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小説 人生の最終章(4)

2007-04-05 13:11:03 | 小説



 香田の帰宅の車の中は、彼女の残像で満たされ、特に病院の裏門で手を上げた挨拶が目に焼きついていて、いやでもにやりとさせられる。それに、彼女のコートの中の肢体を想像して、危うく追突しそうになって冷や汗をかいた。
 それから何度か顔を合わせているうちに、正午にあと十分ほどというとき、「お昼をご一緒しませんか?」と香田が誘ったのがそもそものきっかけだった。



 今日は四月の末なのに初夏の陽気になりそうだと、天気予報は伝えている。浅見けいは、大きく開口をとったリビングからテラスに出て、朝の新鮮な空気を吸い込み前方の海を眺めると、その色はあの寒い季節の鉛色から明るいブルーに変わったようだ。こういう海を眺めていると、元気だった頃の夫とよく海に行ったことを思い出す。
 ぼんやりと考えを巡らせていて、あの香田という人とこれ以上付き合ってもいいものか、心が揺れ動いている。夫に悪いという後ろめたさが、どうしても離れない。かといって浅見けいの男関係が、亡き夫一筋だったわけでもない。
 彼女ほどの美貌とプロポーションの持ち主であれば、幾多の男遍歴があってもおかしくない。ところが、傍(はた)が考えるほどでもなかった。
 結婚まで二人の男と付き合ったが、彼女の貞操観念が強く、男たちは苛立ちとともに去って行った。
 亡き夫を心から愛した彼女は、いま心の虚空がとてつもなく大きなものになっているのを感じていた。かといって、いまから再婚を考えるというのは、一考に値しない。なぜなら、五十一才と言う年齢のこともあるが、それにまつわる雑事、特に手持ちの資産の行方に気を使うのには耐えられない。
 そんな考えを振り払いながら、朝食のトーストとベーコンエッグ、コーヒーをテラスの小さなテーブルに運び椅子に座る。今日のような日、海を眺めながら一人で摂る食事には、慣れてきたとはいえ、寂寥感が忍び寄っていることも確かだった。 香田から、今日診察が終わったら、お昼を一緒にしようと誘われている。その席でどんな誘いをするのか判然としないが、誘いには乗らないと決めていた。

 診察を終えた二人は、駅近くの和食料理店に腰を落ち着けた。ランチセットを注文する。待つほどのこともなくランチセットが運ばれてきて、ゆっくりと食事を摂りながら、話題はあちこちと飛び跳ねて二人にまとわりついた。香田が唐突に
「ところで、インターネットはお使いですか?」と聞く。
「ええ、二年ほど前、息子がパソコンを買ってくれて、使い方も教えてくれました。それで列車や飛行機の時刻を調べたり、乗車券や搭乗券の購入をしたりして重宝していますわ」
「そうですね。調べ物に便利で私もよく使います。それにメールも便利ですね。ああ、そうそう、これが私のメール・アドレスです」と言って香田は名刺を差し出した。香田はパソコンで個人用名刺を作っていた。
 浅見けいの手が出てこないので、テーブルに置いた。彼女は、うつむき加減で考え込んでいるようだ。
「もう一枚いただけますか」香田は予期せぬ言葉に戸惑いながらも
「いいですよ。さあどうぞ」と言ってけいに手渡す。けいはその裏に自分のメール・アドレスを書いて「これが私のです」と言って香田に返した。
「じゃあ、これからは何か連絡したいときはメールにしましょう」と香田が付け加えた。
 けいは、メールのやり取りは一度もないだろうと考えていた。会話は途絶えて何か落ち着かない雰囲気になってきた。香田は誘いの言葉をどこで切り出すかタイミングを計っていたが、息苦しくなってくるようで、この一瞬を逃せば一生悔やむことになるのではという焦燥が拍車をかけた。グラスの水を一気に流し込み
「近いうちにご一緒していただけませんか? 外房の海を見るというのは――」
けいは困惑の表情を浮かべた。目をしばたたきながら
「主人を送ってからまだ時間が……。今すぐご返事と言われても……」
「いや、すぐと言うわけではないんです。ご一考いただければと思います」それからの時間は、ぎこちなさに包まれていた。

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