ふと聴いた曲が、一瞬のうちに遠い過去に連れていくことがある。
それは、偶然に図書館で手にしたCDであった。「NHK紅白歌合戦 トリを飾った昭和の名曲」というもので、こういう切り口もあるのかと聴いてみようと思った。
「紅白歌合戦のトリを飾った名曲」といっても、全曲収録ではない。CDの発売元が日本コロムビアなので、コロムビアの歌手限定のものだった。それでも、かつての歌謡曲全盛時代ではトップ歌手を揃えていた老舗である。
1951(昭和26)年の第1回の藤山一郎の「.長崎の鐘」から、1988(昭和63)年第39回の小林幸子の「雪椿」まで、35曲が2枚のCDに収められていた。
そのうちの3分の1が、さすが歌謡界の女王と言われた美空ひばりで12曲ある。
人は、子どものころ聴いた曲は覚えているものだ。家のラジオから流れる歌は耳に浸みこみ、脳の奥深いところで記憶されている。
かつて、歌は大人の歌も子どもの歌もなく、家族全員が共有していた。大人向けの流行歌であれ、子どもは意味を理解しなくとも自然と耳にするので、憶えるのだった。「粋な黒塀、見越しの松に…」(春日八郎「お富さん」)とか、「お暇なら来てよね…」(五月みどり)などと子どもが口ずさんでも、厭な子供だなどとは誰も不審がったりはしなかった。
そんなわけで、僕はとりわけ美空ひばりのファンでもなかったが、彼女の歌は常に流れていたので知っていた。美空ひばりを抜きにして、昭和の戦後の流行歌は語れないだろう。その意味でも、彼女の古い歌を中心にしたアルバムも手元に持ってもいた。
美空ひばりの「白いランチで十四ノット」を聴いたとき、古い記憶のドアを叩かれたような気がした。 NHK紅白歌合戦の第9回(昭和33年) のトリの歌だった。
美空ひばりの歌は、古い歌でも彼女は生前繰り返し歌っていたし、懐メロの番組などで歌われてきた。しかし、生前美空ひばりがこの歌を歌ったのをテレビなどで見た覚えがない。ベストアルバムにも入っていなかった。紅白で、トリで歌った歌なのにである。
しかし、僕の脳は覚えていた。いつの頃か、聴いた歌だ。だが、聴いたのはいつの頃か思い出せない。最初に聴いた頃からの長いブランクだということは分かった。
「白いランチで十四ノット」(作詞:石本美由起、作曲:万城目正)は、今聴いても新鮮な曲だ。
マンボ調のリズミカルなイントロの伴奏に続いて、「若い笑顔に潮風うけて、港のカモメよ、こんにちは……」と軽快な歌詞が流れる。一瞬、あたりに潮風が吹きぬけたかのようだ。
最後に、「……海に咲くのはしぶきの花よ、ちょいとイカスぜ、マドロス娘」と、「ちょいと」で高音の裏声に変調して、「マドロス娘」で結ぶ。
ひばり20歳ごろの曲で、はじけるような笑顔が浮かんでくる。ここには、ひばりの屈託ない青春を垣間見ることができる。人生を絶え間なく疾走してきたひばりであるが、想像するに、おそらく夢見る青春もあったであろう。
*
一世を風靡するほど人気だった人やグループでも、死んだ後、日々忘れ去られるのがほとんどだ。しかし、死んだあと逆にその偉大さが増す人がいる。時の流れ、つまり歴史が、それを評価するのだ。
美空ひばりが死んでから20年以上が過ぎた。それなのに、その存在は大きく、確固たるものになっているように感じられる。
美空ひばりは1937(昭和12)年、横浜生まれで、子どもの頃から、天才少女として歌手デビューした。
子どもの頃の初期の作品には、名曲が多い。
「悲しき口笛」(1949年)、「東京キッド」(1950年)、「越後獅子の唄」(1950年)、「私は街の子」(1950年)、「ひばりの花売り娘」(1951年)、「リンゴ追分」(1952年)、「お祭りマンボ」(1952年)、「津軽のふるさと」(1952年)と、戦後の歌謡史に足跡を刻んだ名曲が並ぶ。
映画「ジャンケン娘」(1955年、東宝)に共演したことを機に、江利チエミ、雪村いづみとともに「三人娘」としても人気になる。
ヒット曲を見てみると、1957年から58年にかけて、「三味線マドロス」(1957年)、「港町十三番地」(1957年)、となぜかマドロスものが続く。
1957年のNHK紅白では、「長崎の蝶々さん」を歌って、初めてトリを務めた。まだ、10代だというのに、すでに誰もが認める人気と実力を持っていた。
そして、翌年(1958年)の「白いランチで十四ノット」である。
この曲の中で、ひばりの曲には珍しく恋への憧れを歌っている。
「……海で暮らせば、男のような夢を持っている、楽しい夢を……」
「……好きなあの人、ランチに乗せて、飛ばしたいな、14ノット……」
ひばりは面食いだったと思う。彼女が兄のように慕った俳優の鶴田浩二、そして親しくしていたのは映画でも共演した、中村錦之助(後の萬屋錦之介)、高倉健、一時婚約したベーシストでバンドマスターの小野満と、当代のいい男たちだ。中村錦之助は有馬稲子と、高倉健は江利チエミと結婚した。
そして、当時人気絶頂だった小林旭との結婚(1962年)、2年後の離婚後は、美空ひばりはいよいよ歌謡界の女王としての道を歩き始める。
東京オリンピックの年に、「柔」(1964年)が大ヒットし、古賀メロディーの「悲しい酒」(1966年)で頂点を迎えたかのように見える。その後、ミニスカートの「真赤な太陽」(1967年)あたりまでは、ひばりは豊かな様々な表情を見せた。
その後は、酒を主題にしたものや孤独な情緒を重んじた曲が多くなっていく。
ひばりには、フォークの歌手が何人か歌を提供しているが、個人的には、あまり知られていない岡林信康作詞・作曲の「月の夜汽車」(1975年)が、ふとした彼女の心の奥を歌っているようで好きだ。
歌手としての美空ひばりはあまりにも有名だが、映画にも多くの出演作がある。
彼女が子どもの頃の、「のど自慢狂時代」(1949年、大映)から、「悲しき口笛」(1949年、松竹)、「憧れのハワイ航路」(1950年、新東宝)、「東京キッド」(1950年、松竹)、「鞍馬天狗・角兵衛獅子」(1951年、松竹)、「リンゴ園の少女」(1952年、松竹)など、数多く主演している。
また、その後、吉永小百合、山口百恵などの清純派の登竜門となった、初代田中絹代以来2代目となる「伊豆の踊子」(1954年、松竹)の踊子役を演じている。
*
美空ひばりの主演映画は、かつて1本だけ見たことがある。
高校2年のとき、町の映画館に、島崎藤村原作の「破戒」(監督:市川崑、主演:市川雷蔵)を見に行った。そのとき、同時上映されたのが、「べらんめえ芸者と大阪娘」(監督:渡辺邦男、1962年、東映)で、美空ひばりと高倉健のシリーズ共演映画だった。
今思えばすごいコンビだが、当時の高校生としては、目的は文芸作品「破戒」であって、レコードのB面のような娯楽作品としてしか見なかった。
最近、「ひばりの森の石松」(監督:沢島忠、1960年、東映)を見た。
場面は、富士の麓の茶畑で始まる。きれいに並んだ茶摘みの娘たちに交じって、やはり茶摘み娘の美空ひばりが「歌はちゃっきり節、男は次郎長……」と歌う。目を見張るような、茶摘み娘たちのコーラスライン。そして、ひばりがみんなに森の石松の話をし始める。
ここから、舞台は江戸末期に移り、清水の次郎長の子分、森の石松の物語が始まるという洒落た展開になっている。
ひばりが、歌手とは思えない、それにもまして女であることの違和感を抱かせない、可愛い石松を演じている。俳優としても、とても器用な演技派だと再認識させられる。
清水の次郎長役に若山富三郎が、若々しい男衆に里見浩太朗が出演している。また、ひばりの実弟の花房錦一が出演しているのも愛嬌である。
*
1989年1月7日に昭和天皇が崩御。その翌日、元号が「昭和」から「平成」へ移り変わった。その年の6月、昭和という時代に寄り添うように、美空ひばりは逝去した。まだ、52歳だった。
つい最近、彼女の身長が147センチというのを知って、意外に思った。テレビや舞台では、大きく見える人だった。
先日、上野に行ったとき、上野公園の西郷さんの銅像の下の方に、「蛙の噴水」がある憩いの場所があるのを見つけて、降りてみた。そこに、王貞治、監督の黒澤明、渥美清、九重親方(横綱千代の富士)などの国民栄誉賞受賞者をはじめとする、著名人の手形が飾られていた。なかにはサザエさんもある。漫画家の長谷川町子さんだが、死後受賞して手形がなかったのだろう、サザエさんの絵が飾られてある。
その中に美空ひばりのもあった。(写真)
僕の手を当ててみたら、やはり大分小さく可愛かった。
それは、偶然に図書館で手にしたCDであった。「NHK紅白歌合戦 トリを飾った昭和の名曲」というもので、こういう切り口もあるのかと聴いてみようと思った。
「紅白歌合戦のトリを飾った名曲」といっても、全曲収録ではない。CDの発売元が日本コロムビアなので、コロムビアの歌手限定のものだった。それでも、かつての歌謡曲全盛時代ではトップ歌手を揃えていた老舗である。
1951(昭和26)年の第1回の藤山一郎の「.長崎の鐘」から、1988(昭和63)年第39回の小林幸子の「雪椿」まで、35曲が2枚のCDに収められていた。
そのうちの3分の1が、さすが歌謡界の女王と言われた美空ひばりで12曲ある。
人は、子どものころ聴いた曲は覚えているものだ。家のラジオから流れる歌は耳に浸みこみ、脳の奥深いところで記憶されている。
かつて、歌は大人の歌も子どもの歌もなく、家族全員が共有していた。大人向けの流行歌であれ、子どもは意味を理解しなくとも自然と耳にするので、憶えるのだった。「粋な黒塀、見越しの松に…」(春日八郎「お富さん」)とか、「お暇なら来てよね…」(五月みどり)などと子どもが口ずさんでも、厭な子供だなどとは誰も不審がったりはしなかった。
そんなわけで、僕はとりわけ美空ひばりのファンでもなかったが、彼女の歌は常に流れていたので知っていた。美空ひばりを抜きにして、昭和の戦後の流行歌は語れないだろう。その意味でも、彼女の古い歌を中心にしたアルバムも手元に持ってもいた。
美空ひばりの「白いランチで十四ノット」を聴いたとき、古い記憶のドアを叩かれたような気がした。 NHK紅白歌合戦の第9回(昭和33年) のトリの歌だった。
美空ひばりの歌は、古い歌でも彼女は生前繰り返し歌っていたし、懐メロの番組などで歌われてきた。しかし、生前美空ひばりがこの歌を歌ったのをテレビなどで見た覚えがない。ベストアルバムにも入っていなかった。紅白で、トリで歌った歌なのにである。
しかし、僕の脳は覚えていた。いつの頃か、聴いた歌だ。だが、聴いたのはいつの頃か思い出せない。最初に聴いた頃からの長いブランクだということは分かった。
「白いランチで十四ノット」(作詞:石本美由起、作曲:万城目正)は、今聴いても新鮮な曲だ。
マンボ調のリズミカルなイントロの伴奏に続いて、「若い笑顔に潮風うけて、港のカモメよ、こんにちは……」と軽快な歌詞が流れる。一瞬、あたりに潮風が吹きぬけたかのようだ。
最後に、「……海に咲くのはしぶきの花よ、ちょいとイカスぜ、マドロス娘」と、「ちょいと」で高音の裏声に変調して、「マドロス娘」で結ぶ。
ひばり20歳ごろの曲で、はじけるような笑顔が浮かんでくる。ここには、ひばりの屈託ない青春を垣間見ることができる。人生を絶え間なく疾走してきたひばりであるが、想像するに、おそらく夢見る青春もあったであろう。
*
一世を風靡するほど人気だった人やグループでも、死んだ後、日々忘れ去られるのがほとんどだ。しかし、死んだあと逆にその偉大さが増す人がいる。時の流れ、つまり歴史が、それを評価するのだ。
美空ひばりが死んでから20年以上が過ぎた。それなのに、その存在は大きく、確固たるものになっているように感じられる。
美空ひばりは1937(昭和12)年、横浜生まれで、子どもの頃から、天才少女として歌手デビューした。
子どもの頃の初期の作品には、名曲が多い。
「悲しき口笛」(1949年)、「東京キッド」(1950年)、「越後獅子の唄」(1950年)、「私は街の子」(1950年)、「ひばりの花売り娘」(1951年)、「リンゴ追分」(1952年)、「お祭りマンボ」(1952年)、「津軽のふるさと」(1952年)と、戦後の歌謡史に足跡を刻んだ名曲が並ぶ。
映画「ジャンケン娘」(1955年、東宝)に共演したことを機に、江利チエミ、雪村いづみとともに「三人娘」としても人気になる。
ヒット曲を見てみると、1957年から58年にかけて、「三味線マドロス」(1957年)、「港町十三番地」(1957年)、となぜかマドロスものが続く。
1957年のNHK紅白では、「長崎の蝶々さん」を歌って、初めてトリを務めた。まだ、10代だというのに、すでに誰もが認める人気と実力を持っていた。
そして、翌年(1958年)の「白いランチで十四ノット」である。
この曲の中で、ひばりの曲には珍しく恋への憧れを歌っている。
「……海で暮らせば、男のような夢を持っている、楽しい夢を……」
「……好きなあの人、ランチに乗せて、飛ばしたいな、14ノット……」
ひばりは面食いだったと思う。彼女が兄のように慕った俳優の鶴田浩二、そして親しくしていたのは映画でも共演した、中村錦之助(後の萬屋錦之介)、高倉健、一時婚約したベーシストでバンドマスターの小野満と、当代のいい男たちだ。中村錦之助は有馬稲子と、高倉健は江利チエミと結婚した。
そして、当時人気絶頂だった小林旭との結婚(1962年)、2年後の離婚後は、美空ひばりはいよいよ歌謡界の女王としての道を歩き始める。
東京オリンピックの年に、「柔」(1964年)が大ヒットし、古賀メロディーの「悲しい酒」(1966年)で頂点を迎えたかのように見える。その後、ミニスカートの「真赤な太陽」(1967年)あたりまでは、ひばりは豊かな様々な表情を見せた。
その後は、酒を主題にしたものや孤独な情緒を重んじた曲が多くなっていく。
ひばりには、フォークの歌手が何人か歌を提供しているが、個人的には、あまり知られていない岡林信康作詞・作曲の「月の夜汽車」(1975年)が、ふとした彼女の心の奥を歌っているようで好きだ。
歌手としての美空ひばりはあまりにも有名だが、映画にも多くの出演作がある。
彼女が子どもの頃の、「のど自慢狂時代」(1949年、大映)から、「悲しき口笛」(1949年、松竹)、「憧れのハワイ航路」(1950年、新東宝)、「東京キッド」(1950年、松竹)、「鞍馬天狗・角兵衛獅子」(1951年、松竹)、「リンゴ園の少女」(1952年、松竹)など、数多く主演している。
また、その後、吉永小百合、山口百恵などの清純派の登竜門となった、初代田中絹代以来2代目となる「伊豆の踊子」(1954年、松竹)の踊子役を演じている。
*
美空ひばりの主演映画は、かつて1本だけ見たことがある。
高校2年のとき、町の映画館に、島崎藤村原作の「破戒」(監督:市川崑、主演:市川雷蔵)を見に行った。そのとき、同時上映されたのが、「べらんめえ芸者と大阪娘」(監督:渡辺邦男、1962年、東映)で、美空ひばりと高倉健のシリーズ共演映画だった。
今思えばすごいコンビだが、当時の高校生としては、目的は文芸作品「破戒」であって、レコードのB面のような娯楽作品としてしか見なかった。
最近、「ひばりの森の石松」(監督:沢島忠、1960年、東映)を見た。
場面は、富士の麓の茶畑で始まる。きれいに並んだ茶摘みの娘たちに交じって、やはり茶摘み娘の美空ひばりが「歌はちゃっきり節、男は次郎長……」と歌う。目を見張るような、茶摘み娘たちのコーラスライン。そして、ひばりがみんなに森の石松の話をし始める。
ここから、舞台は江戸末期に移り、清水の次郎長の子分、森の石松の物語が始まるという洒落た展開になっている。
ひばりが、歌手とは思えない、それにもまして女であることの違和感を抱かせない、可愛い石松を演じている。俳優としても、とても器用な演技派だと再認識させられる。
清水の次郎長役に若山富三郎が、若々しい男衆に里見浩太朗が出演している。また、ひばりの実弟の花房錦一が出演しているのも愛嬌である。
*
1989年1月7日に昭和天皇が崩御。その翌日、元号が「昭和」から「平成」へ移り変わった。その年の6月、昭和という時代に寄り添うように、美空ひばりは逝去した。まだ、52歳だった。
つい最近、彼女の身長が147センチというのを知って、意外に思った。テレビや舞台では、大きく見える人だった。
先日、上野に行ったとき、上野公園の西郷さんの銅像の下の方に、「蛙の噴水」がある憩いの場所があるのを見つけて、降りてみた。そこに、王貞治、監督の黒澤明、渥美清、九重親方(横綱千代の富士)などの国民栄誉賞受賞者をはじめとする、著名人の手形が飾られていた。なかにはサザエさんもある。漫画家の長谷川町子さんだが、死後受賞して手形がなかったのだろう、サザエさんの絵が飾られてある。
その中に美空ひばりのもあった。(写真)
僕の手を当ててみたら、やはり大分小さく可愛かった。
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