goo blog サービス終了のお知らせ 

花と緑を追いかけて

山を愛し、花を愛し、旅と
映画とパソコンと、好奇心も
いっぱいの主婦の日記です

夏の中欧紀行⑱・センテンドレからブタペストへ

2006年10月17日 | 中欧三カ国旅行記
転勤が決まった息子夫婦が、借り上げ社宅を決めるために土日は不動産屋さん周りに奔走・・・
今年の5月で2歳になった孫のハー君を、2日間預かりました。
もうメロメロヘロヘロです。

2泊して今日のお昼に帰っていきましたが、別れ際「バ~バと一緒に行くの」としがみつかれると、もうグ~~っときてしまいますね

午後からは、以前勤めていた地区センターで募集していた「ヨガを取り入れた健康体操」教室に行ってきました。
自彊術と同じように足の指のマッサージから入りますが、リズミカルに体を動かす自彊術と違って、ジックリと呼吸法も学びながら和室で2時間・・・
加藤 真知子先生の静かな説明を受けながら、体と神経の疲れをとるストレッチをして来ました。
子守疲れもとれて、心身ともに爽快になりましたよ

                 ☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆

センテンドレ②


ドナウ河畔から、ハンガリーで一番大きなセルビア正教会「ベオグラード教会」とカソリックの「R.K地区教会」が並んで見える町です。

こちらは中央広場の目の前に建っている「ブラゴヴェシュテンスカ教会」
約250年前に建てられたそうです。
金色に彩られた祭壇とイコンは必見と、ガイドブックには書かれていますが、時間が無くて入りませんでした

時々コメントを戴いているブログ仲間のkiteさんが、教会の中とオープンカフェで食べたど派手なアイスクリームをUPしています。
興味のある方はこちらへどうぞ



私たちは教会にもカフェにも行けませんでしたが、全員で「コヴァーチ・マルギット美術館」見学をしました。




作品はテラコッタや陶器で作られたものがメインです。
表情が豊かで生活感あふれる人物像は評価が高いとか・・・
宗教をモチーフとした作品もありましたが、素朴でしみじみとした愛情が感じられる作品が多かったですね

閉館時間になっていたので売店がクローズ、カタログや絵葉書が買えなかったのがちょっと残念でした






ハンガリーの首都「ブタペスト」へ
センテンドレの町からブタペストまではバスで約30分、さすがに疲れてきました。
バスの中で4人一緒にホテルの朝食に出た「青りんご」をかじりました。美味しい!
プラハからウィーンに移動した時も、同じ事をやったわね

今回の旅行の目玉の一つ、L(名門デラックス)クラスのホテルです。
友人のtaeさんが初めてのヨーロッパ旅行の最初の朝、ブタペストのホテルの部屋から見た「王宮」の美しさに、体中に電流が走ったような大感動を味わったと、ことあるごとに聞かされていました。
私も是非その風景を眺めてみたいと


ツァーを決める時、ぷりんさんお勧めのこのツアーに賛成した要因の一つが「ブタペストのホテル」にあったのです。

「三分の二の客室から、くさり橋を含むドナウ川と王宮の丘の素晴らしい景観が眺められるホテル」と、案内には書かれていますが、taeさんが泊まったと聞いていた、お隣のインターコンチネンタルホテルの方が「王宮」は目の前ですね。
このツァーのパンフレットに載っていた写真が「インターコンチ」だったので、我々もそこに泊まるのかと思い込んでいましたが・・・


虫眼鏡がないと見えないほどの小さな字で「もしくは同等のホテル」と書かれていました
一本道を中に入ってしまいましたが、まぁ~良し!としましょうね。
コメント (20)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏の中欧紀行⑰・ハンガリー「センテンドレの町」

2006年10月13日 | 中欧三カ国旅行記
同窓生を名乗る男性からTELがありました。
丁度、年に一度の東京○○会(会員5500名)の総会が行われる時期なので、その関係かな~と思い、親しく対応しました。

「今度福岡の日刊スポーツ紙に、我が○○高校の記事が、大々的に載る事になりました。」
「はいはい
「それに、OB、OGの方々の応援コメントを載せたいのですが、結構金額的に高いのでご協力いただきたく・・・」
「ハァ~?、○○高校は山口県立ですから宣伝する必要はないし、記事にお金がかかるとも思えません。今、私の目の前に同窓生の名簿がありますが、あなたは何期の卒業生ですか?」と聞いたら「僕は受けたのですが合格しませんでした」だって

新手の詐欺かもしれません。くれぐれもご用心を

                  ☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆

さて中欧旅行は「ドナウ川」に沿って、更に次の街に進みます
ここで順序が逆になりましたが、エステルゴムのレストランでの昼食をUPしておきたいと思います。
食いしん坊の私たち、お食事の記録は残しておかなくては・・・


ヴィシェグラードからバスで20分、ドナウ河畔の町「センテンドレ」に到着です。
14~17世紀、セルビア人がオスマン・トルコの支配を避けてこの地に定住した頃から町の発展が始まりました。
今でもセルビア正教会が残っています。
1920年代には芸術家達の居住地として栄えました。





そんなに広くない広場に、観光用の馬車が・・・
馬を操るオジさんが、かっこ良かったですよ
口ひげに蝶ネクタイ、革のチョッキにロングブーツ
時間に余裕があったら乗りたかったですね~~






青い縁取りは「ギリシャ風」なのでしょうか・・・
セルビア人の町はどことなくエキゾチックな香りが漂っていて、ゆっくりオープンカフェでお茶でも飲みたかったですね。
慌しいのが残念です



コメント (18)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏の中欧紀行⑯・ドナウ川とヴィシェグラード

2006年10月10日 | 中欧三カ国旅行記
前からやりたいと思っていた「自彊術」のサークルが、やっと見つかりました。
早速行って、ベテランの方々に混じって一緒にやってきました。
腕立て伏せやデングリ返りもあって、1,2,3、と号令をかけながら40分・・・
難なくやったつもりですが、お風呂に入って食事をしたら、ドスンと効き目が出てきた感じです。
背骨の矯正に良いようです。
ムチ打ちをやっていて、季節の変わり目は肩こりに悩まされるワタシ・・・
しばらく続けてみようかな~と、思っています。

さて、再び中欧紀行の続きをお付き合い下さいね。

                ☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆


軍事的要衛に造られ、中世には難攻不落の要塞として名がとどろいていたそうです。
ハリウッド映画の歴史戦闘ものには必ず出てくる「要塞都市」ですが、こちらの遺跡はほんの一部が残されているのでしょうか?
ブラピの「トロイ」とか、オーリー様の「キングダム・オブ・ヘブン」とかの舞台になったのが要塞都市ですが、実物のこちらは案外狭い印象です。




暑い中、ひたすら登っていくと展望台にでました。















下の方には王宮跡が見えていました。
そして対岸にはお隣の国「スロバキア」の街が、コンデジの7倍ズームでも良く見えています

ガイドのブダイさんが、大汗をかきながらも、律儀に背広姿で説明してくれました。




ハンガリー人の祖先は「マジャール族」と聞いていますが、純粋な西洋人と言うよりは、東洋に近い感じがしましたね。



コメント (15)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏の中欧紀行⑮・ハンガリーの古都「エステルゴム」

2006年10月06日 | 中欧三カ国旅行記




エステルゴムは16世紀、オスマントルコ襲来まで栄華を極めた、ハンガリーの古都です。
大聖堂は大きなドーム屋根、古代ギリシャ風の列柱や2つの塔を持つ外観です。
正面に、ハンガリーの初代国王であり聖職者であった「イシュトヴァーン」の像が建っていました。
宗教的には、ここの大司教が代々ハンガリーの大主教を務め、ハンガリー・カソリックの総本山になっています。





私たちは中に入らず、そのまま丘の上に歩いていきました


橋を渡った向こう側は、ビロード革命でチェコから分離独立した「スロバキア」の街シュトロヴォです。
第二次世界大戦で破壊されたこの橋は、ずっと壊れたままでしたが、2001年の8月に修復されて渡れるようになったそうです。
川を挟んだ隣の国・・・島国日本では見られない風景ですね。



ドナウ川を見てから聖堂に戻り、中に入りました。
聖イシュトヴァーンがキリスト教に改宗したから、ハンガリーは1000年のもの長い間、国として維持されたとも言われているようです。

そして宝物殿の見学・・・
歴代司教の衣装や、宝石がちりばめられた勺、イコン,聖杯などが並んでいましたが
写真撮影は禁止でした
聖堂の中の写真は、サムネイルマウスオンで試してみたいと思います。
マウスを小さな写真の上にあてて下さい。
(タグはnon_nonさんのご好意で使わせていただきました。ありがとうございます)


<
教会内部1
<
教会内部2
<
教会内部3
<
教会内部4
<
床のアンモナイト









一回りして元の駐車場に戻りました。
エステルゴムの大聖堂や宝物殿、そして城壁の印象は、絢爛豪華というよりは質実剛健と言う感じがしましたね。



1000年以上前、この地から始まったハンガリー・・・
蒙古軍やオスマントルコの襲来を受け、17世紀にはハプスブルグ家の支配がありました。
第二次大戦後は社会主義国となりましたが、ベルリンの壁崩壊から10数年・・・
東欧から西欧に復帰して、新たな道を歩み始めているのでしょう。


コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏の中欧紀行⑭・ハンガリー、ドナウベント地方へ

2006年09月30日 | 中欧三カ国旅行記
9月もいよいよ終わりですね。今年も四分の三が過ぎました。
月日が過ぎるのが、年々早く感じられてなりません。

「元気なうちにやりたい事をやっておこう」・・・夫の最近の口癖です。
10月早々、主人が熱望していた出雲の「足立美術館」に行くことになりました。
お庭で有名な美術館です
天気予報がイマイチですが、古い温泉も楽しんでこようと思っています。

秋のお花の紹介で「中欧旅行記」が途切れてしまいました。マルさん、ごめんね。
旅行の前に、ウィーン最後の夜と、ハンガリー入国の記事をUPして出かけることに致します。

ウィーンのオペラ座で「アルジェのイタリア女」を鑑賞した後、前もって決めていたレストランに行きました。
ぷりんさんとK子さんの持っていたガイドブックに紹介されていた、オペラ座近くのお店ですが、名前は・・・?
土曜日の夜だったせいか、ガーデンテラスには地元の人々がまだまだ食事を楽しんでいました。



私たちが案内されたのはお店の中の席でした。
音楽の都ウィーンは、生の音楽付きのお店が多いですね~

日本人の姿はなく、日本語メニューもありません。
お食事はどうやら三つのコースがあるらしい
中を選んだような・・・
最初に出てきたスープ
肉団子はレバーのような味がしました。
そしてショッパイ









最後のデザートは、粉砂糖がかかった揚げモチみたいなものにブルーベリーソースがかかっていました。
甘くてボリュームがあって、とても全部は食べられません




美味しい夕食だったという印象はさしてないのですが、音楽を楽しみお喋りを楽しみ、ウィーン最後の夜を満喫しました。
気がついたら11時半です
地図を片手に歩いて15分、無事宿舎の「ソフィテル・ホテル」に到着しましたが、やはり今回も夜中の12時を回ってしまいましたね(私たちらしい事)

部屋に帰って、すぐに我が家に国際電話をかけました。
日本は朝の7時過ぎ、丁度仕事に出かける前の主人が出て、息子の腰の手術は私が成田到着の、6月28日の午後3時からだと聞かされました。
「私も手術に立ち会える!」


6月25日(日)

ホテル「ソフィテル・ウィーン」は規模や眺望はイマイチでしたが、街の中心部にあって便利でしたね。我々も遅くまで街で楽しめたし・・・
人口約160万人の大都市ウィーンを後に、バスはフリーウェイに入りました。
すぐに豊かな田園地帯が広がっていました。
風力発電のプロペラがたくさん見えています。
ハンガリーに入ったとたん、素朴な雰囲気が感じられます。
レトロな列車がやってきました。
走っている車も古い形が多い・・・






お昼近くに、ようやく古都「エステルゴム」に到着しました。


コメント (17)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏の中欧紀行⑬・ウィーン「オペラ座」観賞

2006年09月23日 | 中欧三カ国旅行記


こちらが国立「ウィーンオペラ座」です。
演目、歴史、建物の素晴らしさなど、どれをとってもドイツ語圏オペラ界の頂点に立つ劇場です。
1869年に宮廷歌劇場として開場、第二次世界大戦で全焼しましたが、1955年に再建されたそうです。
2002年から小沢征爾が音楽監督を務めているようですね。

その日の切符を買いたければ、裏側のドァーから入り、狭い通路の先に切符販売の窓口があります。
そこにはキチンと制服を着たおじさんがいて、まずジロリと靴を見ます。
ドタ靴やサンダル履きだったら「ノン」と言われそう

この日は土曜日、もちろんオペラはやっていて立ち見席なら切符も取れるらしい・・・
「私は観る事にするから、皆は行きたい所に行って」とK子さんは言うけど・・・
一対三で分かれるのも心配だし、ウィーンでオペラを観るのも良い思い出になるし、どうしよう??
「切符は5時過ぎに販売だから、まだ早い」と言われて、お茶することにしました。
オペラ座のすぐ裏に「ホテル・ザッハー」があります

ここのカフェで「ザッハ・トルテ」を食べるのが、事前の予定として入っていました。
オープンテラスに通じる中の席に案内されました。
思ったよりこじんまりとしています。
冷房が全然効いていません
自由時間に周る予定だった「王宮」や「シュテファン寺院」はどんな所だっけ?


流石にヨーロッパの中でも格式あるオペラ座です。
一階席は正装した人々で、華やかな雰囲気があふれていました。
私たちの三階の立見席は軽装の人々が多かったのですが、やはり音楽好きの人々や音大生たちが観劇に来ているようで、ちょっとの雑音を立てただけでもブーイングがおこります。




「そうとう質の高いオペラだったわ」オペラが大好きなK子さんも興奮気味でした。
初めてこのメンバーで旅行した「イタリア」でもオペラに行ったわね~
あの時は着ていくものを決めるのに大騒動でした。
正装しすぎて、逆に浮いていた私たち・・・
外に出ました。
目の前がお茶した「ホテル・ザッハー」です
ここに泊まれたら最高でしたね




こちらが「オペラ座」・・・
まだ華やかな雰囲気の余韻が残っているようでした
9時半を廻っていましたが、これから近くのレストランでお食事です。
「エート、なんていう名前のお店だったっけ・・・?」
コメント (24)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏の中欧紀行⑫・ウィーン「美術史美術館」

2006年09月21日 | 中欧三カ国旅行記
ルーブル、プラドと並んで、ヨーロッパ三大美術館とも言われています。
エルミタージュも同じような形容でしたが・・・?
2階の展示場に上がるエントランス部分も重厚な装飾がなされていて、天井にはクリムトの絵が描かれていました。

この美術館は特にブリューゲルのコレクションが有名
他にフェルメール、ルーベンス、ラファエロなどの傑作が目白押しです。

日本語ガイドさんの案内で、早速ブリューゲルの部屋に行きました。


他にもブリューゲルの素晴らしい絵が並びます。
「農民の婚礼」、そして「バベルの塔」など等,
ガイドさんの、ウイットに富んだ説明を聞きながら先に進みました。







私の好きなラファエロもありました。
こちらは「草原の聖母」
幼いキリストと洗礼者ヨハネを見守るマリアの表情が印象的な絵です。
ショールの蒼さが、ラファエロ独特の色なんだそうです。

私は何故ラファエロの絵が好きなのか・・・
その答えはイタリア、フィレンツェのパラティーナ美術館で、ラファエロの「グラン・デュークの聖母」を見た時に解りました。
生まれて5歳まで過ごした北海道の家の寝室に、この絵の印刷物が額に入って飾られていたのです。
子供の頃、毎夜ラファエロの聖母に見守られながら眠りについていたんですね
物心が付いた頃から、常に聖母に暖かく包まれていたような感覚が、未だに残っているのでしょう



主だった作品の解説を受けてから解散となりました。
後は自由行動で、それぞれ各自がホテルに戻ると言うスケジュールです。

ぷりんさんがガイドさんに「今人気急上昇のガラバッチオの絵もこちらにあると聞いたので見たいのですが」と申し出たら、ちゃんと連れて行ってくれました。
美術館という所は、好きな人にとっては、まだまだ見たいものが山のようにありますよね
でも、ウィーンの街もまだまだ歩きたいので、絵葉書などを買ってから外に出ました。

コメント (14)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏の中欧紀行⑪・「ベルベデーレ宮殿」とウィーンの街

2006年09月19日 | 中欧三カ国旅行記

「シェーンブルン宮殿」を後にして、次はオイゲン公の夏の離宮「ベルベデーレ宮殿」に向かいました。
オイゲン公はオーストリアの天敵であるフランス貴族の出身ながら、ハプスブルグ家に仕え、オスマントルコのウィーン包囲など国家存続の危機の時に大活躍した人物です。

上の写真はぷりんさんが写したものをお借りしましたが、青空を背景に浮かび上がる白い宮殿は、絵葉書で見るよりもずっと美しい建物でした



バロック様式の広い庭を隔てて双子のような上宮と下宮が建っています。
こちらは迎賓館として使われた上宮・・・
1723年に建てられました。


裏側から見た上宮です。
オイゲン公はその豪快な戦い方とはうらはらに、美術収集家としても有名だったようです。
上宮は世紀末美術(アールヌボー)の名品が展示されている美術館になっているとか・・・



広い庭をはさんで、向こう側に見える建物が下宮です。1716年に住居として建てられました。
今はバロック美術の収集美術館として有名です。

ますます太陽の光は強烈になってきて、サングラス無しではツライ感じ・・・
日傘も欲しいくらいですが、現地の人は誰もさしていませんでした。

再びバスに乗って、市内を走ります。
車窓から見た街の風景を、サムネイルのマウスオンでUPしたいところですが、どうやら使えなくなっているらしい・・・ブログ仲間のおみやさんからの情報で知りました

さすがに歴史的建造物の博物館のようなウィーンの街。
市庁舎もネオ・ゴジック様式で、左右対称の堂々たる建物です

この日は、市内観光の後は自由時間でした。
バスの中で、そのための注意を添乗員さんから受けました。
スリに気をつけるようにと・・・
その中の一例を聞いてドキッ



ヴォティーフ教会です。
「スリの手口として、北欧系の美人が、一緒に写真を撮りませんか」と近寄ってきます。殿方は充分にご注意を」と言う添乗員さんの話を聞いて、プラハのヴァーツラフ広場で、若い男性が同じ事を言ってきたことを思い出しました。
「私たち、逆バージョンを経験したわよね」
みんな特に被害受けていないわよね~~?
でもスキミングされていたら分らないわ




こちらはカールス教会です。
nonちゃんはそれとは違う心配事を抱えていて、昨日から眠れぬ夜を過ごしているらしい・・・プラハでのお買い物の時に、カードの暗証番号を口に出して言ってしまったとか。
「あの時の店員さんは日本語の分る人だったから、不正を働こうとしたらやられてしまう」
普段何気なく使っているカードも、海外ではとても気になりますね。



古くて格調ある建物に「マクドナルド」の看板が見えています。流石ウィーンらしい風景
馬に乗った騎士の銅像は誰だったかしら?

次の訪問はデューティーフリーでのお買い物タイムでした。
そこでnonちゃんは思い切って、添乗員の三○さんに相談したところ、親切にも日本のカード会社へ連絡を取ってくれました。
不正利用はなされていないらしい・・・
不安が解決して良かったね

私の方は・・・
「スキミングなどという技術は、日本や中国ではともかく、プラハでできるはずないわ」と、きわめて楽観的に思うことにしました。
他の3人は何も心配してなさそうなんだもん




旅も四日目となると、だんだん参加者の皆さんとも顔なじみになってきますね。
昼食のメニューはウィーン名物、子牛のカツレツ(ウインナー・シュニッツエル)
大きいこと
暑さの中、ビールが美味しい・・・殿方もほとんどの方が飲んでいて、だんだんお喋りも進みます。


一人参加の男性が、昔仕事でポーランドに良く来ていたとか。
その折、チェコにも行った事があるそうで、その頃の共産国への入国の大変さを話していました。

そんなに遠い昔の話ではありません。
ベルリンの壁が壊されてからのヨーロッパの歴史は、極東に住んでいる私たちには解からない速さで、変化しているようですね。

コメント (17)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏の中欧紀行⑩・ホイリゲとシェーンブルン宮殿

2006年09月17日 | 中欧三カ国旅行記
バスの中で、運転手のセロミールさんと、添乗員の三○さんがドイツ語で言い合っていました。
お店の場所がなかなか分らないらしい
ドイツ語の分るYご夫妻が一緒に番地を調べながら、やっとたどり着いたこの日の夕食場所は、アコーディオンとバイオリンの演奏で盛り上がっているホイリゲのガーデンテラスでした。

パンを食べた覚えがありませんので、主食はジャガイモだったのかしら?
私たちのテーブルには同じ横浜から参加の、飛行機の中でお話をしたYご夫妻が一緒でした。
奥様が昔、私たちの住まい近くの中学校で英語の先生をしていたとか・・・
本当はドイツ語の方がご専門とのこと、心強いですね~話が弾みました。
私たちと同じ年代のご夫妻でした。




美しき青きドナウ、ウィンナーワルツ、菩提樹
知っている曲が続きます。
ビールを飲みながら音楽に酔い、ワインを飲みながら初夏のウィーンの風に酔いました。

結局ホテルに入ったのは午後10時過ぎ・・・
この日はバスの移動が多かったのですが、それでも歩数は一万歩近かくになりました。

お風呂に入って、翌日着る洋服を同室のK子さんとチェック。
「奥様、明日は宮殿や王宮めぐり、そして食事やお茶もホテルと言う事になりそうなので、ちょっとおしゃれにパンツスーツにしませんこと」と、おどけながらファッションショー。
眠りについたのは夜中の2時を過ぎていました。


6月24日(土)
この日は、朝から快晴に恵まれました。
ホテルを9時過ぎに出発して、バスで市内観光
最初に向かったのが、前の日に外観だけ見ている「シェーンブルン宮殿」です。

こちらがハプスブルグ家の紋章「双頭の鷲」です。
ハプスブルグ家は1273年、神聖ローマ帝国皇帝に選ばれたアルプス山中の小領主ルドルフ一世から始まり、1740年マリア・テレジアが女帝として君臨した時に絶頂期を迎えました。
19世紀末にはアールヌーボー芸術が花咲きました。
しかし、第一次世界大戦に敗北し、600年以上に及ぶ栄華を誇ったハプスブルグ家は崩壊します。



宮殿の庭に出てみました。こちらも広大で、焦点が絞れません
この写真は7倍のズームで写しました。

正面の古代ギリシャ様式の建物はグロリエッテ。
1757年に対プロイセン戦勝記念と戦没者慰霊の意をこめてマリア・テレジアが作らせたものです。
女帝は政治にも秀でていて、たくさんの改革を実行しました。
その上良き妻であり、16人もの子供の母親でもありました。
末娘はギロチンで処刑されたあの有名なマリー・アントワネットです。

しかし、ガイドさんの説明で浮かび上がるマリア・テレジア像は、ダイエットに苦しみ、子供の教育に悩む女性・・・晩年は嫁との確執もあったようです
夢のような宮殿にお住まいだった女王さまも、私たちとあまり変わらない悩みを抱えていたようですね。





コメント (21)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏の中欧紀行⑨・ウィーンへ

2006年09月14日 | 中欧三カ国旅行記

今日も朝から鬱陶しい雨が降っています。
台風13号の影響でしょうか?秋雨前線がべったりと貼り付いているようですね。
こんな日は、あの中欧旅行で見てきたボヘミアの夏の景色を思い出しながら、スメタナの「わが祖国」に聞き入っています。

上の写真はチェコの古都「チェスキー・クルムロフ」を流れる「ヴァルタヴァ(モルダウ)河」です。
プラハでは悠然と流れる大河でしたが、ここでのモルダウはボヘミアの村の中を流れる”故郷の川”という趣ですね。

ヴァーツラフ・ノイマン指揮、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団演奏のCDを買いました。
連作交響詩《わが祖国》全6曲はチェコの作曲家ベルドルジヒ・スメタナ(1824~84)が1879年に完成させました。
チェコのすべてを知り尽くし、祖国を愛してやまなかったスメタナが、その思いのたけを音楽で表現した作品です。
この中の第二曲が、最も有名な「モルダウ」ですね

さて・・・
私たちは、「チェスキー・クルムロフ」を後にして、一路オーストリアのウィーンに向かいました。


>
こちらがチェコとオーストリアの国境検問所です。
ここからはカメラは禁止!
一昔前は大変な思いをして通過したというこの国境も、今では運転手さんが書類を示しパスポートを見せるだけ、私たちはノーチェックでした。





30m位の緩衝地帯を通り、オーストリアに入国したとたん、明るい明るい風景が広がっていました。
添乗員さんが日本から持ってきてバスの中で流してくれていたミュージックテープの音楽が、モルダウからウィンナーワルツに変わりました


村の中の教会も学校も大きくて、立派で・・・
人々が住んでいる家々も、古い建物ばかりが目立ったチェコの農村風景とは違ったものでした。












オーストリアはヨーロッパのほぼ中央に横たわり、山々や丘、湖沼、川など豊かな自然に恵まれた国です。
水もアルプスの雪解け水が飲めるとか・・・
小麦やジャガイモ畑が続いていました。



4時間かけて、やっと到着したウィーンの街、車窓からの風景をしばし眺めてみたいと思います。

たくさんの車やトラムが走る大都会でした。
運転手さんがウィーンには不慣れなのか?
あっちへ行ったり、こっちへ行ったり・・・
Uターンの繰り返しで、中々夕食のお店にたどり着けません。
お陰で、思わぬ風景も見ることができましたわ。





こちらはユダヤ系ロシア人のフンデルトヴァッサー設計の焼却炉。
鮮やかで奇抜な色使いと曲面の多用により、現代のガウディーと呼ばれた画家兼建築家の、ユニークなアパートも有名らしい・・・






ドナウです
市内を流れるのはドナウ運河ですが・・・それでも感激しますね。
芸術の都、音楽の都、ウィーンは夏の明るい色彩にあふれていました。

コメント (18)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする