7月8日
まだまだ、雨が降り続いている。
以下の記事を書き終えたところで、熊本大水害に続いて北部九州の大雨災害が起きて、テレビニュースでも、被災地の惨憺(さんたん)たる被害状況が映し出されていて、とてもそんな状況下で、自分がのんびりと楽しんできた山の記事などを、このタイミングでブログに掲載するわけにもいかず・・・全く今の世は、都会の町ではコロナ禍に戦々恐々として、かといって田舎ではこうした災害が起きやすいし、いつも例えに言うように、アフリカのサバンナで、一頭のヌーがライオンに捕まり食べられているのを、仲間のヌーたちが遠巻きに見ているようなものなのかもしれない・・・同情を込めて見守りつつ、しかし、自分でなくてよかったと思いながら。
そのニュースの中で、被災者のおかみさんらしい人が、記者のインタビューに涙ながらに答えていたが、”ここまで(コロナ禍休業などを)我慢してがんばってきたのに、この水害でもう・・・”。
私たちにできること・・・10万円給付金があるのだが。
そして、いまだに飛行機・バスの減便や運休は続き、新型コロナは勢いを盛り返していて、北海道はさらに遠くなってしまった。
しかし、今は自分なりに、この地での日常の仕事に戻るしかはないのだろう。
またしても、前回よりは2週間以上もの間が空いてしまった。(結局はまたも3週間。)
当初はこのブログを、自分のもう一つの日記として、そこはかとなく起きる日々の身辺雑記について、記録しておこうと思っていたのだが、相次いだ周りの人の不幸によって、無常の世を嘆く思いにとりつかれ、今ではいささか手前勝手な観念論と、テレビ野次馬のひとりごとと、そして山の記述を書くばかりになってしまった。
それでも、そうした独断と偏見をここに記していくことこそが、私としての生存確認の作業なのかもしれない。
ただ、私が記事を載せない間にも、毎日数十人もの人々たちがこのブログを訪れてくれていて、こんなじじいの世迷いごとを何とありがたいことかと思いながらも、反面いぶかしくもあり、ともかく昔に比べて、すっかり記事掲載の間隔があいてしまうようになっているのは、読んでくださる皆様には申し訳ないとも思っております。
しかし、そこはそれ、もはやあの世の世界へと漕ぎ出したこのじいさんのボロ舟にも、こうしてよたよたと白い航跡がついておりまして、それは彼方におぼろげに見える”死の島”へと向かう、あのベックリンの描く船のようでもありますし、またはその水面に残る航跡は、あの『万葉集』の中の有名な一首で、このブログでも度々あげている、沙弥満誓(さみのまんせい)の、”世の中を 何に譬(たと)えむ 朝開き 漕ぎ去(いに)し船の 跡なきごとし”、の情景にも重なるのではありますが。
それにしても今回、もう一か月も前の山の記録を今さらここにあげるのは、日記の記録としてはいささかはばかられるのだけれども、こうして写真を見直してみても、自分の山の記録としては十分に価値あるものだということには変わりなく、記事として書き残すことにしたのだが、ただ前回も同じようなことを書いていたようで、どうも年寄りは同じ弁解を繰り返すようで、今さら治らぬしみついた悪癖の一つではありますが、お許しくだされ。
さて、6月初めのその日は予報通りの快晴の空が広がっていて、時期的にまだミヤマキリシマツツジの花の盛りには早かったのだが、満開時期の駐車場や登山道での混雑を考えれば、むしろ山を楽しむにはこのころがちょうどいいのだろうが。
とは言っても、いつもの牧ノ戸峠(1330m)の駐車場は、8時前にすでにクルマがいっぱいで9割ほど埋まっていたが、何とか停められて一安心。
勾配のある舗装された遊歩道を、ゆっくりと歩いて行く。
朝の冷気と見上げる青空、やはり山はいいなと思う瞬間だ。
何人もの人に抜かれたが、こうして後からくる人たちのために、足の遅い年寄りが脇によって道を譲るのは、もう習慣にさえなっていて、むしろその方が私にとってもいいことなのだ。
それだけ長く山を周りを見ることができるのだし、やはりゆっくりが基本だから、いくらかは疲れもたまりにくいのではないのだろうか。
もっとも前回の登山でヒザを痛めていたから、余計に無理は禁物で、今回も痛みを感じたら、その時点で引き返すつもりでいた。
目的は、この牧ノ戸コースでは最短の扇ヶ鼻(1698m)までであり、とてもその先の久住山や中岳にまで行くつもりはなかった。それも、標高が高いところほど、まだツツジの花は咲いていないはずだからなのだが。
30分ほどで沓掛山(くつかけやま1503m)前峰に着いたが、薄い霧状の雲が下界を覆っていて、かすかに阿蘇山高岳(1592m)の頭だけが見えていて、反対側の由布岳(1583m)もかすんでいた。
もちろん、道の途中所々にツツジも咲いてはいたが、まだ半分ほどで、むしろアセビの明るい新緑がもこもこと続いていて、それだけでも十分に見ごたえがあった。(写真上は、帰りの時の縦走路より沓掛山、少しミヤマキリシマも見える。)
その先のなだらかな高原歩きのような尾根歩きの後、主峰久住山(1787m)方面へのメインルートとは離れて、扇ヶ鼻への登りとなる分岐点に着く。
ツツジが満開のころであれば、見上げる北斜面が、明るい赤紫のカーペットのようになって広がっているのだが、もちろんまだ早くて、幾つか咲いている株があるくらいだった。
急勾配の道を登って台地上の広がりに出るが、ここは満開の時には、花々の上に遠く祖母・傾の連山に阿蘇山が見えて実にいい所なのだが、今はさらに薄雲も広がっていて、それらの山々も見えない。
ただ足元には、イワカガミの小さな花や、背の低いベニドウダンの花がかわいらしく咲いている。
ゆるやかに道をたどり岩が集まり盛り上がった頂上に着くが、人々が数人いたので、いつものように少し離れた西の肩の所へ行ってみる。
そこで、南側の景色を見下ろして気がついた。
ここから熊本県側の瀬の本に下りていく途中の、岩井川岳(いわいごだけ、1522m)岳の南斜面に、ミヤマキリシマの株が点々と咲いていたのだ。
今までは、この時期に登ったことがなかったから、知らなかった。
この岩井川岳は、扇ヶ鼻や隣の肥前ヶ城と同じ溶岩台地であり、他の九重の主峰群の粘り気の強い溶岩でできた、いわゆるトロイデ状のこぶ状の山体とは違い、流れやすい溶岩でできた平頂峰であり、目立った個性のある山でもないから、登山者にあまり注目されることもない。
私はこの山を二度通ったことがあるが、いずれも夏の暑い時期に、久住高原から滝がほとんどない小田川を詰めていく沢登りで、楽に扇ヶ鼻の頂上に出ることができたのだが、いずれも午後のにわか雨に出会い、岩井川岳はただ通り過ぎただけの山だった。
扇ヶ鼻西の肩からツツジやアセビの灌木帯に入り、やがてリョウブやノリウツギなど低い樹林帯の急斜面を下っていくと、30分余りで明るいクマザサの台地に出た。
あの”ビフォアーアフター”のナレーション風に言えば、”まあ何と言うことでしょう。そこにはまるで庭園に植えこまれたような低いクマザサの平地に、点々と、あの明るい赤紫色のミヤマキリシマの花の株がならんでいたのです。” (写真、岩井川岳の台地と扇ヶ鼻)
もちろんそれは、山の台地や斜面全部を埋め尽くす、あの扇ヶ鼻や平治岳の絶景にはとても及ばないけれども、下草のクマザサの中にまばらに咲いている、ツツジの株の配置具合がなんとも絶妙の構図を作っていて、しばらくは立ち尽くして眺めているばかりだった。
九重に何十年も登っていて、恥ずかしながら、初めて出会う光景だった。
このクマザサの平原の中には、細い道が幾つかつけられていて、三角点の山名表示を過ぎて、さらにゆるやかに下っていくと、その先にはもう一段下に同じようなミヤマキリシマの群落があって(写真下)、さわやかな風に吹かれて私は、花の中を夢心地でさ迷い歩いたのだ。
1km 四方ぐらいに広がる、私の知らなかったもう一つ九重のミヤマキリシマ群生地だった。
扇ヶ鼻が花の盛りのころには、ここの花はもう終わっているだろうし、今回もたまたま扇ヶ鼻がまだ二三分咲だったために、ちょうど今が盛りのこの岩井川岳のツツジに出会うことができたのだ。
それも二人づれと行き交っただけで、あとは誰もいない、静かな明るい高原の風景の中に、私はひとりでいることができたのだ。
良くないことがあれば良いこともあるし、人生の日常の運不運などあってないようなもので、受け取り手の考え方次第なのだろう。
さて登り返しはさすがに息が切れて途中で一休みし、戻って来た扇ヶ鼻からは、また人々のにぎやかな声を聞きながら下りて行った。
幸いにもひざは痛くなかったが、再発しないようにと急な下りではそろりそろりと足をおろして下ってきた、牧ノ戸の駐車場に着いたのは、もう2時半にもなっていて、コースタイムの五割増しの時間がかかっていたが、私はあの岩井川岳のツツジを見ただけで十分に満足していた。ああ、いい山だった。
(蛇足ながら、岩井川岳をどうして”いわいご”と読ませるのだろう。川や河、江などを、”ごう”と読ませる例は全国に幾つもある。私が思いつくだけでも、例えば島根県の江の川(ごうのかわ)や、近江の国の別名は江州(ごうしゅう)だし、何よりも同じ九州というところでは、屋久島にある高層湿原の花ノ江河(はなのえごう)が一番最初に思い出されるところだが、他にも気になるのが上高地(かみこうち)で、もともと神垣内と呼ばれ穂高神社が祀られているのだが、憶測を広げれば神江地(かみごうち)とも書くことができるのではないのかと。しかし、この九重の岩井川岳にはそうした川や湿原はない。それはなぜなのだろうか。
あのNHKの「日本人のお名前っ!」ではないけれど、日本の地名人名は面白い。前回の番組では、依頼を受けて伊家(いいえ)という名前の由来を調べていくと、それは何と、あの伊賀一族が分かれ棲んでいた所からきているのではないかというのだ。つまり昔の人たちが自分たちの出自を隠し、一方では、誇りある一族の名前を残すために、その地名や姓として残したのではないのかというのだ。伊賀一族の”伊の家”つまり、”いけ”から”いが”として読める名前として・・・前回にもここにあげた、あの出牛(でうし)が隠れキリシタンの”デウス”から来ているのではないかという話とともに、まさに鳥肌ものの一瞬だった。)
さて余分な話で長くなったが、その数日後、私はまた九重に行ってきた。
今までに何度も見てきてはいるのだが、九重のミヤマキリシマの中でも一番だと言われている平治岳(ひいじだけ1643m)は、おそらく日本の草木類の山の花の中でも、その単一種が占める広さと色合いの華やかさを含めて、他に比較できるところがないほどの景勝地だと思っている。
繰り返すが、歳とともに足腰が弱ってきたことを実感しないわけにはいかないから、年寄りの悪あがきで、私が今のうちにもう一度と見ておきたいと思うのは、無理からぬことなのだろうが。
そして、山の花の話を続ければ、私が今まで見てきた高山植物のお花畑の中では、北アルプスや南アルプスのお花畑は、花の種類も色とりどりできれいなのだが規模が小さいく思えるし、ただその中でも記憶に残るのは、あの黒部五郎岳のコバイケイソウの大群落(2012.8.23の項参照)だが、他には霧ヶ峰、日光さらに見たことはないが佐渡ヶ島、そして東北の山々のそれぞれのニッコウキスゲの群生地(飯豊山2010.7.30の項参照)、さらに大雪山はいたるところがお花畑なのだが、とりわけ裾合(すそあい)平のチングルマの大群は圧倒的である。同じ大雪山の広大な五色が原もはずせないけれども、最近では部分的にササの侵入が目立つようになってしまった。)
もちろん山で出会う高山植物は、ただ一つだけであっても、長年憧れていたものであれば感動するものだが、例えばその昔、南アルプスは北荒川岳(2698m)近くに咲いていたあの紫色のアツモリソウの花もそのひとつだが、8年程前に再訪した時(2012.8.16の項参照)にはもう見つからなかった。
さて、その日は九重のミヤマキリシマが最盛のころであり、そして予報は快晴であり、もっとも人気の高い平治岳とくれば、混雑は覚悟の上で、私としては前回よりは少し早めの7時には、男池の駐車場に着いたのだが、さすがにここももう8割ほどのクルマで埋まっていた。
しかし何といっても、上空には青空が広がっているし、久しぶりにあのミヤマキリシマの流れ落ちるような大きなうねりを見られるのかと思うと、やはり少し心浮き立つ気分になる。
前回、ツツジを見るために平治岳に登ったのは、もう10年も前のことで、あの頃はまだ元気があって、ついでにと黒岳にも登っているのだ。(2010.6.10の項参照)
さて、静かな自然林帯から小尾根に取り付いて、ソババッケのくぼ地に降りて、そこからの北大船と平治岳の裾が合わさる沢状の登りの所がきつかった。
後ろから登ってくる人にはすべて道を譲って、私はのろのろと歩を進めるだけだった。
ようやく上部で、いつものヒメシャラやリョウブなどの明るい低木林のなだらかな斜面を抜けると、人々の声が聞こえ、何十人もの人が憩う大戸越えの鞍部に出た。
目の前にそびえる平治岳の花の斜面、その間を登り下る人々が点々と見えている。
ここからは、もうカメラのシャッターを押しっぱなしというくらいに、花の写真を撮り続けた。
(この日だけで、160枚余りも撮ってしまった。フィルム時代なら36枚撮り一本だけだったのだが、まあ”下手な鉄砲も数打ちゃあたる方式で”撮っているだけで、アマチュア・カメラマンの域にも達しない、ただのカメラ好きじじいに過ぎないのではありますが。)
この狭い道でも、後ろからくる人に道を開けて立ち止まり、息を切らしてやっと平治岳南峰にたどり着く。何度も見ている光景とはいえ、ここから本峰との間の斜面を埋める花の波が素晴らしい。(写真下)
あちこちに人の姿が見えるが、もうこの花の景色が見えていればあまり気にもならなくなって、ただ写真を撮りまくった。
そこから狭い道を人々とすれ違いながら、ゆるやかに下って人々でいっぱいの鞍部に下り、最後の一登りで頂上に着く。民放のテレビ局のスタッフがドローンを飛ばして撮影していた。
さらに、頂上から西側へとゆるやかに花の間の道を下り、大きな露岩の所でやっと腰を下ろした。
いつもの大展望が広がっていた。坊がつるの湿原と三俣山(1745m)を背景に入れたツツジの斜面の写真は、おなじみのものだが、どうしても何枚も撮ってしまう。(写真下)
ここまでくると人も少なくなって、しばらくの間は花の大展望を楽しんだ。
頂上に戻る途中も、頂上と南峰との鞍部の所に黒岳が見えていて、周りは花に埋まっているいつもの光景(写真下)だが、やはり何枚も撮りたくなってしまう。
この平治岳、登りも下りも写真を撮りたくなるところが多くて、ゆっくり登り下る私にはかえって都合がいいくらいだ。
そして大戸越えの鞍部に戻り、あとは樹林帯の下りだが、前々回の鶴見岳でのひざの痛みが怖くて、15分に一度は腰を下ろして、脚を休ませ、男池の駐車場に戻って来たのはもう4時に近くになっていて、朝からの行動時間は何と8時間半にもなっていた。
コースタイムは5時間ぐらいだから、私の足の遅さがわかるというものだ。ただ確かに疲労困憊(こんぱい)ではあったが、ともかくひざが今回も痛まなかったのがありがたく、何よりも”冥土の土産(めいどのみやげ)”になるべく、ミヤマキリシマを目に焼き付けられたことが一番だった。
しかし、この10日後にまた山に行ってきたのだが、それは次回に。
今日(7月4日)のNHKスペシャルで、おなじみのタモリと山中伸弥教授が出演して、有史以前から続く”人体×ウィルス”の免疫の闘いについて話をしていたが、タモリのふとした疑問、”ウィルスは一体人体に何をしたいんですかね、自分たちが増殖すれば人の死で自分たちも死んでしまうのに”。山中伸弥教授の答え、”彼らはただ増えたい増殖したいだけなんですよ、人の死なんて頭にもないんです。”
今回の平治岳登山で、いつも男池登山口から30分ほどで”かくし水”の水場に着くのだが、行きも帰りも必ずその水を飲んで一休みするのが、私の愉(たの)しみの一つでもあるのだが、若いころは足を止めることなく通り過ぎていたのに、今ではひと時の”命の愉しみ”を味わう場所になっている。
”松の木陰に立ち寄りて 岩漏(も)る水を掬(むす)ぶ間に 扇の風も忘られて 夏なき年とぞ思いぬる”
(「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」四句神歌より 新間進一・外村南都子校註訳、小学館版「日本の古典」)