5月19日
拝啓 ミャオ様
昨日今日と、晴れてはいるが、風が強い。特に今日は、一日中、風速15m位の風が吹き荒れ(広尾町では最大瞬間風速29m)、耕され苗を植えつけられたばかりの、畑の土が舞い上がり、十勝平野じゅうが、黄砂のような砂塵(さじん)に被われている。これでは、おそらく、風による農作物への被害が出るだろう。朝から、気温は10度以上もあり、日中も20度を越えて上がっているというのに。
しかし、四日前、私が居た雪山の上では、マイナス5度位にまで下がっていた。寒さに震えながら、私はひとり、風に揺れるテントの中で寝ていたのだ。
前回からの続きを、順を追って、話していこう。その日は、朝5時過ぎに、家を出た。行く手には、朝の光に照らし出されて、日高山脈の白い峰々が立ち並んでいた。
しかし、昨日の夜までは、天気予報での、午後からの曇り空が気になっていた。それに加えて、自分の年齢から来る体力の不安が重なり、私の心の隅にあるナマケぐせが、山に行かないで、家での安逸な一日を呼びかけていた。
いつも山に行く前には、映画のタイトルではないけれど、自分の心の中で、こうした、天使と悪魔の争いが繰り返されるのだが。しかし、その日の朝、起きて外に出ると、快晴の空の下に、日高山脈の山々がはっきりと見えていて、天使の群れが飛んでいたのだ。もう、行くしかない。
戸蔦別(とったべつ)川林道に入り、途中、十勝幌尻(とかちぽろしり)岳や札内(さつない)岳への林道分岐を過ぎていくと、大正の沢の砂防ダムの所に、ゲートがあって、そこから先は通行止めだった。
昔は、さらに上流へと、3キロほどは入れたのだが、といっても、今回の登路になる、尾根の取り付き付近までは、2キロほどで大した距離ではない。
まだエゾヤマザクラが咲いている、新緑の谷沿いの道を、歩き始める。すぐに、道は残雪に被われ、さらに危険な崖崩れによって、一部分は、岩礫(がんれき)で埋まっていた。
エサオマン川との分岐の橋を渡り、すぐの所にあるヤブ尾根取り付き点から、500mほど先で、11年前の時と同じように、伐採道をたどって支尾根に取り付くつもりだったが、すぐ傍の沢に赤いテープの目印がある。上の方を見ると、ずっと残雪の雪渓が続いている。そこから登ることにした。
このカムイ岳(1756m)北東尾根には、はっきりとした登山道があるわけではなく、冬から春の積雪期に、主にエサオマントッタベツ岳(1902m)へのルートとして利用されている。逆方向へは、その先の、1803m峰付近のハイマツがひどいということだが、戸蔦別岳(1959m)方面へと続く、主稜線ルートとして利用されている。
私の今回のルートは、あの11年前の時と同じように、この北東尾根を登って、カムイ岳まで行き、そこにテントを張って、翌日、目的の1780m峰へ往復するという計画である。
ダケカンバなどの樹がまばらに生える、この広い雪渓には、さらに前の日に降った新雪が、うっすらと積もっていて、あの連休期間中に登ったかもしれない、登山者の足跡を隠していた。もちろん、他の動物、ヒグマなどの足跡も、どこにも見えない。
急斜面の雪渓を、ズンズンと登って行く。振り返ると、戸蔦別川の谷を隔てて、妙敷山(おしきやま、1731m)と伏見岳(1792m)が、青空の下に並んでいる。
谷をつめて、尾根に出ると、後は、南東側に大きく発達した、雪堤をたどって登って行く。まばらな樹木の間から、まず右手に、妙敷、伏見から続いて、ピパイロ岳(1917m)、1967m峰と見えてきて、反対側には、大きく札内岳(1896m)がそびえ立ち、ついには、エサオマントッタベツ岳が現れてくる。
こうして、上に登るにつれて、山々の姿が見えてくる時ほど、心浮き立つものはない。頂上目指して、さあ登り続けようという、元気もわいてくるのだ。
やがて、すっきりと両側の見通しが開けてきた。思わず、何度も立ち止まりたくなるほどの、山々の眺めである。
今年は雪が多く、いつもの連休の頃と同じ位の、雪の量が残っているし、何よりも、それが古くなって、黄砂などで汚れた雪ではなく、新雪に被われた、白い雪山の姿なのが嬉しい。
その行く手には、この北東尾根の頭(1670m)の白い頂が見えている。
しっかりと、アイゼンを効かせて、その細くなった稜線を、注意して登って行く。右手は、眼下のカタルップ沢へと落ちる、広大な雪の斜面だ。張り出した雪庇(せっぴ)を回り込んで、ついに北東尾根の頭に出る。
そこには、ただ、さえぎることなく、エサオマントッタベツ岳の姿があるだけだった(写真)。この瞬間こそが、何物にも代えがたい山での喜びなのだ。
やはり、何度見ても、素晴らしい山だ。左側のJ.P(ジャンクション・ピーク、分岐点の峰)との間の東カールと、頂上北面の北カールの二つによって、削られた山稜の見事さ。
若い頃、東京にいた私は、ある日、何かの雑誌に載っていた、これと同じような、エサオマントッタベツ岳の写真を見た。それは、衝撃だった。
氷河地形の名残であるカール(圏谷、けんこく)は、北アルプスの槍・穂高、立山、薬師、黒部五郎などで見てはいたものの、それらのいずれとも違う、それも北アルプスよりは1000mも低い、まだ見たこともない北国の山に、こんな見事な形でカールが存在していたとは・・・。
この写真を見たことが、私の北海道移住への、きっかけの一つになったことは確かである。
それにしても、なんという美しいカールだろう。お椀(わん)状に開いた北カールの底には、モレーン(氷河が削り取った砕石帯)の模様が、その氷期の違いによって、一段、二段と確認することができるし、一方の東カールには、カールから流れ下った氷河谷が、山腹を削った跡を見ることができる。
今、私の前には、ルートとなる雪庇の発達した稜線が、そのエサオマンの頂上に向かって続いている。一瞬、行ってみたい欲望に駆られたが、新雪に被われて足跡一つ残っていない、危険な雪庇の道をたどらなければならないし、何よりも、今回の目的は、さらに雄大なカール群の眺めが待っている、あの1780m峰なのだ。
このエサオマンには、10年ほど前に、まだ残雪の豊富な6月に、沢をつめて東カールから、J.Pを経て頂上に着き、そこで一夜を過ごしたことがある。
ちなみに、エサオマントッタベツ岳という山名は、もちろんアイヌの人たちが川の呼び名としてつけたもので、「曲がりくねっていて、両側が崖になっている川」という意味があるそうだが、詳しくは分からない。(このアイヌ語による、様々な北海道の地名は、調べるほどに興味深いものである。)
ところで、下からこの北東尾根の頭まで、6時間もかかっている。自分の体力を考えて、軽量化しても、ザックの重さは16kgほどあり、中高年の私には、こたえるのだ。その疲れた体を奮い立たせて、そこから、同じように雪庇の発達した雪堤をたどり、1時間ほどで、カムイ岳に着く。これで今日の行程は終わり、やれやれだ。
しかし、このカムイ岳からは、さらに展望が良くなり、幌尻岳(2052m)が高く大きく、その傍には、付き従うように戸蔦別岳(1959m)も見えている。
ちなみに、このカムイ(神威)という名前は、北海道の各地にあり、それは、良く知られているように、神様、あるいは山の神様、つまりヒグマのことも意味している。山名としては、この日高山脈の南日高には、同名の有名な神威岳(1600m)があり、その山と区別するために、こちらの山を、カムイ岳と表記している。
さて、この三角点のある頂上の、南側に面した所が、ちょうど手ごろな幕営(ばくえい)地になっていて、そこにテントを張った。しかし天気は、予報通りに、曇ってきて、楽しみにしていた、夕映えの山々の姿も見ることができなかった。
ところが、それ以上に大変なことになってしまった。さて夕食の支度にと、ガス・バーナーを取り付けようとしたが、どうしても、ボンベに取り付けられないのだ。行く前には、ちゃんと取り付けて、火もつけてみていたのに・・・。
持って来た、インスタントや乾燥フーズの食料は、いずれも、お湯で戻すものばかりだ。そして、いかに周囲が雪ばかりだとはいえ、飲み水を作るには、溶かすための火力が必要だ。
それなのに、火が使えない。周りの何キロ先の彼方にも、他の登山者の姿さえなく、寒い雪山の上に、ただひとり・・・。
さらに、暮れかかる空からは、ゴーゴーと音を立て、風が出てきて、テントを揺らし始めた。
ミャオ、我ながら、なんて馬鹿なことをしているんだろうと思う。九州の家で、オマエと二人、仲良く、穏やかに暮らしていれば良いものを・・・。ともかく、続きは次回に。
飼い主より 敬具