5月13日
拝啓 ミャオ様
昨日は一日中、雨がしとしとと降り続いていた。気温は、8度までしか上がらず、久しぶりに薪ストーヴに火をつけるほどだった。
実に、2週間ぶりの雨で(前回は雪だったが)、乾ききった大地に生きる新緑の木々や草花にとっては、まさに待望の雨だったに違いない。
ただ、私とすれば、もう少し雨の量がほしかった。それでも、危うい水位に達していた家の井戸水が、まだ安心はできないものの、これで一息つけることになる。
周りのキタコブシにエゾヤマザクラ、そしてエゾムラサキツツジなどの花は終わったけれど、代わりに小さな八重咲きのシベリアザクラの花と、白いスモモの花が咲き出した。
今日、再びの、いっぱいの日差しをあびて、庭のあちこちには、もう百本ほどにもなるチューリップの花が色鮮やかに咲いている。秋の堀上げもせずに、たいした肥料もやっていないのに、毎年増え続け、全く、エライものだと思う。
裏の林の中では、10日ほど前から、あのオオバナノエンレイソウが咲いている(写真は数日前のもの)。やわらかい大きな緑の葉の上に、清楚な白い花を開いて、立ち並んでいる。
北海道の、春の花の中でも、とりわけ私の好きな花であり、毎年、どうしても、この花の写真を撮りたくなるほどだ(’08.5.18の項)。ただ、その白い花びらの形には差異があるようで、写真のように広いものから、細いものまである。 同種のエンレイソウの方は、数が少なく、クロユリの花の色に似た、こげ茶色の小さな花をつける。
このオオバナノエンレイソウは、北海道の丘陵地の林の中で、よく見られる花である。帯広市内にある自然公園では、その一大群生地になっているほどだ。
家の近くの、沢沿いの斜面の一面にも、群生していたのだが、いつの間にかササが進入してきて、めっきりその数が少なくなってしまった。
このササの繁殖ぶりは、近年、北海道の高山でも、目立つようになってきていて、特に、私も毎年通っている、あの日本有数のお花畑である大雪山、五色ヶ原の一部では、このササの進入で、次第にその花の面積が少なくなってきているのだ。
ここでも言われているのが、地球温暖化であり、先日、新聞の書評欄に載っていたスティーヴン・ファリスの『壊れゆく地球』では、もう警告の域を越えて、すべてが遅すぎる状態にあり、残された時間はもうない、とまで宣言されているそうである。
かつて、あのレイチェル・カーソンの『沈黙の春』を読んだ時に受けた衝撃を思ってしまう。人間が作り出した化学物質の及ぼす害悪を、いち早く予言した彼女の言葉通りになりつつある今の地球、そして、さらに、この地球上を覆い続ける、新たな温室効果ガスの及ぼす、壊滅的な環境破壊が、現在進行中なのだ・・・。
核兵器による、世界戦争の恐怖を、長年にわたりそのまま解決できずに、さらなる恐るべき、両刃(もろは)の剣ともいうべき科学発展を目指してきた人類社会・・・。しかし、ついに、その最後の審判の日が近づいてきていて、あの怒りの日の、ラッパの音が聞こえてくるのかも知れない。
ハリウッドの作る、どんなミステリー映画やSF(サイエンス・フィクション)映画よりも、恐怖に満ちたドキュメンタリー・ドラマが、今まさに、地球上に公開されようとしているのだ。
私たち、中高年世代はまだいい。しかし、豊かなる人生の果実を、十分に味わい尽くしていない若い世代、子供たちのことを思うと、胸が痛む。
単純なる解決策は一つ。すべての富を捨てよ、ということだろうが、地球上の生き物の中で、最も強欲な人間たちに、そんなことができるわけがない。
だから、どのみち、終末は近いのかもしれない。ただ哀れなのは、そんな人間たちの、悪行の巻き添えになるものたちだ。
今何も知らずに、春の息吹の中、緑の葉を茂らせ、花を咲かせている植物たちや、そして春の巣作りに精を出す小鳥たち、山野を跳ね回るシカやキツネやウサギや・・・そして、人間の子供たちも、なんの咎(とが)もない、すべての無垢なるものたち・・・。
昔の話だが、核戦争が危惧されていた時代に、『渚にて』(スタンリー・クレイマー監督、1959年)という映画を、公開されたずっと後になって、見たことがある。死の灰が地球上を覆い、最後に残されたオーストラリアで、人々は、それぞれに最後の時を迎えるのだ。人々は、自然のなかでキャンプをして、渓流におどるマス釣りを楽しみ、皆で『ワルツィング・マチルダ』を歌っていた・・・なんという、明るい悲しみだったことだろう。
そんな日が、現実となって来るのだろうか。目の前にある、この自然の姿を、季節の移り変わりを、日々見守っていくことが、今の私にも、大きな楽しみになっているのだが・・・いつか訪れる終末の日まではと。
それにしても、なんという大きな矛盾を抱えた存在なのだろうか、人間とは。宗教の教義としてではなく、ただその存在自体が、すでに、自然界に対する大きな原罪を背負っているのだから。
しかし、だからこそ、日々生きることのありがたさが、身にしみて感じられるのだ。残りの日まで、しっかりと生きること。人は、病になって、あるいは死を前にして、初めて、あの健康でいたことを、何事もなく暮らしていた日々のことを思い、その何もないことのありがたさが分かるのだ。
そして、これは絶望することではなく、溢れる思いに満ちた日々を目指しての、一日一日になるべきなのだ。
思えば、叡智ある人間たちは、これまで、幾多の歴史上の難問を解決してきたのではないのか・・・そうあることを信じたいのだ。
花のことを書いていたら、なんだか難しい話になってしまった。ともかく、そんな日々として考えれば、ミャオと一緒にいることも、大事なことなのだ。なるべくオマエと長く居られるようにするからね。待っていてくれ。
飼い主より 敬具