goo blog サービス終了のお知らせ 

ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

紅葉の愉しみ

2020-12-01 21:02:38 | Weblog

 12月1日

 10月に北海道に行ってきて、このブログ記事を1か月ほど空けてしまい、その期間の埋め合わせがまだ追いついていない。
 それで今回の記事も、依然として1か月前の話しを追うことになる。

 九州に戻ってきてすぐ、今が盛りの九州の山々の紅葉を見るべく、すぐにでも出かけたいと思っていた。
 しかしこの時期には、もっとも人気のある九重の山々の駐車場は、早朝からいっぱいになっていて、クルマを停める場所だけでなく、登山道にも人があふれているだろうし、そんな混雑の中ではと、このか弱い年寄りは二の足を踏むことになる。
 ということで、もともと静かな山歩きを好む私としては、コロナ禍という状況下もあって、紅葉が盛りのこの時期の九重はあきらめることにしたのだが。
 しかし、今年の九重は紅葉の当たり年だったそうで、ネットには、この九重山群内の黒岳、大船山、三俣山、星生山などの、紅葉名所の鮮やかな写真が掲載されていたから、多少くやしい気もしていた。
 もっとも、初秋のころ9月の終わりに、かすかに色づいた扇ヶ鼻へと行ってきたのだから、それだけでも見なかったよりはましだと思うことにしよう。(10月5日の項参照)

 さて、それではどこに行くか、祖母・傾山群では年寄りには荷が重すぎる。
 阿蘇(南阿蘇や根子岳)、さらには由布・鶴見などを考えて、結局、鶴見岳(1375m)に行くことにした。
 体力に自信のない私には、何しろ山頂付近にまでロープウエイで行けるという利便性が、魅力的だ。
 もっとも行きも帰りも利用したのでは、頂上付近の観光散策にしかならないので、上りか下りの片道だけ使ってあとは山道を歩くことにした。
 しかし、今年の初夏にミヤマキリシマ・ツツジを見るために、上りにロープウエイを利用して、楽な下りは山道をと考えて下りてきたのだが、なんとその下りだけの歩行によってひざを痛めてしまい、ほうほうの体(てい)でロープウエイ駅の駐車場にたどり着いた、という苦い経験がある。(6月14日の項参照)
 
 そこで、今回は登山道を登って、下りにロープウエイで降りてくるということにした。
 由緒ある御嶽権現(おんたけごんげん)火男火売(ほのおほのめ)神社の手前にある駐車場(標高700m)にクルマを停めて歩き出す。
 始めから神社への長い石段の登りで、今までに何度も登ったことがあるから分かってはいるものの、息が切れて時々立ち止まってしまった。
 さらに急な山腹をジグザグに上り、その上の方でなだらかになった山腹に出て、そのあたりでスギの植林地も終わり、自然林の林になり、そこがちょうど上から降りてきた紅葉の始まりの所で、薄緑から薄緋色になり始めた樹々の色合いが素晴らしかった。(冒頭の写真)
 その少し先の分岐の所で、腰を下ろして一休みする。
 上空のほうで少し風の音がしている。鳥の声も聞こえない。
 ここまでゆっくり登ってきて、1時間余り、誰にも会わなかった。
 自然の中に在るということは、かくも心落ち着き穏やかになるものか。まさしく、値千金のひと時だと思う。
 そこでふと思ったのだ、私は恵まれている方なのだろうが、世の中にはそうでない人が数多くいるのだと。

 最近のコロナ禍の中で、人々の閉塞感が広がり、自殺者が増えて問題になっているという。
 特に若い女性の自殺者の数が倍増していることは、ゆゆしきことであり、すぐにでも各行政機関が援助の手を差し伸べるべき、喫緊(きっきん)の課題であり、大げさに言えば、この問題は日本亡国論にも値するものだとも思うのだが。
 さらには、中高年者の引きこもりまでが増えていて、先日のNHKスペシャルでは、「ある、ひきこもりの死」として放送されていたのだが、その男が引きこもりになってから部屋をゴミ屋敷化させて、ついには孤独死してしまう一部始終を取材していたが、その中で哀れだったのは、ノートに書かれていた”生きていても、ちっともいいことはなかった”という言葉だ。
 個人責任論、社会、国家責任論を言うのは簡単だが、将来にわたっての現実的施策としの対策が実行されることがのぞましいのだが。

 そんな中で思い出されるのは、前にも書いたことのある、パキスタンの女性活動家、マララ・ユスフザイさんの言葉だ。
 ”一人の子供、一人の教師、一冊のノート、一本のペンが、世界を変えられるのです。教育以外に解決策はありません。”
 相変わらずの紛争のただ中にあり、貧困の連鎖、社会国家の脆弱(ぜいじゃく)さの中にある彼女の国パキスタンと、平和な社会の中で高度な教育が受けられる日本とでは、比較するまでもないことだが、彼女の言葉を一般論としてみれば、教育の本質を見事に言い当てていると思うのだ。

 つまり、心の貧困さの連鎖は、自ら学び取り求める心がなければ、何も変わらないということにおいて。
 私たちが、学校で社会で学ぶ多くのことは、人生のすべての面において役に立つことばかりだし、そこで学んだものは、それから先の人生において、自分の人生の方向を選択する際に間口を広げてくれることになるからだ。
 具体的に言えば、例えばしろうとの私が北海道で丸太小屋を建てた時には、数学物理の様々な数式が役に立ったし、海外旅行、国内旅行ではもともと好きだった人文地理や世界史の記述をたびたび思い出すことになったし、そこから派生した地図をたどっていく探求心は、今でも山登りの際に活用しているし、国語や古文は今に至る読書の楽しみの礎(いしずえ)を築いてくれたし、家庭科で教わったものは、一人暮らしの時の助けになったし、社会に出てから知ったクラッシック音楽や絵画、映画などは、学校での美術や音楽の基礎があってこそのものだし、今に長く続く私の楽しみにもなっている。

 おそらく、若いころに学んだことで後の人生でためにならなかったことなど、何一つないのだ。たとえ、それが失敗や屈辱にまみれた体験であったにせよ、次なる時に活かすことのできる、有意義な経験教訓になるからだ。
 かと言って、それらのことを学び取ったから、そのことで、人生での成功を導くようになるとは限らないし、功利的なものだけを期待してはいけないことは、言うまでもないことだ。
 私は、他人に誇れるものは何もないし、社会的な成功も収めることができずに、ただの”ごくつぶし”の人生を送っただけの、ぐうたらな男としての一生を終わるのだろうけれども、今ここに在る貧しく穏やかな自分の境遇には満足しているのだ。
 静寂に伴われた暮らしの中で、老年に至った今、なるほど私の今までの波乱の人生は、ここに収斂(しゅうれん)されていたのかと気づいたからだ。

 そういうことなのだよ、とひとりつぶやきながら、私は腰を上げ、直接山頂に向かう道とは分かれて、側火山の一つである南平台へと山腹をまわりこんで行く。
 急なスギの植林地をジグザグに登り、木々が低くなってくると、谷あいの向こうに側に、まだらな紅葉模様に彩られた鶴見岳山頂部が見えてきたが、山頂部に電波中継用の大きな鉄塔が並んでいて、あまり見てくれのいいものではなかった。 
 すぐに、ゆるやかなススキの丘に出る。南平台(なんぺいだい、1216m)だ。
 ここからの展望は、何と言っても正面に由布岳が見えることだ。四季折々に、この南平台には来ているのだが、やはり一番いいのは、冬の霧氷や雪に覆われたころだろう。
 少し休んで、南側の見晴らしのきく大きな岩の所に行って見ると、やはり素晴らしかった。
 鞍ヶ戸(くらがと、1344m)の急な山腹を彩る見事な紅葉模様は、山頂手前の地震による崩壊跡(通行禁止)でさえ、一つのアクセントに思えるほどだった。(写真下)



 そこからゆるやかに下り、西の窪(くぼ)の平坦地に出ると、障壁のように連なる鞍ヶ戸の南面の紅葉が迫ってきて、さらには辺りの樹林帯の紅葉が、まるで絵の具を混ぜたようにひときわ鮮やかだった。(写真下)



 この付近で上から下りてくる人、一人ずつ3人と出会い、小声であいさつした。
 ここから、鞍ヶ戸と鶴見岳とをつなぐ尾根のコルになった所、馬の背への九曲がりのジグザグの登りになる。
 やっとのことで、その馬の背にたどり着くと、鶴見岳北面にある火山噴気孔が見え、周りの紅葉も見事だった。
 またここでも一休みした後、山頂に向けての最後の登りになるのだが、情けないことに、突然足がつり始めて、最初は少しだけだったが、もう歩けないほどになって、まさか助けを呼ぶほどではないにしても、焦ってしまった。
 足がつるのは、特に年寄りになってきてから何度も経験しているから、ともかく腰を下ろして休みマッサージしてみた。

 山を登っている時に足がつるようになって、ひどくなったのは、あの8年前の、今にして思えば最後の南アルプス縦走の時で、大樺沢雪渓を八本歯のコルまで詰めて、そこから北岳に向かおうと思っていたのだが、そこで休んでいざ立ち上がった時に、もう足がつっていて、何とか分岐点まで行ってはみたものの、もう登りは無理だからと北岳はあきらめて、花々の咲くトラヴァース道をたどり、何とか北岳山荘に着いたのだが、たまたまそこに大学診療班が来ていて、見てもらったところ、原因は足を冷やしたこと(雪渓の登りで)、そして水分が不足していたから(確かに余り水を飲まなかった)とのことだった。
 しかし、翌日には脚の痛みは収まっていて、朝早く北岳(3192m)を往復して、それから間ノ岳(3189m)へと縦走し、熊ノ平小屋で泊まり、翌日念願の快晴の塩見岳(3052m)の頂きに立ち(それまでは2回ともガスの中だった)、その日は三伏峠小屋に泊まり、翌朝烏帽子岳(2726m)まで往復して戻り、伊那大島に降りた3泊4日の山旅だった。(2012.7.31~8.16の項参照)

 ともかく今回は、その場で腰を下ろし脚をマッサージしながら少しずつ登り続けて、途中からは由布岳と鞍ヶ戸の素晴らしい光景(写真下)をカメラに収めながら、観光客でにぎわう山頂に着いた。
 そうして、足がつったこともあるが、ここまで4時間余りもかかっていて、今や山登りでは、コースタイムの倍の時間がかかることを覚悟しなければいけないのだろう。
 そしてロープウエイ駅まで下り、ゴンドラに乗ってふもとに降りて、当初はそこから30分ほどの神社の駐車場まで歩くつもりでいたのだが、とても無理で、タクシーに乗ってクルマのもとにたどり着いた。
 何はともあれ、無事に戻ってこられてよかった、静かな紅葉風景も心ゆくまで楽しむことができて、今年の秋の山の紅葉がこれで終わったとしても、私は十分に満足だった。

 昨日から、季節の月日に合わせて、きっちりと寒くなってきた。
 今日の朝の気温は1℃で、霜が降りていた。
 衣類は、上下ともに一枚ずつ重ね着をした。

 いつものように、「新古今和歌集」からの一首。
 
  ”晴れ曇り 時雨(しぐれ)は 定めなきものを ふりはてぬるは わが身なりけり”(道因法師)

 (自分なりに訳してみれば、”晴れたり曇ったりで、いつ時雨が降るのかわからない変わりやすい空模様なのに、それを見ているのは、ただひたすらに年老いていくだけの私なのだ。”)

(「新古今和歌集」久保田淳訳注 角川ソフィア文庫)

 


 





ものぞかなしき

2020-11-17 21:18:50 | Weblog



 11月17日

 さて、一年ぶりに戻って来た北海道の家では、やることがいくらでもあったが、そこはそれ、老獪(ろうかい)な業師(わざし)たる私のこと、どうしても修理補修しなければならないところ以外は、”まあ何とかなるべー”と見切りをつけては、だらだらと小仕事を続けていたのだが。
 ただありがたいことに、私がいた3週間ほどの間、天気の良い日が多くて、それだからこそ、前回あげたような素晴らしい夕焼けにもめぐり合えたわけで、そんな天気の日を選んで、いつものように裏山からつながる丘陵地帯を歩いてきた。
 今までのように、春から秋まで通してここにいた時はもちろんのこと、その季節折々の自然の織りなす景観に飽きることはなく、さらに冬も通して一年中いた時も何度かはあったから、まさにその冬の季節こそが、私の好きな北海道の最高のひと時だったのだ。

 ”・・・夜明け前、しっかりと着込んで外に出る。零下20℃。
 冬用防寒長靴に厚い山用靴下をはき重ねて、手袋も冬用二枚重ねにするのだが、それでも足先、指先は冷たい。
 フルフェイスのニット帽二枚重ねていても、鼻先や耳が痛くなる。
 雪は2~30㎝ほどのさらさらした雪で、それほど深くはないから、スキーやスノーシューを使うほどではない。
 小さなラッセルを繰り返しながら、丘の高みを目指して登って行くと、東の地平が薄赤くなってきて、反対側の日高山脈の稜線がはっきりと見えてくる。
 キタキツネの足跡が、丘の高みに向かって続いている。
 見上げると、まだ大部分を占める暗い空に、星が幾つか輝いている。
 私は、寒さも忘れて、そこに立ちつくしてしまう・・・。”

 そんなことを思い出しながら、私はその丘を登って行った。
 ミズナラやカシワの樹々のそばを抜け、カラマツ林を過ぎて、牧草地の丘に着いた。
 もう午後の時間で、初雪が来たばかり山々は少しかすんでいたが、十勝平野の大きな広がりは変わらない。
 帰りに、その林の中にコクワ(サルナシ)の実がなっているのを見つけた。(写真上)
 昔は、周りの林じゅうを歩き回って、袋いっぱいのコクワの実を採ってきて、大びん二個くらいのジャムを作ったものだったが、今回はわずか両手一杯くらいで、小びん一つになるかどうか。
 それでも、こうして野山の恵みの収穫があることはうれしいことだ。

 こうして北海道の家にいる間に、家の林の樹々も紅葉してきた。
 もっとも、一つにはここでの見事な紅葉を見るために、滞在を引き延ばしたといえないこともないのだが。
 紅葉の盛りの時はもう少し先なのだが、そうしていると、次にはあの十勝平野のすべてをおおい尽くす、壮大なカラマツの黄葉が始まるし、11月に入ってさらに一二週間先へと伸ばさなければならなくなるだろうし。
 そうすれば、私にとって、新型コロナはさらに気がかりな問題になってくるだろうし。
 ままよ、とりあえず今を楽しむことだと、私は、青空に映えてきれいな家の林の紅葉を、繰り返し眺めては写真に撮っていくことにした。(写真下)



 さらに、行くべき所は、もう一つ残っている。
 とても山に行くだけの余裕はないが、せめて通いなれた大雪山の山なみを見るために、もう雪が来ているという三国峠までは行ってみたいと思っていた。
 帯広の市街地を抜けて、音更(おとふけ)、士幌(しほろ)、上士幌(かみしほろ)と国道を北上していくのだが、街路樹のナナカマドの赤い実やモミジの紅葉が美しく、さらに山間部に入ってからの紅葉もなかなかにきれいだった。
 三国峠のトンネル(1200m)を抜けると、少し雲がついていたが、雪に覆われた大雪山の主峰旭岳(2290m)が見えていた。

 帰りには、十勝三股の盆地の中を少し歩き回り、そこから久しぶりにゆっくりと、石狩岳(いしかりだけ、1967m)連峰の堂々たる雄姿を眺めた。(写真下)

 

 周りを火山の山々に囲まれながら、ここだけが日高山脈と同じように、古い褶曲断層山脈でできていて、何とも風格のある見事な山である。
 ”男一貫”、どこに出しても恥ずかしくない、日本の名山の一つだといえるだろう。
 私は、三度ほどその頂きを踏んでいるが、最後に行った四度目の時は残雪期で、シュナイダー尾根にまだ雪がたっぷりと残っていて、長い間人が通ってもいないらしくて、トレース(足跡)もなくて雪の踏み抜きを繰り返し、時間切れで頂上まで行けずに引き返したが、何しろ天気は良く、青空に映える残雪の尾根筋がきれいだった。
 思えばあれが最後の石狩岳になってしまって、いささか残念な気もするが。
 さて家に帰る途中で友達の家に寄って、一年ぶりに会って話をすることができた。
 お互いに年なんだからと思いながらも、こうして歳月を重ねて生きていることが、一番大切なことだと思う。

 細かく書いていけば、いろいろとあったのだが、わずか三週間ではとりあえずの仕事しかできなかったし、ともかくの区切りをつけなけれならなかったからで、何はともあれ、すべてが穏やかにある早いうちに九州に戻るべきだと思った。
 帰りの東京に向かう飛行機の便では、東北の早池峰山(1917m )の巨大な白鯨のような姿が印象的だった。(写真下)
 そして羽田での待ち合わせ時間があった後、福岡行きの飛行機に乗り込むが、行きと同じようにほぼ満席に近かった。
 この便は九州と東京をつなぐ大動脈であり、誰もこの新型コロナの時期に、長時間かけて新幹線で行きたいとは思わないのだろう。
 そんな状態だから、窓側に座ることもできず、富士山は見ることができなかったが、かろうじて後部の小窓から、反対側の南アルプスや北アルプスの白い峰々を眺めることができた。

 あれから、もう3週間が過ぎたが、幸いにもというべきか悪運強くというべきか、新型コロナ感染の症状らしきものは出ていない。
 それだから、私が丈夫な免疫のある身体なのだとは思わないし、ただ幸運なだけだったのだろうが、ともかく重症化しやすい年寄りなのだから、と自分に言い聞かせている。
 思えば、一年前の持病の顕在化に始まって以来、年寄りの常としてあちこちがどこか痛くて、まさに人生の秋なのだと思い知らされるばかりなのだが・・・。
 ”それでも、私はまだまだ、死にまっしぇーん。”

 例の『新古今和歌集』の秋の歌の中から一つ。
 
 ”かくしつつ 暮れぬる秋と 老いぬれど しかすがに なほものぞかなしき”(能因法師)

(『新古今和歌集』 久保田淳 訳注 角川ソフィア文庫、訳すれば、”そうこうしているうちに秋は暮れてゆき、それとともに私も老いていくが、それは当たり前のことだとしても、やはりもの哀しくなるものだ。”)


スカーレットの空

2020-11-08 21:03:15 | Weblog



 11月5日

 ついに、行ってきた。
 この半年の間、考えあぐねていたのだが、ついに自分の尻をムチで打って出かけたのだ。
 それは、一時自粛が要請されていた、他県をまたいでの旅行どころか、九州から北海道までの大旅行ということでもあり、いささか後ろめたい気もするし、さらには一大感染地でもある東京を経由しての旅となればなおさらのことである。
 自分が感染する恐れもあるが、それ以上に、自分が媒介人になって、北海道の友だちたちにコロナ・ウィルスをうつすことのほうがもっと恐ろしい。
 “行くべきか、行かざるべきか”、それはあのハムレットの心境とは比べられないほどに、小さな決断かも知れないが、心は揺れ動いていた。

 一番安全なのは、ワクチンが開発されて接種を受ける事ができるようになる春まで待つか、それとも感染予防に十分に気を配り、覚悟を決めて、もう1年も閉ざしたままにしてある、あの北海道のわが家、蛇屋敷の掃除補修などをしておくべきか。
 時はじりじりと、過ぎていく・・・。
 もともと今年は、目の手術や病院での検診、それに講習会などの用事がたて込んでいて、コロナ禍でなくとも、そう簡単に北海道に行くことはできなかったのだが。
 そして、これ以上に延ばすと、北海道は雪の季節になるし・・・。

 その時、ただでさえ優柔不断で煮え切らない私に、耳元でささやいたのは、悪魔か天使か・・・パンパパン、さあお立合い!
  ”もうおまえはこれまでに、十分に自分の人生を楽しんできたのだし、これ以上何を望むというのだ。
 だから、最後の見納めに友達たちに会って、自分の好きな北海道にひとりで建てた、愛するわが家に行って、日高山脈の山々を眺めながら、最期のひと時を過ごすことができれば、もうそれで本望ではないか。
 ひとり白装束(しろしょうぞく)に身を整え、「人生五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」と紅蓮(ぐれん)の炎の中に消えて行った、あの信長のいさぎよさを思え。”

 そうなのだ、あとは野となれ山となれ、もう生きている自分ではない骨の行く末など案じたところでどうなるというのか。
 私は決断した。そうだ、北海道のわが家に行こう。それも今すぐに、せめて一二週間だけでも。
 交通機関それぞれとの連絡を調べると、減便、運休の中で、バスで福岡空港に行って、羽田空港乗り換えで(待ち時間があり)帯広に着いてバス乗り継ぎかタクシーでわが家にという行程で、わずか一本の便だけのつながりがあって行くことができるが、時間の遅れが許されない危険な連絡になり、どれか一つでも遅れて乗れなければ、二日がかりになってしまう。

 10月初旬のある日、私は意を決して九州の家を出た。
 それぞれの連絡便はうまくいって、飛行機も窓側に座ることができた・・・すべて”案ずるより産むが易し”ということか、行きもしない前からいろいろ悩んでいても無駄なことなのだ。
 いつもの外の景色は、やや雲が多めながらも、上空に広がる成層圏外まで続く青空と、地図のような下界の眺めを楽しむことができた。
 上空から眺めたパッチワーク状の十勝平野は、ジャガイモの収穫や飼料用のデントコーンの切込みが作業が始まっていて、枯草色の豆類の収穫はその後だし、これから始まるビート畑の緑や、春まき小麦の新緑の明るい色が光に映えていた。
 私は、一年ぶりに、北海道に帰ってきたのだ。

 家は、玄関に行くまでの道や、庭などは全く草ぼうぼうの状態で、とても全部を刈り取る気さえ起きないほどの伸び方だった。
 家の中は、ヘビでうじゃうじゃかと思ったが、意外にも小さな蛇の抜け殻が一つあるだけだったが、窓を開けて光を入れてみると、あぜん!・・・越冬バエなどの虫が何匹も落ちているのはいつものことだが、灰白色のじゅうたんの上は、屋根裏から落ちてきたとみられる虫や小動物などの体液で汚く汚れていて、(後で家の中にネズミ捕りを仕掛けていたら、エゾヒメネズミが二匹かかっていた)、さらに最悪なのは、カビが冷蔵庫の中いっぱいに繁殖していて(電源は当然切ってある)、さらにカビは部屋の壁やドアまでも覆っていたのだ。
 つまり、北海道でも夏は暑くなり30℃を超える日が続くのだから、そんなときに雨戸を下ろして家じゅうを締め切っていれば、カビが生えるのは当然ということなのだろう。
 逆に言えば、今までその夏の間、北海道の家で過ごしていたから、気づかなかっただけの話しであり、秋の終わりに九州の家に戻ると、いつもまずは家の中のカビ拭き掃除をしなければならないと同じことだ。

 というわけで、家の掃除だけでも二三日かかり、さらには雨漏りしていた天窓を修理し、掘立小屋の車庫の柱の一本が腐っていて補修し、庭と道の一部だけでもとこれも二三日かけて草を刈り取り、周りの林の中も、ササ刈りなどの手入れをして、二週間はあっという間に過ぎて結局、三週間の滞在に延長した。
 もちろん、井戸は涸れていて、その間はもらい水だし、風呂はクルマで銭湯に行かなければならないし、トイレは、小屋に自作オイル缶へのポットン便所があるのだが、ヘビが気になっておちおちしてられないので、空き地の草むらにスコップで穴を掘って、そこですませていたのだが、今はもう寒い時期になっているというのに、まだ刺しバエがいて、そのお尻丸出しの短い時間でも、その度ごとに必ず一か所は刺されてしまった。
 若いネエちゃんのムチムチお尻ならともかく、こんなよれよれジイさんの血なんか吸ってどうなるというんだ、人を選べ。

 そんなひと時も、見上げる空は青く、おそらくは最後の一輪だろうハマナスの花が咲いていて(写真上)、傍らには赤いハマナスの実もなっているのだ(時間があればジャムにできるのに)。(写真下)



 この北海道に戻ってくれば、そこにはそれなりにいろいろと予期しない問題課題が見つかり、しかし一方では、またそれなりにいくつかの思いがけない喜びにも巡り合うことにもなるのだ。
 まるで、要約された人生の出来事のように。
 九州の家で生活している時には、もちろん普通のライフラインは整備されているから、北海道の家にいる時のように、水、風呂、トイレなどで不自由することはないし、そのありがたさは北海道の家での経験があるからひとしおに感じるのだ。
 一方で、北海道の家にいる時の最大の利点は、外に出て見ればわかることだが、空が広いことだ。
 九州の家にいる時には、周りに山があり、特に朝焼け夕焼けの空を、北海道の家にいる時ほどには楽しむことができないのだ。
 もちろん私は、今までの人生の中で、特に山登りの時に山小屋泊まりやテント泊で、朝焼け夕焼けの絶景を何度も目にしてきたし、さらには海辺や湖や池などに映る”倍返し”の朝夕の風景も目にしてきた。
 さらに付け加えれば、壮大な宇宙の最奥にまで広がるような、飛行機から眺めるあかね色の空も見てきたが、やはりこの北海道の十勝平野から眺める、夕景に勝るものはないように思える。

 北海道の家に戻ってわずか三日目の夕方に、その時は訪れた。
 ほどよい距離を隔てて連なる、シルエットになった漆黒(しっこく)の日高山脈の上に、天空を覆う巨大な赤黄色の帳(とばり)が波打つように広がっている・・・。(写真下)

 

 私に向かって、ここは北海道なのだよと誇らしげに伝えるように・・・。
 私は30分余りの間に、その夕焼けの空を眺め続けて、何度も何度もカメラのシャッターを押していた。
 自分の人生のあの時に確かにあった、豪奢(ごうしゃ)な天蓋(てんがい)の色彩の記憶として・・・生きることとはこういうことなのだよと。

 この時の空の色は、あかね色ではなくて緋色(ひいろ)に近い色彩だったが、その緋色の英語名スカーレットから思い出すのは、3時間42分にも及ぶ超大作「風と共に去りぬ」(1939年制作、日本公開1952年)のラストシーンで、愛する人たちを失っても、”まだ私にはこのタラの土地がある”と力強く立ち上がる、あのヴィヴィアン・リー演じるスカーレットの姿とその時の光景であるが、そのエンド・タイトルはまさにこのスカーレット色の夕景に重なっていて、そこにあの有名なテーマ曲が流れてくるのだ。
(ちなみにこの「風と共に去りぬ」は、アメリカの南北戦争前後のまだ奴隷制度が残っていた時代の、南部の地主上流階級の話であり、今日では人種差別の問題から、この映画自体が半ば忌避(きひ)されているとも聞く。)

 ここまで、1か月以上も空いたブログ記事の掲載を続けるために、今回はその初めの部分だけを書いてきたが、まだまだこの北海道での話と九州に戻ってきてからの話もあり、これからはその埋め合わせというわけではないが、前のように1週間の間隔で書いていきたいと思っているのだが、しかしいったん身についた”ぐうたら病”の悪癖がはたしてそう簡単に治るものだろうか。
 ただ、北海道から戻ってきて2週間近くになるが、多少不安に思っていた体調の変化もなく、今のところは新型コロナ感染はないと思うのだが、何しろ年寄りゆえに、感染すればいつころりと逝くかもわからず、まあそれも時の運、世の中はかくのごとくありということなのだろう。

  ”ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。”(「方丈記」鴨長明 市古貞次校註 岩波文庫)
 


リンドウの花の咲くころ

2020-10-06 21:24:02 | Weblog



 10月5日

 実に3か月ぶりに、山に行ってきた。
 もっとも、最近は、特に夏の間は2か月くらい空くことが普通になっていた。
 それまでは、夏は北アルプスや南アルプスなどの遠征登山をすることが多かったのだが、近年体力の衰えと、計画そのものを立てるのも面倒になり、まして今年は”コロナ禍”によって、とても遠征登山に出かける状態にはなく、最近続いている秋の紅葉遠征登山にも行けない始末だ。
 それでも見方を変えれば、いい時期に2年続けて栗駒山(2018.10.1,8)、焼石岳(2019.10.8,15)と紅葉で名高い二つの東北の名山に行くことができたことは、むしろ幸運だったというべきかもしれない。

 長い間が空いた時、むろんこういう時に行く山は決まっている。
 初心者から、お年寄り子供にまでやさしい、しかも高山帯の景観を併せ持った九重山である。
 その中でも、一番歩く距離が短いいつもの扇ヶ鼻(1698m)に登ることにした。
 駐車場のある牧ノ戸峠がすでに1330mの高さにあるから、標高差はわずか370m足らずで、都市近郊の低山歩きと変わらない。コースタイムは登りでも1時間半足らずで、往復でも3時間もかからない軽いハイキング気分で登れる山なのだ。
 しかし、低い山だとあなどるなかれ、季節を変えると第1級の景観を持つ山に変貌する。
 特に積雪期の霧氷に覆われた景観、頂上台地付近から眺める、九重主峰群と祖母・傾連山に阿蘇山群の眺めは、特に見事である。
 さらに同じ台地に群生する、初夏のミヤマキリシマ満開時の豪華絢爛(ごうかけんらん)さ。
 それは九重随一といわれる、あの平治岳斜面を流れ下るミヤマキリシマの、”滝ツツジ”とでも呼びたいようなあでやかさと、対をなす”お花畑ツツジ”の見事さがあり、さらにはこの初夏の季節に初めて見た、扇ヶ鼻の東側にある岩井川岳の”庭園ツツジ”の素晴らしさもぜひ加えたい。(7月8日の項参照)

 それではなぜ、紅葉にはまだ早く、何もないだろう今の時期に行ったのかというと、3か月もの空白を埋めるためには、先に書いたやさしい山であることと、もしかしたら紅葉のはしりが見られるかもと期待したからである。
 朝8時には牧ノ戸峠に着いたが、駐車場にはまだ7割程度のクルマがあるだけで、そこからの登山道もたまに一人二人の登山者に会うだけで、マスクをしている人は一人だけアゴにかけている人がいただけで、何より韓国などからのにぎやかな団体にも会わずにすんで、静かな山になっていた。
 しかし、歩きはじめの遊歩道の登りだけで息を切らしてしまったが、なあに急ぐことはない。体が疲れないようにゆっくり歩いて行けばいいのだ。
 紅葉は、ドウダンツツジがやっと色づき始めたばかりだったが、豊かな穂先をなびかせているススキが秋の山にふさわしかった。(写真上、沓掛山南面)
 何より、鮮やかな紫色のリンドウの花が登山道沿いに点々と咲いていて、何度も足を止めて写真に撮った。(写真下)



 そして、同じ秋のころに北海道や東北の高山帯に咲く、大ぶりで花冠が開かないエゾオヤマノリンドウを思った。
 北海道の高山帯では、他にも夏に、色鮮やかなミヤマリンドウやリシリリンドウなどが見られ、北アルプスにも咲く白いトウヤクリンドウは、北海道ではクモイリンドウとも呼ばれていて形も大きい。

 天気は少し雲が広がった時間帯もあったが、ほとんど青空が広がっていて、まだ少し暑い日差しを和らげるかのように、さわやかに吹きつける秋の風が心地よかった。
 メインルートである九重本峰群へと向かう道と分かれて、扇ヶ鼻台地への急な登りになる。登り切って、まず台地の東端まで行って眺めを楽しみ、戻ってそのままゆるやかな道をたどり、頂上に着く。
 それぞれひとりで登ってきた3人に出会っただけでの、静かな山頂だった。(山頂西端から九重主峰群)



 一休みした後、まだ午前中だが、早めに下山することにした。
 来た道を戻るだけだが、道端の草花を見ていく楽しみがあり、夏の花の薄紫のホタルグサや黄色いミヤマアキノキリンソウに、季節外れに咲いているミヤマキリシマツツジ、さらには来春用にもう幾つものツボミをつけたアセビなどを眺めては、休み休みしながら駐車場にたどり着いた。
 休みを入れて往復で5時間もかかったが、体力的にはまだ少し余裕が残っているくらいで、年寄りにはいい山歩きだった。

 今回の記事のタイトルを”リンドウの花咲くころ”にしたのは、今回こうしてリンドウの花が咲く登山道を歩いていて、子供のころに聞いた覚えのある、島倉千代子の「りんどう峠」の歌を思い出しからだ。
 馬の背に揺られて、峠を越えて隣村へと嫁いでいった姉さんのことを歌ったもので、島倉千代子のきれいな高い歌声が、娘心の思いにふさわしかった。

 ”りんりんりんどうは濃紫、姉(あね)サの小袖(こそで)も濃紫・・・。”
 という歌詞は西条八十(やそ)作で、作曲は古賀政男という、当時の日本の歌謡曲界を代表するコンビによるものだったのだが、私は長らく、その歌詞を間違えて覚えていた。それは”りんりんりんどうは小紫、姉さの心も小紫・・・。”と自分勝手に解釈していたのだ。
 こうして、間違えた歌詞をそのまま覚えていることはよくあることで、童謡の「ふるさと」も、子供のころは”ウサギおいしい鹿野山”と、つまり”鹿野山で捕まえたウサギの肉は美味しかった”のだと長らく思っていた。
 ましてや、長い人生の中で、人に対して物に対して、間違った理解の仕方をしていたことがどれほどあっただろうか。それも、今もそのまま気づかずに、誤解のままだったりして・・・。

 さて自然の中を散策する時に静かに流れ来る音楽はといえば、ベートーヴェンの第4番交響曲「田園」が有名だが、未完成のものも含めて10曲もの交響曲を作曲したブルックナー(1824~1896)は、”逍遥(しょうよう)の音楽家”ともいわれているが、多くの時間を教会のオルガニストとして過ごし、同じような交響曲を飽きることなく書き続けた彼の思いは何だったのか、自分だけの”ブルックナー王国”にいることが幸せだったのか、その背中に哀愁を漂わせながらも、終楽章では輝く神の世界に到達したかのようなきらめきの中へと導いていく・・・。
 というのも、少し前に録画していたティーレマン指揮ウィーンフィルによるブルックナー交響曲8番を、とりあえず少しだけ聞くつもりだったのが、途中で休みながらもとうとう1時間半近く聞いてしまった。
 今やドイツ・オーストリア圏での指揮者では、第一人者になった感のあるティーレマン(1959~)の、全曲を暗譜で通した指揮ぶりが見ものだった。
 ドレスデン国立歌劇場オーケストラを率いながら、こうしてウィーン・フィルやベルリン・フィルとも名演奏を積み重ねていくティーレマンの、さらなる巨匠へと向かうだろう歩みが楽しみである。

 話は変わるが、このところ日本の古典文学の中でも特に平安王朝期の物語文学が気になっていて、「竹取物語」「宇治拾遺物語」「宇津保(うつほ)物語」「落窪物語」などと読み継いできたが、いずれも次の場面はどうなるのかという期待があり、それはいわゆる大衆文学の面白さにも似て、物語を通して多少の齟齬(そご)があったとしても、複雑な人間関係などがわからなくても、十分に物語の愉しみを味わうことができるのだ。
 もちろん、その時代にひとりだけ屹立(きつりつ)してそびえ立つ「源氏物語」の偉大さは分かるとしても、こうしてそれに先立つ様々な物語文学があったからのことだと、初めて理解することができた。

 前にも書いたように、今の時期にこの九州の家にいたことがあまりなかったので、さらにまた気づいたことがある。
 庭に生垣風に植えてあるキンモクセイの木は、冬の初めのころ帰ってきて、いつも伸びた枝先を剪定(せんてい)するだけだったのだが、今の時期は何ともう数週間前から、黄色い花を咲かせ始めていて、今では木の全部にびっしりと花をつけていて(写真下)、まあその香りたるや、ジンチョウゲ、クチナシと並んで、”三大香りの花””としての称号を受けるにふさわしい匂いが漂っている。



 全く、悪いことがあっても、いつもどこかにそれを埋め合わせる何かがあるはずなのだ、今まで気がつかなかっただけで。

 そして、このところの物語文学に一区切りをつけて、読みかけのままだった「新古今和歌集」に戻ると、ちょうど”巻四の秋の歌”の項で、その中から一首。

”虫の音も 長き夜飽かぬ 古里に なお思い添う 松風ぞ吹く” (藤原家隆朝臣)
(『新古今和歌集』上 久保田淳訳注 角川ソフィア文庫)

 つまり、この時期に家にいたことがあまりなかったので、知らなかったことがもう一つ。
 それは、夕方から鳴き始めた虫の声が、夜には盛りとなって、もう辺りの物音が聞こえないほどになり、これほどまでに秋の虫が鳴いているとは知らなかったのだ。
 それは北海道の家での、初夏のころにかけての、裏の林で鳴くエゾハルゼミたちの大合唱で、もう他には何も聞こえないのと同じことで。

 で私はといいますと、一日、誰と話すこともなく過ごし・・・心地よい静けさの中にいるのです。





彼岸花

2020-09-24 21:43:53 | Weblog



 9月24日

 前回の記事を見てみると、一月近くも前の暑い日が続いていたころだ。
 思い出したくもない、あのまとわりつくような高い湿度の熱気・・・私は、若いころから寒さに比べて暑さが苦手だった。
 もちろん夏にも山に登っていたが、それは北アルプスや南アルプスのように、高い山の上が涼しいからであって、平地に降りてくるたびに、あのムッとする熱気に包まれて、うんざりしたものだった。
 かと言って、海や川が嫌いだというのではない。泳ぎは得意で、何キロもの遠泳をすることもできるほどなのだが、もう最近は何年も海や川に行っていないし、むろん泳いでもいない。
 今さら、いい所を見せようと泳ぎに行ったところで、不慣れな水の中の運動で足がつったりして、危ないだけだ。年寄りには、”君子危うきに近寄らず”ということで、ただ眺めるだけにしておいた方がよさそうだ。

 さて、そんな記録的な暑さに加えて、コロナ禍さらに検定試験受講などもあって、この夏は家にいただけの思い出しかない。
 しかし、それを不運だ不満だと思った所で、自然のなせるわざに対しては”せんなき”ことで、それよりはむしろ逆の見方をして、それだからできたことや得したことがあったと考えたほうがよさそうだ。
 人は皆、日常を崩す出来事が起きて初めて、それまでの繰り返すだけだった日常がいとおしく感じられるようになるのだ。あの高橋ジョージの”ロード”の歌詞のように・・・”何でもないような事が、幸せだったと思う。”
 今もなお外出を控えて、家にいて平穏な日々を送っていることが、実は私にとっては幸せなことなのだ。

 先日、あのNHKの「歴史秘話ヒストリア」で、名匠小津安二郎(1903~1963、「東京物語(1953年)」「晩春(1949年)」「麦秋(1951年)」などの他に「彼岸花(1958年)」という題名の映画もある)監督が紹介されていたが、2012年のイギリスの映画協会主催の「映画監督が選ぶベスト映画」で、彼の「東京物語」が堂々の第1位に選ばれているほどだが、彼が戦後、淡々とした日常を静謐(せいひつ)な映像で描き続けたのには、戦時中に、中国大陸での死者と隣り合わせの過酷な従軍体験があったからであり、その時の辛い思いの裏返しとしての、穏やかな日本の日常風景が必要だったのだろうか。(この「ベスト映画」での2位があのスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅(1968年)」であり、3位がオーソン・ウェルズの「市民ケーン(1941年)」だったことからもその価値の大きさがわかる。

 そして、その番組の中で彼の生涯が紹介されていて(原節子との話が出てこなかったのが残念ではあるが)、同じ中国戦線で従軍していて偶然出会った、山中貞夫(1909~1938、「人情紙風船」「丹下左膳余話 百万両の壺」など)監督との数十分の語らいの時の写真が残されていたが、彼はそのまま戦場で病死することになる。
 29歳という余りにも早すぎる死・・・戦争でいかに多くの惜しむべき才能が失われたことか。

 比べて、私たちはいかに平和な時代に生まれ育ってきたのかと思ってしまう。
 何事もないから退屈だなどと思ったことは一度もない。何事もない中での平穏な暮らしこそが、生きものとして最上の暮らしなのだと思う。

 ところで今年のコロナ禍によって、いつもの北海道での日々は消えてしまったし、山々も花々も紅葉も青空も見ることはできなかった。ライブカメラで見る今年の大雪山の紅葉も変わらない光景だが・・・。
 ただ私の記憶の中には、長年にわたる(人生の半分以上の)北海道での思い出が蓄積されている。
 あの砂漠を行くラクダが、苦行の歩行の中でも、反芻で(はんすう)しながら小さな満足を自分に与えるように、私も、この今の時代の殺伐(さつばつ)とした光景の中で、ひとり思い出を反芻しながら生きていくことにしよう。それだけで十分だ。

 つまり、行動し続けることがもっと重要であった、若き日の活動すべき時期に、私は様々な冒険の日々を送ることができたし、一方ではこうして、行動的な活動を控えるようになった年寄りになって、家にいるべくコロナ禍が起きたことで、若い時の日々の経験が、何と時期を得たものだったかがよくわかるのだ。

 最近、若い男女の俳優二人が相次いで、自ら命を絶ったというニュースが流れていた。
 人がうらやむほどの容姿に恵まれ、前途洋々たる俳優人生も広がっていたのに・・・。
 私は、人それぞれの人生の区切りのつけ方に、それは個人の生き方なのだし、あれこれ言う気はないが、ただただもったいない人生だと思う、それぞれに30代という若さで亡くなってしまうなんて。
 私は若いころ、前にも何度も書いてきたことだが、フランスの作家にしてレジスタンスの闘士であり、政治家でもあったあのアンドレ・マルロー、さらにはヘミングウェイや三島由紀夫などに共通する、行動主義的な考え方から導き出された、無謀とは隣り合わせの、”生きるための死”という概念にとらわれていた。

 ただ年寄りなった今、それらに対する想いは、若き日の目の前で燃え盛る炎のごときものではなく、対岸の遠くに見える篝(かがり火)のごとくでしかないのだが、最近、死を望む難病女性に薬物投与を行って、死に至らしめたとして二人の医師が逮捕されていたが、そうした自殺ほう助の問題と相まって、さらにはそう遠くはないだろう老齢の自分の行く末のことを考えれば、生と死の問題は哲学的な意味合いだけではなく、”後始末”としての現実的な問題をも含んでいるのだ。

 ところで、こうして一年中九州の家にいたことで、私は自分の家の庭で初めて見たものがあった。
 いずれも盛夏から秋のはじめ咲く花であり、一つはサルスベリの木の赤い花、もう一つは緋色のヒガンバナ(彼岸花、別名マンジュシャゲ曼殊沙華、ユリ科ではなくヒガンバナ科に分類されるとか)である。
 ヒガンバナは、母が近くの空き地にあった球根を取ってきて植えておいたものであるが、私は今までこの時期には北海道にいて、初秋のお彼岸の時期に咲く、庭のヒガンバナを一度も見たことがなかった。
 このヒガンバナは、変わった植生の仕方で、雪も積もる寒い冬の間は青々と茂った葉が目立つものの、春には枯れ始めて、夏には盛り上がった球根だけが残っていた。
 春から秋にかけて北海道にいた私が知っているのは、そこまでだった。
 そしてこの秋の初めに、庭の片隅に、緑の茎が伸びて、その先にいくつものツボミをつけている草花を見つけて驚いた。(写真上)
 私は、そこにヒガンバナのむき出しの球根があるのを知ってはいたが、その先のことは知らなかったのだ。
 そして数日を待たずに、そのつぼみが開き始めて(下の写真上)、さらにあっという間に、ほとんどのツボミが開いて、緋色繚乱(りょうらん)の華やかさになった。(下の写真下)





 何をか言わんや。
 この記録的な猛暑になった今年に、それも九州の家で脂汗を流しながら耐えてきたことへの、”倍返し”がこれだったのだ。ありがとさーん(坂田師匠の古いギャグ)。
 百の辛いことがあっても、一つの幸せで、人は耐えていけるものなのだ。
 さらに満開になったこのヒガンバナに、ある日、大きな蝶が飛んできて蜜を吸っていた。
 大型の蝶、カラスアゲハだ(昆虫初心者でしかない私にはミヤマカラスアゲハとの区別はつかないが、写真下)



 それは、カラスという名前をつけたくないほどの見事な瑠璃(るり)色と、ヒガンバナと同じ緋色の斑紋をつけていた。
 しかし、よく見ると、そのチョウの右側の後翅(うしろばね)の突起部分が大きく欠けていた。
 それは飛び回る時の舵(かじ)の役目をするためのものかもしれないし、7,8月に孵化(ふか)した夏型のチョウだろうが、一部ボロボロになっても飛び回り、ひたすらに吸引食事をしているそのチョウの姿に、私は胸打たれてしまった。
 生きものとして生まれてきたものにとって、目的はただ一つ・・・”生きる”ということだけなのだ。

 それなのに人間だけが、その生きるということを深刻に問題化させ、賢(さか)しらに意味づけして、感情の制御もできずに、気まぐれな自己矜持(きょうじ)だけで生きていき死んでいく。
 そうではないだろうと思う。
 ”生きとし生けるもの”としてこの世に生を受けたものは、自分の命のかぎりに生き抜くことが、すべてのものの大前提としてあるはずなのだ。
 ただそれも、自分が比較的健康であり、差し迫る身体的環境的危機がないから言えるのであって、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の災害の中で、果たして冷静に対処できるのか、天上から降ろされた一本の蜘蛛(クモ)の糸に、われ先にしがみつくのではないのか・・・わからない。

 またこむずかしい話になってしまったが、ただこの時のチョウを見て思ったのは、どんなに自分が艱難辛苦(かんなんしんく)の中にいようとも、まずは必死で生きることなのだよ、強く教えられた気がしたのだ。

 さていつものように、ここまで書いてきて、もう十分な量だという気もするが、最初に書いておこうとしたことの半分もすんでいない。
 そこで、映画についてもう一本だけあげておきたい。それは今月のはじめにNHK・BSで放映されたイタリアの名匠フランコ・ゼフィレッリ(1923~2019)監督の作品の「ロミオとジュリエット」(1968年)である。
 もちろん、公開時から今までに何度か見ている映画ではあるが、久しぶりに見て何度も胸が熱くなり、涙を抑えることができなくなった。(鬼の眼に涙。)

 原作は言うまでもなく、あのシェイクスピアの戯曲であり、そのセリフがそのままシェイクスピア劇調に語られていて(今の若い人にはなじめないだろうが)、もしこれが現代語風な日本語吹き替え版ならば私は見る気もしなかっただろうが、しっかりと作られた舞台劇風な映画になっていたのだ。
 監督のゼフィレッリは同じイタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティの下で学んだ人で、その後オペラ界で舞台演出を任されるほどになるのだが、この映画でも、舞台衣装が素晴らしく、絵画などから見る当時の様子をほうふつとさせるばかりだ。特に、キャピュレット家の舞踏会の場面は、ヴィスコンティ監督の名画「山猫(1963年)」での舞踏会とともに忘れられない、豪華絢爛(ごうかけんらん)さにあふれていた。

 さらに、この映画を成功させたのは、何と言ってもジュリエットを演じたオリヴィア・ハッセーであり、原作の年齢に近い16歳という若々しい美しさにあふれていて、髪の毛の色がブロンドではなくブルネット(日本でいう黒髪)なのが、イタリア風で舞台設定にかなっている。
 彼女が、初めて現れる場面、名前を呼ばれて窓から上半身を乗り出した時、そして舞踏会で初めてロミオとジュリエットが出会い、お互いにひかれあって見つめ合う場面、その時広間では吟遊詩人によって、あの名作曲家ニーノ・ロータによる有名な主題歌が歌われていて、懐かしさといとおしさに、年寄りの乾いた目からも涙がこぼれるほどだった。さらに、教会での二人だけの結婚式をあげる場面、しかし、ロミオは両家の若者たちの争いに巻き込まれて、はずみでジュリエットの従兄を殺してしまい、この街から追放になる前に、一緒に過ごした初めての二人だけの夜、そして朝が来て二人が別れる場面。その後、良かれと仕組んだものがあだになり、ラストシーンで、ジュリエットはロミオが自分の傍らで息絶えているのを見て、自らも後を追うのだ・・・なんという若い二人の悲劇だろうか・・・もう涙はとめどなくあふれてきて、画面さえもぼやけてしまうほどだった。
(このシェイクスピアの悲劇は、さらに「ハムレット」「オセロ」「リヤ王」「マクベス」へとつながっていくのだ。)

 まだまだ他にも、マイケル・ヨーク演じるキャピュレット家のティボルトの姿は、まるであのカラヴァッジョの描いた肖像画のようで・・・などなど。
 ともかく、総合的に見て、このゼフィレッリの「ロミオとジュリエット」は私の映画のベスト10の一本に入れたい映画ではあった。
 他にも多くの映画化された「ロミオとジュリエット」があり、1996年のアメリカ映画で、レオナルド・ディカプリオが演じた「ロミオとジュリエット」なども話題を集めたそうだが、日本語吹き替えの現代版ということもあって見る気にさえならない。(むしろミュージカルとして舞台をがらりと変えて、ニューヨークの場末の町ウェスト・サイドでの物語に設定した、ロバート・ワイズ監督、ジェローム・ロビンス振り付けによる「ウエスト・サイド物語(1957年)」は、今の時代にでも通用する斬新さがあった。)
 さらには、同じようにシェイクスピア劇によるというローレンス・ハーヴェイ(私には「アラモ(1960年)」の大佐役の印象が強い)が主演した1954年のイギリス映画も評価が高いということだが、私にはこのゼフィレッリによる映画があれば充分である。
 ちなみにこのゼフィレッリは続いて、鳥や魚に説教したとされるアッシジの聖フランチェスコの、清貧な生活を甘んじて受け入れながら神に仕える姿を描いた、「ブラザーサン・シスタームーン(1972年)」という佳作も生み出しているが、その後アメリカに渡り、何本かの映画を撮った後、再びヨーロッパに戻り、オペラ演出、衣装などで本領を発揮することになる。
 なお付け加えれば、この映画の最初の口上役は、何とあの本場イギリスの名シェイクスピア役者、ローレンス・オリビエである。

 それでもなお、私は変わらずに日本の古典文学を読み続けていて、今は「宇津保(うつほ)物語」の終わりに差しかかったところであるが、「源氏物語」を書いた紫式部や「枕草子」のを書いた清少納言が、当時夢中になって読んでいたというのがよくわかる。
 ちなみに、イギリスのシェイクスピア(1564~1616)が活躍したのは、エリザベス1世統治下、スペインの無敵艦隊を破り、イギリスの覇権が世界に波及し始めたころであり、清少納言(966~1025)や紫式部(970から978ごろ~1014)が宮廷に勤めて作品を書き上げたのは、平安時代の中期、藤原時代とも呼ばれたころである。
 日本の古典文学は、時代にかんがみて世界の文学と比べる以前に、それ以上の世界に誇るべき内容と広がりを持っているのだから、日本人として読み継いでいくべき精神的な遺産だと思うのだが。

 おそらくこれらの作品は、今は日本文学研究者たちとごく少数の愛好者たちだけのものなのだろうが、印刷と併せてデジタル保存が可能な今の時代、無視される時代が長く続くとしても、後年誰かがその扉を開けて、また新たな系譜をつないでいくのだろう。
 なあに、すべてにおいて、世の中そんなに捨てたものじゃないんだから。

 あの不快な夏の暑さが過ぎ、今やフリースを着こんで靴下をはく季節になってしまった。
 しかし、私の北海道は、どこに行ったのだろうか。
 CDを整理していて、久しぶりに現代音楽の Arvo Pärt(アルヴォ・ペルト、1935~)を聴いた。
 秋の雨が降っている。



 


古(ふる)物語のはしりなど

2020-08-26 22:01:17 | Weblog



 8月26日

 何と前回から1か月もの間が空いてしまった。
 書くべきことがなかったわけではない、ただこの暑さの中パソコンのキーボードを打つ気がしなかったからだ。
 家は広くはないが、テレビのある部屋にだけクーラーが置いてあり、動かせないデスクトップ・パソコンのある部屋には扇風機しかなく、暑くて”やってらんない”からである。
 今まで、夏中を通してこの九州の家にいたことはほとんどなかったので、この夏の暑さには参ってしまった。
 クーラーのある部屋で(暖房には使っていないので夏だけ稼働のクーラーと呼ぶのがふさわしい)、テレビを見たり本を読んだりしている分にはいいのだが、ベランダ側にはムッとする暑さに満ちていて、いつもは窓もドアも締め切っているのだが、それでも家の中には30℃近い熱気がこもっていて、動き回ることさえおっくうになるのだ。
 ここは山間部にある家だから、幾分涼しく、昔は30℃を超えることは何度かあるくらいだったのだが、今年は梅雨明け後の8月中、ずっと30℃を超えていたというよりは、34℃から35℃を超える日が一週間以上も続いたのだ。

 外国でも、ロシアの北極圏にある町では、何とこの夏に38℃にもなったそうであり、たとえばそれまでも問題になっていたシロクマ生存の危機だけではなく、北極圏の生態系全体にも影響が出るだろうし、それは、今まではるか彼方から聞こえていた遠雷が、いつしか身近にまで近づいてきているような状態であり、やがては地球全体の環境にまでその影響が及ぶのかもしれない。
 しかし、ダーウィンの進化論をかたくなに信じる人々は、いつの間にか異常気象に慣れてきて、その環境を克服してしまうだろうし、こうしたことも淘汰(とうた)進化の過程なのだと考えるのだろうか。

 いつも口にすることだが、私たち年寄りは良い時代に生まれたものだと思う。
 戦争の悲惨さの中にはいなかったし、戦後の食糧危機に見舞われて空腹な思いはしたものの、様々な災害危機は地域的なものに限られいて、私たちはあのアフリカのヌーの群れの中にいるそれぞれの一頭として、憐れみを感じながらも、ただ災難にあった他の仲間を見ているだけだったのだ。
 今回のコロナ禍も、またそうした災害の一つとして、自分の周りでは無事平穏に過ぎ去ってくれればいいと思いながら。
 もうこの年寄りには、残りの短い日々をいかに充足されたものにするかということよりは、いかに平穏な日々を送るかであり、自然なる母の懐の中で、幼児帰りのように守られて、四季の移り変わりを愉しみにしながら。

 ともかく、そうしたいつものぐうたらさに起因する言い訳をすることはできるものの、現実としては、いまだに社会と人間とのかかわりから逃げることはできていない。
 というのも、この年になって、今月検定試験なるものを受ける羽目になり、学生時代以来の勉強をしたのだ。
 もう残り少ないこの世のために、何を今さらとも思うが、まあ考えてみれば、三途の川を渡ってあの世とやらに入り、閻魔(えんま)大王の前に引き出された時には、記憶のたけを思い出して、なんとか言い訳ができるようにと、その勉強や予行演習になるかもしれなと、都合良いように解釈しては見たものの、結局は、”愚か者めが、ワシをだませるとでも思っているのか”と、一喝されて、舌を引き抜かれることになるのかもしれず、とかく生きていても死んでしまっても、どちらでも生きづらい世界ではあるのだ。

 さて、久しぶりのブログ記事なのに、こんなしょうもない話で始めてしまったが、ともかく、山には、前回の記事で書いて以来、何と1か月半近くも登っていない。
 北海道にいるのならともかく、この九州で真夏に山の尾根歩きなどはしたくないからでもあるが、それでもこの時期に九州にいた時には、何度か沢登りで山に登ったことがある。

 その一つが、もう20年近くも前のことだが、阿蘇山の仙酔峡(せんすいきょう)にある仙酔谷である。
 その日は、夏の盛りの8月初旬であったにもかかわらず、まるで初秋を思わせるかのように、空気が澄んでいて、青空は見事なまでの藍色だった。
 上の写真は、久住高原から見たカルデラの中にそびえる阿蘇山で、左側の根子岳から高岳(1592m)に中岳と連なっている(左上には遠く国見岳、別名大国見が見えている)が、これほどまでに山肌がくっきり見えたのは後にも先にもこの日だけだった。(このころはまだフィルム・カメラで写真を撮っていて、今見ると微妙に色彩が違って見える。)
 
 こんな夏の盛りに、むき出しの火山の山肌をたどって山登りをしようという人はいなくて、ロープウエイ乗り場の駐車場には私のクルマが一台あるだけだった。
 この沢には5mほどの滝が何本かはあるが、いずれもたやすく左右に巻くことができる上に、ほとんどがナメ床と小さな釜(かま)の連続であり、初心者でも容易に楽しく遡行(そこう)することができるのだ。(写真下)



 日差しは暑く、できるだけ水の中を歩きながら遡(さかのぼ)って行き、振り返ると、この明るいナメ床の沢の上に、左端の涌蓋山(わいたさん、1600m)から右端の大船山(たいせんざん、1787m)に至る九重連山が並んでいるのが見えて、それは私の思い描く”絵葉書写真”の見事な一枚の光景になっていた。(写真下)



 私は、途中でたびたび腰を下ろしては、この眺めを繰り返し見続けた。
 さらに沢をたどって行くと、上流では水が少なくなり、二股の左股を選ぶと水の流れはなくなり、あとはごつごつした岩だらけのガリーを岩登り風に乗り越えて、高岳へと続く平らな尾根に出ると、頂上はすぐそこだった。
 しかし、わずかな時間その頂上からの展望を確かめただけで、すぐに下りて行くことにした。
 周りはむき出しの火山岩の山肌で、ムッとする熱気に覆われていたからだ。
 帰りは、たどってきた沢と並んで続いている仙酔尾根の登山道を下って行った。
 すぐ向こうには、北尾根の岩稜帯が並んでいて(写真下)、核心部の鷲ヶ峰などは岩登りのトレーニング場として有名であり、私も学生時代にはここで訓練させられたものである。



 往復5時間ほどの、前半は素晴らしい沢歩きで、後半は暑い尾根歩きの一日だった。
 というわけで、今年の夏の盛りには、コロナ禍と前述した試験準備のために、どこも行かなかったが、せめてもと、楽しかった昔の山の思い出の一つをここにあげておくことにしたのだ。

 実際に山に登らなくとも、こうして昔の写真を見たり、あるいはテレビの山番組などを見て、何とか山歩きの楽しさを味わってはいるのだが。
 それにしても、今の状況下では、相変わらず飛行機や高速バスの減便は続いたままだし、風評被害はないにしても、後ろ指をさされたくはないから、今年は北海道に戻るのは無理かもしれない。
 安心して行けるようになるのは、新型コロナのワクチン接種が可能となる来年の春以降のことになるだろうし、その時期でさえ確定できるものではないし、おそらくは、北海道で人生の終わりを迎えるという思惑は外れて、昔からのこの家で寿命が尽きるまでの日々を送ることになるのかもしれない。
 それはそれで、仕方のないことだと思う。
 古来、今までにこの地球上で命を終えた人々は、それがおおむね順送りの道理にかなうものであれ、あるいは悲憤慷慨(ひふんこうがい)するほどの不条理なものであれ、結局は受け入れて、後は従容(しょうよう)として、彼方の世界に続く道をたどる他はなかったのだから。

 最近見たNHKのドキュメンタリー番組、「目撃にっぽん」では、このコロナ禍の被害をまともに受けた業種の一つである、飲食業界の実情を、あの3坪ほどの店が寄せ集まっている新宿は”ゴールデン街”に取材していたが、その中でも80歳を超えるママを筆頭にそれぞれの個性あふれる店主たちが、自分たちの生活を賭けた苦しい中から、一斉休業に向かい、さらに時間と客制限の中で、何とか営業再開していこうと苦労しているさまを映し出していた。
 さらに同じNHKの「ドキュメント72時間」では、7月7日に合わせて、あの芝の増上寺の境内には、人々の願いを書いた短冊(たんざく)が並べられていたのだが、もちろん今のご時世”新型コロナ退散”の類が目についたし、さらにあるOLは、10年前にある人からのプロポーズを受けて、その時は断ったが、今になって思いが募ってきて、再び彼に会えますようにと短冊に書いて手を合わせていたし、進行性の病気にかかっていたある若い男は、これ以上悪くなりませんようにと、思いを込めて書いていた。
 いつも思うことだが、夜空を埋め尽くす星の数と同じように、この地球上に生きている人たちの数だけ、それぞれの喜怒哀楽の人生があるということだ。

 さらに衝撃的だったのは、同じNHKスペシャルのドキュメンタリー番組で、日本の終戦記念日の次の日に放送された、「アウシュビッツ 死者たちの告発」である。
 75年前に、ナチス・ドイツの時代に行われていたユダヤ人に対するホロコースト(大虐殺)の事件は、誰でもが知っていて、その写真を何度見ても思わず眼をそむけたくなる悲惨な事件だが、そのアウシュビッツ収容所で、近年、土の中に埋められていた何枚ものユダヤ人たちの手記が見つかって解読され公表されたのだ。
 その秘密裏に書かれていたメモは、収容所内のユダヤ人たちとの通訳をしたり、彼らををガス室に送るべく指示したり、ある時は死体運びなどもした、同じユダヤ人のゾンダーコマンド(秘密司令員)たちのものだったのだ。

 命令されるドイツ兵たちにそむけば死があるだけだし、収容されている大勢の仲間のユダヤ人たちからは、裏切り者とさげすまれ侮蔑(ぶべつ)の白い眼で見られていて、それでも、彼らはその究極の選択の中で必死に生き延びてきたのだ。

 私たちに何が言えるだろう。
 迫りくる生と死のはざまで、人間として、生きものとして選ぶべきものは、どちらなのか・・・。
 前にもあげたことのある、フランスの作家にして、レジスタンスの旅団長であり、戦後はド・ゴール内閣の文化大臣にもなった、アンドレ・マルロー(1901~76)の若き日の小説『王道』の中で、その最後の所で、主人公クロードの年上の友であり人生の師でもあった、ペルカンの死にゆくさまを描いた場面からだが・・・。

 ”いかな神聖な思想も、いかな未来の慰安や償いも、なにものも人生の終焉(しゅうえん)に意義を与えることはできないのだと・・・「死など・・・死などないのだ。ただおれだけが・・・ただおれだけが死んでゆくのだ・・・。」”
(『世界名作全集36』マルロー「王道」小松清訳 筑摩書房、その他の新訳によるものもあるが、意訳があるにせよこの小松清訳の語感こそがふさわしいと思う。蛇足ながら、あのフランシス・コッポラの監督の『地獄の黙示録(1979年)』のマーロン・ブランドの演じたカーツ大佐は、この「王道」のペルカンをほうふつとさせる。)

 ところで、いつもの年なら4月の半ばころには北海道の家に戻り、そこに秋いっぱいまでいて、つまり7か月近くを過ごして、冬の間はこの九州の家に戻るという繰り返しだったのだが、数年前から雑用などが重なりそのリズムが少し崩れ始めてきていて、ただし、まさか今年のような状況になるとは考えてもいなかったからでもあるが、この半年は全く違う生き方をしなければならなくなったのだ。
 と書くといかにも大げさだが、どこにいてもぐうたらな自分の性分が変わることはないから、環境に応じて生活を少し変えたというだけのことなのだが。

 つまり北海道の家にいれば、春は山菜取りに忙しく、エゾハルゼミの耳を聾(ろう)するばかりの鳴声にも慣れて、野山の草花を楽しみ、そうするうちに秋の季節になり、ラクヨウタケのキノコのシーズンになり、地元産の安いイクラを美味しくいただいて、深紅の紅葉の照り返しの中にいられる幸せを感じて、それらの季節折々の山に登っては、残雪と新緑のコントラストを楽しみ、高山植物の花々を眺めて、山肌を染める紅葉模様に歓声をあげてきたのだ。
 それがここ九州の家にずっといる羽目になり、北海道での楽しみが失われてしまったのだ。

 しかし、悲しむことはない。この九州の家にいることで、得たものもまた幾つもあったからだ。
 まず第一に、長らく気になっていた自分の体について、幾つもの診療や手術を受けた結果、そのほとんどの病状が回復したのだし、家の周りの野山をくまなく歩き回ることもできたし、新緑とミヤマキリシマの花に彩られた山々も、じっくりと眺めることができたし、”ゾウにはゾウの時間があってネズミにはネズミの時間がある”ように、それぞれの、環境における愉しみを見つけてゆけばいいだけの話しだ。

 前回にも書いていたように、今は日本の古典文学に夢中になっていて、『宇治拾遺(うじしゅうい)物語』から『今昔(こんじゃく)物語』を少し読み返し、さらには日本最古の物語である『竹取物語』から、『落窪(おちくぼ)物語』そして『宇津保(うつほ)物語』へと進んだところであるが、まだこの王朝期のいくつかの日記随筆集も残っているし、その一方でまだあの『源氏物語』は途中までだし、『新古今和歌集』も最後までは読み終えていない。
 あえて言えば、私は今の時代の小説を読みたいとは思わないし、むしろ人間の控えめな心の機微(きび)を巧みに描いた、こうした、古文、旧仮名遣いの日本の古典文学に強く惹かれるのだ。
 もちろんそのうちのいくつかは、若いころに読んではいたのだが、あの頃の私と今の死にかかっているじいさんの私とでは、その感じ方も違い、何とか生きているうちに一冊でも多く読みたいものだと思っている。

 そう考えてくると、明治時代の以降の日本文学はだいたい目を通してはいるものの、もう一度読み返したくなってくるし、さらに世界に目を向ければ、ギリシア神話に始まる欧米文学も、もちろんその多くを読んではいるが、例えばトルストイの『戦争と平和』やドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に、プルーストの『失われた時を求めて』といった大作が残ってはいるし、果たして生きてるうちに・・・と思ってしまう。

 考えてみれば、私の行動や考え方の規範となってきたものは、その多くがこうした文学作品に触発されたものだし、さらに絵画や音楽、映画などが、それらの思いを支えてきてくれたように思う。
 子どもはなぜ学校に行って勉強しなければならないのか、ということが最近問題になっていて(たまたま今日NHKで『世界は教科書で作られている』というクイズ番組をやっていたが)、言うまでもないことだ・・・将来の自分のために学ぶのであり、それらのすべては大人になっていく過程の中で、すべて生かされるはずだし、無駄だと思える教科など一つもないのだ。

 学ぶこと読むことで、その積み重ねこそが、後の人生を豊かにし、生きていく上での選択の幅をずっと広げてくれるのだ。
 なぜ学校で勉強をしなければならないのか、というような愚問は、おごりとぜいたく溢れる環境の中からしか生まれないものだろう。

 あのイスラム教の国パキスタンで、タリバーンによる銃撃に遭いながらも、教育の重要さを説き、”一人の子供、一人の教師、一冊の本、一本のペンを”と訴え続けたマララ・ユスフザイさんの声が聞こえないのだろうか。(半年ほど前に、そのオックスフォード大学で学ぶマララのもとへ、あの二酸化炭素排出ゼロ運動を世界に呼びかけている、スウェーデンのグレタ・トゥーンベリが訪れて、若い女性活動家の二人は、親しく語り合ったとの記事が載っていた。) 

 ほれ、こうして自分の残り少ない人生を嘆いているこんなじいさんでさえ、これからの人生の選択の機会さえ余りないのに、若き日の自分の思いに重ねては、本を読んでいるのだ・・・もっとあの頃に、しっかりと学校の勉強をして、多くの本を読んでおけばよかったと思いながら。

 先日、民放のバラエティー番組で、”私の本棚”と言うことで三人の若い女優、女芸人、画家イラストレイターの愛読書が紹介されていたが、マンガ本とミステリー、自己啓発本だけで、日本の古典はもとより、少し前の時代までの日本文学はおろか、世界文学の一冊さえ見ることはできなかった。
 もちろん、それぞれの好みというものがあるのだから、そのことを悪く言うつもりはない。
 私たちの若い時代には、読むべき本は、三島由紀夫であり大江健三郎であり安部公房であったように、今の時代には、分かりやすく筋書きのはっきりした冒険活劇のマンガが好まれるのだろうし、彼女たちもそうしたマンガ作家たちの考え方に影響を受けて、自分なりの価値観を築いていくのだろうし、いつの間にか日本の歌の表舞台からは、演歌が消え去り、若い人たちに支持される今の時代の歌ばかりになったように、時代の流れの中では、もう”老兵は死なずただ消え去るのみ”と言うことなのだろうか。
 今の若い人たちからすれば、昔、日本文学全集などと呼ばれて出版されていた本のすべてが、もう古い日本の古典でしかなく、まして私が今読んでいる王朝時代の和歌、物語、日記随筆などはおじいさんが神棚の奥にしまっている古い書物でしかないのだろう。

 それを、私がとやかく言うつもりはない、君たちの未来は君たち自身の価値観によって、具体化されていくものだし、良かれ悪しかれ、その結果こそが君たちの時代なのだから。
 それでも、私は、年寄りらしく古いものにしがみついては、あくまでも自分の思いのままにわがままに、日本の古典文学を読み続けていきたいと思っております。

”・・・ただ臥し起き明かし暮らすままに、世の中に多かる古物語のはしなどを見れば、世に多かるそらごと(つくり話)だにあり、人にもあらぬ (他人とは違う)身の上まで書き日記して、めずらしきさまにもありなむ、とおぼゆるも・・・。”

(完訳日本の古典『蜻蛉(かげろう)日記』木村正中・伊牟田経久 校註・訳 小学館)
(以上、文中に記した日本文学の古典作品の多くは、現代語訳付きで”角川ソフィア文庫”から出版されているし、もっと大きな書籍サイズで読みたければ、”book-off"などの中古本屋さんで、昔の全集物を安く手に入れることができる。)
 

 


心を広く遊ばしめ

2020-07-27 21:20:35 | Weblog



 7月27日

 怠け者になるのは簡単だが、そこから抜け出すのは難しい。
 年を重ねるごとに、事を行うにあたっては、すべて”易(やす)きに流れる”ままに、難しいことをやらずにすむようにと、波風を立てずに、ぬるま湯につかるがごとくに生きていける道を選ぶことになる。
 そして、これが年寄りの生きる道だと自分に言い聞かせ、かくしてぐうたらな年寄りは、”もうろくじじい”の道を歩き始めるのだ。
 ”そうです。私が変なじいさんです。”

 その笑い顔が、いつしかひきつって悲しみに代わり、やがては恐れおののくようになる。
 コロナ禍の今の世界、これほどの事態になっていても、日々発表される数字を見てそう思うだけで、それほど深刻には考えていない人が多いのだろうか、社会は表向き何も変わっていないように見える。
 もっとも、それでいいのかもしれない。あのアフリカのサバンナにいるヌーの群れが、大集団になって彼方の草原を目指すように、人々は今ある流れに従って進むことしかできないのだし、途中の激流で多くの仲間を失ったとしても、己の歩みを止めることはできないのだ。

 その到達地がどういうところなのか、もう年老いた私には見届けることはできないが、そうまでして長生きしたいとも思わないし、これまで歩いてきた道のりだけでもう十分だとも思っている。いい旅路だったのだから。
 これからは、内外への旅ができなくなくなってしまい、例えばあのスイス・アルプスの再訪がかなわなくても、日本のいくつかの山を登り残したままだとしても、それほど残念なことだとは思わない。
 極端な言い方をすれば、コロナ禍のために思うような山旅ができなくなったおかげで、それまでに自分が思うままに登ってきた山々の思い出が、よりひときわ光り輝いて見えるからだ。
 年寄りには、これから先の予定がないにせよ、今まで貯えてきた思い出の財産を、一つ一つねちねちと、自分だけの愉しみとして味わい尽くすことはできる。

 思えば人生の中で、そうした”幸不幸”相半ばする思い出が数多くあることこそが、他人に見せるものではない自分が生きてきた証(あかし)であり、自分だけに分かる宝物なのだ。
 あの激動と混乱の幼青壮年の時代こそ、実は、自分の老後の生きるよすがとなる、思い出を残すための大切なひと時だったのだ。学ぶこと習うことの本当の大切さは、その時が過ぎ去って、初めて気づくものだ。
 だから、思い出のひとつひとつが、誇らしげな喜びと歓喜に満ちたものであれ、あるいは哀しみと悔恨に打ち沈んだものであれ、それらは等しく私が歩いてきた道に残した、思い出の痕跡(こんせき)なのだ。

 自分の人生が、緩急(かんきゅう)や強弱からなる起承転結への推移の結果だと考えていけば、今この穏やかなひと時の中に在ることは、ありがたき天の差配であり、何と巧みに書かれた結末だろうかと思うのだ。
 以下の言葉は、このブログでも何度か書いたものだが、同じことばかりを繰り返し言う年寄りの常で、こうした時にはいつも思い出してしまうのだ。 

”(人間には)死と同じように避けられないものがある。それは生きることだ。”

 (これは映画『ライムライト』(1952年)の中で、失意の若い踊り子を励ますために、チャップリン扮する老喜劇役者カルべロの言った言葉だが、さらに、その踊り子への淡い思いを断ち切って、彼女と若者との恋を祝福することにした彼は言うのだ。)

” 時は偉大な作家だ。いつも完璧な結末を書いてくれる。”

 そして、映画のエンド・タイトルで流れていた、哀切極まるテーマ曲が胸を打つ。
 さらには、あの映画評論家淀川長治さんの言葉を思い出す。

”若い時に、たくさんいいものを見ておきなさい。”

 さて、前置きがすっかり長くなったが、山の話を書いておかなければならない。
 それは、もう1か月も前の話しだからタイムリーな記事としての価値はなく、単なる個人的な備忘録(びぼうろく)としての意味合いしかないのだが、この時も、その前の2回のミヤマキリシマ鑑賞登山と同じように、いい山歩きだった。
 それはいつもの通りの九重であり、それもあきることなく繰り返す牧ノ戸峠(1330m)からのハイキングコースである。
 8時前に牧ノ戸に着いたが、ミヤマキリシマの花は終わっているというのに、駐車場には7割程度のクルマが並んでいた。

 何と言っても、青空が広がっているのが嬉しい。
 花は、名残りのミヤマキリシマが一つ二つとあるものの、ほとんどがベニドウダンの薄紅や赤い花だけである。
 沓掛山の前峰からは、今日ははっきりとカルデラの中に阿蘇山(1592m)が見えている。
 尾根通しに沓掛山本峰(1503m)へと向かい、彼方にどっしりと鎮座した三俣山(1745m)を眺めて、いつもの定番の写真を撮る。
 ゆるやかな高原状の尾根道をたどり、扇ヶ鼻分岐へと向かう。(写真上、分岐下より星生山とベニドウダン)
 私を抜いて行く人、戻ってくる人などが、たまにいるくらいで、グループの声が聞こえなくて静かなのがいい。 
 コロナ対策のマスク姿の人は、一月前の時には、何人か見かけたのだが、今ではもうほとんど見ることはなかったし、私もつけていなかったが。はたして山では感染しないのだろうか。

 分岐にからは、久住山などへ行くメインルートとは離れて左手にそれていき、火口跡の小さな池塘を経て、星生山の急な南尾根に取り付く。
 低い樹林帯を抜けると左右の展望が開けて、山腹斜面の登りになり、冬は霧氷がきれいな所であり、所々にハイマツの代わりにミヤマビャクシンが地を這っていて、高山帯らしい気がする。西の肩に着き、最後の一登りで星生山(1762m)頂上に着く。
 ここからの、星生崎へと続く稜線の連なりが、九重のミニ・アルプスとでも呼びたい所だ。厳冬期にはアイゼン必携の岩稜帯になり、それだけに展望も素晴らしい。
 少し前の、あのミヤマキリシマが盛りのころには、この南斜面が赤紫色に染められて壮観な眺めになるのだが、今はただ一つ二つの花の株が残るだけだった。(写真下、右から久住山、稲星山、天狗ヶ城、中岳)



 一休みして展望を楽しみ、岩稜の縦走路をたどって行くが、年寄りのふらつく脚では慎重にならないと。
 そこを過ぎると、白ザク(花崗岩ではなく火山性の砕石)の道になり、岩稜帯通しにも行けるが、右に上下するトラバース道をたどり、岩峰がある星生崎(1720m)に着く。

 そこから、直接星生崎下のコルに出る道もあるのだが行き過ぎてしまい、遠回りになるが、眼下の避難小屋(工事中)まで下りて、コルまで登り直し、そこで昼休みの大休止をとる。
 目の前に大きくそびえ立つ、久住山(1787m)は、九重の山の中ではやはりその迫力ある鋭い山体は際立っていて、九州本土一の高さを中岳(1791m)に譲るとしても、九重の山を代表する名峰であることに変わりはない。

 岩塊帯の道をトラバース気味に下り、平たんな西千里浜に出て、名残りのミヤマキリシマを前景にして、久住山と星生崎の岩峰を振り返り眺めながら歩いて行く。(写真下)



 後はゆるやかに来た道を戻るだけだが、ひざは痛くならなかったものの、長時間歩行でやはり疲れてしまった。
 牧ノ戸の駐車場に着いたのは、2時を過ぎていたから、コースタイムでは3時間半足らずの所を、この年寄りの脚では、休みを多くとったにせよ、6時間半に近い時間がかかっているのだ。
 もって”肝に銘ずべし”、無理はしないようにしなければとはいえ、山野を歩き回ることは、私が生きていることそのものでもあるのだから、やめられないのだ。

 前にも何度かここにあげたことのある、あの江戸時代の医師であり儒学者でもあった貝原益軒(かいばらえきけん、1630~1714)の『養生訓(ようじょうくん)』の中からの言葉。

”天気和暖(かだん)の日は、園圃(えんぽ)に出、高き所に上がり、心を広く遊ばしめ、鬱滞(うつたい)を開くべし。時々花木を愛し、遊賞(ゆうしょう)せしめて、其の意を快(こころよ)くすべし。・・・。”

(『養生訓』貝原益軒 石川謙校訂 岩波文庫)

 今年の九州北部の、6月11日ごろの梅雨入りというのは、例年よりは遅いそうだが、それでも5月からの好天の多い日がそのまま続いていて、いつもの年ならば梅雨の時期と重なり、なかなかいい条件の下でのミヤマキリシマ鑑賞とはいかないのだが、前回にもあげたように、今年は晴天と満開の時期が重なって、多くの人が花を楽しめたのではないのだろうか。
 しかし、その後はあいにく九州は豪雨被害に見舞われ、その後も曇りと雨のうっとうしい日々が続いている。まさに”wet season"と呼ぶにふさわしい日々だった。

 もっとも、いいこともあった。暖かい空気と冷たい空気が押し合いして作られる前線の位置が、南側に少し下がる時が多くて、そのために北の冷たい空気が流れ込んできて、涼しい日が多かったのだ。
 一昨日など、最高気温が24℃までしか上がらず、長そではもとより、靴下をはいたくらいだった。
 確かその前の気象庁の長期予報では、7月からは暑い夏になるとのことだったのだが、その予報が外れて大歓迎だし、九州や本州の夏の暑さに耐えられないから、北の地に行っていたのに、あのヘビ、水枯渇、風呂なし外トイレという四重苦の北海道の家に帰るくらいなら、こうして涼しいのだから、水道があり、トイレと風呂も家の中にあり、さらにクーラー(まだ二三回使っただけだが)もあるこの九州の家にいたほうがましだし、その上にコロナ禍とくれば、ますますここでおとなしくして、昔の思い出にふけっていたほうがいいと思ってしまうのだ。

 こうして北と南に逃げ場を作っていて、ぜいたくだと思われるのかもしれないが、様々な問題はそれぞれの家で起きるし、煩雑(はんざつ)さは2倍になるし、誰か私に代わってギリギリの費用で同じ生活をできるかというと、おそらく誰にもできないというよりは、耐えられないと思う。
 だから今は、私がこの家にいることを、十分に楽しめばいいのだ。

 庭には、いつものクチナシの花が次から次に咲いていて、その甘い香りがいつも漂っている。
 今年のウメの実はわずか20数個だけだったが、スーパーで一袋買い足して、何とか自分で使う一年分の2ビンは作って確保したし、その他にもヤマモモのジャムを1ビン作ったが、いずれもいつもの年なら、台所で大汗かいて作るのだが、今年は涼しさの中で少し汗ばんだくらいで、作業を終えることができた。
 何事も、”コロナ禍”で悪いことばかりではないのだよ、と自分に言い聞かせることにしている。

 前回、他にもいろいろと書きたいことはあったのだが、2回分の山の話を書いてそれだけでいっぱいになり、テレビ番組やオペラや映画や本の話など書けなくなってしまったが、それならその分を今回書き足すというわけにもいかず、つまり書きたいと思った時に書いておかないと、その意欲がそがれてしまうからだ。
 それでも、自分の備忘録ということからすれば、簡単にでも書き残しておく必要があるだろう。

 いつも見る「ブラタモリ」や「日本人のおなまえっ!」や「ポツン一軒家」などは相変わらず再放送や編集ものが多いけれど、半ば忘れていたものもあり、やはり面白く見ることができたし、当時の彼らの言葉を今さらながらに、なるほどと理解できることもあった。
 テレビ・コンサートでは、あのタリススコラーズのヴィクトリアの「レクイエム」は清澄な響きが素晴らしかったし、リヒャルト・シュトラウスのオペラ「影のない女」はまだ少ししか見ていないが、その見事なオーケストラの響きの中で応えあう歌が素晴らしく、どうしてもかつての名ソプラノ、シュヴァルツコップの歌う「四つの最後の歌」を思い出してしまうのだ。

 さらにこれはドキュメンタリー・フィルムからだけれども、あのロック・ポピュラー音楽史上最大の出来事だった「ウッドストック」(1969年)で、次々に登場するスターたちの顔ぶれのものすごさ。ただ最後の”ジミヘン”の超絶ギター・シーンだけはもっと長く見せてほしかったが、さらにそのミュージック・フェスの終了後、広大な農地を演奏会場として貸したその農場主の、若者たちに呼びかけるシーンは感動的だった。
 さらに、もう一つのロック・ポピュラー音楽の事件、アフリカ・エチオピア難民を救うために企画された「we are the world」(1985年)、その録音時に集まったスターたち、あのハリー・べラフォンテからマイケル・ジャクソンに至るまでの歌手たちが、ジャズの巨匠クィンシー・ジョーンズの指揮の下で歌いハモリあっていた、その和気あいあいたる仲間意識。
 今ひとたび、今回は”コロナウィルスと闘うために、こうした有名アーティストたちが再度集まれるチャンスはあるのだろうか。

 そしてこれはテレビで見た映画だが、『フリーソロ』(2018年アメリカ)。この映画のこともクライマーのアレックス・オノルドの名前も知ってはいたが、初めて映像で見て震え上がってしまった。普通岩壁を登るには、ヘルメットをかぶりザイルとカラビナやハーケン、ボルトなどをを駆使して取り付くのだが、彼は今流行りの室内競技であるボルダリングのスタイルで、つまり丸腰のフリーソロで、ヨセミテのハーフドームとともに有名な、同じように巨大な一枚岩のあのエル・キャピタン(2307m、岩壁は900m)に登ってしまったのだ。それまでの記録を大幅に破って。映画というよりは、ドキュメンタリー・フィルムなのだが、このジャンルではベスト1にあげたいくらいであり、後日機会があればこの映画については詳しく書いてみたい。

 そして最後に今読んでいる本の中から、相変わらず『新古今和歌集』上巻(角川ソフィア文庫)は進行中だが、その途中なのにふと読みたくなって『宇治拾遺(うじしゅうい)物語』(角川ソフィア文庫)からの一編を寝る前に読み、さらにはものの考え方を整理するためにと、時々『DEATH 死とは何か』(シェリー・ケーガン 柴田裕之役 交響社、分厚い本だが訳文が読みやすい)を読んでいるのだが、ここまで書いてきただけでも、何と支離滅裂で、分裂症気味な性格だろう、と我ながら思わないわけにはいかないのだ。
 あの有名な画家ゴーギャンの言葉を、一部分だけ”我々”から”私”に変えてみれば・・・。

” 私はどこから来たのか、私は何者なのか、私はどこに行くのか。”


夏なき年とぞ思いぬる

2020-07-08 22:53:33 | Weblog



 7月8日

 まだまだ、雨が降り続いている。
 以下の記事を書き終えたところで、熊本大水害に続いて北部九州の大雨災害が起きて、テレビニュースでも、被災地の惨憺(さんたん)たる被害状況が映し出されていて、とてもそんな状況下で、自分がのんびりと楽しんできた山の記事などを、このタイミングでブログに掲載するわけにもいかず・・・全く今の世は、都会の町ではコロナ禍に戦々恐々として、かといって田舎ではこうした災害が起きやすいし、いつも例えに言うように、アフリカのサバンナで、一頭のヌーがライオンに捕まり食べられているのを、仲間のヌーたちが遠巻きに見ているようなものなのかもしれない・・・同情を込めて見守りつつ、しかし、自分でなくてよかったと思いながら。

 そのニュースの中で、被災者のおかみさんらしい人が、記者のインタビューに涙ながらに答えていたが、”ここまで(コロナ禍休業などを)我慢してがんばってきたのに、この水害でもう・・・”。
 私たちにできること・・・10万円給付金があるのだが。
 そして、いまだに飛行機・バスの減便や運休は続き、新型コロナは勢いを盛り返していて、北海道はさらに遠くなってしまった。

 しかし、今は自分なりに、この地での日常の仕事に戻るしかはないのだろう。
 またしても、前回よりは2週間以上もの間が空いてしまった。(結局はまたも3週間。)
 当初はこのブログを、自分のもう一つの日記として、そこはかとなく起きる日々の身辺雑記について、記録しておこうと思っていたのだが、相次いだ周りの人の不幸によって、無常の世を嘆く思いにとりつかれ、今ではいささか手前勝手な観念論と、テレビ野次馬のひとりごとと、そして山の記述を書くばかりになってしまった。

 それでも、そうした独断と偏見をここに記していくことこそが、私としての生存確認の作業なのかもしれない。
 ただ、私が記事を載せない間にも、毎日数十人もの人々たちがこのブログを訪れてくれていて、こんなじじいの世迷いごとを何とありがたいことかと思いながらも、反面いぶかしくもあり、ともかく昔に比べて、すっかり記事掲載の間隔があいてしまうようになっているのは、読んでくださる皆様には申し訳ないとも思っております。
 しかし、そこはそれ、もはやあの世の世界へと漕ぎ出したこのじいさんのボロ舟にも、こうしてよたよたと白い航跡がついておりまして、それは彼方におぼろげに見える”死の島”へと向かう、あのベックリンの描く船のようでもありますし、またはその水面に残る航跡は、あの『万葉集』の中の有名な一首で、このブログでも度々あげている、沙弥満誓(さみのまんせい)の、”世の中を 何に譬(たと)えむ 朝開き 漕ぎ去(いに)し船の 跡なきごとし”、の情景にも重なるのではありますが。

 それにしても今回、もう一か月も前の山の記録を今さらここにあげるのは、日記の記録としてはいささかはばかられるのだけれども、こうして写真を見直してみても、自分の山の記録としては十分に価値あるものだということには変わりなく、記事として書き残すことにしたのだが、ただ前回も同じようなことを書いていたようで、どうも年寄りは同じ弁解を繰り返すようで、今さら治らぬしみついた悪癖の一つではありますが、お許しくだされ。

 さて、6月初めのその日は予報通りの快晴の空が広がっていて、時期的にまだミヤマキリシマツツジの花の盛りには早かったのだが、満開時期の駐車場や登山道での混雑を考えれば、むしろ山を楽しむにはこのころがちょうどいいのだろうが。
 とは言っても、いつもの牧ノ戸峠(1330m)の駐車場は、8時前にすでにクルマがいっぱいで9割ほど埋まっていたが、何とか停められて一安心。

 勾配のある舗装された遊歩道を、ゆっくりと歩いて行く。
 朝の冷気と見上げる青空、やはり山はいいなと思う瞬間だ。
 何人もの人に抜かれたが、こうして後からくる人たちのために、足の遅い年寄りが脇によって道を譲るのは、もう習慣にさえなっていて、むしろその方が私にとってもいいことなのだ。
 それだけ長く山を周りを見ることができるのだし、やはりゆっくりが基本だから、いくらかは疲れもたまりにくいのではないのだろうか。
 もっとも前回の登山でヒザを痛めていたから、余計に無理は禁物で、今回も痛みを感じたら、その時点で引き返すつもりでいた。
 目的は、この牧ノ戸コースでは最短の扇ヶ鼻(1698m)までであり、とてもその先の久住山や中岳にまで行くつもりはなかった。それも、標高が高いところほど、まだツツジの花は咲いていないはずだからなのだが。

 30分ほどで沓掛山(くつかけやま1503m)前峰に着いたが、薄い霧状の雲が下界を覆っていて、かすかに阿蘇山高岳(1592m)の頭だけが見えていて、反対側の由布岳(1583m)もかすんでいた。
 もちろん、道の途中所々にツツジも咲いてはいたが、まだ半分ほどで、むしろアセビの明るい新緑がもこもこと続いていて、それだけでも十分に見ごたえがあった。(写真上は、帰りの時の縦走路より沓掛山、少しミヤマキリシマも見える。)

 その先のなだらかな高原歩きのような尾根歩きの後、主峰久住山(1787m)方面へのメインルートとは離れて、扇ヶ鼻への登りとなる分岐点に着く。
 ツツジが満開のころであれば、見上げる北斜面が、明るい赤紫のカーペットのようになって広がっているのだが、もちろんまだ早くて、幾つか咲いている株があるくらいだった。
 急勾配の道を登って台地上の広がりに出るが、ここは満開の時には、花々の上に遠く祖母・傾の連山に阿蘇山が見えて実にいい所なのだが、今はさらに薄雲も広がっていて、それらの山々も見えない。
 ただ足元には、イワカガミの小さな花や、背の低いベニドウダンの花がかわいらしく咲いている。
 ゆるやかに道をたどり岩が集まり盛り上がった頂上に着くが、人々が数人いたので、いつものように少し離れた西の肩の所へ行ってみる。
 そこで、南側の景色を見下ろして気がついた。
 ここから熊本県側の瀬の本に下りていく途中の、岩井川岳(いわいごだけ、1522m)岳の南斜面に、ミヤマキリシマの株が点々と咲いていたのだ。

 今までは、この時期に登ったことがなかったから、知らなかった。
 この岩井川岳は、扇ヶ鼻や隣の肥前ヶ城と同じ溶岩台地であり、他の九重の主峰群の粘り気の強い溶岩でできた、いわゆるトロイデ状のこぶ状の山体とは違い、流れやすい溶岩でできた平頂峰であり、目立った個性のある山でもないから、登山者にあまり注目されることもない。
 私はこの山を二度通ったことがあるが、いずれも夏の暑い時期に、久住高原から滝がほとんどない小田川を詰めていく沢登りで、楽に扇ヶ鼻の頂上に出ることができたのだが、いずれも午後のにわか雨に出会い、岩井川岳はただ通り過ぎただけの山だった。

 扇ヶ鼻西の肩からツツジやアセビの灌木帯に入り、やがてリョウブやノリウツギなど低い樹林帯の急斜面を下っていくと、30分余りで明るいクマザサの台地に出た。
 あの”ビフォアーアフター”のナレーション風に言えば、”まあ何と言うことでしょう。そこにはまるで庭園に植えこまれたような低いクマザサの平地に、点々と、あの明るい赤紫色のミヤマキリシマの花の株がならんでいたのです。” (写真、岩井川岳の台地と扇ヶ鼻)



 もちろんそれは、山の台地や斜面全部を埋め尽くす、あの扇ヶ鼻や平治岳の絶景にはとても及ばないけれども、下草のクマザサの中にまばらに咲いている、ツツジの株の配置具合がなんとも絶妙の構図を作っていて、しばらくは立ち尽くして眺めているばかりだった。
 九重に何十年も登っていて、恥ずかしながら、初めて出会う光景だった。
 このクマザサの平原の中には、細い道が幾つかつけられていて、三角点の山名表示を過ぎて、さらにゆるやかに下っていくと、その先にはもう一段下に同じようなミヤマキリシマの群落があって(写真下)、さわやかな風に吹かれて私は、花の中を夢心地でさ迷い歩いたのだ。
 


 1km 四方ぐらいに広がる、私の知らなかったもう一つ九重のミヤマキリシマ群生地だった。
 扇ヶ鼻が花の盛りのころには、ここの花はもう終わっているだろうし、今回もたまたま扇ヶ鼻がまだ二三分咲だったために、ちょうど今が盛りのこの岩井川岳のツツジに出会うことができたのだ。
 それも二人づれと行き交っただけで、あとは誰もいない、静かな明るい高原の風景の中に、私はひとりでいることができたのだ。
 良くないことがあれば良いこともあるし、人生の日常の運不運などあってないようなもので、受け取り手の考え方次第なのだろう。

 さて登り返しはさすがに息が切れて途中で一休みし、戻って来た扇ヶ鼻からは、また人々のにぎやかな声を聞きながら下りて行った。
 幸いにもひざは痛くなかったが、再発しないようにと急な下りではそろりそろりと足をおろして下ってきた、牧ノ戸の駐車場に着いたのは、もう2時半にもなっていて、コースタイムの五割増しの時間がかかっていたが、私はあの岩井川岳のツツジを見ただけで十分に満足していた。ああ、いい山だった。

(蛇足ながら、岩井川岳をどうして”いわいご”と読ませるのだろう。川や河、江などを、”ごう”と読ませる例は全国に幾つもある。私が思いつくだけでも、例えば島根県の江の川(ごうのかわ)や、近江の国の別名は江州(ごうしゅう)だし、何よりも同じ九州というところでは、屋久島にある高層湿原の花ノ江河(はなのえごう)が一番最初に思い出されるところだが、他にも気になるのが上高地(かみこうち)で、もともと神垣内と呼ばれ穂高神社が祀られているのだが、憶測を広げれば神江地(かみごうち)とも書くことができるのではないのかと。しかし、この九重の岩井川岳にはそうした川や湿原はない。それはなぜなのだろうか。
 あのNHKの「日本人のお名前っ!」ではないけれど、日本の地名人名は面白い。前回の番組では、依頼を受けて伊家(いいえ)という名前の由来を調べていくと、それは何と、あの伊賀一族が分かれ棲んでいた所からきているのではないかというのだ。つまり昔の人たちが自分たちの出自を隠し、一方では、誇りある一族の名前を残すために、その地名や姓として残したのではないのかというのだ。伊賀一族の”伊の家”つまり、”いけ”から”いが”として読める名前として・・・前回にもここにあげた、あの出牛(でうし)が隠れキリシタンの”デウス”から来ているのではないかという話とともに、まさに鳥肌ものの一瞬だった。)

 さて余分な話で長くなったが、その数日後、私はまた九重に行ってきた。
 今までに何度も見てきてはいるのだが、九重のミヤマキリシマの中でも一番だと言われている平治岳(ひいじだけ1643m)は、おそらく日本の草木類の山の花の中でも、その単一種が占める広さと色合いの華やかさを含めて、他に比較できるところがないほどの景勝地だと思っている。
 繰り返すが、歳とともに足腰が弱ってきたことを実感しないわけにはいかないから、年寄りの悪あがきで、私が今のうちにもう一度と見ておきたいと思うのは、無理からぬことなのだろうが。

 そして、山の花の話を続ければ、私が今まで見てきた高山植物のお花畑の中では、北アルプスや南アルプスのお花畑は、花の種類も色とりどりできれいなのだが規模が小さいく思えるし、ただその中でも記憶に残るのは、あの黒部五郎岳のコバイケイソウの大群落(2012.8.23の項参照)だが、他には霧ヶ峰、日光さらに見たことはないが佐渡ヶ島、そして東北の山々のそれぞれのニッコウキスゲの群生地(飯豊山2010.7.30の項参照)、さらに大雪山はいたるところがお花畑なのだが、とりわけ裾合(すそあい)平のチングルマの大群は圧倒的である。同じ大雪山の広大な五色が原もはずせないけれども、最近では部分的にササの侵入が目立つようになってしまった。)
 もちろん山で出会う高山植物は、ただ一つだけであっても、長年憧れていたものであれば感動するものだが、例えばその昔、南アルプスは北荒川岳(2698m)近くに咲いていたあの紫色のアツモリソウの花もそのひとつだが、8年程前に再訪した時(2012.8.16の項参照)にはもう見つからなかった。

 さて、その日は九重のミヤマキリシマが最盛のころであり、そして予報は快晴であり、もっとも人気の高い平治岳とくれば、混雑は覚悟の上で、私としては前回よりは少し早めの7時には、男池の駐車場に着いたのだが、さすがにここももう8割ほどのクルマで埋まっていた。
 しかし何といっても、上空には青空が広がっているし、久しぶりにあのミヤマキリシマの流れ落ちるような大きなうねりを見られるのかと思うと、やはり少し心浮き立つ気分になる。
 前回、ツツジを見るために平治岳に登ったのは、もう10年も前のことで、あの頃はまだ元気があって、ついでにと黒岳にも登っているのだ。(2010.6.10の項参照)

 さて、静かな自然林帯から小尾根に取り付いて、ソババッケのくぼ地に降りて、そこからの北大船と平治岳の裾が合わさる沢状の登りの所がきつかった。
 後ろから登ってくる人にはすべて道を譲って、私はのろのろと歩を進めるだけだった。
 ようやく上部で、いつものヒメシャラやリョウブなどの明るい低木林のなだらかな斜面を抜けると、人々の声が聞こえ、何十人もの人が憩う大戸越えの鞍部に出た。

 目の前にそびえる平治岳の花の斜面、その間を登り下る人々が点々と見えている。
 ここからは、もうカメラのシャッターを押しっぱなしというくらいに、花の写真を撮り続けた。
(この日だけで、160枚余りも撮ってしまった。フィルム時代なら36枚撮り一本だけだったのだが、まあ”下手な鉄砲も数打ちゃあたる方式で”撮っているだけで、アマチュア・カメラマンの域にも達しない、ただのカメラ好きじじいに過ぎないのではありますが。)
 この狭い道でも、後ろからくる人に道を開けて立ち止まり、息を切らしてやっと平治岳南峰にたどり着く。何度も見ている光景とはいえ、ここから本峰との間の斜面を埋める花の波が素晴らしい。(写真下)



 あちこちに人の姿が見えるが、もうこの花の景色が見えていればあまり気にもならなくなって、ただ写真を撮りまくった。
 そこから狭い道を人々とすれ違いながら、ゆるやかに下って人々でいっぱいの鞍部に下り、最後の一登りで頂上に着く。民放のテレビ局のスタッフがドローンを飛ばして撮影していた。
 さらに、頂上から西側へとゆるやかに花の間の道を下り、大きな露岩の所でやっと腰を下ろした。
 いつもの大展望が広がっていた。坊がつるの湿原と三俣山(1745m)を背景に入れたツツジの斜面の写真は、おなじみのものだが、どうしても何枚も撮ってしまう。(写真下)



 ここまでくると人も少なくなって、しばらくの間は花の大展望を楽しんだ。
 頂上に戻る途中も、頂上と南峰との鞍部の所に黒岳が見えていて、周りは花に埋まっているいつもの光景(写真下)だが、やはり何枚も撮りたくなってしまう。



 この平治岳、登りも下りも写真を撮りたくなるところが多くて、ゆっくり登り下る私にはかえって都合がいいくらいだ。
 そして大戸越えの鞍部に戻り、あとは樹林帯の下りだが、前々回の鶴見岳でのひざの痛みが怖くて、15分に一度は腰を下ろして、脚を休ませ、男池の駐車場に戻って来たのはもう4時に近くになっていて、朝からの行動時間は何と8時間半にもなっていた。
 コースタイムは5時間ぐらいだから、私の足の遅さがわかるというものだ。ただ確かに疲労困憊(こんぱい)ではあったが、ともかくひざが今回も痛まなかったのがありがたく、何よりも”冥土の土産(めいどのみやげ)”になるべく、ミヤマキリシマを目に焼き付けられたことが一番だった。
 しかし、この10日後にまた山に行ってきたのだが、それは次回に。

 今日(7月4日)のNHKスペシャルで、おなじみのタモリと山中伸弥教授が出演して、有史以前から続く”人体×ウィルス”の免疫の闘いについて話をしていたが、タモリのふとした疑問、”ウィルスは一体人体に何をしたいんですかね、自分たちが増殖すれば人の死で自分たちも死んでしまうのに”。山中伸弥教授の答え、”彼らはただ増えたい増殖したいだけなんですよ、人の死なんて頭にもないんです。”
 
 今回の平治岳登山で、いつも男池登山口から30分ほどで”かくし水”の水場に着くのだが、行きも帰りも必ずその水を飲んで一休みするのが、私の愉(たの)しみの一つでもあるのだが、若いころは足を止めることなく通り過ぎていたのに、今ではひと時の”命の愉しみ”を味わう場所になっている。


  ”松の木陰に立ち寄りて 岩漏(も)る水を掬(むす)ぶ間に 扇の風も忘られて 夏なき年とぞ思いぬる”

(「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」四句神歌より 新間進一・外村南都子校註訳、小学館版「日本の古典」)

 


ロープウェイ登山

2020-06-14 21:32:54 | Weblog



 6月14日

 ”梅雨入り”だという通りに、この4日間、雨模様と曇り空の日々が続いている。
 シトシトと降り続く雨、周りの樹々や家の屋根に叩きつけるように降る雨、そして重たい曇り空から、生温かい風が吹きつけてくる。
 それだからこそ、その前の5月から6月初旬まで続いた、晴れの日をありがたく思えるし、そのころの青空と山々の姿がよみがえってくるのだ。そして出かけなくても、家のベランダの揺り椅子を小さく揺らしながら見ていた、庭の新緑の樹々と青空のことも。
 とは言っても、前回の記事からは何と3週間近くも間が空いたことになり、その間のことをこの一回の記事で穴埋めしようというのは、土台無理な話だが、それでも要約という形で、今書き留めておくほかはないだろう。

 まずは、”他府県をまたぐ旅行の自粛要請”に従って、相変わらず身動きができないのだが、もっとも飛行機の減便だけでなくバス便の運休などもあって、まずは空港まで行けないし、今では北海道は遠い世界になってしまった。
 もっとも北海道の家に帰っても、水は出ないし風呂にも入れず、外トイレで不便だし、ヘビはうじゃうじゃいるし、周りの友達知り合いにも、気楽に会いに出かけることはできないし、今まで通りに一刻も早く帰りたいとはとても言えないのだ。
 それなら、水、風呂、トイレとそろったこの家にいたほうが、このぐうたら年寄には気が楽なのだ。
 長い私の人生の中で、大切な一つの目的でもあった北海道が、今や遠くにかすんでいくような・・・昔、函館から青森に渡る連絡船で、その白い航跡の彼方に、遠ざかっていく函館山の島影を見ていた時のように・・・。

 もっとも今回のこの”コロナ禍”によって、良かったと思えることもあったのだ。
 時間に余裕をもって病院に通うことができるようになり、気がかりだった体の変調のうちの二つは、薬による治療を受けてすっかり収まってしまったし、そして何よりも、年寄りの私にとって深刻な問題であった、視力低下についても、手術を受けてそれもほぼも半年かかったのだが、前よりずっと良くなって回復したのだ。
 その劇的な変化は、今までにも書いてきたとおりで、すべてのものが明るく輝いて見えるようになって、少し大げさかもしれないが、この自分の新しい眼で、もっともっと日本の山々を、様々な四季の風景を見るために、長生きしたいとさえ思うようになったのだ。
 病院嫌いの私が、医学の進歩のありがたさに、今さらのように気がついて・・・お恥ずかしい限りですが。

 ともかくそうした期間を含んでいたのだから、コロナ禍による自粛の時間が、私にとってあながち無駄な時間だったとは言えないのだ。
 体裁をつけて言えば、次なる出発を目指す、再生のための時間だったのだと思いたいのだ。
 自分にとってのこれからの残された時間は、もう長くはないが、こうしてほんのひと時だけでも、新たな世界を見ることができたことを、良しとすべきだと思う。
 人生にあたえられた時間は、もちろん各人各様なのだが、子供のうちに自分の人生が終わってしまう人もいれば、百歳をゆうに超えてまだまだ余裕かくしゃくたる人もいる。

 もちろん、人生の長さでその人の価値は決められるべきではないし、ましては生きているうちに成し遂げてきた仕事や業績で、その人のすべてが推し量られるべきものでもないと思っている。(自分が何も遺さなかったからの言い訳からでもあるが。)
 つまり、個人の人生の価値は他人から評価されるべきものではないし、唯一自分だけが判断を下せるものであると思うのだ。
 それだから、良かったのか悪かったのかと、物事をその時点で短兵急に判断するのではなく、最悪に見えるものでも、それがあったからこそ、反対に助かったし良かったものもあるはずだと、すなわちすべての行動や出来事が、”生きる”という枠の中で関連付けられているものだから、そして、すべての人のために同じように時は流れて行くものだから、そうした中での出来事だったのだと思えば、自分の人生に悔いは起きないはずだ。
 つまり、すべての人にとって人生は良いこともあり悪いこともあるものだし、あらゆるものは時の押出しの流れの中に、平等に消え去って行くものなのだから。

 さらに言えば、物事を悲観的に見れば負の連鎖になってしまうし、だからこそ過度な期待や希望は持たずに、自分への疑いの心を持ちながらも、行く末を楽観的に考え、あとは時の流れに身を任せていたほうがいいのかもしれない。
 確かに若い時には、抗(あらが)う気持ちを持つことは大切なことであり、そのことが学習になり体験として身につくものだが、そんな経験を積み重ねてきた年寄りたちは、その成否はともかく、物事はいつしかその収められた場所に収まってしまうものだ、と理解するようになるのだ。
 そして、結局はなるようにしかならないのだから、額に青筋立てるよりは、”おつむてんてん”と、”脳天気(能天気ではない)”でいたほうがいいのだ、と残り少ない人生についてこのじいさんは考えるのでした・・・。

 さて、と言った年寄りのたわごとは置いといて、前回からの三週間余りもの日々が、まず”ミヤマキリシマDAYS”とでも呼びたいほどの”、楽しい山歩きの日々であったこと、というのも、今が盛りの山のツツジを見るために、10日ほどの間に3回もの登山に出かけたからだ。
 最初に行ったのは、前回の記事のすぐ後の5月下旬、別府郊外の山の鶴見岳であり、まずはその時の模様から。

 五月晴れの日が続いていて、朝の澄んだ空気の中、途中の湯布院の狭霧台から眺める由布岳(ゆふだけ、1583m)の姿がすがすがしく、いかにも新緑の時期を思わせた。(冒頭の写真)
 こうして、条件の良い時に眺めるから言うのではないが、今までもこのブログでたびたび書いているが、由布岳はどこから眺めてもすぐにそれとわかるほどのきれいな双耳峰であり、これほど顕著な二つ耳のピーク持つ山は、北アルプスの鹿島槍ヶ岳、頚城(くびき)山群の雨飾山(あまかざりやま)、上越国境の谷川岳、尾瀬の燧ヶ岳などの山々が良く知られているけれども、それらの山に勝るとも劣らない、いやこの山こそが一番均衡のとれた形だと思っていて、やはり天下の名山と呼ぶにふさわしいと思う。
 九州の山の中から三つを選ぶとすれば、九重山群と屋久島山群の二つは絶対に外せないが、三つ目の山としては、あの姿の美しい霧島の高千穂峰(1574m)と、この由布岳との間で迷うことになるだろう。
 私が九州の山で一番多く登っているのは、九重山群であり、数えてはいないが、各コースがあるから併せて数十回は超えているだろうし、次いで多いのが由布岳であり、こうした新緑ミヤマキリシマの時期や紅葉の時期もいいけれど、九重と同じく、何と言っても冬の雪や霧氷がついた時が素晴らしく、十数回は登っているはずだ。

 今回行くのは、その由布岳の東隣に並んでいる鶴見山群の中の主峰、鶴見岳(つるみだけ、1375m)である。
 観光地別府の山として有名であり、山頂下まで行くロープウェイがあって、四季を通じて観光客でにぎわっている山である。
 今までにも二度ほど、母や友達と一緒にそのロープウェイに乗ったことはあるのだが、登山目的で乗ったことはなかった。
 つまり登山道のある、南登山口や西登山口から、併せて数回は登山として登っているのだが、今回は運休していたロープウェイが再開されたというニュースを見て、さらには山頂付近のミヤマキリシマが見ごろを迎えているというニュースも重なって、翌日は快晴の天気予報が出ていて、”もう行くしかない”とじいさんは、”あーえらいやっちゃえらいやっちゃ、ヨイヨイヨイヨイ”と小踊りして喜ぶのでした。
 つまり足腰の弱ったこのじいさんは、苦しい登りをロープウェイに乗って楽をし、下りを別なルートの登山路で山の景色を楽しみながら歩いて下ろうと考えたのだ。

 いつもはこの100人乗りのロープウェイは、今の花の時期なら満員になるほどなのに、この始発便に乗客は作業員の二人を含めても10人で、コロナ禍のさ中らしく全員マスク着用。
 天気がいいので展望も素晴らしく、山腹はヤマボウシの白い花に彩られ、頂上付近にはミヤマキリシマの赤い色も見えている。
 山頂駅から、鶴見岳山頂までは遊歩道を歩いて15分ほどだが、もう駅舎を出た所から、ミヤマキリシマの花が素晴らしく、別府湾を背景に(写真下)、さらには九重連山を背景に(写真下)、由布岳を背景にと絵になる風景ばかりだった。





 中には三脚にフィルムカメラという専門家の人もいたが、私はあたりかまわずデジタルカメラのシャッターを押しまくっては、その音の数だけでも満足するのだ。(”下手な鉄砲でも数打ちゃ当たる”というわけでもないが。)
 そして、頂上の大きなテレビ中継鉄塔のそばから、西側に登山道を下りて行く。

 リョウブやノリウツギなどの低い木々の林をジグザグに下り、抜けると目の前に鞍ヶ戸(くらがと、1344m)から内山(1276m)、伽藍岳(がらんだけ、1045m)へと続くいわゆる”別府アルプス”の稜線が見えていて、その後ろには由布岳の姿が大きい。(写真下)

 観光客たちはもうここまでは下りてこないし、ルリビタキの鳴き声を聞きながら、そばの岩に腰を下ろした。
 頭の中で、”何も深く考えることはないのだよ”という声が聞こえてくるような、この青空と山とミヤマキリシマの花と・・・。

 それにしても、目の前の鞍ヶ戸の山体崩壊の跡が、ひときわ目を引く。
 4年前、最大震度7の熊本地震で(家でも震度5の揺れがあったが)、その時にこの稜線のあちこちで崖崩れが起きていて、その中でも最大のものが、目の前の鞍ヶ戸の東側斜面で、登山道ごと消えてしまったのだ。(登山者がいなくてよかったが。)
 今ではもちろん、その手前の鞍部の馬の背に通行禁止の立て札があるが、ネット情報によれば、その上部には長い固定ロープが取り付けられていて、通過できないこともないということだが、もちろんまだ崩壊の恐れがあり、危険を覚悟でのルートだということなのだろう。
 私もかつてこの稜線を二度ほど(一度は途中から)たどったことがあるが、クルマを停めた所に戻るしかなく、いささか交通の便が悪いし、途中の上り下りがきついが、展望に恵まれた花の稜線であり、何とか安全な道を整備してほしいものだ。

 さてと私も腰をあげて、すぐ下の鞍部まで下り、そこから急斜面をジグザグに下りて行って、西の窪(くぼ)に着き、そこから平坦な林の中の道をたどり、右手の小尾根に取り付いて、小さなこぶを二つ越えて最後の一登りで南平台(なんぺいだい、1216m)に着く。
 途中で3人の単独行者に抜かれ、ここでも何人かがいたがすぐに下りて行ってしまい、いつものように私だけの展望台になった。
 もちろん、目の前にさえぎることなくそびえる由布岳が素晴らしいし(写真下)、九重連山も見えている。
 ここも、こうしてミヤマキリシマの咲いている時期がベストなのだろうが、あまり人に会わない紅葉の時期や冬の雪のある時期こそが素晴らしいのだが。



 一休みした後、鶴見岳の山体との境になる小さな沢筋に下りて行き、あとは印などを頼りに鶴見岳の山腹を東の方に回り込んで行き、南側の正面登山口から来た道に出合う。
 やれやれと思ったのもつかの間、今度は右ひざが痛くなり、登山口の由緒(ゆいしょ)ある火男火売(ほのおほのめ)神社の長い石段では、手すりにつかまらないと下りられないほどで、そんな私をしり目に若い人たちが別々に3人、それぞれに私に挨拶して登って行った。
 しかし、その先のロープウェイ駐車場まではまだ距離があって、ほとんど5分おきに腰を下ろして膝を休ませて、時間をかけてやっとの思いで下りてきた。
 頂上からのコースタイムは2時間足らずなのに、休みを入れたとしても何と倍以上の時間がかかっていた。

 思うに、行きの登りで足をならさずに、あとはずっと下りばかりだったから、ひざが耐えきれなくなったということなのだろうが。
 思えば若いころ、スイスアルプスのトレッキングで、外国人の年寄りたちが、歩いて登り下りにリフトなどで降りてきていたのを見て、逆だろうと思っていたのだが、今になってようやく腑(ふ)におちた。
 下りでひざを痛めたのは、あの5年前の北アルプスの鹿島槍と五竜の縦走(’15.8.4~17の項参照)の時がきっかけになり、その次の年の大雪山緑岳(’16.7.11の項参照)でもう決定的な痛みになったのだが、ただ今ではもうすっかり治っているものだと思っていたから、余計に衝撃的で、将来の山登りへの不安が黒雲のように広がり、暗澹(あんたん)たる思いにもなってしまった。
 しかし、これでもう山に登れなくなったとしても、今日のこの天気のもとで見た花と山の姿は、一点の曇りもなく素晴らしいものだったし、もしこれが最後の登山となっても、ロープウェイなどを使って山の上まで行くことはできるのだし、どこに後悔することがあろうかと思い直した。

 さて、書き始めると、長くなってしまうのが私の悪い癖であり、あとは簡単に、この期間に見たテレビ番組の中から幾つかをまとめて書いておくことにする。
 いつもの『ポツンと一軒家』も去年の再放送だったが、あの94歳のおばあちゃんと68歳の娘さんが営む山梨県の身延山(みのぶさん)七面山の休憩所のその後も、コロナ禍で客足が減ったものの元気二人でやっているという話だった。
 あのおばあちゃんが自分の脚でこの参道を登ってくるという話には、全く感心するばかりで、私もひざの痛みぐらいで、弱音を吐いてはいられないのだ。
 そして『日本人のおなまえっ!』も再放送で、埼玉県皆野町の話しだが、出牛(でうし)という名前が地形から来ているという説と、さらに隠れキリシタンの里に近く、デウスから来ているのではないのかという話、まさに慄然(りつぜん)とするミステリー仕立てになっていて、何と言っても、このころのテーマは面白かったのだ。
 ミステリーと言えば、NHKEテレの『日曜美術館』とNHK・BSスペシャルの『4人のモナ・リザ』も、繰り返し論議されるモナ・リザの謎が、相変わらず興味深かった。

 もっとも、私たち自身のそれぞれの出自(しゅつじ)と終末そのものが謎であり、ましてや過去を思い出しつつ、毎日を奇跡的に生きていること自体が、人としての謎ではないのだろうか。
 いつものように、和歌を一首。

”夜もすがら 昔のことを見つるかな 語るようつつ ありし世や夢”  大江匡衡朝臣(おおえのただひらあそん)

(夜中にずっと昔のことの夢を見ていて、亡くなった相手と話していたのは、その時のことだったのか、それともまさしく夢だったのか。)

(『新古今和歌集』久保田淳訳注 角川ソフィア文庫)

 次回は早めに、残りの二つの、ミヤマキリシマ登山について書くつもりだが・・・。


末の露と本の雫

2020-05-25 22:08:32 | Weblog



 5月25日

 あまりにも長い間、ブログ記事を書いていなかったので、そのキーボードで打つ書き始めの手はずにさえとまどってしまった。
 物事をおし進めていくには、いかに習慣化された行動が必要か、ということを今さらながらに思い知らされたのだ。
 もっともそれは逆に言えば、習慣化された悪癖を、なかなかやめることができないというこにもなり、昨今のコロナ禍における世間の、様々な出来事を見ればわかることでもある。
 ただこうしてキーを押して、言葉が文章になっていくのを見ることは、いかばかりかの達成感も感じられて、自分だけの小さな満足感に浸ることもできるのだが。

 さて、東京方面は晴れた日の少ない曇り空の日が続いているそうだが、一転この九州では、曇り空や雨の降った日は数えるくらいで、いかにも皐月(さつき)の空と呼ぶにふさわしい五月晴れの日が続いていて、毎日新緑の山を眺めることできる(冒頭の写真)。
 もちろん、家にじっとしていることのできない私は、何度となく山野歩きを楽しんできた。
 その多くは、家からの1時間半余りのいつもの長距離散歩であり、さらには別な山道を結んでの2時間半余りのトレッキング、つまり山野歩きなのだが、さらにクルマで少し離れた山にも一度だけ行ってきた。

 もちろんこの緊急事態宣言下では、人の多い人気の山などに行くわけにはいかないし、おなじみの九重では、連休後半からあの牧ノ戸峠の駐車場が閉鎖されていたこともあって、仕方なく地元の山野を歩き回っていたのだが、幸いにも合計で数回は歩いた山野歩きでは、誰に会うこともなく、私なりの山歩きを楽しむことができた。
 さわやかな風の吹く青空の元、新緑の中を歩き回り、時々立ち止まっては、木々の姿や遠くの山々の眺めを楽しんで、ひと汗かいて家に帰り着くのだ。(写真下、今はどこの山麓でも目立つミズキの花であるが、前回5月5日掲載のフジの花と同じ場所で写したものである。)



 こうした山歩きが、年寄りにはちょうどいいころ合いの、疲れすぎない時間での運動(エクササイズとかいうそうだが)にもなるのだろう。

 ともかく、こんな時期まで九州の家にいるのは久し振りのことなのだ。
 十数年前に母が亡くなった時に、百箇日の服喪期間の間、家にいた時以来のことであり、あの時はただただこみ上げてくる辛い思いから逃れるべく、三日と空けずに、家の周りのいくつもの小さな川の上流部の沢に出かけては、沢登りに没頭していたのだが。
 もっともそれは、高い山ではないから、滝一つない小沢歩きに過ぎなかったのだが、そうすることによって、自分のいたたまれない思いを、少しでも紛らわしたかったからなのだろうが。

 昨日ふと見たテレビ番組の中で、離婚後の喪失感に苦しんでいた人が、耐えきれずにある人に相談したところ、その人は事故で娘をなくしていたのだが、月日がたった今言えることは、”忘れること”だと言ったそうだ。
 もちろんそれは、すべてを忘れてしまい記憶の中からなくすということではなく、日常の仕事に紛らわして、そのことばかりを考えなくてすむようにするということなのだろうが。

”よそなれど おなじ心ぞ 通うべき 誰も思いの ひとつならねば”

(『新古今和歌集』巻第八 小野宮右大臣)

 この歌の作者の小野宮(おののみや)中納言は北の方を亡くしていて、同じく妻を亡くしたばかりの藤原為頼朝臣(ふじわらのためよりあそん)へ慰めの歌を贈ったのだ。
 ”他人ではありますが、同じように妻を亡くした思いはよくわかります。他の人たちが思うよりはずっと。”

 ともかくそうして山野歩きをすることで、日ごとに木々の芽吹きから新緑の葉や花が開いて行くさまを、じっくりと眺めることができたりして、それは今まで分からなかった樹々の見きわめにもなったのだから、外出自粛で北海道に行くことができなくなったとしても、私にとっては、そう悪いことばかりでもなかったのだと思いたい。

 さらにもともと、”引きこもり老人”の傾向がある私には、こうした緊急事態宣言下でも、それほどうろたえ困ることはなかったのだ。
 一週間分の食糧を買い込んできて、それで毎日粗末な食事を作って食べるという、今まで通りの生活だから、そこにさしたる不満があるわけでもない。
 子供のころの貧しい生活や、青年時代の四畳半一間の暮らし、バックパックでの長期にわたる貧乏外国旅行、それに長期間の山歩きでのテント泊食事などを体験してきているから、さらにはもともといわゆるグルメ志向などではないし、食べられればそれでいいという、貧乏根性が身についているから、今の簡単な食生活でも何の不便もないのだ。

 もっとも、この時期北海道にいれば、アイヌネギ(ギョウジャニンニク)、タラノメ、ウド、ヨモギ、ヤチブキ(エゾノリュウキンカ)、ニリンソウなどと山菜だらけの毎日なのだが。
 ともかく今の状態では、飛行機の減便、空港までのバス便中止や減便などで、北海道まで行けるかどうかもわからないし、他県をまたいでの移動自粛とあれば、もう”どもならん”状態なのだ。

 今年も、国内遠征の登山を二つくらいはと計画していたのだが、とても行けそうになく、それ以上に体力の限界が迫ってきていて、年寄りにとっては”山は逃げていく”ということなのだろう。
 せめてもとすがる思いは、昔登った山々、北アルプス、南アルプス、八ヶ岳、富士山、屋久島、東北・北海道の山々などを登った時の写真を見ることであり、特に一番最近の遠征登山だった、あの去年秋の東北の焼石岳(2019.10.8~22の項参照)は、今さらながらに何という見事とな青空と紅葉だったことだろうと思い返し、モニター画面に映る映像を何度見直しても見あきることはないのだ。
 さらに思い出したのは、富士山。
 このところ、テレビ番組では再放送が多くなっているのだが、そう悪いことでもないと思っている。
 あの『ブラタモリ』でも前回の”清水寺”といい、今回の”富士山”といい、前に一度見ているのだが、また新たな感興を呼び起こされて、すっかり見入ってしまったのだ。確かに、あの富士山の宝永火口の壮大さを見ていてよかったと思う。(2012.9.9の項参照)

 その他のテレビでの再放送番組などにふれていくときりがないが、例の『ポツンと一軒家』など何度見ても面白いし、追加の近況報告があるのがうれしい。
 さらに映画も二本見たが、やはり良い映画は何度見てもいいものだと納得した。
 黒澤明(1910~1998)の名作『羅生門』(1950年)はもう何度も見ているのだが、見るたびに感心してしまう。
 特に、映像のすばらしさ(撮影宮川一夫)、白黒画面の中で木漏れ日がキラキラ輝くさまや、検非違使(けびいし)の御裁(おさば)きの白洲での、それぞれの人物を仰ぎ見るように撮られた表情は、あの映画史初期の名作、カール・ドライヤー(1889~1968)監督の『裁かるるジャンヌ』(1928年サイレント)の影響を受けたものかもしれないが、ここでもそのモノクロフィルムの特質がよく出ているし、主役三人の演技がそれぞれに真に迫っていて見事であり、黒澤映画はこの『羅生門』とあの『七人の侍』に尽きると思うし、世界の映画作品ベスト10の中の一つにも入れたいくらいだ。

 ただあえて一つ、自分の意にそわないものがあるとすれば、この作品は芥川龍之介の短編小説「藪の中」と「羅生門」の二つ(ともに日本の古典「今昔物語」が出典)を組み合わせて作られているのだが、特に映画の最初と終わりに組み入れられた「羅生門」(原作はもっと陰惨で不気味な人間の生の原罪を感じさせるものだが)でのシーンが、やや異質なものに感じられたということだ。
 もっともそのあえて挿入した話である、捨て子を拾いあげ育てるというヒューマニズムこそは、敬愛すべき黒澤明の本質のひとつなのだろうが、あの原作「藪の中」の登場人物たちのそれぞれの立場での思い込みの声と、殺された男の冥界(めいかい)からの怨念(おんねん)の声で終わる原作のほうが、より人間の本質に迫っているような思いがしたのだが。
 つまりそれは、例えばあのスウェーデンの名匠イングマール・ベルイマン(1918~2007、「第七の封印」「沈黙」「叫びとささやき」など)のように、人間誰しもが持つ心理的残虐性の醜さを暴き立てて、見る側に考えさせるという問題提示の仕方もあるわけであり、そこが黒澤明との違いにも思えるのだが、もちろんどちらかに優劣の差があるというわけではなく、すべては同じテーマである、”人間とは何者なのか、我々はどこから来て、どこに行くのか”と言うあの画家ゴーギャンの絵に書き込まれた言葉に集約されるのだろうが。

 ついテーマが重たくなってしまったが、もう一本の映画は、昔のアメリカ映画、娯楽西部劇の一つの典型でもあるハワード・ホークス監督の『リオ・ブラボー』(1959年)である。

 話は、悪者牧場主一家と町を守る保安官とその助手たちとの、戦いというお定まりのテーマだが、何しろ主演の保安官のジョン・ウェインと酔いどれ保安官助手にディーン・マーティン(歌手でもあり、当時のフランク・シナトラ一家の筆頭メンバー)、そこに当時売り出し中の美脚自慢のアンジー・ディッキンソンが酒場を渡り歩く女ギャンブラーとして華を添え、他に老いぼれ保安官助手として『赤い河』(1948年)でもジョン・ウェインと共演していたウォルター・ブレナン、さらには当時まだ19歳のアイドル・シンガーだったリッキー・ネルソン(「トラベリンマン」「ハロー・メリールー」などのヒット曲)という豪華俳優陣で、決闘シーンもよく考えられていたが、当時見た時から印象に残っていたのは、保安官事務所でのひと時の休息の時に、長椅子に横になったディーン・マーティンが、リッキー・ネルソンのギターに合わせて歌う「ライフルと愛馬」、さらにもウォルター・ブレナンも加わって三人で歌う「シンディ」、それをやさしい笑みを浮かべて見守るジョン・ウェイン・・・ああ、いい時代だった。
 しかし、今ではこの映画に出ていた人たちはみんな死んでしまった・・・今回調べてみると、あのリッキー・ネルソンは1985年に45歳という若さで亡くなっていた。
 さらに最後の決闘を前に、酒場の楽団が演奏していた、トランペットの響きが印象的な『皆殺しの歌』は、翌年ジョン・ウェインによって主演製作された『アラモ』(砦を守るデイビー・クロケット以下のアメリカ軍が全滅した史実の事件)でも、攻め込むメキシコ軍のテーマ曲として流されていた。

 これでもまだ、それぞれの映画については書き足りないくらいなのだが、もう長くなりすぎたので、最後に一つ、あのパリ・バスティーユ・オペラによるバロック時代の作曲家ラモー(1683~1764)の『みやびな(優雅な)インドの国々』について、これは最近私も何度かここでも触れてきたように、Youtubeでのオペラ舞台を見ていたから楽しみにしていたのだが、しかしそれは、何と私が見たいとも思わない最近のヨーロッパ・オペラの風潮である、昔の音楽を忠実にたどりながら、舞台は近現代の演劇になっていて、音楽との断絶感がひどいと思うのだが、この『みやびなインドの国々』でも同じシチュエイションになっていて、現代劇の上にヒップホップのブレイクダンスを取り入れた、現代バレーの踊りで構成されていて、とても最後まで見ることはできなかった(映像では終演時には観客たちのブラボーの歓声が飛び交っていたが)。

 それにひきかえ、演技舞踏に和楽や舞台演出という伝統を、しっかりと父祖代々のものとして守りつつ、新しいものも少しずつ取り入れては、今日まで公演され続けてきた、日本の歌舞伎をむしろ誇りにさえ思うのだが。

 さて最後に、10日ほど前のことだが、少し離れた所にある山に登ってきた。
 細い林道を通って、道のそばの駐車スぺースにクルマを停めて、ひとり歩き出した。
 空は晴れていたが、東風が強く吹きつけていた。
 しかし、尾根を越えて西側の山腹をめぐる林道跡に出ると、風はうそのように収まり、道は静かな新緑の林の中をゆるやかに上っていた。
 途中で何本かのサイゴクミツバツツジの花が咲いていて、そこだけが華やかな情景を作り出していた。
 草付きの急斜面を登りきると、頂上だった。遠くに九重の山波が見えていた。
 ひとりきりの山頂でしばらく休んで、帰りはササ原をたどり、途中には今日見た中でも最大のサイゴクミツバツツジがあって、しばらくはその見事な花の周りをめぐって何枚も写真を撮った。(写真下)



 最後に、急斜面の灌木樹林帯を下り(昔はここは草付きのノイバラの多い斜面だったのだが)、クルマを停めた所に戻って来た。
 誰にも会わない、4時間足らずの静かな山歩きだった。

 こうして、およそコロナ禍とは縁のない山歩きをしているのだが、それでも時々は町中に出かけて行かなければならず、どこにいても、感染の可能性がないとは言えないのだ。
 ただ自分は年寄りだから、もしか感染して死んだとしても(コロナ孤独死も報じられてはいるが)、それは順送りのこの世の習いで、仕方のないことではあるが。
 
 そういえば、先日いつもの山野歩きを楽しんでいたところ、林の中の林道から舗装道に出る手前の所で、悪臭が漂い、見ると動物の骨があり、それも大きいものと小さい頭蓋骨が残っていて、周りにはイノシシのものらしい毛が散らばっていた。
 その時、私は自分の死のこと考えながら歩いていて、どのみち死ぬのなら、病院や自宅で死ぬよりは、こうした野山の道外れの所にある、誰からも見つけられないくぼみの中に身を横たえて、などと考えていたのだが、そうしてもこのイノシシの親子みたいに、死ねば他の獣たちやカラスたちに食い荒らされることになるのだろうが、もっとも、それもまた介在者を介して自然に還(かえ)ることになるのかもしれない。

 先日のNHKの「ドキュメント72時間」も再放送の番組だったのだが、それは樹木葬の墓地を訪れる人たちの話で、そこで、ある女の人が自分の墓石をなでながら言っていた、”だって生きている今しか、自分の死のことについては考えられないでしょう”。

 前回と同じように、今読んでいる『新古今和歌集』の中から、第八巻の冒頭の歌を二つ。

”末の露 本の雫(しずく)や 世の中の おくれ先立つ ためしなるらむ”  僧正遍昭(そうじょうへんじょう)

”あわれなり わが身のはてや あさ緑 ついには野辺の 霞(かすみ)と思えば“  小野小町(おののこまち)

 いつものように私なりに解釈すれば、最初の歌は、”葉先にとどまるつゆも、その木の根元に落ちるしずくも、世の中の逝(い)き遅れや先立つ死と同じようなことで、遅かれ早かれ、その無常の時が訪れるものなのだ。”
 次の歌は、あの絶世の美女とうたわれた小野小町が詠んだ歌だから、なおさらに無常感が漂うのだが・・・”われながらあわれなものだと思う。私が死んだら荼毘(だび)にふされて、あさ緑の煙になって立ち昇り、ついにはそこに漂う霞になってしまうのかと思えば。”
 (蛇足ながら付け加えれば、この遍昭と小野小町にはいくつかの歌でのやり取りがあり、恋愛関係にあったとか言われている。)

 いつも強がりを言っている私でも、こうした八方ふさがりの状態では、先が見通せずに、今回は、ついつい世をはかなんだ歌に目が行ってしまったのだが、果たして、このじいさんの、”明日はどっちだ”。

(参照文献:『新古今和歌集』久保田淳訳注 角川ソフィア文庫、「外国映画・テレビ大鑑」 スクリーン1975年版 近代映画社、Wikipediaより)