ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

紅葉の愉しみ

2020-12-01 21:02:38 | Weblog

 12月1日

 10月に北海道に行ってきて、このブログ記事を1か月ほど空けてしまい、その期間の埋め合わせがまだ追いついていない。
 それで今回の記事も、依然として1か月前の話しを追うことになる。

 九州に戻ってきてすぐ、今が盛りの九州の山々の紅葉を見るべく、すぐにでも出かけたいと思っていた。
 しかしこの時期には、もっとも人気のある九重の山々の駐車場は、早朝からいっぱいになっていて、クルマを停める場所だけでなく、登山道にも人があふれているだろうし、そんな混雑の中ではと、このか弱い年寄りは二の足を踏むことになる。
 ということで、もともと静かな山歩きを好む私としては、コロナ禍という状況下もあって、紅葉が盛りのこの時期の九重はあきらめることにしたのだが。
 しかし、今年の九重は紅葉の当たり年だったそうで、ネットには、この九重山群内の黒岳、大船山、三俣山、星生山などの、紅葉名所の鮮やかな写真が掲載されていたから、多少くやしい気もしていた。
 もっとも、初秋のころ9月の終わりに、かすかに色づいた扇ヶ鼻へと行ってきたのだから、それだけでも見なかったよりはましだと思うことにしよう。(10月5日の項参照)

 さて、それではどこに行くか、祖母・傾山群では年寄りには荷が重すぎる。
 阿蘇(南阿蘇や根子岳)、さらには由布・鶴見などを考えて、結局、鶴見岳(1375m)に行くことにした。
 体力に自信のない私には、何しろ山頂付近にまでロープウエイで行けるという利便性が、魅力的だ。
 もっとも行きも帰りも利用したのでは、頂上付近の観光散策にしかならないので、上りか下りの片道だけ使ってあとは山道を歩くことにした。
 しかし、今年の初夏にミヤマキリシマ・ツツジを見るために、上りにロープウエイを利用して、楽な下りは山道をと考えて下りてきたのだが、なんとその下りだけの歩行によってひざを痛めてしまい、ほうほうの体(てい)でロープウエイ駅の駐車場にたどり着いた、という苦い経験がある。(6月14日の項参照)
 
 そこで、今回は登山道を登って、下りにロープウエイで降りてくるということにした。
 由緒ある御嶽権現(おんたけごんげん)火男火売(ほのおほのめ)神社の手前にある駐車場(標高700m)にクルマを停めて歩き出す。
 始めから神社への長い石段の登りで、今までに何度も登ったことがあるから分かってはいるものの、息が切れて時々立ち止まってしまった。
 さらに急な山腹をジグザグに上り、その上の方でなだらかになった山腹に出て、そのあたりでスギの植林地も終わり、自然林の林になり、そこがちょうど上から降りてきた紅葉の始まりの所で、薄緑から薄緋色になり始めた樹々の色合いが素晴らしかった。(冒頭の写真)
 その少し先の分岐の所で、腰を下ろして一休みする。
 上空のほうで少し風の音がしている。鳥の声も聞こえない。
 ここまでゆっくり登ってきて、1時間余り、誰にも会わなかった。
 自然の中に在るということは、かくも心落ち着き穏やかになるものか。まさしく、値千金のひと時だと思う。
 そこでふと思ったのだ、私は恵まれている方なのだろうが、世の中にはそうでない人が数多くいるのだと。

 最近のコロナ禍の中で、人々の閉塞感が広がり、自殺者が増えて問題になっているという。
 特に若い女性の自殺者の数が倍増していることは、ゆゆしきことであり、すぐにでも各行政機関が援助の手を差し伸べるべき、喫緊(きっきん)の課題であり、大げさに言えば、この問題は日本亡国論にも値するものだとも思うのだが。
 さらには、中高年者の引きこもりまでが増えていて、先日のNHKスペシャルでは、「ある、ひきこもりの死」として放送されていたのだが、その男が引きこもりになってから部屋をゴミ屋敷化させて、ついには孤独死してしまう一部始終を取材していたが、その中で哀れだったのは、ノートに書かれていた”生きていても、ちっともいいことはなかった”という言葉だ。
 個人責任論、社会、国家責任論を言うのは簡単だが、将来にわたっての現実的施策としの対策が実行されることがのぞましいのだが。

 そんな中で思い出されるのは、前にも書いたことのある、パキスタンの女性活動家、マララ・ユスフザイさんの言葉だ。
 ”一人の子供、一人の教師、一冊のノート、一本のペンが、世界を変えられるのです。教育以外に解決策はありません。”
 相変わらずの紛争のただ中にあり、貧困の連鎖、社会国家の脆弱(ぜいじゃく)さの中にある彼女の国パキスタンと、平和な社会の中で高度な教育が受けられる日本とでは、比較するまでもないことだが、彼女の言葉を一般論としてみれば、教育の本質を見事に言い当てていると思うのだ。

 つまり、心の貧困さの連鎖は、自ら学び取り求める心がなければ、何も変わらないということにおいて。
 私たちが、学校で社会で学ぶ多くのことは、人生のすべての面において役に立つことばかりだし、そこで学んだものは、それから先の人生において、自分の人生の方向を選択する際に間口を広げてくれることになるからだ。
 具体的に言えば、例えばしろうとの私が北海道で丸太小屋を建てた時には、数学物理の様々な数式が役に立ったし、海外旅行、国内旅行ではもともと好きだった人文地理や世界史の記述をたびたび思い出すことになったし、そこから派生した地図をたどっていく探求心は、今でも山登りの際に活用しているし、国語や古文は今に至る読書の楽しみの礎(いしずえ)を築いてくれたし、家庭科で教わったものは、一人暮らしの時の助けになったし、社会に出てから知ったクラッシック音楽や絵画、映画などは、学校での美術や音楽の基礎があってこそのものだし、今に長く続く私の楽しみにもなっている。

 おそらく、若いころに学んだことで後の人生でためにならなかったことなど、何一つないのだ。たとえ、それが失敗や屈辱にまみれた体験であったにせよ、次なる時に活かすことのできる、有意義な経験教訓になるからだ。
 かと言って、それらのことを学び取ったから、そのことで、人生での成功を導くようになるとは限らないし、功利的なものだけを期待してはいけないことは、言うまでもないことだ。
 私は、他人に誇れるものは何もないし、社会的な成功も収めることができずに、ただの”ごくつぶし”の人生を送っただけの、ぐうたらな男としての一生を終わるのだろうけれども、今ここに在る貧しく穏やかな自分の境遇には満足しているのだ。
 静寂に伴われた暮らしの中で、老年に至った今、なるほど私の今までの波乱の人生は、ここに収斂(しゅうれん)されていたのかと気づいたからだ。

 そういうことなのだよ、とひとりつぶやきながら、私は腰を上げ、直接山頂に向かう道とは分かれて、側火山の一つである南平台へと山腹をまわりこんで行く。
 急なスギの植林地をジグザグに登り、木々が低くなってくると、谷あいの向こうに側に、まだらな紅葉模様に彩られた鶴見岳山頂部が見えてきたが、山頂部に電波中継用の大きな鉄塔が並んでいて、あまり見てくれのいいものではなかった。 
 すぐに、ゆるやかなススキの丘に出る。南平台(なんぺいだい、1216m)だ。
 ここからの展望は、何と言っても正面に由布岳が見えることだ。四季折々に、この南平台には来ているのだが、やはり一番いいのは、冬の霧氷や雪に覆われたころだろう。
 少し休んで、南側の見晴らしのきく大きな岩の所に行って見ると、やはり素晴らしかった。
 鞍ヶ戸(くらがと、1344m)の急な山腹を彩る見事な紅葉模様は、山頂手前の地震による崩壊跡(通行禁止)でさえ、一つのアクセントに思えるほどだった。(写真下)



 そこからゆるやかに下り、西の窪(くぼ)の平坦地に出ると、障壁のように連なる鞍ヶ戸の南面の紅葉が迫ってきて、さらには辺りの樹林帯の紅葉が、まるで絵の具を混ぜたようにひときわ鮮やかだった。(写真下)



 この付近で上から下りてくる人、一人ずつ3人と出会い、小声であいさつした。
 ここから、鞍ヶ戸と鶴見岳とをつなぐ尾根のコルになった所、馬の背への九曲がりのジグザグの登りになる。
 やっとのことで、その馬の背にたどり着くと、鶴見岳北面にある火山噴気孔が見え、周りの紅葉も見事だった。
 またここでも一休みした後、山頂に向けての最後の登りになるのだが、情けないことに、突然足がつり始めて、最初は少しだけだったが、もう歩けないほどになって、まさか助けを呼ぶほどではないにしても、焦ってしまった。
 足がつるのは、特に年寄りになってきてから何度も経験しているから、ともかく腰を下ろして休みマッサージしてみた。

 山を登っている時に足がつるようになって、ひどくなったのは、あの8年前の、今にして思えば最後の南アルプス縦走の時で、大樺沢雪渓を八本歯のコルまで詰めて、そこから北岳に向かおうと思っていたのだが、そこで休んでいざ立ち上がった時に、もう足がつっていて、何とか分岐点まで行ってはみたものの、もう登りは無理だからと北岳はあきらめて、花々の咲くトラヴァース道をたどり、何とか北岳山荘に着いたのだが、たまたまそこに大学診療班が来ていて、見てもらったところ、原因は足を冷やしたこと(雪渓の登りで)、そして水分が不足していたから(確かに余り水を飲まなかった)とのことだった。
 しかし、翌日には脚の痛みは収まっていて、朝早く北岳(3192m)を往復して、それから間ノ岳(3189m)へと縦走し、熊ノ平小屋で泊まり、翌日念願の快晴の塩見岳(3052m)の頂きに立ち(それまでは2回ともガスの中だった)、その日は三伏峠小屋に泊まり、翌朝烏帽子岳(2726m)まで往復して戻り、伊那大島に降りた3泊4日の山旅だった。(2012.7.31~8.16の項参照)

 ともかく今回は、その場で腰を下ろし脚をマッサージしながら少しずつ登り続けて、途中からは由布岳と鞍ヶ戸の素晴らしい光景(写真下)をカメラに収めながら、観光客でにぎわう山頂に着いた。
 そうして、足がつったこともあるが、ここまで4時間余りもかかっていて、今や山登りでは、コースタイムの倍の時間がかかることを覚悟しなければいけないのだろう。
 そしてロープウエイ駅まで下り、ゴンドラに乗ってふもとに降りて、当初はそこから30分ほどの神社の駐車場まで歩くつもりでいたのだが、とても無理で、タクシーに乗ってクルマのもとにたどり着いた。
 何はともあれ、無事に戻ってこられてよかった、静かな紅葉風景も心ゆくまで楽しむことができて、今年の秋の山の紅葉がこれで終わったとしても、私は十分に満足だった。

 昨日から、季節の月日に合わせて、きっちりと寒くなってきた。
 今日の朝の気温は1℃で、霜が降りていた。
 衣類は、上下ともに一枚ずつ重ね着をした。

 いつものように、「新古今和歌集」からの一首。
 
  ”晴れ曇り 時雨(しぐれ)は 定めなきものを ふりはてぬるは わが身なりけり”(道因法師)

 (自分なりに訳してみれば、”晴れたり曇ったりで、いつ時雨が降るのかわからない変わりやすい空模様なのに、それを見ているのは、ただひたすらに年老いていくだけの私なのだ。”)

(「新古今和歌集」久保田淳訳注 角川ソフィア文庫)

 


 





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