ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(52)

2009-05-10 17:05:34 | Weblog



5月10日
 拝啓 ミャオ様

 その後、北海道では、相変わらずの、晴れて暖かい日が続いている。今日は、午後から久しぶりの曇り空になったけれど、あの先月の27日の雪の後、もう2週間も雨が降っていない。
 晴れ大好き人間の私には、ありがたいことだが、そうばかりも言ってはいられない、困ったことにもなるのだ。

 植えつけたばかりの、野菜苗や、新しい植木などの水やりは欠かせないし、例の小汚いゴエモン風呂(私には極楽の湯だが)にも入りたい、とすれば、この渇水期には、何よりも、家の浅井戸の水位が気にかかる。もとより、ひとり暮らしだから、それほど大量の水は使わないけれど、出なくなると、もらい水に行かなければならなくなるし、さらに不便になる(’08.5.21の項)。
 それならば、別に深井戸を掘りなおすか、あるいは前の道には通っている水道を引くかだが、費用のことを考えると、小さな車一台分位かかるかもしれないから、まあ、ガマンすればすむことだしと思ってしまう。
 つまりは、考え方次第なのだ。悪くとれば、不満だらけの泣き寝入りになるのだろうが、もともと、そんな不便なところを承知の上で、家を建てたのだから、文句を言うべきではないのだ。
 朝な夕なに、大好きな日高山脈の山を見て、静かな林の中の家で暮らしていけるだけで、もう十分に、満足なはずなのだ。
 ところが、人は、月日がたつと、最初のころの、その幸せな思いを忘れがちになるものなのだ。もっと他のどこかに、別の幸せがあるはずだなどと、欲深い人間の性(さが)に惑わされ、さ迷い歩くことになる。
 その間違いに気がつくのは、その探しの旅に出て、見つけられずに、自分が傷ついた時であり、その時になって初めて、やはり、安らぐべきところは、元の我が家にあったのだと思うのだ。

 そんなことを考えたのは、晴れの日が続いているのに、もう2週間近くも、山登りに出かけていないからだ。理由は、空模様、つまり、ゼイタクな極上の天気の日を求めるからなのだが。
 山の上でテントを張るので、二日続いての文句なしの好天の日がほしい。しかし、連休の頃から、山が霞んで見えにくい日が多く、やっと良く見えるようになったかと思うと、午後にかけて、雨が降ることはないのだが、小さな前線が通ったりと、なかなか出発の決断がつかなかったのだ。
 日帰りで行っていれば、いや二日の予定でも、結果的には、十分満足できる天気だったのに・・・行かなかったのだ。
 そんな時ほどつらいことはない。決断力のない自分を責めるからだ。しかし、行かなかったことは事実だし、あれこれ悩んでも仕方ない。
 というわけで、家の近くの山野を歩き回り、青空の下に広がる山々の姿を眺めては、プチ山登りの気分になる。写真は、近く牧草地の丘から見た、南日高のピリカヌプリ(1631m)、ソエマツ岳(1625m)、神威岳(かむいだけ、1600m)。
  さらに、いつものところで、タラノメを袋いっぱいに採ってきて、他に、ヨモギやアイヌネギ(ギョウジャニンニク)などと伴に、テンプラにして食べる。
 クー、たまらんのー、生きてて良かったと思い、山登りに行けなかったことなどは忘れてしまって、バカなテレビ番組を見て、ひとりゲラゲラと笑う。
 我ながら、何という生き方だろうとも思うが、もうここまで来たからには、開き直るしかない。不肖(ふしょう)、私、鬼瓦熊三(おにがわらくまぞう)は、こんな毎日ではあるけれど、しぶとく、ダンゴムシのように、はいずりまわってでも、生きていくつもりであります。

 母の日・・・お母さん、あなたがいなくなってからも、相変わらずのバカ息子で、すみません。ミャオも、ごめんなさい。

                      飼い主より 敬具