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ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

異郷への旅

2021-09-16 21:23:45 | Weblog



 9月16日

 その昔、母が近くの山裾に咲いていた彼岸花(曼珠沙華)の一つを掘り出してきて、庭の隅に植えておいたものが、今では毎年、十数輪もの花を咲かせてくれている。
 今は亡きその母が、昔話として私に聞かせてくれた、真夏の照りつける太陽の下での田んぼの草取りのつらさ・・・娘盛りのころに。
 しかし、9月になって稲穂がみのり、次第に黄色く色づいていくころ、田んぼのあぜ道には、この曼珠沙華(まんじゅしゃげ)が鮮やかに咲いていて、それまでの苦労が報われたように思えたそうだ。

 新型コロナ・ワクチンの二回目の接種が終わった後、遅くなってしまったけれど、それまで気になっていた、体の一部にできた小さなしこりを調べてもらうために、ようやく病院に行って一連の検査を受けた。
 何度もの検査の後、それが悪性の腫瘍だとわかり、すぐに入院して手術を受けることになった。

 私は、手術中はもちろん全身麻酔をかけられていて、その麻酔が効く前後のことしか覚えていないが、昼の12時半に入室して、その手術室から運び出されたのが午後6時過ぎ、何と合わせて6時間近い大手術だったそうで・・・。
 その後、1日半ほどは絶対安静で、さらに術後の体調観察と傷口回復のために、そのまま1週間ほど病室で看護を受けて、8月下旬にようやく退院した。

 今は、それから3週間がたち、体の機能の一部がいくらか損なわれてはいるものの、体調に変わりはなく、日常生活に大きなさしさわりもない。
 家に戻ってきて一番うれしかったことは、翌日、久しぶりに晴れて、その青空の下、ベランダに洗濯物を干している時だった。
 この度のことで、もちろん失ったものがあり、ささやかながら得たものもあると、ここで比べて見ても始まらない。
 大切なことは、生きている今があるということだ。

 それにしても、私は、何という異郷への旅をしたことだう。
 今ここで、それらの時間を振り返りながら記述していくには、それはあまりにも大きな出来事だった。 
 わずか10日ばかりのことではあるが、それを膨大な過去の事例からなる、人生の価値に照らし合わせて考えてみると、それがいかに濃密な時間であったことかと気づくのだ。
 そして、それほどの大きな生と死の問題を、軽佻浮薄(けいちょうふはく)にして浅学の徒でしかない私などが、軽々しく請け負えるものなのか、あまりにも分不相応なものではないのかとも思ってしまうのだ。
 とはいえ、このブログの記録として残すためには、そのうちの断片的なことだけでも、一人の人間の生の意識として、これからも少しずつ書き綴っていきたいと思っている。

 家の庭の生垣に、まだ咲いているアベリアの花の上に、早々と紅葉して落ちてきた、柿の葉が一枚・・・。
 (写真下)

 

 



 


星を得るための祈りを

2021-08-02 21:35:17 | Weblog



 8月2日

 前回の記事は、その時点で一月以上前の、九重は扇ヶ鼻のミヤマキリシマの花ことを書いたが、今回はそれから2週間後の同じ扇ヶ鼻の話しで、これもまた今の時点からは一月以上も前のことになる。
 こうして、少し前の話しばかり続けていれば、日記的なタイムリーな話からはほど遠くなり、記録としての山の話しでしかなくなってしまうのだが、それもただでさえぐうたらな上に、動作緩慢(かんまん)な年寄りの、自虐ネタの話しになってしまって。

 さて前回の記事にあるように、扇ヶ鼻のミヤマキリシマの花を見るには早すぎたので、1週間後位に再訪しようと思っていたのだが、平日の天気の良い日に巡り合えず、少し遅くなったが、ようやく晴れた2週間後のこの日に出かけることにした。
 空には好天を知らせる、薄い巻雲(すじぐも)が帯状に連なっていた。こうした雨の後の青空と、くっきりとした山肌を見ることほど、心さわやかになることはない。・・・そんな日の山に登れば、きっと誰もが山好きになってしまうだろう。  

 前回と同じように、牧ノ戸峠の駐車場(1330m)はすでにいっぱいだったので、反対側の砂利の空き地にクルマを停めた。
 やはりみんなも知っているのだろう、この時期がミヤマキリシマの盛りで、天気も良いしと。
 8時前に遊歩道をたどって行く。舗装道の山道はいささか味気ないが、ノリウツギやヤシャブシなどの、背の低い木々の林の中の冷気が何とも心地よい。
 前後ににぎやかなグループの声が聞こえ、もうほとんどの人がマスクをしてはいなかった。
 沓掛山前峰からは北側に由布岳、南側には阿蘇山とはっきり見えている。
 沓掛山頂部(1603m)の岩場を下り、高原歩きの縦走路をゆっくりとたどって行く。ミヤマキリシマの花はもう終わったものも多く、離れて見える扇ヶ鼻や星生山(ほっしょうざん、1762m)の山頂付近が、今を盛りの薄赤紫色の花で覆われているのがわかる。期待できそうだ。
 分岐から扇ヶ鼻へ、最初の小さなコブの所から見る北面は、確かに前回よりは華やかに見えるが、もちろんもう花が枯れてしまったものもあり、盛りを過ぎるころだった。

 つらい最後の登りに耐えて、広大な頂上台地に出る。
 頂上に至るまでのゆるやかに広がる高原は、盛りを過ぎかけてるとはいえ、まだまだ見事なミヤマキリシマの花に埋め尽くされていた。(冒頭の写真)
 しかしそこは、ミヤマキリシマの花の株と同じように、多くの登山者たちでにぎわっていた。
 まず手前の台地の東端まで行って、九重の主峰群を眺め、そこでは南の熊本県側の、久住高原を隔てて見える祖母・傾山連峰の姿が、山脈の形にまとまっていて素晴らしい。(写真下)



 そしてこの台地につけられた道に従って、そのまま頂上と並行に南側に向かい、ミヤマキリシマの株を前景に何枚も写真を撮って歩いて行く。阿蘇山の眺めも、花を入れるとさらに引き立つというものだ。(写真下)



 そして右に曲がり山頂に上がると、三十人余りもの人々でにぎわっていた。私は西側の肩の所まで行って、そこで腰を下ろし、あの岩井川岳方面を見下ろしながら、早目の簡単な昼食をとった。
 しかし20分余りで、やってきた女の子たちに場所を譲り、頂上を下りて行ったのだが、この高原台地はどこでもが撮影スポットであり、私もなるべく人が映りこまないような所で、何度もシャッターを押した。(写真下、九重主峰群)



 九重のミヤマキリシマの名所といえば、まず第一に、あの平治岳(ひいじだけ、1643m)の南面を広く流れ下る花の帯に勝るものはなく、次にその南隣に位置する北大船から大船山(たいせんざん、1787m)にかけての斜面も素晴らしいのだが、三つ目にあげるべきはこの扇ヶ鼻(1698m)であり、その頂上台地を埋め尽くす頂上庭園ほど見事なものはないだろう。
 今回は、決してベストの時期とは言えなかったが、それでも来るたびにいつも見とれてしまう空中庭園なのだ。
(写真下、星生山方面)



 最近は、初夏のミヤマキリシマが咲くころには(といってもコロナ禍の今は一年中)、九州の家にいるようになって、毎年欠かさずに花に会うために、九重には登っているのだが、それでも年ごとにあと何年続けられるものだろうかと思いながら、今年の花に感謝するのだ。
 前回も上げた、あの『古今和歌集』のよみ人知らずの一首が思い浮かんでくる。

 「春ごとに 花の盛りは ありなめど あいみんことは 命なりけり」(『古今和歌集』岩波文庫)

 ところが私には、もう一つ見たいものがあった。
 それは、チョウマニアでもない私が、3年前に九重は沓掛山で出会った、アサギマダラの群れである。
 その時のことは、このブログの2018.7.16の項に書いてあるのだが、そのことを思い出して、さらに今回もまたそのチョウを見るためにだけに(もう山々のミヤマキリシマは終わっているだろうから)、牧ノ戸峠から登ることにしたのだ。

 7月の初旬、さすがにこの時期になると駐車場も空いていて、もちろん登山者も少なく、心おきなく山を楽しめる。
 さらに言えば、今は快晴の空が広がっているが、午後には雷雲が広がるとのことで、最初から沓掛山までのつもりでいた。
 しかし前回は、遊歩道を歩き始めるとすぐに目についた、アサギマダラがいないのだ。
 よく見ると、遊歩道の左右の草地のコザサなどの草刈りが行なわれていて、一緒にアサギマダラの好きなアザミの花も刈り払われていたからだろう。残念。
 歩いて10分ぐらいのところにある展望台の傍の、アザミやウツボグサなどは刈り払わずに残してあったが、そこに一匹のヒョウモンチョウが止まっているだけだった。
 そこから、尾根伝いに沓掛山の岩だらけの山頂まで行って、そこで休んだ。
 8時だというのに、もう山々の後から入道雲(積乱雲)が湧き上がってきていた。(写真下)



 それはいかにも夏山らしい光景だったが、天気が悪くなるのがわかっていて、これ以上行く気はなかった。
 下って行く途中、これから登って行く人たちもいたが、雷予報のことを知っているのだろうか。
 ところで、下の展望台の辺りで、一匹のアサギマダラが飛び回っているを見たが、すぐにノリウツギの林の中に入って行って、他に見ることはなかった。
 駐車場まで下りてきて、まだ時間が早かったのであきらめきれずに、反対側の黒岩山の山裾の所にある東屋(あずまや)の先まで行ってみたが、やはり無駄なことだった。
 それでも2時間ほどの、初夏のハイキングで久しぶりにいい気分になった。
 見たかったチョウには出会えなかったけれど、大切なことは、山の中を歩くことなのだ。

 それから、また一か月ほどがたとうとしている。もちろん、この暑いさ中、山には行っていない。
 コロナ・ワクチンは2回打ち終わったが、それが終わった後で行こうと思っていた病院での検査があったりで、どのみちいつかはいろいろと覚悟を決めて、身辺整理をしておかなければならないと考えてしまった。
 今さら欲を出して言うのではないが、残された余生の中で、今読んでいる日本の古典を読み続けるための時間と、若い頃から買いためてきたレコードを聴くための時間と、登らないまでもあの憧れの山々を見に行くための時間が欲しいのだが。
 前にもこのブログで何度も書いたことのある、あのフランスの詩人、フランシス・ジャムの詩からの一節。

”神さま わたしに星をとりにやらせてください、
 そういたしましたら病気のわたしの心が
 少しは静まるかもしれません・・・
 ・・・。
 わたしの病気の心を治すことが出来るとお思いでしたら
 神さま わたしのために星を一つ下さる事が出来ないでしょうか
 わたしにはそれが必要なのでございます、
 今夜わたしのこの冷たい空ろの
 黒い心臓の上に乗せて眠るために。"

(『ジャム詩集』「星を得るための祈り」堀口大學訳 新潮文庫)

 


山のチョウ

2021-07-17 21:51:08 | Weblog



 7月16日

 もう一月以上の前のことを書くのは、少し気が引けるけれど、これは自分のための記録であり、登山覚え書きなのだからと、開き直るのも毎度のことで。
 それは、前回の九重は岩井川(いわいご)岳への登山から、10日余りたった6月初旬のことで、あのツボミが多かったミヤマキリシマも、おそらくはいいころ合いになっているだろうと、いつもの牧ノ戸コースで、扇ヶ鼻へと向かうことにした。
 朝起きたのが遅く、牧ノ戸峠(1330m)に着いた8時前位にはもう駐車場は一杯になっていて、手前の砂利の空き地にクルマを止める。 
 空には、雲が少しあるものの空気が澄んでいて、遠くの山までよく見えていた。
 いつものように、晴れた日にしか山に登らないというのが、私のぜいたくな年寄りの特権なのだが、たまには失敗することもあり、長年憧れていた東北の名山、あの鳥海山で、二日間吹き付けるガスの中をさ迷い歩いた、という苦い思い出もある。(代わりに、晴れた日に撮られた鳥海山の山番組でも見て、思いを晴らすしかない。)

 さて、前後に人々の声を聞きながら、いつもの舗装された道を登って行くのだが、途中の展望台で一休みするほどに体が重い。(年寄りの太りすぎ。)
 遊歩道の終わる沓掛山前峰からは、岩塊群を縫いながらの縦走路になる。
 その最後の岩峰である沓掛山山頂(1503m)を越えると、岩場は終わって、後はなだらかな縦走路の高原歩きが続き、左右に点々とミヤマキリシマの花の株が見えてきた。(冒頭の写真、縦走路からの扇ヶ鼻)
 やはり群生する花は、昼間の青空の下で見るのが一番だ。(決して芸術家にはなれない凡人たるゆえんだが。)
 左手に大きく星生山が見えてきて、やっとの思いで久住山縦走路との分岐になったが、手前のコブまでの一登りでさえつらかった。

 斜面の花は、当然前回よりは開いていたが、満開にはほど遠く六分ぐらいといったところだろうか、もちろん満開の株もあり、背景に沓掛山と黒岩山そして遠くコニーデ型の涌蓋山(わいたさん、1500m)も見えていて、九重の初夏の一枚の寸景になる。



 さてそこからの急斜面登りがきついところだが、何とか歩みを進めると、扇ヶ鼻の頂上下の台地に上がる。
 いつもなら、ここで歓声をあげるところだが、今年は花の開きが遅くまだ半分といったところだった。
 まず先に、頂上への道と分かれて、左の小道を台地の東端の所まで行ってみる。
 そこからは九重の主峰群が見え、さらにこの南面の花の株を前景にして、北に対峙する星生山(1762m)が大きく見えていた。



 そこから戻って、多くの登山者たちが行きかう、ゆるやかな台地の道をたどる。
 全体的に見て、まだ半分ほどのミヤマキリシマの花だが、それなりにきれいではあった。
 多くの人が休んでいる頂上を避けて、少し離れた西の端まで行って腰を下ろす。
 南側の下の方には、前回行ってきた岩井川岳の台地に、点々と米粒のような赤い花の株が見えていて、こちらの方は今が満開のようだった。

 まだ11時前だったが、早めの昼食にして周りの山のたたずまいを眺めていると、そこにチョウが二匹飛び回っていた。一匹はキアゲハでもう一匹はヒョウモンチョウらしかった。
 ここだけに限らず、山の頂上ではチョウを見かけることが多い。おそらくは、山にぶつかり昇って行く、上昇気流に乗って上がってきたものだろうが、思えばあの北海道は日高山脈の、ペテガリ岳の頂上で出会ったキアゲハは、ハイマツの枝に止まったままあまり動こうともしなかった。
 私と同じように疲れ切っていたからなのか、その時頂上に居た生きものは、私とそのキアゲハだけだった。

 それは、私が東京から北海道に移り住み、ようやく丸太小屋を建て終わり、これからは日高山脈の山々に登っていこうと思っていたころのことで、調べてみると今から30年余りも前になり、日高山脈の山ではこれがまだ5座目の山だった。
 当時はひどい悪路ながら、ともかく静内からクルマで無人小屋のペテガリ山荘まで入ることが出来た。
 前日にその小屋に泊まり、翌日ペテガリ岳を往復したのだが(帰りが長かった)、もちろん他に登山者はいなく、常にヒグマの気配を感じながらの登山だった。
 朝から天気は良かったのだが、頂上に着くとすぐにガスが吹きつけてきて、風の音だけの頂上に、私とキアゲハがいただけだったのだ。

 そんなふうにして、私は登った山の頂上でチョウに出会うことが多いのだが、そうして憶えているというのは、登り下りの時にはチョウを眺める余裕もないからだ。
 そんなチョウマニアでもない私が、度々高山蝶に出会ったのは、やはり何と言っても大雪山であり、あのコマクサ咲く礫地の稜線で目にした、美しいウスバキチョウやアサヒヒョウモンなどが忘れられない。
 ヒョウモンチョウは全国どこでもよく見られるチョウであるが、チョウ初心者である私には、その時に見ただけでは、10種近くもあるヒョウモンチョウの区別をつけることはできない。
 この扇ヶ鼻で見たのも、九重ではよく見かけるミドリヒョウモンだとは思うのだが、翅の裏側の模様が個体差によるものなのだろうか、白地にくっきりしていて面白い。(写真下)



 さて、また新たに人も来たようだからと、頂上を下りて行く。
 分岐まで来てもまだ昼前で、若いころなら、また次の山へと縦走する元気もあったのだが、何しろ年寄りの巨体というのは始末に負えないもので、わずかな距離で疲れ果てて、やっとのことで1時半ごろ牧ノ戸に戻って来た。
 ミヤマキリシマ満開というには早すぎたが、今が盛りの株もあり、晴れた日の山の姿とともに、往復5時間余りの間、十分に自然のたたずまいを楽しむことができた。
 とは言っても、ツボミがまだいっぱいあったし、全体の花が咲きそろうのは、もう少し先のことで、もう一度は来なければなるまい。

 というのも、私の経験値の中に、この扇ヶ鼻のミヤマキリシマが豪華絢爛(ごうかけんらん)に咲きそろった時の様子を憶えており、どうしてもその時と比べてはと欲が出てしまうのだ。
 しかし、同じように今日登った人で初めてミヤマキリシマを見たという人もいるはずだし、そうした人にとってはおそらくは感激する景色だったのではないのだろうか。
 つまり言いたいのは、人によってそれぞれの経験によって、受け止め方はさまざまになり、私のように不満に思う人と、感激する人とがいて、果たしてどちらが幸せな気分になれるだろうか。
 世の中に真実は一つかもしれないが、問題は、それを知るべきか知らざるべきかということだ。

 話は変わるが、このブログでもたびたびテレビ番組の話しをしてきたが、今回はその中から二つ。
 一つは、放送されるたびに見てしまう「ブラタモリ」で、今日の”日本の石垣スペシャル”も実に面白かったが、それは石垣の見本市といわれるほどの、あの有名な加賀百万石金沢城にある、様々な石垣が紹介されていて、桑子アナ時代の数年前の未公開映像から編集されたものだったが、思わず身を乗り出すほどに興味深いテーマだった。
 しかし、今回ここで書きたいのはその前のもので、先週先々週と2回にわたって放送された、“江戸から東京へ、江戸城は日本の城の集大成”という回で、当時の江戸城の石垣の増築や、新地の開発など、家康が外様に課した難題に、なるほどとうなづくことが多かった。

 それは、一つには二階バスに乗って少し高い視点から江戸城の内堀外堀を眺め、もう一つは船で運河のような内堀外堀を眺めるという、なかなかに興味深い企画だったからだ。
 特に秋葉原からお茶の水にかけては、私の会社が神田界隈にあって、お茶の水は最寄りの駅だったから、懐かしくもあったのだが。
 駅のそばの外堀の上で交差する鉄橋や、当時から残されていた万世橋駅跡のレンガ造りの建物などは、当時秋葉原にあった輸入レコード店に足しげく通っていたからいつも見ていたものだった。

 番組では、船から街並みを見上げた後、バスに乗って内堀の周りを走り、銀座に出た時、アシスタントの浅野アナが思わず、(あれここって)”銀座じゃん”と口走ってしまったのだ。
 それをSNSなどでは、”タモリさんにタメ口をきいて”などと非難する書き込みもあったが、タモリ自身は、それが彼女の思わずもらしたつぶやきだったとわかっていて、すぐに彼女の”銀座じゃん”の後を受けて、”銀座じゃねぇ”あるいは”銀座ですけどぉ”の、若者言葉の三段活用と称して茶化して見せたのだ。

 ちなみに、この語尾に付ける軽い感嘆詞的な、”じゃん”という言葉は、関東から中部地方で使われることが多く、私が東京にいた時には、都下の八王子などや、神奈川などの子たちがよく使っていたし、都内の子たちはそれほど多用していたようには思えなかった、浅野アナの出身地がどこかは知らないのだが。
 そしてこの時の番組では、むしろ彼女のひと言で、少し堅苦しくなりがちな歴史上の話しが、一気にほぐれてくだけた話になり、その後も二人は楽しそうにしゃべっていた。外野がとやかく言うことではないのだ。
 
 さらにお城の話しに関連して言えば、先日放送された、NHK・Eテレの「英雄たちの選択」シリーズの中で、”プロが選ぶ最強の戦国武将は誰か”というタイトルで、50人の歴史研究者たちへのアンケートをもとに、スタジオに集まった7人のそれぞれの分野の学者たちに、最強の武将を決めてもらうという企画があり、結果的に豊臣秀吉ということになったのだが、他にも毛利元就や松永久秀に立花宗茂の名前まで上がっていて、さすが専門家の切り口だと思わせるものだった。
 こうした企画は、テレビ・雑誌などで何回も繰り返し行われてきており、その度ごとに、例えば信長、秀吉、家康といった定番の名前の外に、上杉謙信、武田信玄、真田幸村だったり、あるいは信玄、家康、信長だったりと、決して一致することはないのだろうが。
 それが当然だし、もともと、時代や地方が少し異なっていたために相まみえることがなかったこともあり、相撲の双葉山と白鵬ではどちらが強いかといっているようなもので、土台無理な話なのだ。

 つまり私が面白いと思ったのは、それぞれの専門分野からの研究成果として、彼らの話しを聞けたことであり、近ごろはやりのワイドショーなどで、素人タレントたちがコメントする普通の人たちの話など、面白くもなく多少うんざりしていたからでもあるが。

 さて話を戻せば、今回あげた九重・扇ヶ鼻へはこの後もう一回行っており、さらに数日前にはチョウを見るために、短いハイキングをしてきたのだが、併せて次回書くことにしよう。
 
 梅雨が明けた関東東北さらには北海道までもの、全国41地点で35℃を超える猛暑日になっているそうだが、それ以前に梅雨が空けたとされるこの九州北部では、曇り時々小雨の日が続き、山の中にあるわが家周辺では、ありがたいことに25℃ぐらいのクーラーいらずの日々が続いている。

 例のコロナワクチン二回目は近日中に打つことになっているが、最近体調面で気になることもあるし。
 はたしていつまで、九重のミヤマキリシマの花を見ることができるのだろうか。

 『古今和歌集』の”よみ人しらず”の歌を一首。

 ”春ごとに 花の盛りは ありなめど あい見むことは 命なりけり”

 (『古今和歌集』巻二 春歌下 佐伯梅友校註 岩波文庫)


 


一匹の働きアリ

2021-06-26 21:02:18 | Weblog



 6月26日
 
 前回の記事の後の、この一か月ほどの間に三度も山に行ってきた。
 それも、同じ山に続けて三度も行ってきた。
 あまり自慢にはならない。
 というのも、その山は九重の山の中でも比較的簡単に登れる、扇ヶ鼻(1698m)だからである。
 牧ノ戸峠の登山口からだと、コースタイムで1時間半くらいなのだが、もちろん年寄りの私は、そこを2時間半近くかかって歩くわけだから、その遅さは推して知るべしというところだ。

 ともかく、それら三回の山の記録を書いておかなければならない。まずその一つ目だが、前回の鶴見岳から一か月半ほども空いた、5月下旬に、久しぶりに九重山に登ってきた。
 今年は、春先から気温の高い日が多かったので、九重名物のミヤマキリシマツツジの花々も早めに開いているだろうからと、平年よりは少し早めに九重に行くことにしたのだ。
 それでもネットで調べると、それほどに開花情報は上がって来ておらず、意外にも少し遅めだという。
 それならば、標高の低いところを目指すしかないと、選んだのは扇ヶ鼻(1698m)の南にある同じ溶岩台地の岩井川岳(いわいごだけ、1522m)である。
 去年初めて、ミヤマキリシマの時季にこの山にまで足を延ばして、その静かなたたずまいがすっかり気に入ったからでもある。

 この台地の花の規模は、あの名だたる平治岳(ひいじだけ、1643m)や大船山(たいせんざん、1786m)の斜面を埋め尽くすほどの、豪華絢爛(けんらん)たる錦織なすがごとき広がりはなく、さらには他の山々の、例えば扇ヶ鼻や星生山や三俣山、そして中岳や稲星山や白口岳などのような、一部の群生地の美しさもない。
 ただ、それぞれの花の株が散在するだけの風景だが、この山が平原であることから、ある種の庭園のごとくに花の株が配置されているようにも見えるし、背景には阿蘇山に祖母・傾の山々が並び立つ展望の山にもなってる。
 例えばそれは、あの深田久弥の「日本百名山」の中には、峻険(しゅんけん)な穂高岳に槍ヶ岳、剱岳、大きな富士山などとともに、広大な草原からなる美ヶ原(うつくしがはら)が選ばれているのだが、そこは北アルプスを眺めるには絶好の位置にあって、百名山の一つにそうした展望の山を入れたくなるのはよくわかるし、同じ意味合いからも、私は九重の中でも静かなこの展望の山が気に入っているのだ。

 この山に登るには二つのルートがあって、一つは熊本県側から直接登る道で、1時間半ほどのコースタイムだが、植林地の中を通り、展望が開けるのは頂上近くになってからというのが、少し残念な気もする。
 もう一つの大分県側からだと、駐車と登山者で混雑する標高の高い牧ノ戸峠(1330m)を出発して、展望のきく尾根通しに歩いて、まず扇ヶ鼻に登り、そこから岩井川岳に標高差180mほど下ることになり、コースタイムでも2時間ほどかかるし、帰りはそのぶん登り返して戻ってくるしかないのが難点だ。(二人以上で二台の車があれば、それぞれの登山口にクルマを置いて、縦走することもできるのだが。)

 さて、いつもの登山口から歩き始めるが、年寄りには、この舗装された遊歩道の道がこたえる。
 さらに、この前の山、鶴見岳に登ったのは一か月以上も前のことであり、その時はヤマザクラを見に行ったのに、今はもう九州の初夏の山の名物である、ミヤマキリシマのツツジの季節になってしまったのだ。
 この遊歩道の終わる沓掛山の前峰にかけては、いくつかのツツジの花の株が見えていて、こんもりと茂るアセビの、黄緑や薄紅色の新緑の葉の色が鮮やかだった。(写真上、遠く雲仙岳)
 天気は晴れていても、高い所に薄雲が広がっていて、十分に日は差してはいないが、そのぶん涼しくて良いし、何しろ空気が澄み渡っていて、九州中央部のほとんどの山がくっきりと見えている。

 そして、きつい階段の遊歩道を終わり、縦走路となる沓掛山への稜線をたどって行くと、右手には阿蘇山が見えてくる。
 岩峰になった沓掛山頂上からは、新緑の尾根越しに、おなじみの三俣山と星生山が見える。(写真下)



 その岩場を下ると、ゆるやかな高原状の尾根道になって、のんびりと写真を撮りながら歩いて行く。 
 そして、後ろに物音が聞こえると、すぐに端に寄って道を譲るのが習慣になってしまった。
 登山口からここまで、もう何人もの人に抜かれてしまった。
 ”老いては子に従い”ならぬ、”老いては若きに譲り”ということか。
 それで良いのだ。人それぞれに、年相応の歩き方があり、生き方があるということなのだから。

 左手に、深い沢を隔てて星生山(ほっしょうざん)が立ち上がっている。
 その雄大な姿を眺めながら、分岐点から右に小尾根を上がって行くと、正面に扇ヶ鼻北面の花の大斜面が見えるのだが、時期的にも早すぎて、ちらほらと二つ三つの株が咲いているだけだった。
 最後の急斜面を登って行き、頂上岩頭を目指して、扇ヶ鼻に着く。
 数人が休んでいるだけの頂上から、西の肩のはるか下の方に岩井川岳の台地が広がり、点々とツツジの株が見えている。
 良しとひとり納得して、一部ヤブ状態になっている道をたどり、やがてヤシャブシ、ノリウツギ、ヒメシャラなどの低い林の急斜面を降りてゆくと、ゆるやかになり、明るくて広いササ原に出る。
 
 上空の高い薄雲が流れて、時々青空も広がってきた。
 途中一人二人と出会っただけで、何よりも静かだし、ミヤマキリシマの株が点々と咲いていて、この草原の果てには、阿蘇(写真下の上)と祖母・傾連山(写真下の下)が見えていて、私の望むべき山の光景の一つとして、申し分なかった。





 もちろん、花園としての大きさや花の数などから言って、同じ九重の平治岳や大船山などとはもちろん比べるべくもなく、他にも星生山、三俣山、中岳、白口岳、稲星山などの、まとまった花の群生地などと比べてみても寂しいもので、閑散とした風景ではあるが、その庭園ふうの花の株の配置と、辺りの人けない静けさが、変態じじいである私にはたまらないのだ。
 その静かな岩井川岳の、ササ原台地の細い踏み跡をたどり、その広大な花園の中を、私は1時間余りも写真を撮りながら、ゆっくりとさ迷い歩いた。
 疲れて低いササの上に腰を下ろすと、踏み跡の土の上を一匹のアリが歩いていた。
 こんなところに、どんなエサがあるというのか、たまたま昆虫などの亡骸(なきがら)に出会うことがあるだろうから、それだけをあてにしているのだろうか。それとも登山者たちがたまに落としてくれる、食べくずをあてにしているのだろうか。

 そういえば、先日家の中に入ってきたアリを、かわいそうだとは思ったが、つぶしてしまった。
 というのも、前に台所の砂糖入れにアリがいっぱいたかっていたことがあって、そのアリの列は家の外にまで延々と続いていて、それを駆除するのに手間がかかったことがあったからだ。
 そういうことがあって、苦しむアリの姿を見るのは避けたかったので、力を入れて一思いにつぶした。
 あわれなアリは、苦しむ間もなく、一瞬ののちにゴミになってしまった。
 外でエサになるものを見つけて、多くは仲間がつけた大きなエサへのルートをたどり、大きな行列になって巣に運んできて、また外に探しに出るという繰り返しの働きアリの一生。

 そんなアリの一匹が、人間につぶされてしまっても、巣の中の他のアリたちは、あの働きアリAが死んだとは気づかないだろう。
 ただ現在の巣を維持するために、エサを探しに外に出かけ、あるものは幼虫たちを育てていくために、またあるものは巣を広げていくだけに手いっぱいであり、それぞれの仕事が彼らの生きることなのだ。
 死んだほかのアリは、巣の中で生きる彼らにとっては、ゴミかエサの一つにしかならないのだろう。
 何という、死と生の厳然とした区別。

 人間だけが、自分たちの思いの中にあるべく、幻想の中で死者を生き返らせ、魂の存在を信仰する。
 しかし、現実は、アリの死と同じで、そこに生きる形として存在するかしないかというだけのことだ。
 それゆえに、私たちにとって大事なことは、自分で知ることもできない死後の世界に執着するよりは、生きている今の時を大切に過ごし、自分の生きる糧(かて)になる蜜を楽しく吸うことにある。
 もちろん、人間社会の一員として、社会の規範を守りながらのことではあるが。
 つまり、周りに迷惑かけないようにして、後はできる範囲で、残りの人生を自分の好きなことに使えばいいということだ。
 そして死ぬときはと言えば、前にも良寛和尚(りょうかんおしょう)については何度も書いたことがあるが、災難を逃れる妙法(みょうほう)はないものかと問われた時に、答えたその良寛の言葉は・・・”災難にあう時節には災難にあうがよく候(そうろう)”・・・ということなのだ。

 もっとも、そうは思っていても、死ぬ時には魂の不滅さえも信じたくなるだろうし、相当にじたばたすることにもなるのだろうが。

 見上げる空に青空が見えていたし、山は美しく、花は鮮やかだった。(写真下、岩井川岳より扇ヶ鼻と久住山)



 あくせく生きて思い悩むことはない。今のこの景色が私の目の前にあることだけで十分ではないのか。
 さて帰りの登り返しが待っている。何度か立ち止まり休んで、扇ヶ鼻に戻って来たが、上空にはまた雲が広がってきていた。
 今度は、この扇ヶ鼻のミヤマキリシマの花が咲きそろうころに来たいものだ。
 帰り道はほとんどゆるやかな下り坂で、途中で沓掛山への上り返しがあるにしても、なぜかそれほどにはきつく思えなかったが、次第に疲れが出てきて、やっとの思いで牧ノ戸の駐車場に帰り着いた。
 無理もない、今日の山行は休み時間を入れて8時間にもなり、コースタイム上では往復4時間半ぐらいのところだが、年寄りの私には長すぎたのだ。
 次の日から二日間、やはりふくらはぎと太ももに筋肉痛が出てしまった。
 
 そしてこの後、日を置いて同じ扇ヶ鼻に続けて2回も行ってきたのだが、その時の山の記録は、なるべく早いうちに書いてしまうつもりだ。

 今回は、まだミヤマキリシマの満開前だったから人も多くはなかったが、それでもマスクしている人も目についたし、私もつけたりはずしたりを繰り返した。

 コロナ・ワクチン接種は、やはり自分のためだけでなく、周りの人への影響も考え併せて打つことにした。
 しかし、接種券到着後、病院に予約電話を入れたのだが、なかなかつながらず、やっと2か月先の集団予定になってしまった。
 それが今月末で、二回目が来月中下旬とのことで、一か月前に北海道の友だちと電話で話したところ、もう二回目もすんだと言っていた。つまり同じ年寄りでも住んでいる所によっては、接種時期に2か月もの差があるということだ。
 まあ今まで、全国民に注射するなんていうことがなかったわけだから、政府も各地方の行政機関も大慌てで、あちこちで様々な問題が起きるのは、仕方のないことかもしれない。

 さらには注射後のショック症状という、貧乏くじを引くかもしれないという心配もあるのだろうが、万が一そうなったとしても、年寄りである私が後悔するには及ばないということだ。
 つまり、この年まで生きながらえさせてもらって、自分の人生を振り返ってみれば、ここまで本当に楽しさ半分、哀しさ半分のトントンでおさまってくれたのだから、残りの人生は、その日が来るまでの、おまけ袋の愉しみとしてもらったようなものだろうし。

 ”花に嵐の例えもあるさ、さよならだけが人生だ。”(井伏鱒二による漢詩の日本語訳)

 

 


季節はめぐる

2021-05-18 21:18:34 | Weblog



 5月18日

 とうとう前回から、一か月以上もの間を空けてしまった。
 これはただひとえに、私の怠け者ゆえのぐうたらさによるものではあるのだが、ひとたびこうしてキーボードで文章を書いていくと、夢中になってしまい、言い知れぬ愉しみさえも湧いてはくるのだが。

 ”むつかしきものは、人の心根よ、蝦夷(えぞ)屋、おぬしも悪よのう、ぐはははは・・・”
 と、お代官様に言われそうなものだが、また一方では、次の言葉にも救われるのだ。

 ”なかなかデスクに向かう気が起きないのは当たり前。やる気はやり始めてから出るのが脳の構造である”
 これは、数日前の新聞の書籍広告に載っていた言葉であり、今を時めくあの美人脳科学者の中野信子様の、ありがたい一言である。(「あなたの脳のしつけ方」青春文庫)
 ほんとうは自分は”やればできる子”と、言い訳代わりの自己弁護の思いをもって、日ごろからぐうたらに過ごしている私にとって、これは”渡りに船”の”ガッテン”言葉だったのだ。

 そうした言い訳をしたところで、季節は足早にめぐりくる。
 三月の初めに始まったウメの新緑や花は、ジンチョウゲ、サクラ、ツバキ、シャクナゲ、ツツジと続いて、ほとんどの樹々が新緑の葉を広げているのだが、そうした若やいだ明るさの中にあって、もう枯れたのではないのかといつも心配してしまう、あのサルスベリの木も、このところの初夏の気温に促されて、いっぱいに新緑の葉を広げ始めた。
 これで良い。庭先の皆の顔がそろったところで一安心だが、これからは逆に繁り過ぎると困るので、小枝などを切りそろえていかなければならない。

 さらに、何と数日前には、九州四国中国地方が梅雨入りしたとのことで、例年よりも3週間も早いとか。
 私の感覚でも、梅雨は6月に入ってからだと思っていたから、5月に入ってから始めた板張りベランダの補修作業も、この雨の中では中断せざるを得なくなってしまった。
 家のベランダはもう二十数年前に一度、丸太柱ごと取り換える大掛かりな改修作業をして以来のことで、今回もそれに近い作り変えが必要なのだが、もうそこまでやるのは面倒だからと、柱一本と根太と板張りの、腐食のひどい部分だけを取り換えることにしたのだが、それでもシートで覆うぐらいの長さがあり、かなりの大仕事だ。

 さらに暑くなるであろう夏に備えて、エアコンも新しいものに取り換えた。
 取り外したものは、日付を見ると’88年製のものだから、何と33年も使っていて、取り付け業者の人も”故障なしで”と驚いていた。
 しかし、これでこの年寄りも安心して、厳しいコロナ禍の夏を何とか乗り切きることだろう。

 さて、冒頭に載せた写真は、4月上旬、前回の記事を書いたすぐ後に登った、別府の鶴見岳(1375m、ロープウエイ乗り場からの)写真である。
 一か月以上も前の山の写真を載せるのは、いささか気がひけるが、ここでの山日記としての役割から言えば、どうしても新緑の山の景観として、記録に残しておかなければならないからだ。

 まずは湯布院経由の道を通って、鶴見岳ロープウエイ駅まで行って、そこの広い駐車場にクルマを停め、バスを利用して鳥居まで上がり、そこから神社への道をたどり、その先に続く鶴見岳登山道を登ることにした。
 そして帰りは、頂上から少し下にある山上駅まで行って、ロープウエイを使って下りてこようという算段である。   というのも、前々回に経験した下りの登山道でのひざの痛みに恐れをなして、前回の登山で下りはロープウエイにしてから、すっかり味をしめてしまい、楽な登山の仕方を覚えたというわけである。
 若い時なら、3時間足らずで往復できた山なのに、まあ年寄りになった今では、それなりに無理をしない山登りで山を楽しむことことにしているのだ。歩けなくなるまでは、山に這いつくばってでも登ってやるというほどの、鬼気迫るまでの気迫は持っていないのだが。

 さて、いつもの長い神社の石段に息を切らして登って行くと、人々の声が聞こえてきて、この御嶽権現(おんたけごんげん)火男火売(ほのおほのめ)神社の氏子さんたちが神社内外の掃除をしていた。挨拶して、神社裏の急斜面のジグザグ道を登って行く。彼らの声が遠くなり、後は鳥の声が向こうのほうで聞こえるだけ。
 尾根通しのスギ、ヒノキの樹林帯は終わり、モミジ、カエデ、ウツギなどの新緑が見られようになるが、楽しみにしていたヤマザクラは、手前にある樹々にさえぎられて、残念ながらすっきりとは見えなかった。

 急な山腹の道で腰を下ろして休んでいると、先生に引率された高校生らしい生徒たち十数人が登って来たが、意外に静かで統制の取れた一団だった。
 さらに上からは、すでに頂上に登って来たらしい人たちも一人二人と下りて行ったが、そのくらいなもので、山頂付近の観光客の賑わいを除けば、十分に静かな山歩きを楽しむことができた。
 山頂からの展望は、別府湾を見るよりは、むしろ裏側の由布岳が見えるほうへと少し下った所がいいのだが、しかしそちら側はまだ枯れ木色の展望で、ただ山裾辺りには点々とヤマザクラ模様になっていた。
 帰りはロープウエイに乗ってあっという間に戻ってきてたが、ともかく3時間余りの心地よい登山だった。

 しかしそれからの、クルマに乗っての帰り道こそが、この日の見ものだった。
 下の写真は、城島(きじま)高原を過ぎた猪ノ瀬戸辺りからの眺めで、手前に側火山の日向岳(ひゅうがだけ、1085m、登路はあるが頂上の展望はない)とその後ろに由布岳(1583m)が見えていて、このくぼ地一帯のあちこちにはサクラソウも咲いていた。



 さらに次の下の写真は、その日向岳の南斜面の眺めで、サクラと新緑ががまだら模様になり、まさにヤマザクラの時期にふさわしい景観になっていた。 



 さらに下の写真は、そこから反対側を見たものであるが、青梅台から続いてきた尾根(断層帯)にも、手前にケヤキの新緑が美しく、ヤマザクラが点々と見えて、まさに春の山らしい眺めになっていた(写真下)。



 その後一月たつが、山には登っていない。ただ、いつもの3時間半ほどの山麓歩きに、二回ほど行っただけだ。
 九重の新緑も見たいのだが、これからはミヤマキリシマの花の季節にもかかり、人の多さを思うと、感染力の強いコロナ変異株が怖くて、なかなか出かける気にはならないのだ。 
 ワクチン注射は、地域の差が大きいようで、北海道の私の家がある町では、もうかなり接種が進んでいるようだが、この九州の家ではまだその通知さえ来ていない。

 繰り返し言うことだが、まだまだ日本の山の遠征登山をしたいと思っていたのに、このコロナ禍蔓延(まんえん)の世の中では、自分の体力の衰えと相まって、とてもおいそれと出かけて行くこともできなくなってしまった。
 ましてやひとつ前の遠征登山が、東北鳥海山の失敗登山(’19.8.5,12の項参照)だったと思うと、悔しさも倍増するが、なあにその前後の栗駒山(’18.10.1,8の項参照)、焼石岳(’19.10.8,15,22の項参照)の紅葉の錦世界に出会えただけでも、よしとするべきだろう。
 あとはテレビで放送される”日本百名山シリーズ”や、とうとう行くことのできなかったヒマラヤでの”グレートヒマラヤ・トレッキング・シリーズ”などの番組でも見て、つまり”高嶺の花”でも見ることはできるのだから、年寄りにはそれで十分なのだ。

 その点、書物の世界は良い、逃げては行かないからだ。
 前回書いたように、古典の”三大和歌集”の後は、相変わらず進まない『源氏物語』を少しずつ読み進めているが、枕もとには、これも前回少し触れた、あの中野京子さんの読みやすい絵画解説文に惹かれて、今では枕元に彼女の『名画の謎』シリーズ4巻(文春文庫)を置いていて、夜ごとにその一節を読んでは、謎解き終えた気持ちになって、眠る前の有意義なひと時を過ごしている。

 一年前にコロナ禍によってこの世を去った(合掌)、あの志村けん風に言えば、”本はいいよな、本は。”
 私たちが生涯出会うことのできないような、知力学識を備えた人に、文字を通じてたやすく、その創作物や体験談や研究成果などの話を聞くことができるのだから、これほどありがたいものはない。
 前にも書いたように、今の若い人は昔の小説、古典などは読まないようだから、”ブックオフ”などの古本店には、古いけれど新品同様の本が安く投げ売りされていて、私の本棚にはそこで買いあさった本が何十冊もあり、それとは別に書店で購入した新刊本もあるから、とても死ぬまでには読み切れないほどだ。
 つまり”熟読”ではなく”積んどく”状態になってはいるが、それでも安い金額でよくここまで集められたものだと思う。そうしてしたり顔で、私はその宝の山の一冊をひもとくのだ、何やらあの「クリスマス・キャロル」のスクルージに似て。
 私が死んだ後、これらの本やレコードやCDが安く売られ処分されたとしても知ったことではない、今生きている私のそばに宝ものとしてあることだけで十分なのだ。

 その他にも、テレビ番組を録画したかなりの数のDVDやBR(ブルーレイ)がある。それらは大きく言えば、登山番組、外国旅行番組、映画、クラッシク音楽、絵画番組、古典芸能などだが、興味のない人にとってはただの燃えないゴミなのだろうが。(おやじが遺した膨大な山の写真、フィルムの片づけに困り、結局燃えるごみとして処分したという、ある人の話を前にも書いたことがある。)
 人それぞれが大事に持っているものでも、資料として貴重なものはともかく、その人が生きている時にだけ意味あるものであり、後は野となれ山となれの廃棄物でしかないのだろうし、それで良いのだ。
 私にしても、他にも写真や雑誌や資料など片づけ処分するべきものはうんざりするほどあるのだが、相変わらずのぐうたらぶりでは、いっこうにその気も起きないのだが。冒頭に書いた中野信子さんの言葉のように、まずは取り掛かるべきなのだろう。

 そういえば少し前の新聞土曜版(5月1日)に、”自分の性格、好きですか?”というアンケート調査の記事が載っていた。
 その結果は、52%と48%という相拮抗(きっこう)する数字で、回答者1600人という数字からも、半々の誤差の範囲以内というべきだろうが。
 さらに”どこが好き?”という複数回答には、”楽観的、マイペース、他人に気をつかう、まず行動に移すところ”などという答えが続いていて、”どこが嫌い?”という複数回答には、”内向的、優柔不断、面倒くさがり、悲観的”などいう言葉が並んでいた。
 確かにこうした自己分析の結果は、むしろ外国人と比べて見た時に、日本人の性格が表れるのではないかと思うけれど、一方では疑問もわいてきた。

 それは、アンケートや統計学そのものについての疑問でもある。
 つまり、すべてを0と1の配列にしてしまう、現代のデジタル数列化的な怖さである。
 はたしてそう簡単に、人間の性格を、単一の言葉として言い現わすことができるものなのか。
 例えば楽観的と答えた人はすべての状況の時に100%楽観的でいられるのか、それは状況によって100%から0%の間を行き来するものではないのか。あの音の周波数の強弱を変えるイコライザーのように、実はその周波数ごとに、波打ちうねる姿こそが、人としての性格の違いの実態ではないのかと。
 すなはち、人の性格などを、血液型の違いだけで断定してしまうことと同じで、一つの言葉だけで一元的に決めつけていいものかということだ。
 同じ楽観的だと言っても、そこには様々な状況の下での、強弱のパターンがあり、決して断定的なものにはなりえないのだし、さらに続く複数の答えにも、それぞれに意味合いが違っているはずだし。

 ちなみに、こうしたアンケートの時には、自分のどこが好き嫌いだと答えた時の、上位4つの言葉のように、いずれにも多少とも自分に当てはまるところがあるように感じられて、つい自分はそうなのだと思ってしまう。
 つまり手相見や運勢判断の類いと同じで、言われてみれば誰にでもそういうところがあるから、ついうなづいてしまうし、その中の一つだけでも、自分が80%ぐらいそうだと思っていることをたまたま指摘されれば、そのことだけで相手の言うすべてを信じてしまうことになるのだ。
 誰でもそうだが、相手の人の運命運勢など分かるはずもないということ。唯一、自分の運命運勢を決めるのは、誰かのせいでもおかげでもなく、自分の考えや行動以外に何もいないということだ。

 最後に、この一か月の間に見たテレビ番組についてもあれこれ書きたいのだが、もう長くなりすぎたので簡単に。相変わらず、「ブラタモリ」や「ポツンと一軒家」は面白いし、さらにBSでは、昔のカラヤン、バーンスタイン、クライバー、三大テノールなどの演奏会が素晴らしかったし、美しい山々を映し出した内外の山番組にも魅了された。

 さらに付け加えるべきは、Youtube にあげられていた一つの動画だ。それは”さしはらチャンネル”での、指原とフワちゃんの二人が、ファミリーレストランのデニーズで、話しながら食事するだけの15分ほどの動画だが、日常の一場面を切り取っただけの、友だち同士の楽しいドキュメンタリーになっていて、今を盛りの二人のタレントに感心してしまった。
 これは、テレビのこれから向かう一つの方向を暗示しているのか、それともこうした自由な撮影スタイルによる動画が、次第にテレビを圧倒していくきざはしになるのか。テレビを見ない若い世代が増えているといわれている中で。 
 人類が火を手に入れた時から、世界が変わっていったように、誰でもが使える小型カメラやスマホがあまねく普及して、今や映像媒体の世界が変わろうとしているのだろうか。

 もう、あっしのような年寄り世代には、係わりのねえことでござんすが・・・。
 あの中村敦夫の”木枯し紋次郎”の後ろ姿に、上条恒彦の歌った主題歌が流れ、上州の土ぼこりの風が舞う・・・。


春の宴

2021-04-06 22:44:01 | Weblog



 4月6日

 またしても、一か月近くの時を空けてしまった。
 私はちゃんと生きているし、きわめて元気に暮らしてはいるのだが、生来のぐうたらぶりがコロナ騒動と相まって、もう辺りかまわずに横溢(おういつ)していて、山に登るのはもとより、外に出るのでさえおっくうになってしまったのだ。
 ”慣れ”というものは、時により方便なもので、いかなる意味合いにも利用することができるし、併せてその弊害を受けることにもなる。
 つまり、日常が日々平穏に過ぎてゆきそれに慣れてしまえば、いざという時の変化にはついていけなくなるし、逆につらい日常が続き苦しんでいても、それに慣れてしまえば、つらい日常でもいつしか平穏な日々に見えてくる。
 人の一生とは、その繰り返しということになるのだろうか。
 あたり前のことだが、辺りを照らしていた太陽が夕方に沈んでしまえば、闇になるし、またその暗い夜もずっと続くわけではなく、”明けない夜はない”ということになるのだろう。
 
 温かい春の日が続いている。
 前回、2月の雪の九重の写真をあげたけれども、その時に書いていた通りに、その後はもう雪を降らせるような寒波は来なかった。(昔は3月いっぱいまで雪の九重を見ることができたのに。)
 毎年暖かくなっていくことは、寒さの厳しい九州の山間部に住む、この年寄りにとっては、ありがたいことだけれども、それだけに冬の雪景色が見られなくなっていくのは残念なことでもある。
 
 なにぶん、年末にはもうユスラウメの花が咲き、サザンカの花が咲き、ブンゴウメは、いつもより早く3月初めには咲きはじめ、ジンチョウゲ、ヤエツバキ、コブシと続いて、今では満開のサクラの花がもう花吹雪のように散り始めていて、そしてわが家の春の花の掉尾(とうび)を飾る、あの艶(あで)やかなツクシシャクナゲの花が明るく庭を彩っている。
 まさに花の宴(うたげ)のさ中にあるのだ。
(上の写真は、百年近い老木の幹から芽吹いて、小枝に咲いたヤマザクラの花。下の写真は、まだこれから咲く赤いツボミがある時のツクシシャクナゲの花。)

 ついこの前までは、日本の四季の中で、雪景色を見ることのできる冬が一番好きだなどとうそぶいてはいたが、歳をとってくると、目の前の生き生きとしたものに目をひかれて、春の芽吹きや花々に心奪われるようになってきたのだが、それもゆえからぬことだと思う。
 少し前までは、雪山こそわが憧れと、内地遠征登山はもとより、早春の北海道の山々の雪景色を見るためにと早めに北海道に戻り、様々な山に挑んできたのだが、最近では体力の衰えを感じていて、さらにコロナ禍も併せて、自宅周りの自然を楽しむだけになってしまったのだ。
 もっともそれでも、都会のひしめき合う市街地に住んでいるよりは、はるかにましなことなのだろうが。

 前回にも書いたことだが、今回の全世界を覆う新型コロナのパンデミック現象は、人類に大きな課題を突き付けているようにも思えるのだが、その都市過密化と世界のグローバル化という、ウィルス伝播力を拡大させる二つの大きな問題には、いまだに決定的な解決方向も見いだせずに(地方移住、在宅ワークが掛け声だけに終わらねばいいが)、今はただワクチンに頼り、嵐が過ぎ去るのを待つだけのように見えるのだが、もちろんそうした事柄についても、やがて消えゆく私たち年寄りがとやかく口出しすることではないのかもしれない。
 ものごとは時とともに流れ変化していくものであり、私たちが選べるのは、その時にどの船に乗るかだけなのだから。

 さて、私はそうした世界の思いとは遠く隔たった、山の中で暮らしているのだが、誰がどうこうしてどこがどうこうなってと望むのではなく、ひとり平穏に暮らすことだけを目的にしているから、今のところさしたる不平不満もなく、いつか変異株コロナに襲われ命を落としたとしても、もうこの年ではそれが定めだと思うことができるし(じたばたはするだろうが)、ただ今はこうして年相応の生活を送ることができていて、それだけでもありがたいことだ思っている。
 もちろん、新聞テレビで世の中の大体の動きは把握できるし、なるほどそういうことかということぐらいのことは理解しているつもりだが、年寄りにはそれくらいの情報量で十分だと思う。
 何よりも大切なことは、もう人生の残りの時間が少ないことであり、そのためには自分の好きなことを、細々と楽しんでいくことができればいいのだと思っている。
 野山歩きのひと時に心を解き放ち、自分だけの過去の記憶の糸を手繰り寄せ、それぞれの場面を繰り返し思い返しては愉しみ悔やみ、さらには最近すっかり夢中になっている日本の古典文学を読んでは、日本人としての自分の来し方に思いをはせること・・・そうして、ひとりささやかに生きているだけのことだが。

 最近、読み続けていた『新古今和歌集(上下)』(久保田淳 訳注、角川ソフィア文庫)をようやく読み終えることができた。 
 毎日寝る前に、その中の和歌十首余りを読んでは、そのていねいな訳注と合わせて読み直し、納得し考えさせられることが多々あって、それだけになかなか前に進まなかったこともあるのだが。
 それでも寝る前の30分余りの、この読書のひとときが、私の愉しみにもなっていた。
 もちろん、この和歌集もまた単純な”花鳥風月”の世界だけではなく、むしろ今も昔も変わらぬ人間の様々な感情の披歴の場であり、愛憎相半ばしてその思いを心のうちに抱えたまま、生きていくことの喜びやはかなさやが、切々と伝わってくるような和歌が多かったように思える。

 白鳳天平の奈良時代の『万葉集』から、平安時代の『古今和歌集』、そして鎌倉時代初期に編まれた『新古今和歌集』へと、日本の誇るべき和歌文学の大まかな流れを見てきて思うことは、長い間幸いにも外敵に侵略されることもなく、この孤立した島国の中で、独自の社会文化を築き上げ、その中で切磋琢磨して育んできた、濃密な人間関係と自然観照である。
 そして、それらの思いの背後にいつもあったのは、”世に背(そむ)く”こと、つまりその貴族社会から離れて世俗を捨て出家するという、切り札となる解決策を併せ持っていたことだが・・・。
 もちろんこれらの日本の古典は、私のような浅学の徒が、あれこれと口をさし挟み、偉そうに推測できるような世界ではなく、あくまでもそれらのほんの一端をかすめ読んで感じた、個人的な想いでしかないのだが。
 しかし、この年になってようやくというよりは、むしろこの年になってこそ読むことのできた、日本の古典文学の数々に感謝するばかりである。

 この『新古今和歌集』は、鎌倉時代に後鳥羽院の勅旨により、藤原定家他6人の選者によって編まれて、元久二年(1205年)には成立しているのだが、源実朝(さねとも)の暗殺(1219年)後の混乱の中で起きた、承久の乱(1221年)をへて、後鳥羽上皇は隠岐の島に流され、院はそこでも、自らが手を入れて『新古今』の隠岐本と呼ばれる異本を出している。ともに独自の歌才がある後鳥羽院と藤原定家の対立などの波乱も織り込んで、これらの歴史的背景も知っておく必要があるだろう。

 これら三大歌集の中で、『万葉集』がその数(約4500首)において、さらにはその内容において(天皇から防人さきもり、一般庶民に至るまでの階級を含んでいて、その勇壮なあるいは純朴な思いが写実的に描かれていて感動的ですらあり)、ひときわ高く抜きんでてそびえ立っていることは、誰でもが認めるところだろう。
 しかし、紀貫之(きのつらゆき)らが編纂した『古今集』(約1100首)には宮廷文化の香りを立ち昇らせるかのような優美、繊細さがあり、『新古今集』(約1900首)には定家らの唱える幽玄から有心体に至る境地に向かう技巧の粋が見られる。
 (以上の参考文献、新編国語便覧』秋山虔編 昭和52年版 中央図書)

 さらに、あの有名な正岡子規(1867~1902)の『古今集』『新古今集』批判であるが、彼の書いた有名な『歌読みにあたふる書』からその一部をあげてみよう。(ネット上の「青空文庫」より)

”・・・貫之は下手な歌読みにて『古今集』はくだらぬ集に有之候。
”・・・『古今集』以後にては『新古今』やや優れたりと相見之候。
”・・・定家といふ人は上手か下手か訳のわからぬ人にて・・・。”

 まさしく彼が舌鋒鋭く、二大歌集を批判したのは、当時の歌壇がそれらの歌集の伝統を受け継ぐ、旧派と呼ばれる人々に占められていて、それに対する批判でもあったのだろうし、『万葉集』や源実朝の『金槐(きんかい)和歌集』を称賛し、写実、写生歌論を唱える彼にとっては、技巧に偏った『古今集』『新古今集』などがどうしても許せなかったのだろう。(それだけに病床にある自分の症状をありのままにつづった、『病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)』や『仰臥漫録(ぎょうがまんろく)』(いずれもネット上での青空文庫で読むことができる)などは読むのがつらくなるとともに、あまりに平然と自分の症状を書きつづる彼の姿に、私たちも無心の観客になっていくような不思議な感覚にとらわれるのだが。)

 土曜日の新聞の特別版に、ある女性作家の随筆が載っていた。
 彼女は、2年前に同じ作家である夫を亡くしていた。
 二人は作家同士のおしどり夫婦と呼ばれていただけに、彼女の夫を亡くした喪失感は深く、その寂しさをことあるごとに書いていた。
 そして、今回の彼女の随筆を読んだのだが。
 ”若いころ私は、人は老いるにしたがっていろいろなことが楽になっていくに違いない、と思っていた。・・・。だがそれはとんでもない誤解であった。老年期と思春期の、いったいどこに違いがあろうか。・・・。老年期の落ち着きは、たぶん、ほとんどの場合、見せかけのものに過ぎず、たいていの人は思春期だった時と変わらぬ、どうにもしがたい感受性と日々、闘って生きている。・・・。”(朝日新聞土曜版より”月夜の森の梟(ふくろう)”小池真理子)

 確かに、日ごろから生活を共にしている人に先立たれることほどつらいものはなく、その喪失感は時として耐え難いものになる。しかし残された者の、人としての使命は生きることにあり、それには月日とともにしっかりと生きながらえて、つらい境遇に慣れていくことにある。十年後、彼女はその慣れの中で、自分だけの新たな領域を見つけているだろうし、その時に初めて、若い時とは違う年寄りとしての落ち着いた目で、ものごとを見るようになるのだろうが。
 問題は、時間をかけて、その人がいないことに慣れることだと思う。繰り返すが、”慣れも方便”なのだ。

 さて話が横道にそれて、読み終えたばかりの『新古今和歌集』から大きく離れてしまったが、ここで話を元に戻してみよう。
 確かに正岡子規が言うように、私のような短歌初心者から見ても、『古今』『新古今』には、技巧を尽くした感が見てとれるような歌もあり、子規の批判も半ばうなづけるのだが、第十六巻の雑歌(ぞうか)上に入るころからいくらか変化が見えてきて、第十七巻雑歌中や第十八巻の雑歌下のころからがぜん興味わいてくるようになる。
 その第十八巻の冒頭を飾るのは、讒言(ざんげん)によって九州の太宰府に左遷幽閉(ゆうへい)させられた、あの菅原道真(みちざね)の歌が12首連なり、その無念さが切々と伝わってくる。その中からの一首。

”流れ木と 立つ白波と 焼く塩と いずれかからき わたつみの底”

(前記久保田淳氏の訳によって・・・”海に漂う流木と、海の水面に立つ白波と、海水を沸かし焼いて作る塩とどれが最も塩辛いだろうか、海の底に沈んでいるわが身と比べて・・・” ) 

 他にもこの雑歌としてまとめられたものの中には、幾つも気になる歌があるのだが、際限なくなってしまうので、この『新古今集』の中でも94首と最も歌数の多い、西行(さいぎょう)法師の歌を一つだけ。

“年月を いかでわが身に 送りけむ きのうの人も きょうはなき世に”

(私なりに訳してみれば・・・”つい先日まで元気でいた人も、今日は亡くなってしまったという知らせを聞くような、この無常の世の中で、どうして私だけが長い年月を生きながらえさせてもらえたのだろうか。”)

 さてこの『新古今和歌集』は、雑歌集の後に第十九巻の神祇歌が続き、次の第二十巻の釈経歌で閉じられることになるのだが、その中から、藤原定成の娘の肥後(白河院の皇女令子内親王の女房)の歌を一つ。

「涅槃(ねはん)経を読んでいた時に、夢の中で、風が吹いて花が散り、池の氷もとけていく。そこで夜の空と歌題を出されて、夢の中で歌を返した・・・」”谷川の 流れし清く 澄みぬれば くまなき月の 影も浮かびぬ”

 訳注の解説では、散る花は涅槃に入る釈迦(しゃか)、池の氷がとけるのは衆生(しゅじょう)が目覚めたことを意味し、くまなき月の影は釈迦の教えをあらわしているとのことだが、私は単純に写生歌としてとらえてみた。
 月明かりのもと、谷あいの流れの中に小さな淵があり、そこに月がかすかに揺らめき映っている情景として。
 ”山秀水清(山秀で水清し)” これは深田久弥の昭和31年刊行の単行本の題名であるが、この『新古今集』の肥後の歌を詠んだ時に、すぐに私の脳裏に思い浮かんだ言葉である。

 ともかく若いころに、これらの抜粋歌集などを読んだ時の淡白な印象と比べて、今回三大歌集を読みなおしてみて思ったのは、それも浅学の徒でしかない自分なりに解釈したことではあるが、これらの和歌が彼らの愛憎半ばしたその時々の感情の発露の場として、あるいはひとりうちにこもって嘆き感傷にふける、生身の人間の言葉として響いてきたことである。
 長い時を経て、定型化され成立した和歌は、日本の誇るべき文芸作品であり、ある時は声高の叫びになって、またある時は声を押し殺したうめきになって、発せられた言葉による真剣な歌遊びでもあったのだと思うのだが。

 併せて同じ時期に読んだ、『藤原定家「明月記」の世界 (村井康彦 岩波新書)』についてだが、「明月記」はいかに世評高い作品とは言え、漢文で書かれた定家の日記であり、おいそれと手が出せるものではないので、そこでとりあえず解説本だけでも読んでみたいと思ったのであるが。
 しかし、その中に定家の歌はほとんど出てこなくて、当然ではあるが日記「明月記」の見事なまでの研究解説書になっていた。
 そこでは、和歌の才人であり『新古今和歌集』の編者の一人であった定家の姿というよりは、上流貴族の下辺部に位置する定家の日々の奔走苦悩ぶりが生々しく記録されていて、それと同時に定家関連の資料を調べ上げた著者の執念には敬意を払うしかなく、学者が生涯をかけて研究する成果の一端を見せつけられたような気がして、あらためて、私たちがその他大勢のディレッタント(しろうとの趣味人)に過ぎないかを思い知らされたのだ。(時代と国は違うが、同じように17世紀イギリスの役所勤めのある官吏の日常を描いた本があったことを思い出した。「ピープス氏の秘められた日記」岩波新書)

 ついでに最近読んで面白かった新書版は、あの『怖い絵』シリーズで有名な中野京子の『欲望の名画』(文春新書)であるが、これは月刊誌『文藝春秋』に連載されていたとのことだが、絵に描かれた人間の様々な欲望を、分かりやすく解き明かし解説していくスタイルは変わらずで、これまた寝る前に読むには最適な本だった。
 なお紹介された二十数点の絵のうちの三点(ほぼ同時代のジェローム、カリエール、エッグの作品)は、若き日のヨーロッパ旅行での美術館巡りや、様々な画集などでも見たことのない初めて見るものだったが、それだけに新鮮な目で見ることができたし、ともかく絵画の世界は、まだまだ広く深いのだとあらためて思い知らされたのだ。

 この1か月の間のことで、書くべきことはいろいろとあったのだが、もう十分に長くなりすぎたので、この辺りで終わりにする。
 さしあたっての今の問題は、新型コロナのワクチンを打つか打たないかだが。私の知り合いの医者夫婦は、二人そろって打たなかったとのことだが・・・。




 


晩冬から早春へ

2021-03-09 22:46:37 | Weblog



 3月9日

 今年の冬は例年と比べて、天気の良い日が多く気温も高めで、雪は三度ほど10㎝くらい降り積もったことがあったが、もう昔のように、3~40㎝も積もることはなくなってしまった。
 こうして、”地球温暖化”という聞きなれた言葉が、いつしか日常的なものになっていくのだろうか。
 さてそんな中、今年の冬はとうとう二回しか山に行かなかった。
 それは、九州では雪の日が少なく、雪山を目指しての山歩きができなかったということもあるが、昔はよく出かけて行った冬の国内遠征登山もなく、ひとえに年ごとにぐうたらになりつつある私自身のせいでもあるのだが。

 前回書いた九重山の扇ヶ鼻へ行ったのは2月初旬で、今回ここに書くのは、それから二週間後の同じ九重山への雪山ハイキングについてである。
 もう3週間も前の、2月下旬のことを書くのも、いささか時期遅れな気もするが、ただでさえ少ない今年の雪景色の写真の中で、たいしたことはないにしても、とりあえずはこの時の雪山の記録として、残しておかなければならないということなのだ。
 
 さて、その日は前日10㎝ほどの積雪があり、さらに当日も数㎝ほどうっすらと積もって、天気は回復して青空も広がりつつあったので、これは行かなければと支度して家を出た。
 山道は一応除雪されてはいるものの、ずっと圧雪一部アイスバーン状態で久しぶりの雪道になっていた。(前回は、両側に雪が残るだけで、道にほとんど雪はなかった。)
 そんな雪道をたどって九重の牧ノ戸(1330m)の駐車場に着くと、少し遅くなったこともあって、9時半でもう手前の方は満杯に近く、やっとのことで一台分の空きを見つけて停めることができた。
 みんな九州の雪山を良く知っていて、待ちかねていたんだ、この雪降った次の日を。
 登山者は、今日が平日ということもあって、半分は退職組の年寄りたちだろうが、後はコロナ休暇の職員や若者たちらしかった。

 いつものように、そうした彼らに抜かれながら、遊歩道の霧氷のトンネルの下を歩いて行き、展望台に出ていつもの三俣山を眺める。変わらないが毎回どこか違っている、その美しい姿に見あきることはない。
 さらに一登りで、沓掛山の稜線に上がる。
 眼下の牧ノ戸の駐車場の彼方には、湧蓋山(わいたさん、1500m)が雲をまとってすっくとそびえ立っている。(写真上)
 この山は、豊後森(玖珠町)から由布院に向かう国道や高速道からは、きれいなコニーデ(富士山型)に見えて、豊後富士とも呼ばれているが、ここから眺めてもその東尾根の伸びる形が素晴らしい。この山には、今までに雪のあるころとアセビ咲く春、そしてカヤトのなびく秋と三度ほど登っているが、いずれの時にも誰にも出会わなかった。草原歩きからのひと登りでその平らな山頂に立つことができて、少し離れた所にある九重の山々が見える。それは、まさに山群と呼ぶにふさわし眺めである。逆に言えば、この九重の主峰群からひとり離れてすっきりとそびえ立っていて、この九重連山の重要な、西北の砦のようにも見える。

 さてこの沓掛山の西に延びる長い稜線に上がるところで、その北面にはいつもびっしりとついた霧氷が見えるのだが、そこはいつも吹きつける風の通り道になっていて、遅くまで霧氷を見ることができる。(写真下)



 その沓掛山の細い尾根道をたどると、ほどなく山頂(1503m)に着き、いつもの縦走路を前面に配置して三俣山と星生山が見える、おなじみの光景が目の前に開ける。(前回参照) 
 これからさらに年を取って、脚が弱くなってきても、何とかここまで来ることができれば、九重山の絶景の醍醐味のひとつを味わうことはできるだろう。

 さて、その沓掛山の岩場の下りを過ぎると、後はなだらかな縦走路が続き、雪山ハイキングになる。
 広い道の両側を見ると、前回にはなかった雪による風紋の層が見えているし、これならばあの西千里浜で、風紋、シュカブラ、えびのしっぽ、菊花石などの氷雪芸術が見られるかもしれないと期待させてくれた。
 なだらかな雪の道をたどり、霧氷の林のトンネルを抜け、一登りしていつもの扇ヶ鼻分岐に着く。
 腰を下ろしてもう三度目になる一休みをとる。風はあるが、前回ほどの烈風吹きすさぶほどの強さはない。
 空はひたすらに青く、雪に覆われた山々が美しい。扇ヶ鼻の山影を後に歩きだすと、その左手にくっきりと阿蘇山も見えてきた。
 そして西千里を行く。おなじみの久住山の三角錐の姿が素晴らしいのだが、何と期待したほどの雪がなく、川の流れのように地肌さえ見えているのだ。(写真下)



 もっとも、こうした西千里浜の冬の眺めは、もうこの数年余り続いていて、これからもあの厳しい冬の雪氷芸術を見られることはあるのだろうかと心配になってくる、地球温暖化という言葉は使いたくないけれど。
 これ以上、登って行ったところで、私の今の体力からして久住山の頂に行くぐらいが関の山だしそれならば、いつものあの星生崎下(1665m)まで行って岩陰で腰を下ろして、九重核心部の山々を眺めるだけでも、この雪山ハイクの目的はかなえられるというものだ。
 星生崎下の岩場をトラヴァース気味に上がり、突き出た岬の所をたどって行くと、岬の先端の岩塊と右手の肥前ヶ城の間に、阿蘇の根子岳、高岳(1592m)をはじめとする阿蘇五岳の山々が浮かび、その後ろ遠くに九州脊梁(せきりょう)山地の大国見岳(1739m)などが見えていた。(写真下)



 今回は、ここまでで戻ることにした。
 帰りも多くの人に抜かれながら、それでも雪がまだ泥水には変わってはいなかったし、十分に霧氷も残っていて、青空の下、5時間余りの良い雪山歩きを楽しむことができた。

 思えばこれで、もうこの冬の雪山は終わりだろうが、嘆くことはない。今まで長い年月の間に、北海道や本州のいろいろな雪山を楽しんできたのだから。
 こうして、脚が衰えてきて普通の雪山には登れなくなっても、まだまだこれから先も、ロープウェイやリフトを使って、雪山を見に行くことはできるのだし。
 私の山に対する想いは、そのように続いて行くものであり、人生における様々な良し悪し経験とは別なところで、私とともに在り続けたものであり、誰でもが本能的に自分のうちに有している、生きる意志と同じようなものなのかもしれない。

 前にもここに載せたことがあるが、高校の地理の教科書の欄外にあった言葉・・・”人間は地球を母として生まれ育ったその子供である(今では批判されることの多いアメリカの地理学者センプルの言葉)”・・・それが旧約聖書の、モーゼのくだりで、目の前で岩に彫り込まれていった神の言葉であったかのように、私の胸に響いたのである。
 人の命は、自然の中で生まれ、自然とともに在り、自然を畏れ、自然の恵みを受けて、やがては自然に包まれて個は滅びてゆき、再び自然に取り込まれ同化して、また別な命が生まれて、営々と命はつながり、大きな生のくくりだけが残るものなのかもしれない。

 人が生きているがゆえの八苦、生老病死、愛別離苦、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとくく)、五陰盛苦(ごおんじょうく)にあえいだとしても、すべては通り過ぎて行ってしまうものなのだ。
 案ずることはない。

 今地球上に生きている78億人もの人も、すべて亡くなって行く運命なのだし、今まで地球上に生存したと言われている1000億人以上もの人々たちすべてが、今はもう誰もいないのだ。
 それを補うように毎日38万人もの新しい命が、世界の各地で生まれているという。
 案ずることはない。

 日々、夜になると私たちが眠りにつくように、神様はうまくしたもので、私たちに夜ごと死に向かう訓練をさせていて、ある時目覚めないまま、すべてが閉ざされ、死に向かうというだけのことだ。
 1000億もの人々がたどった道なのだ。
 案ずることはない。

 またも『新古今和歌集』(久保田淳訳注 角川ソフィア文庫)より。
 
”山里に ひとり眺めて 思うかな 世に住む人の 心強さを” (前大僧正慈円)

 次の歌はこの『新古今和歌集』の訳注に乗っていたもので、『後撰集』の読人知らずの歌一首。

”死出の山 辿(たど)る辿るも 越えななで 憂き世の中に 何帰りけむ”


 10年前の、3.11三陸大津波の特別番組の映像が連日映し出されている。
 何という自然のすさまじい勢い。
 私たち生きている者は、そのことをしっかりと見ておかなければならない。
 合掌。

 




花鳥風月の世界へ

2021-02-21 20:45:49 | Weblog



 2月21日

 またしても前回の記事より、一か月がたってしまった。
 悪癖も習慣化すれば、それがいつしか自分のルーティン(決まった手はず)になってしまう。
 まあこんなじいさんが、”馬子にも衣裳”のラガー服を着て、五郎丸選手よろしく服の前で手を合わせていたところで(高校のラグビーの試合で一度だけトライをしたことがあるが)、誰も気にしないどころか、笑われるのが関の山だろうが。

 さてそんなことより、一か月もの間自分の怠慢(たいまん)により、このブログを”開店休業ガラガラ”状態にしてしまっていたわけだが、というのも新型コロナ防止協力のために、一週間に一度、街の小さなスーパーに買い物に行き、一月に一度薬をもらいに病院に行く以外は家にいて、そこはわがままじじいの、好き勝手し放題の自分だけのキングダム(王国)であり、もともとがとても自分の仕事をコツコツこなすタイプの人間じゃないから、まあテレビ見てメシ食って屁こいて、風呂入って規則正しく寝るだけの、凡人たるゆえんの毎日だから、Youtubeにあげるようなものは何もないのだ。

 しかし”一寸の虫にも五分の魂”があるように、人間だけに及ばずすべての生きもの虫けらにさえ、当然のことながらそれぞれの考えや想いに生き方があり、それらを綴り合せていけば、唯一の価値ある自分史やファミリーヒストリーが作られることにもなるのだろう。
 だからこそ、自分だけにしかわからないものであっても、十分に記録されるに値するものなのだ。
 と、いつもの言い訳をひとくさりして、ともかく今回も書いていくことにする。


 2週間ほど前に久しぶりに、山に登ってきた。
 今シーズン初めての雪山であり、山に行くこと自体もあの秋の志高湖畔の小鹿山以来のことだから、実に2か月半ぶりのことになる。(頂きを目指さない山麓トレッキングの長距離散歩は別として。)
 行く先は、いつものように年寄りにやさしい九重山である。
 朝、家の周りにはうっすらと雪が積もっているぐらいだけだったから、これではあまり山での雪山景色をたんのうすることはできないだろうとは思っていたのだが。つまり、冬の九重に行くには、雪が少し多めに降って、北西の風が吹きつけている時こそ、内地並みの厳しい冬山登山ができるのだが、これぐらいだと、雪山ハイキングにしかならないだろう。
 思えば、その2週間前の1月初め、家の水道管が凍りついた時、あの最強寒波襲来の時に行けばよかったのだが、もちろん水道管解凍作業でそれどころではなく、行く時を逃してしまったのだ。

 雪の解けた道をクルマで走って、牧ノ戸峠(1330m)に9時ごろ着いて歩き出す。駐車場は十分に空いていたし、登山者も離れて二三組という感じで、気にならないほどだった。
 雪は、10㎝足らずで歩きやすく、周りの灌木は細いながらも霧氷に覆われていて、展望台から眺める青空の下のいつもの三俣山(1745m)が素晴らしかった。もう何十回となく繰り返し見ている雪の姿だが見飽きることはない。
 山のありがたさは、同じ山の姿を何度見ても、決して飽きることはないことだ。
 ”港々に女在り”、”来る冬ごとに山がある”ってかー。
 しかし、久しぶりの年寄りの山登りだから、遊歩道の途中で何度か立ち止まり休んで、ようやく沓掛山前峰にたどり着いて、そこからは霧氷の尾根歩きを経て、先にある沓掛山頂(1503m)からはおなじみの縦走路と三俣山の光景を楽しむことができた。(写真上)
 そこから続くゆるやかな雪の尾根道は、雪山ハイキングにふさわしい舞台で、風も弱く歩きやすかったが、南側斜面の雪は半ば溶けていて、さらには風の通り道にあるはずの、風紋やシュカブラ等の雪模様もできていなかった。 
 分岐からは、一番手短に登れる扇ヶ鼻(1698m)に向かうことにする。少し急になった登りから溶岩台地に上がると、急に猛烈な風が吹きつけてきて、そこには冬山の厳しさが残っていた。
 しかし、眼前に広がるミヤマキリシマの台地から眺める、祖母・傾連山の姿は素晴らしかった。(写真下)



 この眺めを期待して登ってきただけに、今日は、もうこれだけで十分だとも思った。
 もし、一年を通して、九重の山々のベスト・ショットを何枚か選ぶとすれば、この扇ヶ鼻からのミマキリシマ群落を前景にした、祖母・傾連峰の山々という眺めの写真を必ず選ぶことだろうし、それも冬か春かつまり雪か花かで迷うところだろうが・・・。
 ともかく、扇ヶ鼻の山頂にまでは行っておこうと、強い風の中をゆるやかに登って行く。
 下の写真は、東の肩から眺めた扇ヶ鼻山頂部であり、頂上部に大きな岩塊があり、乳首山とも呼ばれる東北の安達太良山(あだたらやま)山頂部によく似ている。なお左手に見えているのは、阿蘇山高岳(1592m)であり、左端には雲に洗われる根子岳がかろうじて見えている。



 風が弱い時には、頂上の先のほうまで行って、のんびりと周囲の展望を楽しむことができるのだが、この風ではとあきらめて早々に下ることにした。
 そして分岐にまで戻って来て、そこからすぐ近くの、あのアルペン的な姿をした久住山(1787m)の見える西千里浜まで行こうかとも思ったが、この風のうえに風紋などもあまり期待できないだろうからとあきらめることにした。
 稜線から下りてきた縦走路の風は弱く、気温も高いのだろう、所々でもう雪が溶けてぬかるみになっていた。
 九重の雪山は、天気図で冬型の気圧配置になり、寒気が流れ込んできて雪の多い時を選ばないと、雪解けの泥水の中を歩くことになってしまうのだ。
 行きも帰りもほとんどの人に追い抜かれて、往復3時間ぐらいのところを5時間もかけて歩いてきたが、まあその分、しっかりと雪山の眺めを楽しむことができたし、年寄りにはちょうど良い雪山歩きの半日だったといえるだろう。

 さてそんなふうにして、山にはたまにしか行かないし、コロナ禍の中、時間はいっぱいあるから、今まで録画しておいたテレビ番組をあれこれと、その中でも山の番組を多く見た。
 例の”日本三百名山一筆書き登山”の田中陽希君の番組については、確かに驚嘆するに値する行動力だとは思うけれども、彼の登山というものが、私の山に親しむ向き合い方とは大きく異なっていて、自らをプロレーサーと名乗っているように、この番組では競技者として彼の姿がメインテーマであり、山の景観や情感はその過程の中で見られるものでしかないのが残念である。
 近ごろ流行りの登山競技記録としてのトレイルランは、まさにスポーツとしての登山を前面に押し出したものであり、そこでは山の持つ親和性が多分に損なわれてしまうことになると思うのだが。
 さらにこの番組で気になるのは、例えば一人で登るとは言っても、実は常に彼を写す数人の撮影クルーがいて(その中にはあの有名なクライマーの平出カメラマンもいて)、もちろん危険に対する備えとしてもその方が望ましいのだが、ただしそれでは単独行といえないし、彼の方でも、いつも前後にいる仲間のカメラマンたちのことを意識して登らなければならないから、気楽な独り歩きにはならないだろう。
 もちろん、登山そのものが、スポーツからレクレーション、研究探査から娯楽まで、万人向けの振れ幅が広く、最近の山登りは、そうしたトレイルランやドローンを含めての何でもありの世界になっているといえるのだが。

 しかし、そこは割り切って、日本の様々な山々を案内してくれる番組だと思えば、他に類を見ない体系的な三百名山案内番組になっていて、山好きにはありがたい番組なのだ。私も、名前は知っていても登っていない山が数多くあり、この年になっても登りたいと思うほどだ。
 中でもこの番組の東北編の一つで、話には聞いていたあの西吾妻山(2035m)の樹氷を見ることができて、それは、蔵王、八甲田の樹氷群の姿をほうふつとさせるものだったし、まだ若くて元気なころだったら、ぜひ冬に行ってみたいと思うほどの雪氷芸術だった。
 さらには10年程前に、飯豊連峰を縦走した時に、杁差岳(えぶりさしだけ、1636m)から見えていたすぐそばの二王子岳(1420m)と、離れて遠く見えていた守門岳(すもん岳、1537m)と浅草岳(1585m)にも、この番組を見てさらに行きたいと思った。

 もちろんそれはもうかなわない夢になるけれども、人は誰でも自分の人生の中で、望む物事がすべてかなうことなどありえないのだから、運よく実行できたものが半分もあればそれで良しとすべきなのだ。
 こうして、日本にある様々な名山のすべてには登れなかったが、地域限定で北海道の山々に集中して登った時期があり、特に日高山脈の多くの頂きに、晴れた日にひとりで立つことができたのは幸せなことだった。
 そう考えてくれば、世界の屋根たるヒマラヤの峰々を見ることができなかったのは残念だけれど、ヨーロッパ旅行の際に、快晴のヨーロッパアルプスで過ごした10日間は、まさに天が与えてくれた幸運のひと時だったし、国内でも噴火前の木曾御嶽に登れたし、屋久島宮之浦岳にも富士山にも白山にも、そして樹氷の蔵王・八甲田、紅葉の栗駒・焼石などなど、思えばすべてコロナ禍前に晴天の日を選んで行くことができて、自分の運の良さを思わないわけにはいかない。

 それだから、私の人生の中で足りないものが数多くあったとしても、気にすることはないし、後悔することもないのだ。
 なぜなら、私は今まで味わってきた数多くの不幸な出来事に、十分に見合うだけの、数多くの僥倖(ぎょうこう)とでも呼べるべき、幸福なひと時を得てきたのだから・・・と、ともかく自分に言い聞かせればいいのだ。いい人生だったと。
 不幸な出来事だけを引きずって生きていくくらいなら、一つだけの幸福を思い出にして生きていったほうがましだ。

 7年ほど前に、NHK・Eテレの”100分で名著”シリーズの新年の特別編として、「幸せについて考えよう」という座談会があって、経済学者や哲学者や心理学者が、自分の専門分野の切り口から、幸せの意義を説いていて、それぞれに納得できるものだったのだが、ただ一人文学の分野から参加していた作家の島田雅彦氏は、井原西鶴の『好色一代男』『好色一代女』を引き合いに出して、”幸せとは、断念ののちの悟りである”としたのだが、他の三氏の社会科学的な定義づけと比べると、あまりにも情感的で恣意(しい)的な思いを感じないわけにはいかなかった。
 それがある時、ふとその言葉を思い出して、なるほどそういうことだったのかと感じ入ってしまったのだ。
 つまり、その時私は断念という言葉に、投げやりな問題解決法のにおいを感じ取って、そこには、むしろ脆弱(ぜいじゃく)な意志があるからではないのかと思ったからである。
 もちろんこの時の座談会の、テキストブックを読み返せばわかることなのだが、つまり、”・・・自分は今不幸のどん底にいると思う人は、明日からはそれ以上落ちることはなく上がる一方だと、考え直すことができる。考え方の転換点は、長い人生の要所要所で個々人に訪れます。何かを一度断念し、それで考えを変えて、次に向かう・・・。”と、彼は言っていたのだ。
(『別冊NHK100分で名著』「幸せ」について考えよう NHK出版)

 ただ私はそこに付け加えるに、あきらめて方向を変えるにしても、それは失敗しての断念だとは思いたくはない。それもその時は、全力を傾注して挑むにふさわしい一つの道であったのだし、次なるものを生み出すための経験であったのだと思いたいのだ。

 前にも似たようなことを書いたことがあるが、子供のころ聞いた歌の歌詞を間違えて憶えていて、大きくなって正しい歌詞に気がつくことがよくあるが、例えば童謡の「ふるさと」の”ウサギおいしかの山”を、”鹿野山のウサギをつかまえて食べるとおいしい”と理解していたし、もう一つあげれば、「船頭さん」(武内俊子作詞、河村光陽作曲)という戦前の童謡があったが、もちろん私は生まれていなくて後になって聞いた歌だが。
 ”村の渡しの船頭さんは 今年六十のお爺さん 年を取ってもお舟を漕ぐときは 元気いっぱい櫓(ろ)がしなる それ  ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ”
 という歌詞なのだが、子供の私には、”櫓がしなる”という言葉づかいがよくわからず、”櫓がす”という動詞があって、ていねい語風に”櫓がしなさる”といっているのだと思っていた。
 が、高校生ぐらいになって初めて、”櫓が撓(しな)る”という意味だと知って、まさに赤面ものだったことを憶えている。
 ことほどさように、私たちの日常の言葉のやり取りを含めて、人と人との意思疎通には、いつも小さな誤解を含んでいるものなのかも知れない。

 それは確かな記録として残されたもの、古典作品においてさえ、一つの言葉をどう理解するかで、作者の意図そのものさえ変わってしまうことになるのだが、結局は今の時代に生きる私たちが、普遍的な世界の心情を信じて、自分なりに読み解いていくしかないのかもしれない。そこには必ず、時代を超えて変わらない心根や想いがあるはずだと。
 私が古典作品にひかれるのは、今の時代では数少なくなった、燃ゆる思いを内に秘めて、花鳥風月の世界に仮託する想いが、奥ゆかしくまたいじらしくさえ思えるからである。

 相変わらず、『新古今和歌集』を読んでいるのだが、この久保田淳訳注は懇切丁寧(こんせつていねい)に説明してあり、それぞれの歌はともかく訳注を合わせ読むことで、『万葉集』や『古今和歌集』に戻って調べなおしたりするものだから、時間がかかるのだが、それが楽しくもあるのだ。
 そこで、今回は昔の童謡をあげたついでに、昭和歌謡の『影を慕いて』を取り上げてみたいと思うが、この歌については3年ほど前に歌そのものの評価として取り上げているので、それを参照のこと(2018年3月19日の項)。
 この『影を慕いて』は、その前に『古今和歌集』を読んでいた時にも思ったのだが、今『新古今和歌集』を読んでいて、そこに『古今和歌集』への脚注がついていて『影を慕いて』のことを思い出したのだ。

 まず、『古今和歌集』の読人知らずの歌から。
 ”恋すれば わが身は影と なりにけり さりとて人に 添わぬものゆえ”

(訳すれば: 私は恋にやつれてやせ細ってしまったが、かといって影法師のようにあなたに添うこともできない。)

 次に『新古今和歌集』の西行法師の歌。
 ”ふけにける 我が身の影を 思う間に はるかに月の かたぶきにける”

(訳すれば:すっかり細くなって老け込んだ自分の姿を思ううちに、夜も更けてゆき、遥か彼方に月はかたむいていた。)

 『影を慕いて(1932年)』の作詞作曲者である古賀政男はもちろん、これらの和歌を知っていただろうし、それに着想を得て作り上げたこの歌曲は、絶唱とでも呼びたいほどの昭和歌謡の名曲ではある。
 この歌は、現代演歌歌手たちのコブシを聞かせた歌などでは聞きたくない。
 あの、ビブラートをつけずに、淡々とテノールの声で歌い上げる、藤山一郎の歌声こそがふさわしいからだ。


 今日は何と、気温が17℃くらいまで上がり、春を思わせる暖かさだった。
 その三日前、おそらくはこの冬最後の寒波が西日本の上空を襲い、10㎝あまりの雪が積もって、私は喜び勇んで山に行ってきたのだが・・・。
 次回は、なるべく早いうちに、その雪山について書きたいと思う。

(参照文献:『古今和歌集』佐伯梅友校註 岩波文庫、『新古今和歌集』久保田淳訳注 角川ソフィア文庫)


今日にあわましものか

2021-01-20 22:06:26 | Weblog



 1月20日

 またもや、1か月の間が空いてしまった。
 何をか言わんや。 
 ぐうたらが習慣化すると、それが常態化され新たな日常となる。
 かくして、人は己の不始末をなかったごときにもみ消して、どこ吹く風で、いままでの続きのごとくに、今日からの新しいノートの1ページ目を開くのだ。
 もちろん私は、若いころから、駄文であるにせよ文章を書くことは嫌いではなかったし、むしろ自分の思いを託して書き連ねていくことが、ある種の心のうさのはらしどころになっていたのではあるのだが。

 今はというと、こうして書いているのは、年寄りのずるがしこさを内懐(ふところ)に持っての、まあ何というか体裁をつけて言えば、自分の知的修養のために、悪く言えば年寄りのボケ防止用に、認知症予防にと企(たく)らんでいるところの、”問わず語り”ではありますが。
 まずは、あのじいさんはどうしているだろうかと、このブログを開いて見てくれている辛抱強い皆様方に感謝いたします。
 こうしてブログに掲載して誰かが読んでくれていると思うと、やはりいい加減なことは書けなくなるし、第三者の厳しい目があることこそが、自分への戒めとなるからでもあります。
 と書いてくると、何やら儀式めいた訣別の時が近づいているからのような気もするが、なあに長時間欠席の苦し紛れの言い訳のあいさつではあります。

 さて去年の暮れから、新年を迎えて今に至るまで、毎日は同じように過ぎていき、一週間に一度の食品等の買い出しの他は、おとなしく家にいて、一月に二三回は往復二時間ほどの山の坂道歩きをして、夕焼けの時には集落外れの見晴らしの良い所まで、片道10分くらいの散歩に出かけるくらいで、十分に”不要不急”な外出を控えていることになるのだろう。
 といえば聞こえはいいが、元来”引きこもり老人”の気がある私には、山の中の小さな集落に住んでいても、食料に本にテレビとパソコンに音楽CDがあれば、何か月でも十分に心地よく暮らしていけるし、それは、新型コロナ対策というお上の指示に従ってというわけでもないのだが。

 それにしても、一年前にはこれほどまでになると誰も想像できなかった新型感染症が、こうして全世界に広がるさまを見て、前にも書いたように、私は何の宗教にも帰依(きえ)してはいないが、そこには何かしらの大きな神の意志、つまり地球や自然の意志といったものが働いていて、人間に強く反省をうながし示唆(しさ)しているようにも思えるのだが。
 というのも、人類が科学の発展とともに築き上げてきた世界が、実は危うい生身の体である人間の寄せ集めからなっていたにすぎないことを、私たちに見せつけてくれているように思えるからだ。
 それは、歯止めのきかない都市集中化、全世界に商圏が広がり増え続けるグローバル化の波、とどまるところを知らない高齢化社会などへの、アンチテーゼ(反対理論)として響いてはこないだろうか。
 ほどほどの発展の中だったら、神様も見過ごしてくれただろうに。
 
 もちろんこれは、思えば6千数百万年前の地質時代に、あの恐竜が絶滅し他の多くの生きものたちも犠牲になった、大隕石落下ほどの出来事にはならないだろうし、人間史上最悪といわれた過去の疫病、ペストやスペイン風邪でさえしのいできたのだから、それと比べればこのコロナ禍は、時間がかかるにしろ、やがては今の現代医学の力で収束されることになるのだろうが、いっぽうで心の傷痕は残り続け、人間のDNAとして受け継がれていくことにもなるだろう。
 もう、そんな先まで私たち年寄りは生きてはいないし、これから先のことには年寄りは口出しをせずに、君たちの時代である若い人たちが決めて行けばいいだけの話だ。

 さて、去年の暮れ、そして今年の初めにと強い寒波が襲ってきて、雪が15㎝ほど積もり(写真上:隣の家との間に段差があり、そこに吹き寄せられた雪が山で見るような雪庇(せっぴ)を作っていたし、最低気温も-8℃まで下がり、日中もマイナスのままで真冬日になってしまった。
 ところが寒波襲来の二日目に、ついうっかり水を出すのを忘れていて(凍結防止のために一日3,4回少し水を流すことにしているのだが。北海道なら家の中の蛇口のそばに凍結防止のための止水栓があるのだが)、お湯管を凍らせてしまった。
 もともと地下から立ち上げている、吹きさらしの所だから、ウレタンテープを巻いた上に保温パイプなどで保護していたのだが、-8℃で風が吹きつけていれば-10℃以下になっていただろうし、凍結したのも仕方ないことだ。

 それに気づいたのが夕方で、その日はまだ風が吹きつけていて寒くてあきらめ、次の日になって、まず家の内側の蛇口にタオルを巻いてお湯をかけてみたがダメで、次に外側の保温パイプなどを取りはずして鉛管を少しだけ露出させて、そこにお湯をかけて見たがやはりダメで、その日もあきらめて、その部分に3枚ものカイロを貼った古着を巻いて、それ以上凍らないように応急手当てをしておいた。
 翌日、気温も上がり風も弱まっていたし、今日は一日かけても何とかせねばと、まず家の内側の蛇口に、昨日と同じようにお湯をかけてみたがダメで、次に外に出て、曲がった鉛管部分を含めての上部をすっかりむき出しにして、タオルを巻いてその上から何度もお湯をかけてみたが、やはりダメであきらめ半分になり、ともかく昼になってしまったので、いつものラーメンを作って食べテレビ・ニュースを見た後、風呂場から音がするので行ってみると、蛇口から水が勢いよく流れている。万歳!
 こういう時、日本人はどうしても万歳と叫びたくなるのだ。
 その日の夜、二日間入れなかった風呂にいい気分で浸かることができた。ああ極楽、極楽! 
 風呂が大好きで、毎日でも入りたい私にとって、何ともかけがえのない喜びだった。

 そこで考えてみた。
 誰でも、想定外の悪い出来事が起きた時は、その困難な問題を何とか解決すべくいろいろと対処するから、それが解決すれば、今までの鬱積(うっせき)された不安が一気に喜びに代わり、感情が爆発するのだろう。
 それは、毎日蛇口をひねって水やお湯が出ていたことを当たり前だと思っていた時には、とても考えられないものだった。”君子豹変(ひょうへん)す。”

 今までで、もっともありがたかった風呂は、もうずいぶん昔のことだが、南アルプスの主稜線を北岳から聖岳(ひじりだけ)まで、雨での停滞2日を含めて8日間もかけて縦走した時に、最後の日に聖岳から便(たより)ガ島に下りて、歩けば数時間かかるところを(ヒッチハイクするつもりではいたのだが)運よくすぐに村の公用車に乗せてもらい、その南信濃村の宿を紹介されて、そこで8日ぶりに入った風呂の、身に染みる心地よさが忘れられない。

 南アルプスといえば、去年暮れにBSフジの再放送テレビ番組で、山のツアーガイドや山岳パトロール隊員や森林調査員などをやっている20代後半ぐらいの山好きな仲間の3人が、南アルプスの悪沢岳(わるさわだけ)から聖岳までをテント泊縦走する番組があって、好天気が続く中(天気がいいのが一番)、まわりの山々の展望をじっくりと映し出しながら、3人の若者たちの仕事や山に対する想いなどの部分も入れて、登る人たちの心模様などを織り込みながら、あらためて登山することの意味を考えさせられるドキュメンタリー番組になっていた。(もともと山の番組はすべてドキュメンタリーなのだが。)

 もちろん、あのNHK・BSの「にっぽん百名山」などの山のガイド番組は、山案内として他にない有意義なものであり、例えば先日放送された、秋の中央アルプス空木(うつぎ)岳への、檜尾(ひのきお)尾根からの周遊コースは、実に見ごたえのある素晴らしい眺めが続き、テレビでも十分に楽しむことができたのだが。 
 というのも、私もその昔、夏に木曽駒ヶ岳から縦走して空木岳にも登っているのだが、その時、頂上はガスに包まれていて十分な展望が得られずに、私としては登ってない山と同じことなのだが、もうこの年ではあきらめざるを得ないし、そう思って見ていただけに、当時の他の思い出と併せて感慨ひとしおだったのだ。

 そこで話を、その南アルプス縦走の若者たちの話に戻して、自分の立場で思い返してみると。
 思えば彼らの年齢のころ、私は東京で出版編集社に勤めていて、一月残業200時間を超える時があったくらいで、今では考えられないほどの仕事に携わっていたのだが。
 もちろんそれは、音楽や映画という私の好きなジャンルが担当であったからできた仕事なのだが、ついにある日それも限界にきて、それまでに何度か訪れたことのある、北海道の風景が、山々の姿が頭の中いっぱいに広がってきたのだ。
 私は仕事を辞めて、北海道に移り住むことにした。
 もう、40代の年齢が目の前に見えはじめたころだ。
 その後のことについて、苦楽併せて書くべきことはいくらでもあるが、つまり平穏な老後を送る今では、すべての物事がここに至るまでのマイルストーン(里程標)としての羅列でしかないように思われてきた。
 大切なのは、今という時ではないのかと。

 今日は、それまでの寒さもゆるんできて、快晴の空の下、春先を思わせる日差しが降り注いでいる。
 朝の気温は-5℃近くまで下がり冷え込んだが、日中は10℃くらいにまで上がっていた。
 そういえば、去年の12月は暖かい日が多く、いつもなら早くても1月末に咲き始めるユスラウメの花が、もう年末に咲いていた。(写真下12月30日)



 しかしその後、上に書いたように水道管が凍結するほどの寒波が来たのだが、その寒さを乗り越えて、残りのツボミが再び開き始めたのだ。なんという我慢強い生きる力だろう。

 洗濯物を干し終わり、ゆり椅子に座り、目を閉じていると、遠くでイカルの鳴く声が聞こえてきた。
 春が来たとでも思ったのだろうか・・・ああ神様、もし私が天国に逝(い)けるとするならば、こんな穏やかな日差しの中で、揺り椅子に腰を下ろし、いつしか意識が遠のいていって、先に逝っていたミャオに導かれて、母の待つ天国へ逝けるようにしてください(フランシス・ジャムの詩のように)。

 しかし、今がその時ではない。
 欲深い私には、まだまだやるべきことが幾つも残っているのだ。
 私には、まだ這いつくばってでも登りたい山が幾つかあり、その一つや二つにはと思っているのだが・・・。
 さらに私には、今読んでいる日本の古典文学の続きがあり、まだ数多くが残されていて、一冊でも多くと・・・。
 さらにはもっと音楽を、絵画を、映画を、写真をと・・・。

 つまり死というものを、上にあげたジャム的な宗教的な天国観からは遠く隔たった、生物的な死ととらえるならば、確かに、伊藤栄樹元検事総長の言った有名な言葉、”人は死ねばゴミになる”(小学館文庫)という即物的な表現が正しいのだろうし、そうだとすれば、死は人間の感覚、思考、行動、記憶などすべての遮断(しゃだん)であり、あとは腐食し滅びゆく肉体だけが残るということになり、一瞬のうちに明から暗への幕引きが行われるということだろう。
 ただ、その死の時も、あのキューブラー・ロス(「死ぬ瞬間」中公文庫)や立花隆(「臨死体験」文春文庫)の著作で語られているように、死の痛みを消し去るホルモンが分泌されて、後はトンネルを抜けて天国に向かう明るい花園への幻想の道筋があるだけで、怖れることなど何もないのだ。
 それゆえに、むしろ大切なことは、死を考え恐れることではなく、生ある今を生きることであり、それは自分の感覚を愉(たの)しみ、思考を愉しみ、行動を愉しみ、記憶を愉しむことにあるのではないのだろうか。もちろん今の社会に住むうえでの規範は守りながらということだが。

 ここで、何度も上げたことのある『養生訓(ようじょうくん)』からの言葉を一つ。

”年老いては、わが心の楽しみの外、万端、心にさしはさむべからず。時にしたがい、自ら楽しむべし。自ら楽しむは、世俗の楽しみに非ず。只、心にもとよりある楽を楽しみ、胸中に一物・一事の煩いなく、天地四時、山川の好景、草木の欣栄(きんえい)、これまた楽しむべし。

(『養生訓』貝原益軒著 石川謙校訂 岩波文庫)

 さらに「古今和歌集」(佐伯梅友校註 岩波文庫)からの歌を一つ。

”老いぬとて などかわが身を せめぎけん 老いずは 今日に あわましものか”  としゆきの朝臣(あそん)

(自分なりに訳すれば:殿上人の仲間たちとともに、御酒をいただき管弦の遊びに打ち興じて、一首作ってみた・・・これまで年取ったと嘆くことが多かったが、思えば、歳をとらなければ今日のような楽しい時には会えなかったのだ。)


「天国は待ってくれる」か

2020-12-21 21:56:49 | Weblog



 12月21日 
 
 何とも言い訳のつかないほどに、またしてもこのブログ記事の間隔を空けてしまった。
 前回からはもう3週間もたっていて、もはや今では自分の怠慢(たいまん)さによって、このブログ記事は、記録として残すべき日記補完の体(てい)をなさなくなっていて、今では断片を集めた備忘録でしかないのだが。それでもよろよろと立ち上がり、拙(つたな)き文章を書き連ねるのは、思えばそれが自分が生きていることの、一つの形として、かそけき風の音のように響いてくるからである。ひとつ、ふたーつ、みぃーつ・・・。

 前回に書いたのは、もう一か月以上たってからの鶴見岳登山記録であり、その2週間後には、同じ山系にある志高湖小鹿山(おじかやま、728m)への、秋のハイキングを楽しんできた。
 この山には、春にも登っていて(4月13日の項参照)、観光地で有名な志高湖のそばにありながら、登山者の少ないその静かなたたずまいが気に入って、紅葉の時期にも歩いてみることにしたのだ。
 それでもさすがに、この時期の志高湖岸は人気のキャンプサイトとして幾つものテントが張られていて、多くの人でにぎわっていた。
 整備された園地には、植えこまれているモミジの樹々の紅葉が今を盛りにときれいだった。(写真上)

 湖岸をめぐる道から離れて、左に山側に入って行く。ゆるやかな登りの道が続く。
 林の中の、枯葉の散り敷いた道を、ひとり小さな足音を立てながら歩いて行く。
 時々立ち止まると、再び静寂の林に戻り、遠くで鳥の声が聞こえていた。(写真下)



 やがて、広い幅を取った防火線のある尾根に出て、しばらく行くと最後に急な斜面が二か所出てくる。
 息を切らしてたどり着いた山頂からは、別府市街地と海、それに国東(くにさき)半島が見えるだけで、そばにある由布岳鶴見岳はもとより九重山群の姿さえもが、木立ちに囲まれていて見えないのが残念であった。
 前回は来た道を戻ったのだが、今回は初めての東側の急斜面の道をおそるおそる下り、青少年センターに出て、そこから車の通れる道を歩いて、神楽女湖(かぐらめこ)から志高湖に戻った。
 その日は雲の多い一日だったが、最後に日がいっぱいに差してきて、園内の今が盛りのケヤキやコナラなどの黄葉が青空に映えていた。(写真下)



 結局その日は、その2時間ほどのハイキングだけだったが、年寄りの山歩きにはほど良い時間だった。
 もちろんその後も、山には登らなくとも、ひと月に2回ぐらいは、わが家から行ける2時間ほどの山麓歩きのトレッキングを楽しんでいる。
 それは健康を考えての運動というのではなく、ただ山野を歩きたくなるというだけのことなのだが。
 というのも、自分のいかつい風貌(ふうぼう)と体つきを考えてみれば、遠い祖先から受け継いできた野生の血が騒ぐということなのかもしれない。
 ”おまえの先祖はクマか、イノシシか”と言われれば、あながち否定できない私がいるのだが。
 そのクマさんも、今ではすっかり年を取ってクマじいになってしまった。
 これからは、このブログで高い山に登ってきたことなどは書けなくなるだろう。昔は登ったという炉辺話(ろへんばなし)だけで。
 それでいい、自分の人生、年相応に生きて行けばいいだけの話だ。

 上にあげた、春にトレッキングで登った山の話のところで、コロナ禍についても少し触れているが、それは、今も状況は変わらずというどころか、さらにひどくなっているようだし、より強い感染力を持った新しい変異種が見つかったとのニュースも流れている。
 それなのに一方では、株価高騰に沸いている金融界の話など、まるで末世の阿鼻叫喚(あびきょうかん)の世界に至る、狂乱社会の混迷ぶりさえもを思わせる。
 こうした疫病の蔓延(まんえん)は、当時も書いていたように、分をわきまえずに利益だけをむさぼっては、自分たちだけを進化させようとする、人類に対しての”神の怒り”と考えられなくもないのだが。
 ただ今にしてみれば、私たち年寄りは平和ないい時代に生きてきたと思うし、苦い経験を味わう時があったにせよ、多くのありがたくも楽しい時間を過ごさせてもらったような気がする。

 もっともよく見れば、それらもすべては、幸不幸ともに半分半分の法則の中にあるものだろうが。
 ものは考えようなのだ。
 自分だけがなぜにと、他人をうらやみ自分の不幸を嘆いたところで、ただ自分が惨めになるだけで、何も状況は変わらない。
 つまり事実は事実としてそこにあるだけのことで、誰かの人や物のせいではなく、それを受け取る側の考え方の問題でしかないのだ。
 そうなのだ。自分が今ある不幸をすべて背負っているように考えるよりは、実はその裏に今まで同じくらいの幸運があったのだと気づいたり、あるいはこれからその分の幸運が来るはずだと考えたほうが、これから生きて行くうえでは大事なことなのだと思う。
 さらには、今幸せだと思っていても、実はその後ろに大きな不幸があるかもしれないと身構えていたほうが、実際に遭遇した時の衝撃は少なくなるだろうし。すべてはプラス・マイナスが同じようになっていくのだ。

 少し離れた時代の哲学の話になるが、古代ギリシア時代に一世を風靡(ふうび)した、エピクロス学派の唱えた、”快楽を求める”こととは、もちろん単純な本能的快楽主義を意味したわけではなく、精神の平穏さを求めるためのものであり、ものの考え方として、自己訓練としての心地よき精神状態への追及だったのだと理解できる。
 他方、そのエピクロス学派とは対極の考え方として知られる、あのストア学派の、ストイックな自己節制から得られる、平穏な生き方は、その底辺で、実は同じ心の安定さを求める生き方につながっていると思うのだが。
 ただ付け加えるとすれば、これらの思想は、若い人たちに教え諭(さと)すものではなくて、あくまでも様々な体験をしてこれから老境に差しかかろうとしている人たちにこそ、聞いてほしかったことなのだろう。
 つまり逆に言えば、いつの世にも地位に金に執着する年寄りたちがいるからこその、彼らへの諫言(かんげん)でもあり、穏やかな余生への提言でもあったのだろう。

 さていつものように、少しわけのわからない世迷いごとなどを長々と書いてしまったが、とりあえずは、このところのテレビなどで見知ったことについて、いくつかの感想を書いておくことにする。
 まずは、NHKのドキュメンタリー番組「目撃!にっぽん”」の再放送から、林業が盛んな奈良県は吉野地方に住む、44歳になる”空師(そらし)”の話であるが、彼は父親の跡を継いで、今では一流の空師になり、地域にとってはなくてはならない存在になっている。
 空師とは、伐採作業車やクレーン車が入れない、山奥やあるいは市街地などで、高い木の枝切りや伐採などを請け負うチェーンソー作業者であり、特殊技能者としても登録されていて、外国にも同じ技術者がいて、たとえばイギリスなどでもArborist(アルボリスト)と呼ばれていて、その技術は高く評価されているが、危険な作業であり、毎年数人の死者が出ているとのことである。

 まずその一つの作業現場として、樹齢200年高さ30mといわれるトチノキを伐採するところが映し出されて、彼はスパイク靴をはき、胴綱と呼ばれるロープや命綱のザイルなどを使って、クライマーのように自分の身を確保して、そこで木を登って行き、上部の枝はらいをして、必要な大きさに上から順に切っていく。
 私も、北海道の自分の家に続く林の中で、毎年傾いたりしたカラマツの木の伐採をしていて、それでも周りの木に倒れかかり苦労するのだが、あんな高所で大型のチェーンソーをよく使えるものだと感心することしきりだった。
 さらには、彼は山の中で一本の木を倒す時は、その倒す方向を見極めて、その途中にある他の幼木を巻き込み倒さないように気をつけているとのことで、それはせっかく伸びてきた若木を倒したくないからだと言っていた。
 その思いは私も同じで、自分の家の林をカラマツとの混交林にしたいために、伐採時には、なるべく他の広葉樹などを巻き込まないように、気をつかっていて、同じように考えている人にうれしくなってしまった。
 普通に皆伐(かいばつ)を繰り返す伐採地では、そんなことなど気にせずに順に切り倒していけばいいだけの話しなのだが。

 ともかく35分余りのその番組を、食い入るように見続けたのだが、興味のない人には見る気にもならない話なのだろうし、林業や伐採作業に関心のある人たちだけの、いわゆるマニア向けの番組だったとは思うのだが。
(さらに余分なことを付け加えれば、上にあげたイギリスでのArboristという名前の起源をたどれば、バルト三国の一つであるエストニア人の現代音楽の作曲家、アルボ・ペルト(Arbo Pärt)のArboという名前と彼の作品に”ARBOS"(ラテン語で樹木)というアルバムがあることで、木とのつながりが感じられる。)

 次に先日NHK・Eテレで放送された”ベートーヴェン生誕250年記念演奏会”からであるが、私たちの世代ならば若い時代から知っている、今や巨匠と呼ばれる演奏家たちによる演奏会であり、まずはブロムシュテット指揮、アルゲリッチによるピアノ協奏曲第1番で、第2楽章ラルゴのアルゲリッチの深いリリシズムに思わず聴き入ってしまった。
 次にピアノ、ヴァイオリン、チェロによる三重協奏協曲で、バレンボイム、ムッターにヨーヨー・マ・という夢の組み合わせで、何と40年前に同じ顔触れで録音されている。しかし何といっても超豪華という点では、カラヤン指揮によるリヒテル、オイストラフ、ロストロポーヴィチのレコード史に残る組み合わせが忘れられない。
 最後には、最後期のピアノ・ソナタの31番と32番。ショパンコンクール優勝のテクニックで若い名人の名をほしいままにしていたポリーニも、巨匠と呼ぶにふさわしい齢になり、一音一音に込める音に彼の思いがあふれていた。これらの30番からの3曲の後期のソナタは、その前に29番の”ハンマークラヴィア”という大曲があるために、目立たないかもしれないが、私の好きな曲であり、ポリーニの名盤よりも、バックハウス、ケンプ、ゼルキンなどの老ピアニストたちが弾くレコードCDに、味わい深いものがある。

 最後に映画を一本。「天国は待ってくれる」1943年のアメリカ映画で日本公開は何と1990年。
 もちろん私も、このNHK・BSで初めて見た映画なのだが、このブログにあげたておきたいと思うほどの作品だった。(もっとも、ネットの映画評の中には、何の見所もない映画で無駄な時間だったとの悪評もあったが、せっかく見た映画をもったいない評価の仕方だと思う。人それぞれではあるが。)
 ソフィスティケイテッド・コメディーと呼ばれるにふさわしい、しっかりと構成された監督(エルンスト・ルヴィッチ)に脚本と撮影、そしてはまり役のやや前時代的なキャスト、すべてが興味深いものだった。
 私はこの2時間近い映画を一気に見てしまい、その当時のアメリカの洗練された中上流社会のコメディタッチの描写に感心してしまった。当時日本は、太平洋戦争のただなかにあり、言論芸術が統制されていたころなのに、このアメリカでは、戦争とは全く関係ない所での一般家庭のコメディ-・ドラマが作られていたのだ。

 ストーリーは、主人公のヘンリーが美人看護婦に見守られて息を引き取り、トンネルを通ってあの世の入り口にやって来る。
 そこには礼服を着ていかつい顔をした、日本でいう閻魔(えんま)大王がいて、地獄に落とすか天国に上げるかの差配をしていた。
 ヘンリーは、自分の女遊びのせいで地獄に落とされるだろうと思っていたのだが、その地獄の大王は、まずは彼の告白を聞いてみることにする。
 若き日のプレイボーイぶりから、ある日いとこの婚約者に会い、彼は略奪結婚をしてしまう(後の「卒業」を思い出させる)。その後は幸せな家庭生活が続くが、一度他の女に手を出し、妻はカンザスの実家に戻ってしまうが、必死の説得で彼女は戻って来る。それからは波風のない日々が続き、二人は年老いて彼女が先に亡くなってしまう。老齢になった彼は、寂しさから若い娘とデートしていたが、ついにある日倒れて、美人看護婦に看取られ笑顔を浮かべて死んでいく。そんな話を聞いて、大王は天国で待っている彼の妻などがいるからと、彼を天国へのエレベーターに乗せるという、ハッピーエンドの他愛もない話なのだが、途中のウィットを含んだ洗練された会話(少しだけ後のニューヨーク派のウッディ・アレンの映画を思わせる)や、主人公の夫婦(ジーン・ティアニーとドン・アメチー)、彼女の故郷のいかにも田舎じみた両親、地獄の大王などのマンガ的な配役が、まさにコメディーなのだ。

 長く生きていればそれなりに、楽しく思いがけないめぐり逢いもあるものなのだ、もちろんその分哀しい別れに遭遇することにもなるが。

 数日前から、急に寒くなり二日間雪の日が続き、1,2㎝積もったがすぐに溶けてしまった。それ以来、毎日最低気温はマイナスになり、最高気温も5℃くらいまでしか上がらない。家の中でも厚着しているから、それほど気にはならないが。
 もっとも、群馬県水上町の2mに及ぶ積雪や、北海道喜茂別町のマイナス25℃から比べれば何ということはないのかもしれないのだけれど。

 最後にいつもの『新古今和歌集』からの一首。

”嘆きつつ 今年も暮れぬ 露の命 生けるばかりを 思い出にして” (俊恵法師)

(『新古今和歌集』久保田淳訳注 角川ソフィア文庫)