ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

スカーレットの空

2020-11-08 21:03:15 | Weblog



 11月5日

 ついに、行ってきた。
 この半年の間、考えあぐねていたのだが、ついに自分の尻をムチで打って出かけたのだ。
 それは、一時自粛が要請されていた、他県をまたいでの旅行どころか、九州から北海道までの大旅行ということでもあり、いささか後ろめたい気もするし、さらには一大感染地でもある東京を経由しての旅となればなおさらのことである。
 自分が感染する恐れもあるが、それ以上に、自分が媒介人になって、北海道の友だちたちにコロナ・ウィルスをうつすことのほうがもっと恐ろしい。
 “行くべきか、行かざるべきか”、それはあのハムレットの心境とは比べられないほどに、小さな決断かも知れないが、心は揺れ動いていた。

 一番安全なのは、ワクチンが開発されて接種を受ける事ができるようになる春まで待つか、それとも感染予防に十分に気を配り、覚悟を決めて、もう1年も閉ざしたままにしてある、あの北海道のわが家、蛇屋敷の掃除補修などをしておくべきか。
 時はじりじりと、過ぎていく・・・。
 もともと今年は、目の手術や病院での検診、それに講習会などの用事がたて込んでいて、コロナ禍でなくとも、そう簡単に北海道に行くことはできなかったのだが。
 そして、これ以上に延ばすと、北海道は雪の季節になるし・・・。

 その時、ただでさえ優柔不断で煮え切らない私に、耳元でささやいたのは、悪魔か天使か・・・パンパパン、さあお立合い!
  ”もうおまえはこれまでに、十分に自分の人生を楽しんできたのだし、これ以上何を望むというのだ。
 だから、最後の見納めに友達たちに会って、自分の好きな北海道にひとりで建てた、愛するわが家に行って、日高山脈の山々を眺めながら、最期のひと時を過ごすことができれば、もうそれで本望ではないか。
 ひとり白装束(しろしょうぞく)に身を整え、「人生五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」と紅蓮(ぐれん)の炎の中に消えて行った、あの信長のいさぎよさを思え。”

 そうなのだ、あとは野となれ山となれ、もう生きている自分ではない骨の行く末など案じたところでどうなるというのか。
 私は決断した。そうだ、北海道のわが家に行こう。それも今すぐに、せめて一二週間だけでも。
 交通機関それぞれとの連絡を調べると、減便、運休の中で、バスで福岡空港に行って、羽田空港乗り換えで(待ち時間があり)帯広に着いてバス乗り継ぎかタクシーでわが家にという行程で、わずか一本の便だけのつながりがあって行くことができるが、時間の遅れが許されない危険な連絡になり、どれか一つでも遅れて乗れなければ、二日がかりになってしまう。

 10月初旬のある日、私は意を決して九州の家を出た。
 それぞれの連絡便はうまくいって、飛行機も窓側に座ることができた・・・すべて”案ずるより産むが易し”ということか、行きもしない前からいろいろ悩んでいても無駄なことなのだ。
 いつもの外の景色は、やや雲が多めながらも、上空に広がる成層圏外まで続く青空と、地図のような下界の眺めを楽しむことができた。
 上空から眺めたパッチワーク状の十勝平野は、ジャガイモの収穫や飼料用のデントコーンの切込みが作業が始まっていて、枯草色の豆類の収穫はその後だし、これから始まるビート畑の緑や、春まき小麦の新緑の明るい色が光に映えていた。
 私は、一年ぶりに、北海道に帰ってきたのだ。

 家は、玄関に行くまでの道や、庭などは全く草ぼうぼうの状態で、とても全部を刈り取る気さえ起きないほどの伸び方だった。
 家の中は、ヘビでうじゃうじゃかと思ったが、意外にも小さな蛇の抜け殻が一つあるだけだったが、窓を開けて光を入れてみると、あぜん!・・・越冬バエなどの虫が何匹も落ちているのはいつものことだが、灰白色のじゅうたんの上は、屋根裏から落ちてきたとみられる虫や小動物などの体液で汚く汚れていて、(後で家の中にネズミ捕りを仕掛けていたら、エゾヒメネズミが二匹かかっていた)、さらに最悪なのは、カビが冷蔵庫の中いっぱいに繁殖していて(電源は当然切ってある)、さらにカビは部屋の壁やドアまでも覆っていたのだ。
 つまり、北海道でも夏は暑くなり30℃を超える日が続くのだから、そんなときに雨戸を下ろして家じゅうを締め切っていれば、カビが生えるのは当然ということなのだろう。
 逆に言えば、今までその夏の間、北海道の家で過ごしていたから、気づかなかっただけの話しであり、秋の終わりに九州の家に戻ると、いつもまずは家の中のカビ拭き掃除をしなければならないと同じことだ。

 というわけで、家の掃除だけでも二三日かかり、さらには雨漏りしていた天窓を修理し、掘立小屋の車庫の柱の一本が腐っていて補修し、庭と道の一部だけでもとこれも二三日かけて草を刈り取り、周りの林の中も、ササ刈りなどの手入れをして、二週間はあっという間に過ぎて結局、三週間の滞在に延長した。
 もちろん、井戸は涸れていて、その間はもらい水だし、風呂はクルマで銭湯に行かなければならないし、トイレは、小屋に自作オイル缶へのポットン便所があるのだが、ヘビが気になっておちおちしてられないので、空き地の草むらにスコップで穴を掘って、そこですませていたのだが、今はもう寒い時期になっているというのに、まだ刺しバエがいて、そのお尻丸出しの短い時間でも、その度ごとに必ず一か所は刺されてしまった。
 若いネエちゃんのムチムチお尻ならともかく、こんなよれよれジイさんの血なんか吸ってどうなるというんだ、人を選べ。

 そんなひと時も、見上げる空は青く、おそらくは最後の一輪だろうハマナスの花が咲いていて(写真上)、傍らには赤いハマナスの実もなっているのだ(時間があればジャムにできるのに)。(写真下)



 この北海道に戻ってくれば、そこにはそれなりにいろいろと予期しない問題課題が見つかり、しかし一方では、またそれなりにいくつかの思いがけない喜びにも巡り合うことにもなるのだ。
 まるで、要約された人生の出来事のように。
 九州の家で生活している時には、もちろん普通のライフラインは整備されているから、北海道の家にいる時のように、水、風呂、トイレなどで不自由することはないし、そのありがたさは北海道の家での経験があるからひとしおに感じるのだ。
 一方で、北海道の家にいる時の最大の利点は、外に出て見ればわかることだが、空が広いことだ。
 九州の家にいる時には、周りに山があり、特に朝焼け夕焼けの空を、北海道の家にいる時ほどには楽しむことができないのだ。
 もちろん私は、今までの人生の中で、特に山登りの時に山小屋泊まりやテント泊で、朝焼け夕焼けの絶景を何度も目にしてきたし、さらには海辺や湖や池などに映る”倍返し”の朝夕の風景も目にしてきた。
 さらに付け加えれば、壮大な宇宙の最奥にまで広がるような、飛行機から眺めるあかね色の空も見てきたが、やはりこの北海道の十勝平野から眺める、夕景に勝るものはないように思える。

 北海道の家に戻ってわずか三日目の夕方に、その時は訪れた。
 ほどよい距離を隔てて連なる、シルエットになった漆黒(しっこく)の日高山脈の上に、天空を覆う巨大な赤黄色の帳(とばり)が波打つように広がっている・・・。(写真下)

 

 私に向かって、ここは北海道なのだよと誇らしげに伝えるように・・・。
 私は30分余りの間に、その夕焼けの空を眺め続けて、何度も何度もカメラのシャッターを押していた。
 自分の人生のあの時に確かにあった、豪奢(ごうしゃ)な天蓋(てんがい)の色彩の記憶として・・・生きることとはこういうことなのだよと。

 この時の空の色は、あかね色ではなくて緋色(ひいろ)に近い色彩だったが、その緋色の英語名スカーレットから思い出すのは、3時間42分にも及ぶ超大作「風と共に去りぬ」(1939年制作、日本公開1952年)のラストシーンで、愛する人たちを失っても、”まだ私にはこのタラの土地がある”と力強く立ち上がる、あのヴィヴィアン・リー演じるスカーレットの姿とその時の光景であるが、そのエンド・タイトルはまさにこのスカーレット色の夕景に重なっていて、そこにあの有名なテーマ曲が流れてくるのだ。
(ちなみにこの「風と共に去りぬ」は、アメリカの南北戦争前後のまだ奴隷制度が残っていた時代の、南部の地主上流階級の話であり、今日では人種差別の問題から、この映画自体が半ば忌避(きひ)されているとも聞く。)

 ここまで、1か月以上も空いたブログ記事の掲載を続けるために、今回はその初めの部分だけを書いてきたが、まだまだこの北海道での話と九州に戻ってきてからの話もあり、これからはその埋め合わせというわけではないが、前のように1週間の間隔で書いていきたいと思っているのだが、しかしいったん身についた”ぐうたら病”の悪癖がはたしてそう簡単に治るものだろうか。
 ただ、北海道から戻ってきて2週間近くになるが、多少不安に思っていた体調の変化もなく、今のところは新型コロナ感染はないと思うのだが、何しろ年寄りゆえに、感染すればいつころりと逝くかもわからず、まあそれも時の運、世の中はかくのごとくありということなのだろう。

  ”ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。”(「方丈記」鴨長明 市古貞次校註 岩波文庫)
 


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