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ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

心を安くせんこそ

2020-05-05 21:29:46 | Weblog



5月5日

 何とさわやかな日々が続くことだろう。
 晴れ渡った青空の中に、いくつかの雲が浮かんでいる。
 その空の下を、私は歩いて行く。
 こうした時節だから、有名な山に行くわけにはいかない。
 そこで、いつもの裏山をめぐる、2時間余りの山野歩きを楽しんできた。数日前のことだが。
 それは、年寄りの私には、ひと汗かくぐらいのちょうどいい運動にもなったのだ。

 もちろん、誰に会うこともない山道を、静かに歩いて行くことの愉しみもあるのだが、今の時季は、それ以上に様々な木々の芽吹きを眺められる喜びがある。
 春の青空と新緑の組み合わせは、夏の雪渓と緑の山肌、さらには秋の紅葉に冬の雪景色などにも、勝るとも劣らない美しさがある。
 振り返ってみれば、私の数十年にも及ぶ山旅は、そうした山々が季節とともに見せてくれる、その時だけの美しさに出会うためにあったのだと思う。
 それは、研ぎ澄まされた芸術的な鑑賞眼からとかいうのではなく、自分の身の丈に合った世俗的な鑑賞眼から選んだ山々であって、卑近な例でいえば、下町の銭湯の壁に描かれた富士山の絵を美しいと思うような、言い換えればありふれた絵葉書写真のような、単純に私の目を引くだけの風景が組み込まれている山々たちだったのだ。
 それだから、峩々(がが)たる山稜を連ねた北アルプスの剱岳(つるぎだけ)や穂高岳(ほたかだけ)の荘厳(そうごん)な姿だけでなく、たおやかにうねり続く草山や、木々に覆われた低い山々の、穏やかな姿にも目がいくようになったのだ。

 さて、家を出て少し舗装道路を歩いて、その先で林道跡の山道に入って行く。
 そこですぐに目につくのは、今の時期ならではの、樹々の中に見える紫色のフジの花だ。
 人の手によって手入れされている植林地よりは、自然林の新緑の樹々の中で、その幹にまとわりついてツルを伸ばしていくフジ、今の時期には、その薄紫と木々の新緑の葉の色の対比がなんとも絶妙で、まるで一幅の絵として見事に収まっているように見える。(写真上)
 確かに、人家の庭先などに、藤棚として育てられ枝を誘引されて張り巡らされた、フジの花は壮観だし、誰しも見とれるほどの美しさだが、私はこうした自然の山野で生きているフジの花の方に心惹(ひ)かれるのだ。
 ”やはり野に置け蓮華草(れんげそう)”というところか。

 そこから続く林道跡の道は、深く切れ込んだ沢に下りて行くが、今年は雨の日が少なくて水量も少なく、簡単に対岸に渡り、見上げると、新緑の樹々が日の光を浴びて輝いている。(写真下)



 木々の種類は、おおまかにいえば針葉樹と広葉樹という区切りで呼ばれるのだが、その中でも広葉樹は常緑広葉樹と落葉広葉樹に分けられていて、その常緑広葉樹の中で、照りのある厚い葉をもつ温帯樹林帯の樹々が、照葉樹と呼ばれていて、シイ・カシ類にクスノキやツバキなどがその主な木々である。
 しかし、新緑のころになると、冬枯れの野山の樹々の先につぼみがふくらみ、モミジ、カエデ、コナラ、クリ、ヒメシャラ、ハゼノキなどもいっせいに明るく照り映える葉を開き出してきて、それを見ていると、むしろこの落葉広葉樹たちの新緑のころの姿こそ、照葉の樹だと言いたくなってしまう。

 そして対岸の山腹を巻きながら登り返し、コナラの林を抜けると、まだ冬枯れのカヤが残る草原に出て、周囲の展望が広がる爽快な高原歩きになる。
 この日は全九州的にも気温が高くなっていて、30℃近くまで上がった所もあったそうだが、ここでは山の高さもあってか、そう暑くは感じなかったが、夏が近づいてきていることを思わせる南風が吹きつけていた。
 再び涼しい林の中に入り、この林の中でも芽吹き始めた樹々の葉が明るく透けて見えていて、そこに一本のヤシャブシの木があり、たくさんの黄色い花穂をぶら下げていた。(写真下)



 ぐるっと回って来て、車道に出て人家の前を通った時、そこに派手な赤い小さな花が群がるように咲いているのを見つけた、花弁はあの黄色いマンサクの花の形に似ているが、今までに見たこともなく、何という木かは分からなかったので、写真に撮って家に戻ってパソコンで調べてみると、何とベニバナ(トキワ)マンサクという鑑賞用の木だということが分かった。
 無理もない、いつもの時期ならもうとっくに北海道に行っていて、この道を今の時期に通ることなどなかったから気づかなかったのだ。

 確かに、今、この世界中を覆う”コロナ禍”の問題は、現代の人間社会に大きな傷をつけ、過大な問題を残したのだが、悲観的な思いにふけっていても仕方がないし、一方では、悪いことばかりではなかったのだとも考えたい。
 その一つの例が、”コロナ禍”によって、世界規模で現代の人間の経済活動が大きく抑えられた結果、問題になっていたCO2 (二酸化炭素)の排出量が大幅に抑えられることになったそうであり、自分の周りで患者が出ていないから、現実感が伴わずに傍観者の立場になってしまい、不謹慎な言い方になるのかもしれないが、こうした人間社会の”コロナ騒動”のてんまつを、地球上の他の動物や植物は、手をたたいて大喜びしているのかもしれない。
 それは、形を変えて言えば、現代文明社会作り上げた人間たちへの、自然界から大きな警告の声だったのかもしれないのだが、果たして私たちはそれをどう受け止めればいいのだろうか。

 そして言えば、この”コロナ禍”で一番危険な年寄りでもある、とうの私自身が、いつコロナウィルスによる病にかかるかもしれないのだが、それは、順送りの世の習いからすれば当然のことであり、私は従容(しょうよう)としてその運命を受け入れるつもりではあるのだが、何しろ、この一筋縄ではいかぬタヌキおやじ、死神におびえて、天上から下りてくる一本の”蜘蛛の糸”(芥川龍之介の短編小説)にしがみついて、最後まであさましき悪あがきをするのかもしれない。
 すべては、”神のみぞ知る”ことなのだろうが。

 前回も書いたように、相変わらず、日本文学の古典ばかりを読んでいる私であるが、こうした”コロナ禍”の大騒動をを見ていて思うことが多々あり、そこで、私の敬愛する二人の大先達(せんだつ)からの言葉を、自分のために言い聞かせるようにここに書いておきたいと思う。

 まずは、ここでもたびたび取り上げてきた、兼好(けんこう)法師(1283~1350)による『徒然草(つれづれぐさ)』の第七十五段からの言葉であるが、彼は当時の都の神官の子でありながら、一時は北面の武士になり、その後出家して、京都郊外の山里に隠棲(いんせい)して、鎌倉時代末期から南北朝時代の混乱の世を、歌人としても生きた人である。

”つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるる方なく、ただひとりあるのみこそよけれ。
・・・。
 人に戯(たわむ)れ、物に争い、一度は恨み、一度は喜ぶ。そのこと定まれることなし。
・・・。
 いまだ誠(まこと)の道を知らずとも、縁(えん)を離れて、身を閑(しずか)にし、ことにあずからずして、心を安くせんこそ、暫(しばら)く楽しぶとも言いつべけれ。”

(『日本古典文学全集』「徒然草」吉田兼好(兼好法師)永積安明校註・訳 小学館)

 自分なりに訳すれば・・・。
 ”ひまになって、なすこともなく時を過ごして、困っている人は、どうしてそう思うようになったのだろうか。人や物とのかかわりがなくなって、のんびりと一人でいることが一番いいことなのに。”・・・。
 ”他の人たちと、楽しくたわむれ遊んでいる時はいいが、物をめぐって言い争うようになり、そのことで恨みに思ったりもするだろうし、また仲直りしてうまくいけばうれしくなる。そうしたふうに人と付き合えば、気持ちの浮き沈みがあって、いつも心が落ち着かなくなるものだ。”・・・。
 ”私はいまだに仏の道を悟ったとは言えないが、世の中の様々な因縁(いんねん)を離れて、静かな所に住んで、世俗のことにはかかわらず、心穏やかにして過ごすことで、それが、しばしの間でも、人生を楽しむことになっているとは言えないだろうか。”

 もう一つは、これもここで度々あげてきた、良寛(りょうかん、1758~1831)の手紙の言葉である。
 良寛は、江戸時代の末期に越後に生まれ、全国行脚の後に故郷の近くの国上山(くがみやま、313m)にある粗末な庵(いおり)に住んで、寺に入らず弟子も持たず、托鉢僧(たくはつそう)として清貧に甘んじて一人暮らしていたが、最期は近くの庇護者のもとに引き取られてそこで生涯を終えた。

 その手紙は、江戸時代文政十一年(1828)、越後三条付近で起きた死者1600人倒壊家屋13000戸を出すほどの大地震が起きて、その時に良寛は歩いて現地まで行ってその惨状を目の当たりにしているが、近くに住む友人の一人であった山田杜皐(とこう)あてに書かれた見舞いの手紙の中にその有名な一節があり、(それは杜皐の災難をうまく逃れる方法はないものか、と尋ねられての返信であったともいわれているのだが)、そこで彼は以下のように書いている。

 ”しかし災難に逢(あう)時節には災難に逢がよく候(そうろう) 死ぬ時節には死ぬがよく候 是(これ)災難をのがるる妙法(みょうほう)にて候”

(『人と思想 良寛』山崎昇著 清水書院、『別冊太陽 良寛』平凡社)

 受け取り方によっては、冷たく突き放した文言にも聞こえるかもしれないが、そこは歌会で顔を合わせるほどの間柄だから、おそらく杜皐は誤解することなく、この良寛の達観した思いを肝に銘じたことであろう。

 私はと言えば、相変わらずのぐうたらな”デクノボー”(宮沢賢治の言葉)であり、コロナがさらに蔓延(まんえん)し地獄絵図の如くなれば、もしかしたら、われ先に”蜘蛛の糸”を目指す輩(やから)の一人になるかも知れないのだが、まあ、”明日は明日の風が吹く”し、やがては”散る桜 残る桜も 散る桜”なのだから(良寛の辞世の句ともいわれる)・・・。

 それにしても、眼科での治療は完治までにさらに時間がかかるとのことであり、それでなくともコロナ緊急事態宣言は続いていて、今年は北海道には戻れないのかもしれない、となると、あのたださえヘビの多い家では(2019.6.10の項参照)、ヘビたちだけの"stay home "状態になっていて、お祭り状態の”ヘビ(蛇)ーメタル”の音楽祭が開かれているかも、それにしてもここでも何度も取り上げてきた、”ベビーメタル”の海外でのコンサート、いまだに一月に一度は”Youtube"で聴きたくなるのだが・・・元気になれる気がして。

 

 


三つのヤマザクラ

2020-04-13 22:18:52 | Weblog



 4月13日

 何と気がついたら、前回の記事からもう3週間もの間が空いてしまった。
 もちろん、長い間書いていないことに気づいてはいたのだが、そこは狡猾(こうかつ)でぐうたらな年寄りのこと、強制されて書いているわけではないし、ただ、わが筆のおもむくままに書いているのだからと、自己弁護をしてみても、もうこれは自分のための日記の一部というよりは、まさしく”つれづれなるままに”書いているだけの、ただの世迷いごとの言葉の羅列(られつ)にすぎないのではないのかとも思うのだが、それもまた年寄りのわがままだからと、自分に言い訳するばかりで。

 さて書くべきことはいろいろとあって、やはり以前のように一週間に一度は、それでも足りないくらいなのだが、今回、20日以上も間が空いて思うことは、そこはひとり蟄居(ちっきょ)する老人の舌の寂しさからか、やはり誰かに向かって話したくなり、書きたくなって、結局は自分に向かって書いていることになるのだが。
 ところで、私の近況はと言えば、新型コロナウィルスにも負けずに、いたって元気であり、それにしても、去年の秋から立て続けに起きていた、三つの病気も、このコロナ禍が起きる前に、それぞれの病院通いがだいたい終わって、今やほぼ終息し寛解(かんかい)の状態にあり、その意味では不幸中の幸いだったと思っている。

 今日は朝-3℃まで下がり、冬の寒さが戻ってきて、朝からミゾレが降っていたが、それまでは天気の良い暖かい春の日が続いていて、例年よりはずっと早く庭のツクシシャクナゲの花が咲き、ヤマザクラも満開になっていた。
(上の写真)
 シャクナゲは、今ではもう100個以上もの花房をつけていて、一房に7~9個の花があり、それが次から次に咲くから、もうその豪華絢爛(ごうかけんらん)な姿は筆舌に尽くしがたいほどである。
 そんな青空の元、洗濯物を干し終わったベランダに出て、揺り椅子に座って本を読むことにする。
 今ちょうど読んでいるのが『新古今和歌集』の「春の歌」の辺りということもあって、いにしえの人の心を思い、今散り始めたヤマザクラやシャクナゲの花の下で、つくづく思うのだ、なんと幸せな気分になることだろうかと。そこで一首。

”花さそう 比良の山風 吹きにけり 漕ぎゆく舟の 跡見ゆるまで”(宮内卿)

(『新古今和歌集』(上)久保田淳 訳注 角川ソフィア文庫)
 湖面に散り敷いた桜の花びらの中を、舟がゆっくりと漕ぎ出していくさまが目に浮かぶようだ。
 本歌は、もちろん、あの『万葉集』にもある沙弥満誓(しゃみのまんぜい)の名歌 ”世の中を 何にたとえむ 朝ぼらけ 漕ぎゆく舟の 跡の白波”であるが、この二首を並べてみるのも悪くはない。

 しかし、この『新古今』の春の歌の中で、特に私が素晴らしいと思っているのは、春の寝覚(ねざめ)の床の情景を女の視点で描いた次の一首である。青春時代の、新しい朝の思い出がよみがえってくるような。

”風かよう 寝覚めの袖(そで)の 花の香に かおる枕の 春の夜の夢”

(皇太后大夫俊成女 『新古今和歌集』同上)

 さて、もともと私は、街の雑踏が好きではないから、こうして田舎に住んでいるわけだし、外出自粛の令が敷かれたとしても、日用品の買い出しはできるわけだから、さしたる不便は感じない上に、日ごろからコンビニ弁当を買うことはあっても、ほぼ毎食自炊しているから、外食ができなくても苦にはならないし、貧乏な時代からの習慣で粗食には慣れているし、グルメ名店などの食べ歩きの趣味もないし、夜の飲み歩きなどに出かけることもないし、ディズニーランドやユニバーサルスタジオなどが休園になっても、もともと行きたいとも思わないから困ることはない。
 ただ今までと同じように、田舎の自分の家で毎日を静かに暮らしているだけのことだ。

 世の中は、コロナ感染対策で大騒ぎになっているけれど、問題になることは次から次に出てくるし、経済的な大損失大不況が起きることは目に見えているし、誰が指導したところで必ず不満な人はいるはずであり、そもそも未知のウィルスに対する初動対策が不十分であったことは間違いなく、例えば初めのころは、医療関係者自身が、致死率はインフルエンザよりも低くそれほど怖いものではないし、その対策もインフルエンザと同じでいいし、年寄りは重症化しやすく死に至ることもあるが、若者はかかりにくくて軽くすむことが多い、とか言っていたものだから、結果的に若者の感染者を増やしたことになるのだろうが。
 問題は今後、今や全世界に広がった、このコロナウィルスの蔓延(まんえん)が、あの”ヨハネの黙示録”にあるごとくに大災害となるのだろうか、はたしてこれは、”神の怒り”の始まりに過ぎないことを意味しているのだろうかということだ。

 しかし、この世界的な感染症の広がりで、改めて気づかされたこともある。
 飛躍しすぎかもしれないが、それは、おごりたかぶる人間たちへの、”神の怒り”であるとも思えてくるからだ。
 つまり、それは不老不死を目指す高齢化社会への、さらには”バベルの塔(天に届く塔の建設が神の怒りにふれ破壊される)”のグローバル化を目指した人間たちへの、そしては過密社会の都市化を目指す効率主義の世界への・・・”アンチテーゼ(反対理論)”だったのだと言えるのかもしれないからだ。
 つまりここで改めて思うのは、田舎の『ポツンと一軒家』風な家に住み、介護施設の世話にもならず、そこから離れることなく、一生を終えることができるような、そうしたう地味でつつましやかな、自然とともにある暮らしこそが、人間らしい生き方なのかもしれないと。
 豪華なマンションに住み、華麗な衣装を着て、美味な山海の珍味に舌鼓(したつづみ)を打つような暮らしをしなくても、雨風をしのげる古い家があり、着古した衣類をまとい、粗食だとしても暖かいご飯を食べることができば、そして、それらのことだけで満足だと思う気持ちがあれば、幸せな気持ちになれるものだ。
 花が咲き鳥が鳴き、月が出て星が輝き、紅葉に雪が降り、木々に新緑のきざしが見え、そうしてめぐりゆく一年が過ぎていく。

 先日離れた町の病院での診察を受けた後、車に乗ってわが家に帰る途中、夕暮れ時になろうかという頃、周りの田園風景を見ながら、ふと私の口をついて出てきた歌があった。

 “菜の花畑に 入日(いりひ)薄れ 見渡す山の端(は) 霞し(かすみ)ふかし 春風そよ吹く 空を見れば 夕月かかりて におい淡し”

(文部省唱歌『朧(おぼろ)月夜』高野辰之作詞 岡野貞一作曲 1914年)

 何という静かな、田舎の春の夕暮れ時の情景描写だろうか、さらには菜の花の香りが、そよ風にのって柔らかに漂ってくるような・・・。

 昔の歌の作詞は、しっかりとした詩に素養のある人が作っていて、今の時代の若い人が書く自分の日常の言葉としての歌詞とは違い、まさに一つの詩の作品として鑑賞に堪えうるものだった。
 それと比べてと、今の歌の良しあしを言っているわけではない。今の時代の歌は、今の若い人たちの支持を受けているのだから、同時代の歌として残ってゆくのだろうが。
 私は、ただこうした昔の歌に、心惹かれるし、同じように今の時代の小説よりは、昔の日本文学、いわゆる日本の古典と呼ばれる作品を、これからも読んでいきたいと思う。
 もちろん、私の生きている人生には限りがあるし、結局は、それらの古典文学のうちのいくつかは、若いころに一度は読んでいても、読み返すことができないままになることだろうし、それはもう一つの私の人生での執着(しゅうちゃく)ごとである山登りについても、登りたい山が幾つもあって、同じことがいえるのだが、まあ人生とはそうしたものだし、すべての思いをかなえた後に、満足して死に逝くということなどまれであり、すべての人は何かをやり残したままで、自分の人生を終えるのだろうが。

 ただ、その終わりの時に、ここまでの自分が歩いてきた道に、自分なりに満足できるかどうかだ。
 いや、言い換えれば、死の間際まで後悔しているよりは、他人から見れば小さな一歩かもしれないが、自分にとってはそれぞれが大きな一歩だったのだと、これまでの人生の出来事をしっかりと胸に抱いて、すべて意味のあることで無駄ではなかったのだと思えばいいのだ。
 多くの不幸な出来事さえも、何事も、自分にとっては良かったのだと、嵐の後に青空があるように、自ら脳天気(能天気ではない)になって、自分で良いように思っていけばいいだけことなのだ。
 そして、いつもそうした人間でありたいと思うのだが・・・。

 この3週間余りの中で、私は二度ほど、軽いハイキング程度の山登りに行ってきた。
 一つは2週間ほど前、別府の鶴見岳(1375m)山麓にある志高湖(580m)から1時間足らずで登れる小鹿山(おじかやま、728m)である。
 ちょうど桜が満開だということもあって、湖岸沿いはアウトドアを楽しむ、色とりどりのテントと家族連れの歓声でにぎわっていた。
 コロナウィルスで学校が休みになっていて、それだけに子供たちの生き生きと動き回る姿が目についた。
 その喧騒から離れて湖の奥から山側に入り、やがて広い防火線の尾根をたどり、最後に急斜面を登って、木々に覆われた頂上に着いたが、北側の一部が刈りはらわれていて、別府市街地から国東(くにさき)半島を望む方向だけが見えていた。
 他には、老夫婦に出会っただけで、静かな山歩きができたし、まさに始まったばかりの新緑とヤマザクラ越しに、鶴見岳の山影が見えていた。(写真下)




 次に、数日前、春先と秋にたびたび訪れている同じ鶴見岳の西登山口から、これも登り1時間ほどの山歩きを楽しんだが、こちらは新緑というにはまだ早く、それでも誰もいない山道歩きを楽しんで、上空に雲が増えてきたところで、無理をせずに戻ることにした。
 下の写真は、そこよりはずっと低い道路沿いの所から眺めた、ヤマザクラ模様の山肌であり、今の時期には九州の山のあちこちで、こうしたヤマザクラの景観を見ることができる。



 コロナウィルスの猛威はいつまで続くのだろうか、もしも私がこのウィルスの病にかかってしまっても、それはそれで仕方のないことだし、自分の運命を受け入れることしかできないが、ともかく今は、ひと時、私の好きなものたちに囲まれて、そのつかの間の時間を静かに過ごしていければいい、と思ってはいるのだが・・・。 
 


青空と泥濘と

2020-03-20 21:40:22 | Weblog



 3月20日

 一週間ほど前、久しぶりに山に行ってきた。
 去年の10月の初めに、東北の焼石岳に行って以来のことだから、数えてみれば5か月半ぶりのことになる。
 私の登山歴の中で、これほど間が空いたことは、めったにあることではない。
 それも、寄る年波には勝てずというべきか、去年の秋から相次いで、体のあちこちで体調を崩したことにある。
 もって肝(きも)に銘ずることは、孔子のいうように、”心の欲するところに従えども、矩(のり)をこえず(自分の思うままにやっても限度をわきまえる)”ということか。

 その日は、前日の天気予報から、全九州的に晴れるということであり、これは出かけなければと決めていた。
 九州の山としてはもう雪山の時期が終わり、新緑には早すぎるし、時期的には、あまりよい季節ではないけれども、天気が良いことは、そうしたもろもろの負の条件さえも凌駕(りょうが)してしまうほどの魅力があるのだ。
 ”バカと何とかは上に昇りたがる”と言う言葉があるが、まさに”脳天気(能天気ではない)”な私には、晴れた日でさえあれば、おのずからいい気分になりご機嫌になるのだ。
 さらには、体力的には、まだ相次いで起きた三つの病気の回復途上ではあるが、これ以上間が空くと、山歩きに出かけることがさらに遠いものになってしまいそうで、ここいらで一つ足慣らしの山歩きをしておかなければと思っていたのだ。

 行ったのは、おなじみの九重山であり、もう何十回足を運んだのかわからないけれども、全体的にはなだらかな高原尾根歩きが多く、何時間も続くような急坂が少ないから、年寄り子供に至るまで、比較的安全に登れる山なのだ。
 ましてや、ヨレヨレの年寄りになりつつある私にとって、最近は、本当に”九重”はいい山だと思えるようになってきたのだ。
 しかし、九重に行くのも一年ぶりになる、前回九重に登ったのは、一年前の2月に、2回続けて行って以来のことだ。
 年によっては、3月半ばくらいまでは雪山を楽しめる年もあるのだが、今年の記録的な暖冬では、あの2月半ばに降った雪が最初で最後の雪山になったのだろう。(数日前、家の周りでは1㎝ほどの雪が積もっていたが、見る間に溶けてしまった。牧ノ戸峠のライブカメラで見ても、雲の取れなかったその日はまだしも、翌日にはもう雪もほとんど溶けていた。)
 それはともかく、その日は、久しぶりの明るい九重の山歩きだと思うと心がはずみ、この年寄りでさえ楽しくなるものだ、るんるん気分で。
 快晴の牧ノ戸峠の駐車場に着いたのは9時前で、平日だということもあって、楽にクルマを停めることができた。(この駐車場は九重登山口の最高所(1330m)にあり、さらに本峰へも最短距離の位置にあるという便利さから、初夏のミヤマキリシマの花の時期は毎日のように、さらに秋の紅葉と冬の雪山に霧氷の時期も、普通の週末休日でも、朝早くから満車になることが多いほどの人気の場所なのだ。)

 さて、まずいつもの沓掛山前峰(1480m)までの舗装された遊歩道を歩き出す。
 まだ周りのノリウツギなどの灌木は、灰白の冬枝のままで、その日の朝は家でもー3℃まで冷え込んでいたのに、ここでも霧氷はついていなかった。
 久しぶりの階段状の登りで、もう足が疲れてしまい、一度二度と立ち止まってしまう。
 やっと、東屋(あずまや)のある展望台に上がり、周囲の展望が開けてくる。
 見事な快晴の空の下、昨日までの強風も収まっていて、視界が遠くまできいて周りの九重の山々はもとより、由布岳、英彦山、雲仙までもがくっきりと見えていた。
 さらに、この時期の楽しみである、春一番に咲くマンサクの黄色い花が、これから登るこの沓掛山の北斜面に、点々と見えていた。
 確かにそれは、周りが灰白色の冬枝の樹々の中で、唯一山に春を呼ぶ色だった。

 そしてまだまだ続く遊歩道の登りで、ようやく沓掛山前峰に着くと、南側が大きく開けて、阿蘇五岳(高岳1592m)の山々が並んでいて、とりわけ中岳の噴煙が、濃く立ち昇り、1600m位の所から東側に流れていた。
 ここから、岩場混じりの尾根道を行き、沓掛山山頂(1503m)に至り、その岩場を下りきると、ゆるやかな高原状の尾根歩きになるのだが、今の季節はしかたないのだろうが、先ほどから所々ぬかるみが出てきていて、午後に戻ってくる時にはもっとひどくなっていることだろう。
 面白いのは、道の両側に残る霜柱で、日が当たり溶け始めてきた所は、その一柱ごとに崩れ散乱していて、かき氷のようになっていた。(写真上、後ろの山は三俣山)

 平日でこの時期だから、人が少ないのはありがたい。
 そこで目立ったのは、若い人や、親に連れられて一緒に登っている子供たちの姿だ。
 春休みやコロナウィルス休校のためだろうが、ただ家の中に閉じこもりゲームをするくらいならと、その子供たちを誘い出し山登りに連れてきた親たちはさすがだと思う。
 中にはその両親が平日で休めないために、私のようなおじいさんと孫娘の姿もあったが。

 分岐の所で、ほとんどの人々は、本峰である久住山(1787m)や最高点の中岳(1791m)方面を目指して行くのだが、病み上がりの私にはそれは遠すぎて、今回は、そこからすぐの所にある扇ヶ鼻(1698m)まで行くことにしていた。
 まだらに古い雪が残っている、少しの急な登りの後、溶岩台地状になった上部に出て、まずは手前の西端にある見晴らし地点の所まで行く。
 途中には、全体がすっかり凍りついた霧氷に覆われている、大きなミヤマキリシマの灌木があって、青空を背景にしてそこだけに冬の名残があった。(写真下、星生山と霧氷、霧氷には大きく二種類があって、その時の気温や風の状態で、氷霜状のものと透明な氷からなるものに生成されるのだが、ともかくこれもまた、青空と太陽の光を浴びて輝く雪山の芸術作品なのだ。)

 その西端にある岩の上に腰を下ろして、九重山の主峰群を眺める。
 この扇ヶ鼻は、少し離れた所にある頂上よりは、この西の肩のほうが眺めがよく、私はここまで来て引き返すこともあるくらいだ。
 戻って、ミヤマキリシマの灌木の間につけられた、ゆるやかな道をたどって頂上まで行った。
 岩陰で、子供連れの親子3人がバーナーで昼食を作っていた。
 少し東側の岩井川岳への道をたどり、ここでも岩の上で腰を下ろし、眺めを楽しんだ後、戻ることにした。

 その帰り道は、予想していた通りにぬかるみだらけだった。
 朝のうちはまだ凍りついて所も、すっかり溶けて、水を通さない粘土層の上の、火山灰腐植土が、水と泥まぜになっているのだ。(写真下)



 そして、これからまだ登ってくる人も、下りてゆく人も、その足元は泥だらけになっていた。
 特にスニーカーで登って来る、若い人たちの足元は悲惨な状態だった。
 火山の登山道がすべてこうした道と言うわけではなく、火山礫(れき)の堆積した道ならば、水は浸透してしまうから、水はけのよい道になり快適に上り下りができるのだが。(例えば富士山須走ルートや御嶽山や浅間山や阿蘇山などのように、新しい火山やいまだ噴火活動が続いている山などに多い。)

 ともかく逃げ場のない道で、そのぬかるみの中を注意して歩いて行くしかないのだが、私はそれほど嫌な思いはしなかった。
 というのも、この泥だらけの道も、所々にある水たまりには、青空が映し出されていたからだ。
 それは、”いつまでも続くぬかるみの道はない”と教えてくれる青空の色に思えて、ふと小説の題名のような言葉が口をついて出た。”青空と泥濘(でいねい)と””。
 さらに沓掛山の稜線で、行きは逆光気味でよくわからなかったマンサクの花が、青空に薄く模様を描くすじ雲を背景に、色鮮やかに咲いていた。
 色彩感の乏しいこの季節だけに、何とも見事な配色の風景だった。



 往復4時間半、コースタイムでは往復2時間半くらいなのだけれど、病み上がりの年寄りが歩くには、適当な距離だし、それ相応の時間だったのだろう。
 今年の雪山は、ついに一度も登れなかったけれども、こうして晴れた日に、ゆっくりと自分なりの山歩きができたことで、私は十分に満足した。

 山登りは、他人と競い比べるのではなく、あくまでも自分だけの時間の中で、自然の中にいることを楽しむものだ、と思っているからだ。
 そうなのだ、自分の人生は、決して他人と比べるものではなく、自分が今ここにこうして生きていることに、感謝する道のりとしてあるものなのだ。

 あの『日本百名山』の著者深田久弥氏の言葉に、”百の頂には百の喜びがある”(出典はゲーテ)という有名な言葉があるように、それぞれの人々にそれぞれの人生がある。
 どれ一つとして同じではない、喜びと悲しみ、それらが混じりあって自分だけの道として、織り綴られてきたのだから、自分の唯一のものとして誇りに思っていいのだろう。

 相変わらず毎週、テレビ番組の『ポツンと一軒家』を見ているけれども、それぞれに自分だけの人生史があり、そこには自分だけの様々な理由と哀歓が込められていて、同じように見えても、それぞれに異なった人生の中で、彼らが必死に生きてきた歴史が見えてくるから、どうしても見たくなってしまうのだろう。

 彼は、九州は福岡の中心街で、ホテルの朝食ビュッフェ兼夜の居酒屋を営んでいたのだが、休みもなく一年中働きづめで、55歳になった時、ふとこんな人生でいいのかと考え、前から好きだった山の中で暮らすべく、山間地の谷あいの土地を買い求めて、周りの人の力も借りながら、重機を使って土地を切り開き平地にならして、家を建て畑を作り、造園の仕事もしていて、ピザ窯、焼き物の窯、燻製窯、炭焼き窯とその趣味は多岐にわたっていて、72歳になった今でも、昔の店の調理師の腕前を生かして、奥さんのために料理を作り洗い物の片づけまでしていた。
 そんな話を聞かされた取材スタッフから、”町中から山奥に行くと言われて嫌ではなかったですか”と質問された奥さんは、”こんなに何でもしてくれる人と一緒になって幸せです、どこまでもついてゆきたい”と答えていた。

 まだまだ、この『ポツンと一軒家』の番組から教えられることは多いのだが、他にも書いていくときりがないので、とりあえず今回はこの一件だけにして、もう一つは、これも私のごひいき番組『ブラタモリ』から、今回は”天草・島原編””で、2年間4代目アシスタントを務めてきた林田アナウンサーの最終回でもあったのだが、彼女が音大出身で自身”絶対音感”があるとかいうことで、一度番組でドビュッシーほんの一小節をピアノで弾いたことがあったのだが、それはさすがと思えるものだった。
 さらに、今回”潜伏キリシタン”の話で、ある教会に復元された古いヴァージナル(チェンバロやクラビアの原型)が置いてあって、弾いてみてと促された彼女は、椅子に腰を下ろして、右手だけであのバッハの「平均律クラヴィア曲集」から、有名な冒頭のプレリュードに続くフーガの、ほんの一節だけを弾いてくれたのだが、音楽番組ではないのでそこまでだったのだが、できることならそこから左手が入ってきて演奏される、わずか2分半ほどのそのフーガの部分だけでも弾いてほしかったのだが・・・。
 それでも、本来長崎生まれでNHK長崎局勤務の経験もある彼女のことだから、今回の放送内容に関してはおそらくタモリ以上によく知っていたとは思うのだが、何しろこの番組は一つには、地学や歴史に関するタモリのうんちくを聞くことがメインなのだから、いつものように多くは口をさしはさまなかったのだが、今回も得意な鍵盤を前にしても、そのほんのひとさわりを弾いただけだったのだ・・・あの音の余韻が今も残っている。

 それから、実はもう一つ書いておきたいことがあって、九重は扇ヶ鼻に登ってその帰り道の所で、何と一匹のチョウチョウがひらひらと飛んできて、私の目の前の石の前にとまったのだ。
 それは、キタテハだった。(写真下)
 ほとんどのチョウは卵やさなぎの形でしか越冬できないが、このタテハチョウの仲間のいくつかは越冬して、次の春を迎えることができる。春に私の北海道の家に戻り小屋の扉を開けると、越冬したチョウがパタパタと羽ばたいて出てくることがあるので、そう驚きはしないのだが。
 それも九州の山の上で、何もこんな寒い高い所(標高1600m位)で越冬しなくてもいいように思うのだが、そのうえに羽がきれいな形だったから秋に羽化(うか)したものだろうが(春に羽化したものは一冬越すと羽がボロボロになっているものが多い。)

 私たちは、自分の人生は分かっていても、他の人や生きものたちの、これまで生きてきた道のりなど何も知らないのだ。
 それだからこそ、一匹のキタテハに感心し、『ポツンと一軒家』のそれぞれの話しに感動するのだろう。




 


手術

2020-03-02 21:03:12 | Weblog




 3月2日

 それは、極彩色で動めき回る物の、映像を見ているようだった。
 目を閉じたまぶたの裏で、白ではない灰色がかった背景の中で、赤や黄色の不規則な形をした物体が、絶え間なく動き続けていた。

 それは、昔見たアヴァンギャルド風な近未来を描いた映画の幻影のような、さらには、あのスペインの名映画監督、ルイス・ブニュエルの『アンダルシアの犬』(1928年)の中の一シーン・・・椅子に座った女性の後ろに立っている男が、カミソリの刃を立てて、彼女の瞳を薄く切り裂いていく・・・という衝撃的なシーンまでも思い出したのだ。

 しかし、現実的に手術台に横たわる私にとって、それは、まぶたの裏を、つまり眼球の表面をかき回されているような感じで、小さなピリリとした痛みも伴っていたが、“無事に終わりましたよ”という医者の声で、ようやく今ある自分に戻ることができた。
 分厚い眼帯を目に張り付けられて、病室で一晩を過ごし、夜中にトイレに起きた以外は、その個室になっているベッドでよく眠ることができた。

 翌朝、下の診療検査室に行って、そこで看護婦さんがやさしく眼帯を取り外してくれて、”目を開けてもいいですよ”と言ってくれた。
 その時、私の目の前に広がった光景・・・私はこの手術の前に、何度も検査のために訪れていて、見慣れた部屋だったのだが、全く違った景色に見えたのだ。
 ”明るく、鮮やかにすべてが見えている”。
 数台並んだ検査台も、それぞれの検眼表も、忙しく立ち働く数人の看護婦さんたちも、そして窓から部屋に入って来る朝の光も、家並みも、遠くに見える山々も、すべてがくっきりと見え、やさしく私を迎え入れてくれているようだった。
 私は思わず涙ぐみ、大げさだがひざまづいて祈りたい気持ちだった。

 私は保護メガネをかけて、タクシーと電車を乗り継いで、その間、車窓から見える田園風景と山々の姿を見あきることなく眺め続けて、1時間余りかけて家に戻った。

 それが、数日前のことである。
 その手術の2週間前、私は右目のほうの手術を受けていて、その時でも十分にその成果を感じていたのだが、いかんせん左目のほうは、まだそのままで、それは薄い黄土色のベールをかけられたような状態で、その違いは歴然としていた。
 この手術の後に、医者が、その前と後の私の眼球写真を見せてくれたのだが、そこには、全くあぜんとするほどの差があった。
 手術前の眼は、白い幕に覆われていたのだが、それが手術後には、すっかり取りのぞかれていて、私の瞳がはっきりと映っていたのだ。

 医者が言うには、”よくこれほどひどくなるまで放っておきましたね”、と言うぐらいの病状の進行状態だったのだが、ただ本人からすれば、少しずつの進み方だから進行具合がわかりづらくて気づかなかったのだ。
 とは言っても、免許の更新の際には何度も視力の低下を指摘され、夕方や夜間でのクルマの運転が見えづらく、光がまぶしくて見えなかったりと、自覚症状はあったのだ。
 それは、例えば、レースのカーテンがあっても近づいて外を見れば見えるのだが、外側から離れて見ると白いカーテンの中は見えないということと同じで、暗くなればなおさらのことだ。

 ともかく、それらの眼の不具合が、両目の手術が行われたことによって、見事にぬぐい去られて、新たにはっきりと見えるようになったのだ。
 それは、当然のこと、外の景色や家の中だけにとどまらず、テレビの画面からパソコン画面にまで及んでいるのだ。
 私は、カメラで撮る山の写真を、フィルム写真からデジタル写真に代えて、10数年になるのだが、特に目の状態が悪化してきたと思われる10年程前の写真を見て、はっとするほどの景色だったことに気づいたのだ。
 あの時の山々の姿は、これほどまでにきれいだったのかと。
 私は、むさぼるようにそれらの写真を見続けたのだが、その喜びとは別に、逆に言えば、私は今まで、何という景色を見ていたのかと思ったのだ。あの、かすんだ黄土色のベールをかぶったままの景観を、それが現実にある山の姿だと、何の疑いもなく見ていたのだ。
 もちろん、今さらそれらの山々のすべてを登りなおすことなどできないが、それだけにこれからは、この新しくもらった目で、限りある私の山登り人生をじっくりと楽しみ味わっていきたいと思っている。

 つまり、新たに眺める山旅の楽しみが、また一つ加わったような・・・まだまだ、そう簡単にくたばるわけにはいかないのだ・・・あの山々たちを見るためにも。
 時代劇で、往生際(おうじょうぎわ)の悪い悪代官が、成敗(せいばい)されて、”くそー、まだ俺は死なんぞー”と画面いっぱいに形相が映し出されるように・・・これからも、風変わりな年寄りのよそ者として生きてやるぞー。

 とは言っても、去年の秋にあの東北の焼石岳(’19.10.8~22の項参照)に登って以来、何ともう5か月も山に行っていないのだ。
 もちろん、それは、その後立て続けに起きた体調の異変と目の手術のために、山に行くことができなかったからなのだが。
 ただその代わりに、一月に二三回は、1時間半ほどかけて坂道の上り下りをしているのだが、果たしてそれで山で同じように歩けるだろうかとも思う。
 もちろん、短い距離でも疲れたら戻ればいいが、心配なのはバランス感覚とふらつきなのだ。
 最初は、歩きなれた九重の山に行くのがいいのだろうが、いつもは人がいないことを喜ぶ私だが、病み上がりの体では、私の異変に気付いてくれるような、人の多い山のほうが良いのではないのかと思っている。

 ともかく、今までは、九重には雪の降った時を狙って、冬の間だけでも三四回は行っていたのだが、今年はかつてないほどの暖冬で、牧ノ戸峠のライブカメラで見る限り、しっかりとした雪山になったのは2週間ほど前の一度だけで、それでも平日にかかわらず、駐車場が満杯になっていた。
 みんな、この日を待ちわびていたのだろうが、おそらく今年は、それが最初で最後の、九重の雪山になるだろう。
 まあ私にしてみれば、今までに撮りだめてきた九重の雪山の写真が何枚もあることだし、それよりは、これから何とかして、春から夏にかけて、遠征登山のできる身体に戻さなければならないのだが、何ともこのぐうたらオヤジときたら、いつもの脳天気で・・・。

 上の写真は、1週間ほど前の、庭のウメの花だが、今は満開になっていて、もう散り始めている。
 いつもの年よりは、2週間ほど早いが、果たして今年はそのウメの実がなってくれるだろうか。
 そのウメの実で作るウメジャムは、私を風邪をひきにくい体質にして、免疫力をつけてくれる特効薬なのだが、今流行りのコロナウイルスに効くかどうかは分からない。

 他に書くべきことは、この2,3週間のことでいろいろとあったのだが、残念ながら割愛することにして、いつものことながら、私の”日本の古典文学”愛好癖から、いつもの短歌をあげることにする。
 今は『万葉集』『古今和歌集』に続く、『新古今和歌集』を読み始めたのだが、後代の批判は、”技巧的に過ぎる”などと言われることが多いのだが、私は、中世の人々が歌の中に様々に読み込んでいたものに、むしろ現代人以上に繊細な思いと感覚を知って、ある種の親しみさえも覚えてしまうのだ。
 ここではまだ読み始めなので、初めのほうの歌の中からあげることにする。

”沢に生ふる 若葉ならねど いたづらに 年をつむにも 袖は濡れけり”
(皇太后宮大夫俊成、自分なりに訳すると:沢辺に生える若菜をつんでいるからではないのだけれど、いたずらに年を重ねてきてと思うと、袖が自分の涙で濡れていた。)

”わが心 春の山辺に あくがれて ながながし日を けふも暮らしつ”
(紀貫之、自分なりに訳すると:私は春の野山に心ひかれて、長い長い一日を思い暮らしている。)

(以上:『新古今和歌集』巻第一 春歌上 久保田淳 訳注 角川ソフィア文庫)




 


雪山憧憬

2020-02-08 22:10:56 | Weblog



2月8日

 もう長い間、山に登っていない。
 一つには、最近相次いで起きた体の異変のため、時々病院通いをしているからであり、一つには、この冬の異常な暖かさのために雪山が見られないからである。
 いつもの年ならばもう何度も雪が降っていて、雪かきに精を出していたころなのに、今までに二度ほどうっすらと雪が積もり、見る間に溶けてしまったことがあっただけなのだ。
 昔は、一晩で50㎝もの雪が積もったことがあったなどと言っても、もう年寄りの昔話でしかないのだ。
 九重の山へも、いつもなら今頃は雪山登山のかき入れ時で、あの雪山の絶景を見るために、多少ビビりながらも、牧ノ戸峠(1330m)まで雪道をクルマで上がり、そこから3,40㎝も積もっている雪をものともせずに(と言ってもほとんどはトレースがついているが)、九重連山の雪の山々を歩き回ったものだが。

 もちろん、九州の1700m程度の山々では物足りないからと、少し前までは、さらなる雪山の景観を求めて、南北中央の日本アルプスに八ヶ岳、東北の山々へと足を延ばしていたのだが、しかし最近では、もうそれらの山々に行くべく計画を立てるのも、おっくうになってきてしまった。寄る年波には勝てずに”というべきか。

 その鬱積(うっせき)した思いのためか、山の夢をよく見るようになった。
 その内容は、あの雪山の大展望というよりは、その途中の雪道や、小屋の近くの情景がほとんどなのだが、年齢のこともあるのだろうが、あのフロイトの言う欲望に裏付けされた夢、自分の思いを吐露する場としての無意識の情念というよりは、ただ様々な記憶の断片が、脳裏の中でかき回され、複雑怪奇に組み合わされた幻想物語として、大きな意味合いもないただの夢として、表れ出てくるのだろうと思うのだが。 

 さて、現実の雪山の姿はと言えば、もう今では出かけて行くことも少なくなった私は、テレビの山番組を見たり、例えば、山の雑誌「山と渓谷」の12月号や1月号の見事な表紙写真などの写真を見ることで、多少は追想の思いにふけり、楽しませてもらっているだけなのだ。
 1月号の表紙写真は、北アルプス樅沢岳(もみさわだけ、2755m)付近からの展望で、槍ヶ岳(3180m)連峰と背景遠くに南アルプスから富士山、そして秩父山塊が見える構図は、確かにおなじみのものなのだが、すぐに何かが違うと気がついた。
 つまり、双六岳(すごろくだけ、2860m)から樅沢岳を経て、西鎌(にしかま)尾根をたどり、槍ヶ岳を目指すコース上の光景とは、少し違っていて、高度感があるのだ。

 そこで気がついたのだ、最近NHK・BSで放送されていて、それがシリーズ化されているように、これは、あのドローンによる撮影だということに。
 何しろ、今まで登山道だけを歩いている私たちが見られなかった景色を、より高度を上げた目新しい位置からの光景として、見せてくれるのだ。
 それは、ヘリコプターや小型機によるものほどには、大がかりな撮影にはならずに、手軽に撮影できるということで、特に山岳撮影の分野においては、これからはさらに普及していくことになるのだろうが、もちろん、このドローンによる撮影は、様々な弊害も併せ持っていて、手放しに歓迎できない微妙な問題でもあるのだが。
 例えば私が体験しただけでも、最近私の登った山でも必ず一二度は遭遇していて、この小うるさく飛び回り、自然な山の雰囲気を壊すドローンについては、何らかの制限を設けるべきだと思うのだが。(あの『枕草子』(まくらのそうし)を書いた清少納言(せいしょうなごん)ではないけれども、・・・近ごろ、あじきなく(古語で、にがにがしく)思うものは、このドローンのうるさい音と、登山中や山頂での携帯電話の話声である。山の中まで現実社会の話を持ち込まないでほしいと思うのだが。)

 そして、さらに今回取り上げたいもう一つの写真は、その前月の12月号の表紙写真で、北アルプスの五竜岳(ごりゅうだけ、2814m)の姿である。
 それは、八方尾根から撮られたものだが、長い八方尾根のどこからなのかと調べたくて、10年前に行った時の写真を、いろいろと見直してみたが、ゴンドラとリフトを乗り継いだ終点の八方池山荘の周辺か、より見晴らしが効くそれより少し上に登った所まで、雪道を歩いて行くかもしくはスキーで上がっ行って、撮ったものだろうと思ったのだが。
 そこで、そうかと改めて気がついたのは、ロープウエイやリフトが設置されている所なら、こうして脚の弱ったじいさんでも、たやすく雪山の景観を見ることができるということだ。

 ともかく、この八方尾根をたどった時の写真を見直してみて、再認識したというべきか、この時の八方尾根から唐松岳への山旅がいかに素晴らしいものだったのかと気づいて、改めて感謝したい気持ちになったのだ。
 それは、10年前の10月下旬、八方池山荘に泊まった翌朝、素晴らしいモルゲンロート(日の出の赤)に染められた白馬三山(しろうまさんざん)と五竜岳、鹿島槍ヶ岳(2889m)を見た時から始まったのだ。
 そこから、ゆるやかな尾根を登って行くと、朝早くてまだ誰もいない八方池には、まるで絵葉書写真のごとくに、白銀の白馬三山の姿が映っていた。
 さらにこの八方尾根をたどり登り詰めて行くと、ついには後立山(うしろたてやま)連峰の主稜線に上がり、目の前に唐松岳と、反対側に深い谷を隔てて五竜岳がせり上がり、そびえ立っていた。
 何という、幸せなひと時だったことだろう。(2009.11.1~5の項参照)

 そこで今回の写真は、その時の写真の中から、当時のブログ写真に載せたものとは別の3枚を選んでみた。冒頭の写真は、リフト終点にある八方池山荘より少し上がったところから写した五竜岳と鹿島槍ヶ岳。すぐ下の写真は、八方尾根最上部からの唐松岳と不帰ノ嶮(かえらずのけん)。末尾の写真は唐松岳山頂からの五竜岳と背後遠くに槍・穂高方面の眺めである。




 こうした回想の山物語は、今回はとりあえずここまでにして、残りは、今私が読み終えたばかりのあの『古今和歌集』について、若干の感想を述べてみたいと思う。

 この『古今和歌集』を最初に読んだのは、若いころだが、当時はよくは分からずに、ただなぞるように読んでいっただけであり、その後他の所で目にすることのあった有名な歌だけは憶えていても、正直な所、ほとんどの歌は憶えていなくて、再読したとはいえ、まるで初めて読んだような新鮮な驚きに満ちていたのだ。
 こうした『古今和歌集』の意義は、例えば話は飛ぶが、有名曲ぞろいのベートーヴェンの交響曲の中でも、特に第3番の「英雄」と第5番の「運命」に挟まれた、第4番は、注目されることが少ないのだが、ベートーヴェンの後の時代の作曲家ローベルト・シューマン(1810~1856)は、この第4番のことを評して・・・”北欧の二人の巨人(第3番と第5番)の間に挟まれたギリシアの清楚で可憐な乙女のようだ”、と言ったというのは有名な話だが、何も『古今和歌集』を、『万葉集』と『新古今和歌集』という日本の神話的な二人の巨人に挟まれた、平安期の乙女のような歌集だとはとても言い難いし、例えられるものでもないのだが、この『古今和歌集』を再読し終えた今、なぜかふとベートーヴェンの第4交響曲の存在意義と併せて、シューマンの言葉を思い出してしまったのだ。
(ちなみに、このベートーヴェンの第4番は、レコード盤だがあのカルロス・クライバーがミュンヘン・フィルを振ったライヴ版がベストだと思う。)

 しかし、この古典三大和歌集について調べていくと、今さらながらに気づくこともあったので、簡単ながら、その時代背景も書いておくことにした。
 最初の『万葉集』に収められているものは、聖徳太子後の奈良の大和朝廷がまだ不安定なままで、天皇の跡目を継ぐべく対立者たちの暗躍が繰り返されていた時代のころから、やがては中央集権の律令体制が整い、さらに平城遷都によって、ようやく天皇貴族政治が確立された時代であり、時代的に言えば、飛鳥時代から白鳳・天平時代にかけての、つまり古代から奈良時代にかけてのものであり(629年~759年)、そこには約4,500首もの歌が収められており、様々な階級の人々だけでなく、一部対立する人々さえも含んだ、その中立的な立ち位置での選択には感心せざるを得ない。
 同時代の古典作品としては、『古事記』(701年)や『日本書紀』(729年)があり、今さらながらに『万葉集』の文学作品としての、存在意義の大きさに気づかされるのだ。

 次の『古今和歌集』は、平安京に遷都された(794年)ころから、平安時代前期と呼ばれる頃(905年)までの、藤原一族の時代が始まったころであり、勅命(ちょくめい)による勅撰和歌集として1,100首余りの歌が収められている。
 この時代の文学作品としては、『竹取物語』や『伊勢物語』『土佐日記』などがあり、『枕草子』(1012年)や『源氏物語』(1021年)が書かれたのは、そのずっと後の時代になる。

 三つ目の『新古今和歌集』は、『古今和歌集』から数えると8番目の勅撰和歌集になるが、平安時代後期から鎌倉時代初頭にあたるころの歌、約1,900首余りが収められており、鎌倉幕府が成立した1192年の後の、1205年に成立したと言われている。
 時代背景としては、保元・平治の乱後、政治の実権は武家へと移行していき、平清盛が頂点に立ったが、やがては壇ノ浦でその平氏が滅亡し、新たに鎌倉幕府が開かれたころである。
 文学作品としては『平家物語』(1219年)や鴨長明の『方丈記』(1213年)などがある。(吉田兼好の『徒然草(つれづれぐさ)』が書かれたのは、その100年後のことである。)

 私のように、日本の歴史にさほど詳しくはない人間でさえ、これらの古典文学を読み進んでいけば、同じ日本人の、というよりは同じ人間としての、喜怒哀楽の感情に心動かされてしまい、遠い古典の時代へと思いをはせるようになるのだろう。
 しかし、この偉大な日本の古典三大和歌集のについて、その基本的な説明でさえ、とても浅学な私の手に負えるものではないのだが、いくらかはその理解の手助けになるかと考えて、初心者の自分に言い聞かせるべく、その時代背景を書き出してみたということなのだ。

 ただここでは、ようやく読み終えた『古今和歌集』全体の深追いはせずに、ただその中から、有名ではない”よみ人知らず”の歌を、四つほど書き出してみた。(併せて、自分なりに解釈してみた訳文も書いておくことにする。)

”世の中は 夢かうつつか うつつとも 夢とも知らず ありてなければ”
(世の中は夢と現実とからなっているものなのか。どちらとも実体がなくてわからないものだから。)

”世の中に いづらわが身の 有りてなし あわれとやいはん あな憂(う)とやいはむ”
(いったい、この世の中に私はいていないようなものだし、それはしみじみとした思いになるというべきか、何と憂うべきことかというべきか。)

 こうして、この時代に、哲学的な存在論を自問自答していたとは。
 次の二つの歌は、今まさに、高齢者たちの国民的番組になっている、あの『ポツンと一軒家』の住民たちの声でもあるような歌なのだが、時代は変われども人の思いは変わらぬものだと思う。(訳する必要もない平易な歌だが。)

”山里は 物のわびしき 事こそあれ 世の憂(う)きよりは 住みよかりけり”

”白雲の 絶えずたなびく 峯にだに 住めば住みぬる 世にこそありけれ”

 実は、この『古今和歌集』にも、ましてやその前の『万葉集』にも、優れた恋歌が多いのだが、私はあえて今まで、それらの歌をここにあげないできたのだが、というのも、それはあまりにも情念のエネルギーが強くあふれていて、自分の若いころへの悔恨と歓喜の思いがないまぜになり、とてもそれらの歌を整理して、冷静になって自分なりの思いを付託して、論じていく自信がないからでもあるが、言えることは、”恋は神代(かみよ)の昔から”、生きること生きていくことへの、情念の源であったということだ。
 そのことがわかるようになる、この年まで生きてきて、私は本当に良かったし、ありがたいことだと思っている。
 
 庭のユスラウメも咲き始めて、すぐに満開になってしまった。
 昨日は一日、小雪にみぞれが降っていたが、積もることはなかった。
 今年は、冬のさ中に、もう春がのぞいている。

 ルナールの「博物誌」の中の、例の”蛇”の項目を借りて言えば・・・”冬、あたたかすぎる。”

(前回の記事を載せてから、何ともう3週間もたっている。調べてみると、それでも毎日数十人近い人々が、この間もブログを見てくれていて、初めて申し訳ない思いになってしまった。こんなじじいの世迷いごとのブログなのに。今後はせめて2週間に一度を目標に更新していきたいと思います。)

(参考文献:『新編国語便覧』秋山虔編 中央図書、『古今和歌集』佐伯梅友校注 岩波文庫)


克服すること

2020-01-14 21:50:36 | Weblog



1月14日

 何という、暖かい冬だろう。
 上にあげた写真は、わが家の庭のツバキの花であるが、普通なら3月に入ってから咲くのだが、この暖かさでもう三輪ほどの花が開いていた。
 ここ九州の山間部にあって、意外に寒いわが家の周辺では、いつもなら初雪が12月中には降っていて、今頃は10㎝や20㎝の雪が積もっているのだが。
まだ、その初雪さえちらついていないのだ。

 もっとも、さすがに昨日今日と少し冷え込んできて、ライブカメラで見る昨日の九重・牧ノ戸峠付近は、青空の下真っ白な霧氷と雪に覆われていて、休日ということもあってか、駐車場には満車状態のクルマが並んでいた。
 そして、ついに今日の天気予報では、午後遅くからは雪のマークがついていた。
 ・・・と、ここまで書いてきたら、昼前から雪が降りだしてきて、見る間に辺り一面、真っ白になってしまった。(しかし、何せ春の淡雪の感じで、夕方にはほとんどが溶けてしまった。)

 普通なら、冬が好きで雪景色が大好物の私としては、さっそく明日の朝一番山に行く準備をしているところだが。
 しかし、去年の10月からの体調不良で、長く山に登っていない私には、山に行くべきか行かざるべきか、この体ではとてもその決断がつきかねるのだ。
 前回の、あの素晴らしい東北は焼石岳の紅葉登山から、もう3か月余りもの時間がたっていて、それほど長く間が空いたのは、大げさに言えば、私の登山史上実に何十年ぶりのことで、つまり東京での会社勤めの時、忙しくて時間がなくて山に行けなかった時以来の、さらにその後の北海道移住や、丸太小屋造りにかかりっきりで余裕がなくて、山は眺めるだけだったころに次ぐ、長いブランクの時になってしまったのだ。

 はたして、私は前のように山に登れるのだろうか、ふらつくことなく岩場の道を歩けるのだろうか。
 もちろん、それ以前のこととして、私は歩くことが好きだから、歩くことは苦にならないのだが。
 いつもの自宅からの長距離の散歩は、標高差が150mほどあり1時間余りはかかるのだが、その道をこの3か月余りの間に5度ほどこなしてきたから、それほど山登りが無理なことだとは思はないのだが、何しろ久しぶりに病み上がりの後に歩いたものだから、息は切れるは脚が続かないはで1時間半もかかってしまったのだが、考えてみれば、ものごとはすべて”慣れる”ことにあり、それが自分のその時の限界を克服したことにもなるのだろう。
 さて、書くべきことがいろいろとあるのだが、私の貧しい筆力ではそのすべてを書くことはできないから、まずはその中のほんの二つ三つのことどもについて、書き進めてみることにしよう。

 まずはこの一か月ほどの間に放送された番組から、日本テレビ系の「ザ・世界仰天ニュース」からの一つの話しだが、生まれつき両腕のない女性が、子供のころからいじめられたりして、なぜに自分には腕がないのだろうと悲しみに暮れていたのだが、それならば、残った二本の足を腕や手の代わりに使えばいいのだと考えて、長い苦闘の末、今では普通の人が両腕手ですることのほとんどを自分の両足だけを使ってできるようになっていたのだ。
 そのメキシコに住む41歳の彼女は、ファッションデザイナーとして働いていて、そんな障がい者の彼女と結婚してくれたハンサムな夫がいたのだが、その後離婚して、今では一人で娘を育てているのだ、自立した女性として。

 次にTBS系の「動物スクープ100連発」から、カナダのとある町で、一人の女の人が、交通事故にあったらしい倒れた犬を見つけて家に連れて帰ったが、傷はひどく、獣医師と相談して安楽死させようかとしていたところ、その犬は無事だった右側の前足と後ろ脚、さらに何とか動かせた後ろ脚を使って、庭の芝生の上を歩いたのだ。
 それを見て彼女は、何とかこの犬を助けてやりたいと思い、もう壊死(えし)しかけていた左側の前足と後ろ脚を切断する手術を受けさせてたのだが、その手術の三日後から、その犬は右側の二本の足だけで、庭の芝生の上をバランスをとって歩き始めたのだ。 
 今、その犬は他の犬と変わらない速さで、全速力で走り、他の犬とじゃれあっているのだ。その犬の、生き生きとした瞳の輝き。 

 この話は、それぞれの番組全部を見たわけではなく、たまたま偶然その所だけを見て私の心に響いたものだから、ここに取り上げることにしたのだが、それと前後して、ある裁判の審理は始まったというニュース映像が流れていた。
 3年前、神奈川県津久井にある身体障がい者施設”やまゆり園”での、入居者19人殺害の事件である。
 犯人の元同所職員の男は、”この世に障がい者は不要だ。彼らがいなくなれば、世の中の不幸をそれだけ減らせる”と話していて、いまだに反省の色もないそうだが、この二本のビデオを彼に見せたら何と言うだろうか。

 もう一つは、NHKの「英雄たちの選択」から、暮れに放送された”そして万葉集が生まれた~大伴家持(おおとものやかもち)が残した日本人の心”と、新年になって放送された”百人一首~藤原定家(ふじわらのていか)三十一(みそひと)文字の革命”である。(藤原定家 「新古今和歌集」「百人一首」の編者」)
 どちらの番組も、今私が最も興味のある”日本の古典”の中から、「万葉集」と「新古今和歌集」「百人一首」に関する話が取り上げられていたから、興味深く見せてもらったが、再現ドラマでの当時の衣装と舞台背景などはともかくとして、セリフまでも忠実にとは言わないが、今の若者言葉で話されると違和感だけが残ってしまうし、アニメ風にコント場面としても小芝居が挿入されていたが、何とも中途半端で、紅白の視聴率が大きく下がったのと同じで、あまりにも全年代層に見てもらおうという目論見が強くて、とても成功したとは言えないのだが、むしろこのシリーズの司会者で、今を時めく歴史大家の磯田道史先生をはじめとする出席者の対談が、それぞれの見方の代表者の意見として面白かった。
 もっともこうした番組は、NHK以外ではとても作れないだろうから、放送されるだけでもありがたいのだが。

 今私は、日本の古典以外のものは、特に現代日本の小説などはもう何十年もの間読んでいないから、とても文学愛好家などとは言えないのだが、それでも私が文学愛好家でいられるのは、今に続く日本人の心の源にある、こうした日本文学の数々があるからである。
 今、やっと「源氏物語」を読み始めて、併読する状態で「古今和歌集」を再読しているが、その中から在原業平(ありわらなりひら)の「伊勢物語」にも出てくる有名な一首。

「ついにいく 道とはかねて ききしかど 昨日今日とは 思わざりしを」

(「新古今集」巻十六 861 佐伯梅友校注 岩波文庫)

 自分なりに訳すれば、”人はだれでも、やがては死にゆく運命なのだとわかってはいたのだが、それが昨日今日の差し迫ったことだとは、思っていなかった。(こうして自分が年老い、病にかかるまでは。)”

 他にもまだまだ、例の「ポツンと一軒家」や山番組のドローン撮影による「冬の槍ヶ岳」や、二回に分けてのアンドラーシュ・シフのベートーヴェンの「ピアノ協奏曲集」に、アンジェラ・ヒューイットのバッハの「インヴェンションとシンフォニア」、それに「ドキュメント72時間2019年スペシャル」でのそれぞれの人間模様などなど・・・。

 私たちは、こうして生きているからこそ、様々な人間の喜怒哀楽の心の機微(きび)を見ることができるのだ。
 生きている今にこそ、感謝すべきなのだろう。 

 


バッハの響き

2019-12-26 21:10:46 | Weblog

 12月26日

 ”As time goes by"(時の過ぎ行くまま)、1942年に作られたアメリカ映画『カサブランカ』(日本公開は戦後の1946年)の主題歌として、映画の中で歌われていた。
 策謀渦巻く第二次戦下の北アフリカのカサブランカで、酒場を経営する男が、昔の恋人と再会し、それでも今の彼女の窮地を救うためにと、危険を冒し現実的な行動をとって彼女を送り出すのだ。
 このラストシーンがいい。まさに男のダンディズムを描いた作品であり、天下のカッコをつけたがる男たちのヒロイズムを、大いにくすぐった作品でもあった。

 そのハンフリー・ボガードの男らしさは、今はレジスタンス活動に身を置くイングリッド・バーグマンとの再会で、再び燃え上がりそうになる想いをおさえて、”弱きを助けて強きをくじく”見事な差配ぶりが”、まさに男のカッコよさそのものであり、1970年代これまた一世を風靡(ふうび)した高倉健のヤクザ映画(相手役は当時の藤純子)にも通じる、”背中(せな)で泣いてる唐獅子牡丹(からじしぼたん)”ふうな、一種のヒロイズムがそこにはあったのだ。

 その健さんに影響を受けた私は、当時、角刈り着流し姿に雪駄(せった)をはいて、歩き回ったことがあるくらいなのだが、今にして思うと、まさに時代錯誤の”噴飯(ふんぱん)もの”であり、顔が赤くなるくらいの恥ずかしい思い出でもあったのだが・・・。
 もっとも、私の、単純な直情行動傾向はその当時から、今も本質的には何ら変わっていなくて、要するに周りの影響を受けやすいアホな男でしかないのだ。

 だからこうして、山の中にひとりで住んでいるのも、悔恨にかられた修行僧のごとき暮らしを、という思いからでもあります・・・とか言っても、現実には、ただぐうたらなじじいになっただけで、だからふと”As time goes by(時の過ぎ行くまま)”という曲を思い出したわけであり、日々何事もなく、同じような毎日が過ぎて行くとしても、それは私の望む、”静寂平穏”の世界の中にいることであり、それは人によっては寂しい退屈だ不安だという思いに駆られるかもしれないが、脳天気な私は、そうした不安とはかけ離れた、静かな、いたって満ち足りた毎日を送っているというだけのことなのだ。
 それだから、今まで自分のもう一つ日記帳でもあるこのブログを書いてきたのは、半ば義務的なところもあったのだが、今ではその数少ない規範も自ら取り払い、思いついた時にだけ、身辺雑記的な記事を書くことにしたのだ。
 わがままもここに極まり、まさに、前にも何度か書いたことのある、あの尾崎一雄の短編「虫も樹も」(講談社文芸文庫)の中の一節、”少しは不便でもいいから、もっとのんびりさせておいて貰(もら)いたい”・・・ということなのだ。

 さて、この九州に戻ってきて、病院通いをしながらも、はや一月半にもなるのだが、前回は、この家に戻ってきて、やっと自由に水が使えるようになり、人並みの暮らしができて、新聞も読めるようになったことなどを書いていたのだが、もう一つの大きなことを書くのを忘れていた。
 それは、北海道の家では見られなかった(受信状態が悪くて)、あのBS放送を見られるようになったことである。これは大きい。
 山が好きで、オペラが好きで歌舞伎が好きで、その他もろもろのドキュメンタリー番組が好きでとくれば、BS放送は、欠かせないものであり、半年間のBS番組飢餓状態の埋め合わせをするかのように、こちらに帰ってきてから幾つもの番組を録画した。

 特に山の番組が、ありがたい。
 いつものNHK・BSの「にっぽん百名山」シリーズの他に、例の田中陽希君の”グレートトラバース”シリーズでの、15分に編集された番組が再放送中であり、特に北アルプスのメインルートからは外れてはいるが、昔登ったことのある霞沢岳(かすみざわだけ)、餓鬼岳、赤牛岳、大日岳など、その道中の景観を見ては懐かしさもひとしおだったが、一方では、長年行こうと思っていた毛勝岳(けかつだけ、2414m)などもあって、半ばあきらめてはいるのだが、番組を見ては、まだ行けるのではないかとも思ってしまうのだ。

 それはあの「にっぽん百名山」シリーズで、これまた私が長年憧れている山の一つでもある、越後駒ヶ岳(2003m)の回で、ガイド役の人は、何と頂上下にある駒ヶ岳避難小屋の管理人をしている人だった。
 それも御年79歳!20歳の時から毎年欠かさずこの駒ヶ岳に登っているという、お年寄りの強者(つわもの)で、小屋までの5時間余りを足取りも確かに登っておられる様を見て、彼よりははるかに年下である私は、登る前から弱音を吐いていて、全く情けないばかりで、反省することしきりだった。(反省するだけならサルにもできる。)
 その他にもこのシリーズで、この夏の失敗登山だった鳥海山の、もちろん晴れている時の、映像も見ることができたし、同じ東北の朝日岳の紅葉は、ぜひとも行ってみたいと思わせるものだった。

 次は、クリスマスの時のためにと、23日(月)NHK・BSで放送された二本。
 一つは、スイスのチューリッヒ歌劇場でのバレエ「くるみ割り人形とネズミの王様」(写真下)であり、日ごろはあまりバレエは見ないのだが、今回は面白くなって、2時間近くもその最後まで見入ってしまった。



 この「くるみ割り人形」は、あの有名なチャイコフスキーの三大バレエ音楽組曲として、その管弦楽組曲の部分だけで聴くことが多くて、バレエとして実演を見たのはずいぶん久しぶりのことだった。
 しかし、今回のものは、ホフマンの原作をもとに忠実に構成されたということであり、その舞台は、普通のバレエ版として上演されているものとは、かなり違ったところが多く、例えば役名が違うとか筋書きが違うとかだったのだが、これはホフマン原作版としての、新しい「くるみ割り人形」を見たと思えば十分に納得できるものだった。
 今までの、少女がクリスマス・プレゼントにもらった、くるみ割り人形たちとの不思議で楽しい夢物語だということに変わりはないのだから、私たちは色彩豊かで見事な踊りの舞台を楽しめばいいだけのことだ。
 2時間近いバレエだったが、飽きることなく、十分に楽しみながら見ることができた。
 このチューリッヒ歌劇場には、多くの子供たちも見にきていて、ここで何度も書いていることだが、私はふと、今は亡きあの映画評論家の淀川長治さんの言葉を思い出した。
 ”若い時に、一流のものをたくさん見ておきなさい。”
 
 もう一本は、自分としてもクリスマスの時期に一度は聴く、バッハの「クリスマス・オラトリオ」である。(オラトリオとは、宗教や歴史的な物語を主題にして、管弦楽の他にソリストの歌手や合唱を含む大規模なものが多く、特にヘンデルが数多くの作品を残している。)
 このバッハの大曲は、もともとキリストの誕生の前後の話を、順序だてて作ったのではなく、キリスト生誕後の教会典礼曲としてカンタータ風に書かれていたものを、全6部に分けてつなぎ合わせたものであるが、それぞれのカンタータの完成度が高いので、全曲通して聴いても何らの違和感もなく、むしろ有名なカンタータの旋律があちこちで流れてきて、うれしくなるほどで、まさに生誕曲にふさわしく思えるし、他の典礼曲としての「ロ短調ミサ曲」や、受難曲の「マタイ受難曲」と「ヨハネ受難曲」などの悲愴感はないし、バッハの声楽曲としては、一番取り付きやすい声楽曲だと思う。

 それを、現実的にバッハ(1685~1750)が、1723年から死ぬまでの27年間にわたってカントール(教会の音楽監督)を務めていた、ライプツィヒの聖トーマス教会からの演奏録画で、そのバッハの伝統を受け継ぐ、ゲヴァントハウス・オーケストラの演奏と聖トーマス合唱団とソリストたちの歌声で聴くことができるのだ。(冒頭の写真)
 私が若い時に行ったヨーロッパ旅行でも、当時の東ドイツだったこのライプツィヒの聖トーマス教会を訪れて、そこで幸いにも、オーケストラと合唱団によるカンタータの一曲を聞くことができたのだが、演奏者たちの場所は、平土間(アリーナ)から一段高い中2階風なところにしつらえられていて、教会の平土間席に座っていた私たちの所へと、その音が柔く降り注いできて、そのバッハの響きに、私は危うく涙を流しそうになったのだ。
 もちろん、今回はテレビ映像として見たのであって、その時の演奏とは比べるべくもないし、今まで多くのレコードやCDで聞いてきた名演奏家たちとは確かに違うけれども、2時間半もの間、テレビから流れ来る音楽は、まさしくバッハの音そのものだった。

 やはり、私は何と言っても、バッハが好きなのだ。 


常緑樹

2019-12-11 21:41:27 | Weblog




 12月11日

 別に、くたばりかけていたわけではなく、今まで定期的にあげていた、ブログ記事を書けなくなったわけではない。
 前回書いたように、体のあちこちで起きていた、様々な年寄り特有の病状がひどくなったわけでもない。
 ただ、遠い町への病院通いが何度も続くと、次の日はもう何もする気が起きずに、今まで以上にぐうたらに過ごしてしまう、毎日が続いていたのだ。
 しかし、それは何もしなかった日々だったというよりは、毎日をただひとり静かに送っていたというだけのことであり、ベランダの揺り椅子に座って、温かい初冬の日差しを浴びながら、庭の樹々を見たり、ひざの上に置いた本に目を通したりと、きわめて心穏やかに暮らしていて、生きている実感をありがたく感謝する日々でもあったわけで・・・、それはそれで、十分に価値ある日々だったのだ。

 庭から見える樹々は、もうほとんどの紅葉が散ってしまい、今では最後まで残っていた、半日陰に生えているドウダンツツジの黄葉が残っているだけで、確かに今年の遅い秋もこれで終わってしまい、後は雪が降るのを待つだけなのだ。
 庭にある幾つもの樹の中で、スギやヒノキの常緑針葉樹や、ツバキにシャクナゲといった常緑広葉樹たちは、変わらずに緑の葉を茂らせている。
 しかし、それらの樹々もよく見れば、常緑という名前のように、一年中緑の葉でいるわけではない。
 実は、その中の一部の葉は、落葉のための黄葉の時期を迎えていて、もちろん常緑という名の通りに、ほとんどの葉は緑のままなのだが、その中にいくつかの黄葉した葉が見えているのだ。
 つまり、常緑樹という名前の木は、一年中緑の葉のままでいるわけではなく、その内では、役目を終えた葉が黄葉し落葉していくという、世代交代の循環が行われているのだ。
 しかし、このシャクナゲの木の上には、来春に咲く花の白いつぼみがあり、この冬の間に、少しずつ大きくふくらんでいくのだろう。(冒頭の写真)

 生きものの世界とは、そうしたものであり、人の世界もまた何ら変わることはないし、順次、世代交代していく世界であり、それでいいのだ。
 年寄りたちがのさばり、百鬼夜行(ひゃっきやこう)のていでふんぞり返っている世界など、人間以外の、他の生きものたちの世界にはありえないことだ。 
 それで、私もそろそろ”ドロンする”ことにさせてもらいたいのですが、そこが情けない年寄りの強欲さで、あの山に登りたいあの花も見たいと思うことばかりで、テレビの山番組や山の雑誌を、老人性のかすむ目で見ながら、その瞳は青年のように輝き憧れるのだ。
 ああ、”すさまじきものは、年寄りの冷や水”なのだが。

 さて、久しぶりに書いた個人的日記としてのこのブログなのだが、2週間以上も間が空き、さらにはこの九州に戻ってきて以来、まともなブログ記事を書いていなかったために、今回は、それらの日々の総括編として、記事のいくつかを要約して書いていこうと思っているのだが。
 まず、こちらに戻ってきて、あの井戸水が涸れた北海道の家と違って、水が出ることがどれほどありがたいことか、何かにつけて蛇口をひねれば水が出るし、水洗トイレは使えるし、炊事はもとより風呂にも毎日入れるし、その残り湯で洗濯もできるし、今はまさに、”水もしたたるいい暮らし”ができているのだ。
 次には、毎朝新聞が読めることだ。北海道の家でも、新聞がとれないことはないのだが、私みたいにたびたび家を不在にすると、その度ごとに連絡するのも大変で手間がかかるからと、遠慮しているのだが。

 つまり、そういうわけで、この九州にいる半年の間しか新聞を読んではいないのだ。 
 しかし、さすがに新聞だから、ネットニュースみたいに一行だけで終わらずに、詳しく説明してあるのがいいし、何より文化欄や読書欄のニュースが豊富で、何ともありがたい。
 最近の記事から言えば、あの宗教学者の山折哲雄さんが、これは時々連載されているコラムなのだろうが、あの古代の神話や物語の中で使われている”隠れる”や”隠す”という言葉について、近年の葬儀や埋葬に対する日本人の意識とともに、その意味合いも変わってきたのではないかと述べておられたのだが。

 さて、そのことと直接のかかわりはないのだけれども、私がふと思い出したのは、あの万葉集の中に収められた大津皇子(おおつのみこ)とその同母の姉である大伯皇女(おおくにのひめみこ)のそれぞれの歌一首である。まず大津皇子の歌から。

”ももづたふ 磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠(くもがく)りなむ”

 これを、自分なりに訳してみれば、”私が、磐余の池で鳴いている鴨たちを見るのは、今日を限りとしてのことになり、私はこの世から消えてしまい、あの世へ向かうのだ” ということになるだろうか。 
 そして、この弟が埋葬された後の、大伯皇女の一首は。

”うつそみの人にあるわれや 明日よりは 二上山(ふたかみやま)を 弟世(いろせ)とわが見む”

 そしてこれも、自分なりに、”現世に生きる私は、もう弟とは会えないから、明日からは、あの弟が埋葬された二上山を、弟だと思って生きていきます”というふうに訳してみた。

 (『万葉集の名歌』佐々木幸綱監修 中経文庫)

 天皇継承をめぐる争いに巻き込まれて、処刑されることになった大津皇子だが、その前には、伊勢神宮の斎宮(さいぐう、宮に使える皇族の巫女)でもあった姉に、はるばる会いに行っていたことなど、その時の歌も残されていて、この二人の悲劇の姉弟の話が、今でも、つらく伝わってくる。

 次に、哀しい話をもう一つ、たとえて言えば、あのギリシア神話にあるように、人間が一度開けた”パンドラの箱”はもう元には戻らず、世界には多くの異なった言葉と無理解の世界が広がっていってしまったのだ、という話を思い起こさせるように、それは、ある種の無力感さえも感じさせるニュースだったのだが。
 あの混乱の中にある、アフガニスタンの復興開発に、人道主義的な良心から我が身を投げうってかかわってきた、医師中村哲さんが襲撃された事件ほど、世界にいる多様な価値観を持つ人々の存在を考えさせるものはなかった。

 それに合わせたわけではないのだろうが、同じころ新聞の文芸欄に、イギリスの法律経済学者であり哲学者のジェレミ・ベンサム(1748~1832)と、その後継者ミルの思想についての話しが掲載されていた。
 ”功利主義”と呼ばれる、”最大多数の人々の最大幸福を求めて”という思想は、いかにも民主主義の時代にふさわしい考え方に見えるのだが、しかし、一歩誤ればその考え方は、行き着く先での、絶対少数者たちの否定にもつながる危険性もはらんでいるのだ。
 それを、今回の中村医師の貧しき少数者たちへの奉仕の精神と、どう考え併せていけばいいのだろうか。

 それにしても考えさせられるのは、同じ同世代の人間でも、こうして自分のためだけに生きてきて、毎日をぐうたらに過ごし、体のあちこちが痛いと弱音を吐いているだけの、私という人間の生き方の幅がいかに狭いことかなのだが。 
 しかし、もう今から悔い改めても遅すぎることだし、思えばこの地球上に、何兆個もの命の個体数があるかは知らないけれど、それぞれが、与えられた自分の命を守り生き続けていくよう生まれてきたのだから、セミはセミなりに、短い夏の間のひと時に鳴き続け、海に住むマグロは一生を泳ぎ続けることで生きていき、人もまた、四の五の言わずに自分の命がある限り、その日が来るまで生きて行けばいいのだろう。

 たかが体中のあちこちに異変が起きたぐらいで、泣き言を言うのはやめて、おつむてんてん、チョウチョウが飛んで、頭の中は毎日青空で、余計なことは考えないようにしよう。
 歌にあるように、なるようにしかならないのだから。
 ”Whatever will be,will be . Future is not ours to see."

(1956年のあのヒッチコック監督による映画「知りすぎた男」の主題歌「ケセラセラ」として、主演女優のドリス・デイによって歌われて大ヒットした。

 長い間休んでいたこのブログに、書きたいことはいろいろとあったのだが、体力が続かなくて、ほんの一部のことしか書けなかった。
 これからは、自分で勝手に決めていた、月曜日や火曜日という枠にとらわれずに、思いつくまま気ままに、その時々に書いていければいいと思ってはいるのだが、果たしていつまで続けられることやら・・・。


 


近しき冥界

2019-11-25 20:52:36 | Weblog




 11月24日

 戻って来た時に始まっていた、里の秋の紅葉は、このところ盛りの時を迎えていたが、昨日今日の雨で、それも散り始めている。
 家の周りを散歩するだけでも、それぞれの家の庭に植えられたモミジや林の中の紅葉がきれいに見えるし、わが家の庭にある数本のモミジやカエデの他にも、カツラやコナラなどの黄葉もあって、それなりに、家にいるだけでも十分に楽しむことができる。
 上の写真は、ずいぶん昔に植木市で買ってきて植えていた、ヨシダモミジの鮮やかな紅葉だが、この木の葉は、春から秋を通じて赤いままで変わらないのだが、特に新緑とこの晩秋のころは、さらに輪をかけて鮮やかに見える。
 それは、繰り返し見慣れた色でも、思わず見とれてしまうほどであり、写真に写っているウリノキの黄葉と、さらにそれらを際立たせる青空と相まって、今の私の何もない心の色をどれほど鮮やかに染めてくれたことだろう。 
 生きていることは、ありがたいことだ。

 それで、もう2か月もの間、山に登っていない。
 もちろんそれは、私の体調が悪くてそれどころではなかったからではあるが、それだけではなく、そもそも出かけていく気力さえ起きなかったのだ。
 前回書いたように、この九州の家に戻ってきて、すぐに病の床に臥せて、一週間の間、寝たり起きたりの夢うつつの状態だったからだ。

 その時、何を考えていたのか。
 何も考えられなかったのだ。
 苦痛、というほどではなかったのだが、絶えずどこかにある鈍痛と不快感に、白い霧の中にいるような感じで、うつらうつらとしながら、耐えているだけだったのだ。
 もちろん、それが、緊急性の高い痛みなどに襲われていたならば、何としてもタクシーを呼んででも、病院にまで行っていたことだろうが、それほどまでにひどい状態ではないと自分では思っていたのだ。
 ただ何とか、簡単な食事はとっていたし、それでも体重は、一気に5㎏ほど減ってしまい、それはそれで、山に登るためにはもう少し体重を減らさなければと思っていた私には、願ってもいない減量方法になったのだが。(体重が5㎏減ということは、担ぐザックが5㎏軽くなったことを意味するからだ。)

 ともかく病院に駆け込むほどではないにしても、北海道にいた時に起きた、脂汗を流すほどに激変した体調悪化に始まって、九州に戻ってきた時に起きた転倒事故で頭を打って、さらには軽い風邪をひいて、それらが重なって、寝込むことになったと思われるのだが。
 ネットで調べてみると、該当するものがある。
 硬膜下血腫。
 しかし、そこに書かれているほどに、吐き気やめまい、神経症状などは起きてはいないし、ただ、ふらつきと意欲の減退という項目が一致していた。
 さらによくある例として挙げられていることは、クルマの事故などで頭を打って、その時は大丈夫でも、2、3週間後に倒れるということがあるということで、治療は外科手術で、頭蓋骨に穴をあけて血腫を取り除くしかないということだった。
 もう、あれから3週間近くになるが、幸いにも、そうした症状が起きてはいない。

 それだからこそ、病院で検診を受ける必要があるのだが、もともと悪い歯の治療を含めれば、五つの病院診療科にも及ぶし、そのことを考えるだけでおっくうになってしまい、いまだにどの病院にも行っていない。
 というのも、離れた大きな町の病院に行くまでが心配だし、それぞれの病状が落ち着いている、今の半ば自宅療養しているという、状況を変えたくないという思いもあるし。
 何より、病院に行って、新たな重大な病気が見つかり、そのまま即入院になり、ついには病院のベッドで最期を迎えることになるなんていうことは、とても私にとっては耐えられないことだ。
 もっと長く生きられる可能性があるにせよ、もう私は自分の人生を、十分に味わっては愉(たの)しんできたのだからという思いもある。

 最期の時を迎えるのなら、母やミャオとの思い出が詰まったこの九州の家か、あるいは自分の後半生を賭けた北海道の家で、と思っているからだ。
 別にひとりで死んでいくことに、大きな不安はない。
 ただ上に書いたように、その時には、半覚醒の中で、何も考えられないような鈍痛と不快感の中にいることは避けられそうにもないが、最期には、”トンネルを抜けて明るく開けたお花畑に出る”という、臨死体験者たちのある種の法悦(ほうえつ)の状態を信じているのだが・・・。
(「臨死体験」立花隆 文春文庫、「死ぬ瞬間」E・キューブラー・ロス 中公文庫 )

 死後、何日かたって私が発見されようが、構わない。
 もうそれは私ではなく、すべての精神が滅びた後の物体でしかないからだ。
( 「人は死ねばゴミになる」伊藤栄樹 小学館文庫。元検事総長だった人の闘病記 に書かれていた言葉、”人は、死んだ瞬間、ただの物質、全くのゴミみたいなものと化して、意識のようなものは残らないだろう” )

 もちろん私は、こうした即物的な考え方、一時流行ったプラグマティズム(実用主義)的な考え方に、全面的に同意するわけではなく、人々の心の救済という面からみれば、それぞれの宗教の力というものも信じている。
 たとえばそれは、痛みに苦しむその心の霧の中で、ただひとえに仏様や神様の名を呼び続けることは、それが大いなる救いになるだろうと思うし、自分が長年携わってきた、人物や物事を、死のその時まで思い続けることは、またそれも大いなる救いとなるだろうし。
 つまり人々はだれでも、それぞれの心のうちに自分だけの”ロザリオ”を持っていて、それが最期を迎える時の、心のよりどころになるだろうと思うのだが。
(それにしても、被爆地の長崎・広島を訪れたローマ教皇、その世界に向けて語りかけたメッセージは、何という良心に満ち溢れていたことだろう。)

 はたして、私が今回体験した何も考えられない白濁の霧模様の中から、浮かび上がってくる一つのものは何なのだろうか。
 あの日高山脈のカムイエクウチカウシ山か、北アルプスの黒部五郎岳か、それともバッハの「マタイ受難曲」の響きか、フェルメールの「牛乳を注ぐ女」の絵なのか、はたまたあのベルイマンの名作「第七の封印」なのか、それとも「万葉集」からの一首なのか「徒然草」の一節なのか、フランスの詩人による「ジャム詩集」の祈りなのか、そして、今まで私の人生にかかわってきた様々な人々の顔が浮かび上がってくるのか・・・。

 こうして、死を意識しながら、近しき冥界(めいかい)を意識しながら、今ある生をいとおしむこと・・・人生の終末時の喜びは、ここにあるのではないのか、とさえ思ってしまうのだが。
 
 


よどみに浮かぶ

2019-11-12 20:55:54 | Weblog




 11月12日

 穏やかな秋の日、ベランダの椅子に座り、そうしてゆったりとしていることができるだけでも、ありがたいことだとつくづく思う。
 数日前に九州に戻ってきた。
 里の紅葉が、盛りの時を迎えようとしていた。(写真上)
 しかし、私の身の上はそれどころではなかったのだ。

 北海道を離れる日も、あわただしく決めてしまうことになって、そのためにやり残したことも多くあったのだが、九州のわが家に着いてからも、自分の不注意から半ば寝込んでしまうことになってしまい、ここまで夢うつつの日々を過ごしていたのだ。
 その上に、前々回に書いたような年寄り特有の病気にかかっていたから、もう最悪の状態で、体は不快感と弱い痛みを訴え続けていて、自分の意識はただ自分の身体にあるばかりで、山のことも、「万葉集」のことも、音楽や映画のことも何も考えられず、ましてや哲学のことなど、あの無益な学問についてのことなど何も考えられず、枕もとを訪れるのは夢の中の母や女たちの顔ばかり。

 後になって思ったのだが、本当にお迎えが来るのはその先のことだろうと思う。
 まずは、日常の雑多なことや煩雑(はんざつ)なことは頭から離れて行って、ただ自分の体調だけが、病室に移る心電図のように流れて行って、昔の人々の顔があちこちに見えてくるようになり、やがては彼女らにいざなわれて向こう岸に渡っていくことになるのだろうが。
 生きている時に、自ら考えで生み出していた余分な負担は、体の感覚だけを残して消え去り、それは楽になれるようにするための、ある種の催眠導入に似た防御反応なのかもしれない。

 ともかく、病院に入院したわけでもなく、ただ体の不調で、自宅で何も考えずに、というよりは考えられずに痛みに耐えながら、日々を送っていたというだけのことなのだが。
 ブログの間隔があいた、この二週間もの間、書くべきことはいろいろとあったのだが、たとえば、北海道のわが家の林の豪華な紅葉や、十勝平野の澄んだ青空の下に並ぶ初雪の日高山脈、W杯ラグビー決勝戦イングランド対南アフリカの、意地をかけたチーム同士の緊迫した闘い、WBSSバンタム級の決勝での井上とドネアの、二人の男の意地をかけた壮絶な打ち合い、その一方で沖縄の心と言われていた首里城のあまりにもあっけない焼失事件、台風19号とその後の豪雨による被害の数々、千曲川流域のリンゴ農家の悲劇などなど。
 私にできることは、あまりにも少なく、私にできないことは、あまりにも多い。

 しかしそれらのことも、病に倒れて夢うつつの中にいた私には、すべてこの世の遠い世界でのことであり、むしろそうして、何も考えられないことのほうが当然のことであり、そうして最後には、自分一人の身になって、空に昇って逝くのではないのかと。
 俗世での様々な考え悩みを、自分の身だけに代えて振り払っていくからこそ、ある意味での”無垢(むく)な身体”になって天国に召されるようになるのではないのかと。


 ” ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。”

(『方丈記』鴨長明 小学館 日本古典文学全集)