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ディヴィッド・エリス「死は見る者の目に宿る(Eye of the Beholder)」

2008-12-25 12:47:55 | 読書

           
 1989年夏、大学の講堂の地下室で並んで横たわる六人の女性惨殺死体が発見された。そのうち四人は売春婦であとの二人は、この大学の裕福な家庭の子女だった。 そして学校の用務員が容疑者として浮かび上がり、自宅地下室から容疑を裏づける証拠物件も発見された。そのなかに聖書から六つの引用箇所を書いた紙切れも見つかった。要するに神のお告げといいたいのかもしれない。
 検事補のポール・ライリーは事件を起訴し、犯人は結局死刑に処せられた。それが16年後の2005年の季節も同じ夏、模倣犯かと思われる事件が発生し始めた。
 1989年当時、検事補だったポール・ライリーは2005年には弁護士に転身していた。そのポール・ライリーが新たな事件にも関与せざるを得なくなる。担当の二人の刑事から容疑をかけられながらも謎を解いていく。
 わたしはミステリーを長く読んできたが、この頃やや食傷気味になってきた。良質の謎解きなら興味深いが、裸の女が切り刻まれ心臓を抉り取られたり、アイスピックで何箇所も突かれた穴から血が流れていたり(傷から血が流れるのは、心臓が動いていた証拠で被害者は生きていたとき傷つけられたことになる)、人相が分からなくなるほど殴られたり浴室の血の海の中にチェーンソーで細切れにされ肉片が散らばっているという情景などを押し付けられるとそんなにこと細かく書かなくてもいいだろうという気分になる。
 この本はそんな情景ばかりでなく、ポール・ライリーの人間的成長のあとも見られることだ。凄惨な殺人事件で問題になる犯人の精神状態について、1989年当時は陪審員に具体的に例証して死刑の判決を得た。しかし、ポール・ライリーは、振り返って次のように言う。
 “法律は両立し得ない社会的憂慮に折り合いをつけ、厳罰主義と温情主義のバランスをとるための苦肉の策として、そうした事情――極度のストレス、一時的な心神喪失――を考慮して刑罰を軽減することを認めている。あのときわたしは、被告にそうした酌量すべき事情があるかどうか、一瞬たりとも考えなかった。
 弁護側が心神喪失を理由に無罪を主張すると、その主張に反する証拠を次々と挙げて反論した。その間、自分にはこう言い聞かせた――被告には弁護人がついている、陪審員もいる、裁判制度はいわば社会の安全装置であり、必ず真実が明らかになるよう万全の対策が講じられている。
 しかし、あのとき検察官としてわたしに求められていたのは、勝つことだけではなかった。あらゆる証拠が、被告は重度の精神障害者であることを示していたにもかかわらず、わたしの目には単なる障害物、避けなければならない地雷としか映らなかった。勝つためにはそうでないことを証明しなければならなかった。自分のやっていることが正しいかどうか、気にもとめなかった。自分にそう問いかけることすらしなかった。
 あるいは、こう言い聞かせることもできるだろう――被告がやったことはいずれ起きることだった。彼はほんのちょっとした刺激でも爆発する爆弾のようなものだ。彼は社会にとって危険な存在だった。そんな男を世間に戻すわけにはいかなかった。そうした議論を、わたしはこれからもずっと自分の中で戦わせるだろう“
 これらの問題は、法律家にとって非常に悩ましいものなのだろう。著者(David Ellis)は、1967年シカゴ生まれ。ノースウェスタン・ロースクール卒業後、弁護士として活躍。イリノイ州下院議長法律顧問を務める。2001年作家デビュー、「覗く」でアメリカ探偵作家クラブ最優秀処女長編賞を射止める。
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