ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(59)

2009-05-31 17:28:43 | Weblog



5月31日
 拝啓 ミャオ様

 昨日の霧雨が、雨に変わり、今日は一日中、降り続いている。天上からの、ありがたい恵みの雨だ。もう長い間、ほんのお湿りほどの、雨はあったものの、これほどまとまった雨は降っていなかった。
 トタン屋根に、絶え間なく当たる、雨の音を聞くのは、久しぶりのことだ。窓の外には、軒下(のきした)から落ちる雨だれの向こう、樹々の葉もまた、雨粒に揺れている(写真)。離れた所で、かすかに、鳥の声が聞こえる。

 雨は、降り続く・・・乾ききった大地に。根を張る植物たちの、潤(うるお)いの源であり、生きる糧(かて)となる水は、すべてのものの上に、降り注ぐ。じっと耳をすましていると、聞こえるかも知れない。
 静かに、地中深く、水が浸み渡っていく音、そして、植物たちの、喜びのざわめき・・・。

 そんな日には、私も、家の中に居て、雨の音を聞くことにしよう。本を読むのに疲れて、窓辺に目をやると、緑の木々や草花の上に、なおも雨は降り続いている。
 そうして、一日が過ぎていく。
 この穏やかさこそ、年を重ねて、初めて見えてくるものなのかもしれない。若き日の、激しいきらめきの代わりに、年を経て、得ることのできるもの、それは、若い頃には、見ようともしなかった、心の緑野(りょくや)なのだ。

 前にもあげた(5月24日)、アランの『幸福論』の中に、雨について書かれている一節がある。
  『小雨が降っているとする。あなたは表に出たら、傘を広げる。それでじゅうぶんだ。「またいやな雨だ!」などと言ったところで、なんの役に立とう。雨のしずくも、雲も、風も、どうなるわけでもない。「ああ、結構なおしめりだ」と、なぜ言わないのか。・・・そのほうがあなたにとってよいことだろう。』(白井健三郎訳、集英社文庫)

 アラン(1868~1951)は、フランスの高等中学校の、有名な教師として哲学を教え、多数の著作物があり、実践的人間哲学の分野を広めたとも言われている。
 彼の説く哲学は、難しい形而上(けいじじょう)の問題というよりは、モンテーニュ(1533~1592、『エセー』)やデカルト(1596~1650、『情念論』)などの、モラリストとしての流れを受け継ぐものであり、現実の人生諸問題に即応した話は、彼自身の言う”語録(プロポ)”によって、まとめられている。
 西洋哲学史の流れの中では、アランの地位は、さして大きなものではないけれど、その現実的な対処法は、誰にでも分かりやすく、哲学のあるべき姿の一つでもある。
 アランの言葉は、中国の老荘の思想、ひいては日本の宗教思想にさえ、近しいものを感じる。もっともそこには、フランス人らしい、エスプリや小さなユーモアも含まれてはいるが。
 彼の書いた本を、なにも、勢い込んで読む必要はない。時に応じて、適当に、あるいは、興味のあるページを開けばよいのだ。

 この三日ほど、天気は良くなく、肌寒い曇り空、そして、雨の日と続いている。前の二日も、朝は、薪ストーヴの火をつけたほどだったのだが、今日の気温は、日中も10度以下のままで、ずっと薪を燃やしていた。
 これでは、日高山脈や大雪の山々には、雪が降っているのかもしれない。この雨が上がり、青空が戻ったら、もしかしたら、山々は、さらに降り積もった白い雪で、輝いて見えるかもしれない・・・。
 しかし、私には、もう山に登るだけの、余分な日にちはない。九州に戻らなければならないのだ。
 山々のことが気になる以上に、ミャオのことが気がかりだ。ミャオ、オマエは元気で居てくれるだろうか。


                     飼い主より 敬具
  


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