

右から大久保利通、伊藤博文、岩倉具視、山口尚芳、木戸孝允
知られざる歴史的壮挙というべき大旅行がある。「岩倉使節団」の物語である。明治四年、誕生間もない維新政府は、革命的大手術「廃藩置県」のわずか四ヵ月後にもかかわらず、大使節団を米欧に派遣する。岩倉具視(いわくらともみ)、木戸孝允(きどたかよし)、大久保利通(おおくぼとしみち)という維新革命の立役者が、揃いも揃って西洋文明の探索に出かけるのだ。幕末に条約を結んだ米欧12カ国へ、1年9ヵ月余(632日)にも及ぶグランドツアーである。それは「黒船」に象徴される西洋列強の圧倒的なパワーに対する、「誇り高き日本人」の果敢なチャレンジであった。(著者まえがきより)
明治4年11月12日(陽暦1871年12月23日)三本マスト、4500トンの外輪蒸気船「アメリカ号」は、岩倉具視特命全権大使をはじめ、随員や留学生を含めて総勢107名を乗せて横浜港を離れた。107名の中には、駐日公使デ・ロング夫妻が世話をする日本人少女5人も含まれていて、その中に津田塾大学の創設者津田梅子、当時6歳の姿もあった。
使節団派遣の目的は、三つあるという。一つは、封建的な将軍国家から近代的な天皇国家に生まれ変わったこと。さらに、200年の鎖国政策から開国という新日本のデモンストレーション。二つ目に、条約改正についての打診。当時は法的整備が未熟のため、とても対等に改正交渉できる状態になかった。第三に欧米列強の視察であった。
アメリカ、イギリス、フランスからヨーロッパ、アジアと歴訪した。アメリカは、大陸横断鉄道が走っているし、イギリスも鉄道網はすでに充実し地下鉄まであった。フランスも花の都にふさわしく先端ファッションや街路の美しさに一行は堪能する。しかし、ロンドンのアヘン窟を見て持てるものと持たざるものの格差の大きさに驚きながらもことの本質に迫ろうとする。急進的開化派と漸進的開化派それぞれが、欧米の現状を見ることによって現実的になっていくのが面白い。
政権ががらりと変わった点とその政権が抱える問題点は、明治も平成も変わらないのがこれまた面白い。明治政府が抱えるのは、財政問題、金融貨幣問題、失業者対策などがあった。平成の民主党政権も規模の大きさが違うだけで、同じような問題に直面している。
明治政府から教訓を読み取ろうとすれば、それは急激な変革に何の利点もないことだろう。民主党政権もややマニフェスト実現を急いでいるように思われる。むしろ今の状況を見ていると、もともと政権を取れるとは思っていなかった印象が強い。というのも各閣僚のコメントが「マニフェストに書いてあるとおり実行します」を連発しているのと前原国交相や北沢防衛相が就任後現地を視察したことがその証左と言える。
小沢の戯言(ざれごと)と思っていたのか、本気で政権をとろうという意欲が浸透していなかったのだろう。北沢防衛相が視察のあと、見ると聞くのは大違いと言うようなことを漏らしていたのは、何を今更という感が強い。
岩倉使節団メンバーの観察、洞察、分析、表現、立案にそれぞれ秀でた力を発揮したが、残念ながら交渉力に経験不足が災いした。いずれにしても日本の近代化に大いに貢献したことは確かだ。
さて、その使節団メンバーの年齢は、岩倉具視47歳、木戸孝允39歳、大久保利通42歳、伊藤博文31歳という若さであった。平成の民主党政権は、人材に恵まれていないのかもしれない。
著者の泉三郎は、昭和10年(1935年)生まれ。一橋大学経済学部卒業。在学中に石原慎太郎らと南米大陸横断のスクーター旅行。事業の傍ら1976年から岩倉使節団の足跡を追う旅をはじめ、約8年で主なルートを訪ね終える。その成果をもとに、数々の著作やスライド映像を制作。96年には「米欧回覧の会」を設立、代表となる。