ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

古(ふる)物語のはしりなど

2020-08-26 22:01:17 | Weblog



 8月26日

 何と前回から1か月もの間が空いてしまった。
 書くべきことがなかったわけではない、ただこの暑さの中パソコンのキーボードを打つ気がしなかったからだ。
 家は広くはないが、テレビのある部屋にだけクーラーが置いてあり、動かせないデスクトップ・パソコンのある部屋には扇風機しかなく、暑くて”やってらんない”からである。
 今まで、夏中を通してこの九州の家にいたことはほとんどなかったので、この夏の暑さには参ってしまった。
 クーラーのある部屋で(暖房には使っていないので夏だけ稼働のクーラーと呼ぶのがふさわしい)、テレビを見たり本を読んだりしている分にはいいのだが、ベランダ側にはムッとする暑さに満ちていて、いつもは窓もドアも締め切っているのだが、それでも家の中には30℃近い熱気がこもっていて、動き回ることさえおっくうになるのだ。
 ここは山間部にある家だから、幾分涼しく、昔は30℃を超えることは何度かあるくらいだったのだが、今年は梅雨明け後の8月中、ずっと30℃を超えていたというよりは、34℃から35℃を超える日が一週間以上も続いたのだ。

 外国でも、ロシアの北極圏にある町では、何とこの夏に38℃にもなったそうであり、たとえばそれまでも問題になっていたシロクマ生存の危機だけではなく、北極圏の生態系全体にも影響が出るだろうし、それは、今まではるか彼方から聞こえていた遠雷が、いつしか身近にまで近づいてきているような状態であり、やがては地球全体の環境にまでその影響が及ぶのかもしれない。
 しかし、ダーウィンの進化論をかたくなに信じる人々は、いつの間にか異常気象に慣れてきて、その環境を克服してしまうだろうし、こうしたことも淘汰(とうた)進化の過程なのだと考えるのだろうか。

 いつも口にすることだが、私たち年寄りは良い時代に生まれたものだと思う。
 戦争の悲惨さの中にはいなかったし、戦後の食糧危機に見舞われて空腹な思いはしたものの、様々な災害危機は地域的なものに限られいて、私たちはあのアフリカのヌーの群れの中にいるそれぞれの一頭として、憐れみを感じながらも、ただ災難にあった他の仲間を見ているだけだったのだ。
 今回のコロナ禍も、またそうした災害の一つとして、自分の周りでは無事平穏に過ぎ去ってくれればいいと思いながら。
 もうこの年寄りには、残りの短い日々をいかに充足されたものにするかということよりは、いかに平穏な日々を送るかであり、自然なる母の懐の中で、幼児帰りのように守られて、四季の移り変わりを愉しみにしながら。

 ともかく、そうしたいつものぐうたらさに起因する言い訳をすることはできるものの、現実としては、いまだに社会と人間とのかかわりから逃げることはできていない。
 というのも、この年になって、今月検定試験なるものを受ける羽目になり、学生時代以来の勉強をしたのだ。
 もう残り少ないこの世のために、何を今さらとも思うが、まあ考えてみれば、三途の川を渡ってあの世とやらに入り、閻魔(えんま)大王の前に引き出された時には、記憶のたけを思い出して、なんとか言い訳ができるようにと、その勉強や予行演習になるかもしれなと、都合良いように解釈しては見たものの、結局は、”愚か者めが、ワシをだませるとでも思っているのか”と、一喝されて、舌を引き抜かれることになるのかもしれず、とかく生きていても死んでしまっても、どちらでも生きづらい世界ではあるのだ。

 さて、久しぶりのブログ記事なのに、こんなしょうもない話で始めてしまったが、ともかく、山には、前回の記事で書いて以来、何と1か月半近くも登っていない。
 北海道にいるのならともかく、この九州で真夏に山の尾根歩きなどはしたくないからでもあるが、それでもこの時期に九州にいた時には、何度か沢登りで山に登ったことがある。

 その一つが、もう20年近くも前のことだが、阿蘇山の仙酔峡(せんすいきょう)にある仙酔谷である。
 その日は、夏の盛りの8月初旬であったにもかかわらず、まるで初秋を思わせるかのように、空気が澄んでいて、青空は見事なまでの藍色だった。
 上の写真は、久住高原から見たカルデラの中にそびえる阿蘇山で、左側の根子岳から高岳(1592m)に中岳と連なっている(左上には遠く国見岳、別名大国見が見えている)が、これほどまでに山肌がくっきり見えたのは後にも先にもこの日だけだった。(このころはまだフィルム・カメラで写真を撮っていて、今見ると微妙に色彩が違って見える。)
 
 こんな夏の盛りに、むき出しの火山の山肌をたどって山登りをしようという人はいなくて、ロープウエイ乗り場の駐車場には私のクルマが一台あるだけだった。
 この沢には5mほどの滝が何本かはあるが、いずれもたやすく左右に巻くことができる上に、ほとんどがナメ床と小さな釜(かま)の連続であり、初心者でも容易に楽しく遡行(そこう)することができるのだ。(写真下)



 日差しは暑く、できるだけ水の中を歩きながら遡(さかのぼ)って行き、振り返ると、この明るいナメ床の沢の上に、左端の涌蓋山(わいたさん、1600m)から右端の大船山(たいせんざん、1787m)に至る九重連山が並んでいるのが見えて、それは私の思い描く”絵葉書写真”の見事な一枚の光景になっていた。(写真下)



 私は、途中でたびたび腰を下ろしては、この眺めを繰り返し見続けた。
 さらに沢をたどって行くと、上流では水が少なくなり、二股の左股を選ぶと水の流れはなくなり、あとはごつごつした岩だらけのガリーを岩登り風に乗り越えて、高岳へと続く平らな尾根に出ると、頂上はすぐそこだった。
 しかし、わずかな時間その頂上からの展望を確かめただけで、すぐに下りて行くことにした。
 周りはむき出しの火山岩の山肌で、ムッとする熱気に覆われていたからだ。
 帰りは、たどってきた沢と並んで続いている仙酔尾根の登山道を下って行った。
 すぐ向こうには、北尾根の岩稜帯が並んでいて(写真下)、核心部の鷲ヶ峰などは岩登りのトレーニング場として有名であり、私も学生時代にはここで訓練させられたものである。



 往復5時間ほどの、前半は素晴らしい沢歩きで、後半は暑い尾根歩きの一日だった。
 というわけで、今年の夏の盛りには、コロナ禍と前述した試験準備のために、どこも行かなかったが、せめてもと、楽しかった昔の山の思い出の一つをここにあげておくことにしたのだ。

 実際に山に登らなくとも、こうして昔の写真を見たり、あるいはテレビの山番組などを見て、何とか山歩きの楽しさを味わってはいるのだが。
 それにしても、今の状況下では、相変わらず飛行機や高速バスの減便は続いたままだし、風評被害はないにしても、後ろ指をさされたくはないから、今年は北海道に戻るのは無理かもしれない。
 安心して行けるようになるのは、新型コロナのワクチン接種が可能となる来年の春以降のことになるだろうし、その時期でさえ確定できるものではないし、おそらくは、北海道で人生の終わりを迎えるという思惑は外れて、昔からのこの家で寿命が尽きるまでの日々を送ることになるのかもしれない。
 それはそれで、仕方のないことだと思う。
 古来、今までにこの地球上で命を終えた人々は、それがおおむね順送りの道理にかなうものであれ、あるいは悲憤慷慨(ひふんこうがい)するほどの不条理なものであれ、結局は受け入れて、後は従容(しょうよう)として、彼方の世界に続く道をたどる他はなかったのだから。

 最近見たNHKのドキュメンタリー番組、「目撃にっぽん」では、このコロナ禍の被害をまともに受けた業種の一つである、飲食業界の実情を、あの3坪ほどの店が寄せ集まっている新宿は”ゴールデン街”に取材していたが、その中でも80歳を超えるママを筆頭にそれぞれの個性あふれる店主たちが、自分たちの生活を賭けた苦しい中から、一斉休業に向かい、さらに時間と客制限の中で、何とか営業再開していこうと苦労しているさまを映し出していた。
 さらに同じNHKの「ドキュメント72時間」では、7月7日に合わせて、あの芝の増上寺の境内には、人々の願いを書いた短冊(たんざく)が並べられていたのだが、もちろん今のご時世”新型コロナ退散”の類が目についたし、さらにあるOLは、10年前にある人からのプロポーズを受けて、その時は断ったが、今になって思いが募ってきて、再び彼に会えますようにと短冊に書いて手を合わせていたし、進行性の病気にかかっていたある若い男は、これ以上悪くなりませんようにと、思いを込めて書いていた。
 いつも思うことだが、夜空を埋め尽くす星の数と同じように、この地球上に生きている人たちの数だけ、それぞれの喜怒哀楽の人生があるということだ。

 さらに衝撃的だったのは、同じNHKスペシャルのドキュメンタリー番組で、日本の終戦記念日の次の日に放送された、「アウシュビッツ 死者たちの告発」である。
 75年前に、ナチス・ドイツの時代に行われていたユダヤ人に対するホロコースト(大虐殺)の事件は、誰でもが知っていて、その写真を何度見ても思わず眼をそむけたくなる悲惨な事件だが、そのアウシュビッツ収容所で、近年、土の中に埋められていた何枚ものユダヤ人たちの手記が見つかって解読され公表されたのだ。
 その秘密裏に書かれていたメモは、収容所内のユダヤ人たちとの通訳をしたり、彼らををガス室に送るべく指示したり、ある時は死体運びなどもした、同じユダヤ人のゾンダーコマンド(秘密司令員)たちのものだったのだ。

 命令されるドイツ兵たちにそむけば死があるだけだし、収容されている大勢の仲間のユダヤ人たちからは、裏切り者とさげすまれ侮蔑(ぶべつ)の白い眼で見られていて、それでも、彼らはその究極の選択の中で必死に生き延びてきたのだ。

 私たちに何が言えるだろう。
 迫りくる生と死のはざまで、人間として、生きものとして選ぶべきものは、どちらなのか・・・。
 前にもあげたことのある、フランスの作家にして、レジスタンスの旅団長であり、戦後はド・ゴール内閣の文化大臣にもなった、アンドレ・マルロー(1901~76)の若き日の小説『王道』の中で、その最後の所で、主人公クロードの年上の友であり人生の師でもあった、ペルカンの死にゆくさまを描いた場面からだが・・・。

 ”いかな神聖な思想も、いかな未来の慰安や償いも、なにものも人生の終焉(しゅうえん)に意義を与えることはできないのだと・・・「死など・・・死などないのだ。ただおれだけが・・・ただおれだけが死んでゆくのだ・・・。」”
(『世界名作全集36』マルロー「王道」小松清訳 筑摩書房、その他の新訳によるものもあるが、意訳があるにせよこの小松清訳の語感こそがふさわしいと思う。蛇足ながら、あのフランシス・コッポラの監督の『地獄の黙示録(1979年)』のマーロン・ブランドの演じたカーツ大佐は、この「王道」のペルカンをほうふつとさせる。)

 ところで、いつもの年なら4月の半ばころには北海道の家に戻り、そこに秋いっぱいまでいて、つまり7か月近くを過ごして、冬の間はこの九州の家に戻るという繰り返しだったのだが、数年前から雑用などが重なりそのリズムが少し崩れ始めてきていて、ただし、まさか今年のような状況になるとは考えてもいなかったからでもあるが、この半年は全く違う生き方をしなければならなくなったのだ。
 と書くといかにも大げさだが、どこにいてもぐうたらな自分の性分が変わることはないから、環境に応じて生活を少し変えたというだけのことなのだが。

 つまり北海道の家にいれば、春は山菜取りに忙しく、エゾハルゼミの耳を聾(ろう)するばかりの鳴声にも慣れて、野山の草花を楽しみ、そうするうちに秋の季節になり、ラクヨウタケのキノコのシーズンになり、地元産の安いイクラを美味しくいただいて、深紅の紅葉の照り返しの中にいられる幸せを感じて、それらの季節折々の山に登っては、残雪と新緑のコントラストを楽しみ、高山植物の花々を眺めて、山肌を染める紅葉模様に歓声をあげてきたのだ。
 それがここ九州の家にずっといる羽目になり、北海道での楽しみが失われてしまったのだ。

 しかし、悲しむことはない。この九州の家にいることで、得たものもまた幾つもあったからだ。
 まず第一に、長らく気になっていた自分の体について、幾つもの診療や手術を受けた結果、そのほとんどの病状が回復したのだし、家の周りの野山をくまなく歩き回ることもできたし、新緑とミヤマキリシマの花に彩られた山々も、じっくりと眺めることができたし、”ゾウにはゾウの時間があってネズミにはネズミの時間がある”ように、それぞれの、環境における愉しみを見つけてゆけばいいだけの話しだ。

 前回にも書いていたように、今は日本の古典文学に夢中になっていて、『宇治拾遺(うじしゅうい)物語』から『今昔(こんじゃく)物語』を少し読み返し、さらには日本最古の物語である『竹取物語』から、『落窪(おちくぼ)物語』そして『宇津保(うつほ)物語』へと進んだところであるが、まだこの王朝期のいくつかの日記随筆集も残っているし、その一方でまだあの『源氏物語』は途中までだし、『新古今和歌集』も最後までは読み終えていない。
 あえて言えば、私は今の時代の小説を読みたいとは思わないし、むしろ人間の控えめな心の機微(きび)を巧みに描いた、こうした、古文、旧仮名遣いの日本の古典文学に強く惹かれるのだ。
 もちろんそのうちのいくつかは、若いころに読んではいたのだが、あの頃の私と今の死にかかっているじいさんの私とでは、その感じ方も違い、何とか生きているうちに一冊でも多く読みたいものだと思っている。

 そう考えてくると、明治時代の以降の日本文学はだいたい目を通してはいるものの、もう一度読み返したくなってくるし、さらに世界に目を向ければ、ギリシア神話に始まる欧米文学も、もちろんその多くを読んではいるが、例えばトルストイの『戦争と平和』やドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に、プルーストの『失われた時を求めて』といった大作が残ってはいるし、果たして生きてるうちに・・・と思ってしまう。

 考えてみれば、私の行動や考え方の規範となってきたものは、その多くがこうした文学作品に触発されたものだし、さらに絵画や音楽、映画などが、それらの思いを支えてきてくれたように思う。
 子どもはなぜ学校に行って勉強しなければならないのか、ということが最近問題になっていて(たまたま今日NHKで『世界は教科書で作られている』というクイズ番組をやっていたが)、言うまでもないことだ・・・将来の自分のために学ぶのであり、それらのすべては大人になっていく過程の中で、すべて生かされるはずだし、無駄だと思える教科など一つもないのだ。

 学ぶこと読むことで、その積み重ねこそが、後の人生を豊かにし、生きていく上での選択の幅をずっと広げてくれるのだ。
 なぜ学校で勉強をしなければならないのか、というような愚問は、おごりとぜいたく溢れる環境の中からしか生まれないものだろう。

 あのイスラム教の国パキスタンで、タリバーンによる銃撃に遭いながらも、教育の重要さを説き、”一人の子供、一人の教師、一冊の本、一本のペンを”と訴え続けたマララ・ユスフザイさんの声が聞こえないのだろうか。(半年ほど前に、そのオックスフォード大学で学ぶマララのもとへ、あの二酸化炭素排出ゼロ運動を世界に呼びかけている、スウェーデンのグレタ・トゥーンベリが訪れて、若い女性活動家の二人は、親しく語り合ったとの記事が載っていた。) 

 ほれ、こうして自分の残り少ない人生を嘆いているこんなじいさんでさえ、これからの人生の選択の機会さえ余りないのに、若き日の自分の思いに重ねては、本を読んでいるのだ・・・もっとあの頃に、しっかりと学校の勉強をして、多くの本を読んでおけばよかったと思いながら。

 先日、民放のバラエティー番組で、”私の本棚”と言うことで三人の若い女優、女芸人、画家イラストレイターの愛読書が紹介されていたが、マンガ本とミステリー、自己啓発本だけで、日本の古典はもとより、少し前の時代までの日本文学はおろか、世界文学の一冊さえ見ることはできなかった。
 もちろん、それぞれの好みというものがあるのだから、そのことを悪く言うつもりはない。
 私たちの若い時代には、読むべき本は、三島由紀夫であり大江健三郎であり安部公房であったように、今の時代には、分かりやすく筋書きのはっきりした冒険活劇のマンガが好まれるのだろうし、彼女たちもそうしたマンガ作家たちの考え方に影響を受けて、自分なりの価値観を築いていくのだろうし、いつの間にか日本の歌の表舞台からは、演歌が消え去り、若い人たちに支持される今の時代の歌ばかりになったように、時代の流れの中では、もう”老兵は死なずただ消え去るのみ”と言うことなのだろうか。
 今の若い人たちからすれば、昔、日本文学全集などと呼ばれて出版されていた本のすべてが、もう古い日本の古典でしかなく、まして私が今読んでいる王朝時代の和歌、物語、日記随筆などはおじいさんが神棚の奥にしまっている古い書物でしかないのだろう。

 それを、私がとやかく言うつもりはない、君たちの未来は君たち自身の価値観によって、具体化されていくものだし、良かれ悪しかれ、その結果こそが君たちの時代なのだから。
 それでも、私は、年寄りらしく古いものにしがみついては、あくまでも自分の思いのままにわがままに、日本の古典文学を読み続けていきたいと思っております。

”・・・ただ臥し起き明かし暮らすままに、世の中に多かる古物語のはしなどを見れば、世に多かるそらごと(つくり話)だにあり、人にもあらぬ (他人とは違う)身の上まで書き日記して、めずらしきさまにもありなむ、とおぼゆるも・・・。”

(完訳日本の古典『蜻蛉(かげろう)日記』木村正中・伊牟田経久 校註・訳 小学館)
(以上、文中に記した日本文学の古典作品の多くは、現代語訳付きで”角川ソフィア文庫”から出版されているし、もっと大きな書籍サイズで読みたければ、”book-off"などの中古本屋さんで、昔の全集物を安く手に入れることができる。)
 

 


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