが「私たちの想い出」、そして「追憶」となった。
いいタイトルだ。
*過ぎ去った愛の物語「追憶」
映画の内容は、一組の男女の愛と別れの回想である。
大学のキャンパス。時代は第二次世界大戦前。
理想主義で政治的には左翼思想のケイティー(バーブラ・ストライサンド)は、今こそ立ち上がろうと、マイクを持って学生に訴えている。
そんなケイティーを横目で見ているノンポリで文学青年のハベル(ロバート・レッドフォード)は、ハンサムでみんなの人気者だ。
正義感丸出しで、いつも怒っているような風情のケイティーと、世の中どこ吹く風の風情のハベル。まったく対照的ともいえる二人は卒業後それぞれの道に進むが、第二次世界大戦中に偶然再会し恋仲となり、戦後結婚する。
学生時代から小説を書いていて何冊か本を出版していたハベルは、物書きを生業として、ハリウッドで脚本を書き始める。そんなとき、ケイティーは妊娠する。
時代は、マッカーシズムの到来のときで、もともと二人の考えの違いははっきりしていたものの、圧迫的な政治に対処する違いから、結局二人は別れることになる。
子どもはケイティーが育てることにして、女の子を出産したのをハベルが見届けて、別れた二人。
それから年月が過ぎて、ニューヨークで、ある日偶然にケイティーはハベルを見つける。
彼は再婚したと、彼女に告げる。彼女は、私もと応える。そして、娘は立派に育ったから、今度夫婦で会いに来てと付け加えるが、彼はそれはできないと応えて、二人は別れる。
おそらく、それきりの別れ。
今は、二人の生活は別にあるのだ。二人にあるのは、過ぎ去った思い出だけ。ケイティーは再婚したと言ったが、そうではないのではないかという余韻が伝わってきた。
バーブラ・ストライサンドの、美人ではないが個性的で忘れられない顔。
ロバート・レッドフォードの、当時ハリウッドで最もハンサムだった甘い顔。(ヨーロッパではアラン・ドロンがいた)
1970年代の、良き時代のアメリカ映画である。
政治の季節。学生運動と自由。日本も同じような空気が流れていた。
*1974年に、空の上で観た映画
「追憶」が、若いときの恋を描いて懐かしさを抱かせるのが理由だけで、ここに書いたのではない。この映画には、私には忘れられない情景がある。
この映画が日本で公開されたのは1974(昭和49)年4月のこと。
私は、この年の5月3日、羽田発チューリッヒ行きスイス航空機で、初めての海外への旅フランス・パリに出発した。スイス航空は、先月の4月に、毎週金曜日に1便だけ、DC-10ジェット機で、東京・チューリッヒ間の「スイス特急」便を開通させたばかりだった。
広い機内の乗客は疎らで、私の席は外が見える窓際だったが、空いたところならどこへ座ってもいいですよと、スチュワーデス(フライト・アテンダント)は言ってくれた。
夕食の後、前方のスクリーンに映画が映し出された。
それが、「The way we were」(追憶)だった。当時人気だったロバート・レッドフォードとバーブラ・ストライサンドが映し出された。
しかし、日本語字幕もなかったのもあって、途中で観るのをやめて、日本人のスチュワーデスとお喋りをした。今のような安売りチケットや団体ツアー客もなく、機内に乗客が少なかったのも幸いに(日本人の乗客は3人と言っていた)、私があてもない一人旅ということもあって、スチュワーデスの女性はとてもフレンドリーであった。
そのようなわけで、映画「追憶」は私のなかで宙ぶらりんになったままであったし、私の初めての海外への旅の想い出とともにある。
その後、映画「追憶」は観ないままに人生は過ぎていったが、やっと録画で観たのである。
1974年は、忘れられない年である。
(写真は、1974年5月3日、スイス航空・羽田発チューリッヒ行き搭乗チケット)
過ぎし日の想い出は淡い水彩画
散らばった写真に置き去りにされてしまった笑い
互いに交わすほほ笑み
過ぎし日の私たちに
――「The way we were」
「追憶」は、1973年アメリカ、1974(昭和49)年に日本公開の、バーブラ・ストライサンド、ロバート・レッドフォード主演のアメリカ映画のタイトルである。
原題は「The way we were」。
「The way (where) we were」とwhereが省略されているが、直訳すれば「私たちがいたところの道」。つまり、「かつて私たちがいた風景」、これが「私たちの想い出」、そして「追憶」となった。
いいタイトルだ。
*過ぎ去った愛の物語「追憶」
映画の内容は、一組の男女の愛と別れの回想である。
大学のキャンパス。時代は第二次世界大戦前。
理想主義で政治的には左翼思想のケイティー(バーブラ・ストライサンド)は、今こそ立ち上がろうと、マイクを持って学生に訴えている。
そんなケイティーを横目で見ているノンポリで文学青年のハベル(ロバート・レッドフォード)は、ハンサムでみんなの人気者だ。
正義感丸出しで、いつも怒っているような風情のケイティーと、世の中どこ吹く風の風情のハベル。まったく対照的ともいえる二人は卒業後それぞれの道に進むが、第二次世界大戦中に偶然再会し恋仲となり、戦後結婚する。
学生時代から小説を書いていて何冊か本を出版していたハベルは、物書きを生業として、ハリウッドで脚本を書き始める。そんなとき、ケイティーは妊娠する。
時代は、マッカーシズムの到来のときで、もともと二人の考えの違いははっきりしていたものの、圧迫的な政治に対処する違いから、結局二人は別れることになる。
子どもはケイティーが育てることにして、女の子を出産したのをハベルが見届けて、別れた二人。
それから年月が過ぎて、ニューヨークで、ある日偶然にケイティーはハベルを見つける。
彼は再婚したと、彼女に告げる。彼女は、私もと応える。そして、娘は立派に育ったから、今度夫婦で会いに来てと付け加えるが、彼はそれはできないと応えて、二人は別れる。
おそらく、それきりの別れ。
今は、二人の生活は別にあるのだ。二人にあるのは、過ぎ去った思い出だけ。ケイティーは再婚したと言ったが、そうではないのではないかという余韻が伝わってきた。
バーブラ・ストライサンドの、美人ではないが個性的で忘れられない顔。
ロバート・レッドフォードの、当時ハリウッドで最もハンサムだった甘い顔。(ヨーロッパではアラン・ドロンがいた)
1970年代の、良き時代のアメリカ映画である。
政治の季節。学生運動と自由。日本も同じような空気が流れていた。
*1974年に、空の上で観た映画
「追憶」が、若いときの恋を描いて懐かしさを抱かせるのが理由だけで、ここに書いたのではない。この映画には、私には忘れられない情景がある。
この映画が日本で公開されたのは1974(昭和49)年4月のこと。
私は、この年の5月3日、羽田発チューリッヒ行きスイス航空機で、初めての海外への旅フランス・パリに出発した。スイス航空は、先月の4月に、毎週金曜日に1便だけ、DC-10ジェット機で、東京・チューリッヒ間の「スイス特急」便を開通させたばかりだった。
広い機内の乗客は疎らで、私の席は外が見える窓際だったが、空いたところならどこへ座ってもいいですよと、スチュワーデス(フライト・アテンダント)は言ってくれた。
夕食の後、前方のスクリーンに映画が映し出された。
それが、「The way we were」(追憶)だった。当時人気だったロバート・レッドフォードとバーブラ・ストライサンドが映し出された。
しかし、日本語字幕もなかったのもあって、途中で観るのをやめて、日本人のスチュワーデスとお喋りをした。今のような安売りチケットや団体ツアー客もなく、機内に乗客が少なかったのも幸いに(日本人の乗客は3人と言っていた)、私があてもない一人旅ということもあって、スチュワーデスの女性はとてもフレンドリーであった。
そのようなわけで、映画「追憶」は私のなかで宙ぶらりんになったままであったし、私の初めての海外への旅の想い出とともにある。
その後、映画「追憶」は観ないままに人生は過ぎていったが、やっと録画で観たのである。
1974年は、忘れられない年である。
(写真は、1974年5月3日、スイス航空・羽田発チューリッヒ行き搭乗チケット)
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