昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

カボチャとズッキーニ

2005-08-31 20:56:00 | Weblog
 先日のウキーキングに出かけた日のことだった。その日に限って家を出る時間が遅くなり、湿原道路を歩く予定だったのだが、時間的に少し無理と分り急遽近くの住宅街の道路に変更した。
 もともとこの道路は市の管理化にありましたから、道路脇の土地も市のものであり勝手に利用するわけにはゆかない筈なのだが、付近の住民達は遊ばせて置くのは勿体無いとばかりに勝手耕してそれぞれ家庭菜園として利用していたのです。
市の側では別段直ぐに使う予定も無いままに、見て見ぬふりといった形で大目に見ていたようです。

 畑仕事に従事しているのは、主に近くの住宅の老人達で占められていた。恐らく戦時中の食料不足を補う為に習い覚えた野菜作りを思いだしての事に違いないのです。だから此処で作っている作物は大体ジャガイモが主体で他にカボチャに豆類などだった。
 それらの作物の延び加減に目を向けながら何時もの歩を進めていた時、老妻の言葉で立ち止まり指差す方向には、「あれは何でしょうかね、カボチャのようにも見えるが葉っぱが違うし・・・」そこには老妻の不審がる作物があった。
 花の形と色は黄色で全く見分けが付かないほどなのだが、葉の形には大きな違いがあった。下の写真でも分るようにカボチャの葉はほぼ丸型に近かいが、もう一方の葉は三つに分かれまるで天狗の団扇のようだった。
  家で調べることにして早速くカメラに収めた。帰宅早々にパソコンで調べたが全く分らなかった。翌日もその場所に行った時、折よくその畑の持ち主が作業をしていたので、「聞くは一時の恥」とばかりに声を掛けた。身支度から老婆かと思っていたら、30台後半と思われる主婦が顔を上げると「ズッキーニですよ」気軽に教えてくれた。

 ズッキーニなる野菜は私には全くの初耳であった。老妻に聞いてみると最近大型店などに出回るようになった野菜の新顔だと言う。
老人などには思い付かない野菜だと合点し、家庭菜園にもこうした洒落た野菜が作られるようになったのを知り、やはり時代は変わりつつあるのだなあと実感した次第である。

 なお上の写真はカボチャで下がズッキーニです。
            
             カボチャ

             ズッキーニ




ブヨの襲来(近付く秋より)

2005-08-28 20:38:27 | 日々の雑記
 朝から雨模様の天候のせいか、気温は18度にも上がらず肌寒いほどであった。
もはやこの地域での束の間の夏は既に終わったかのようで、野面を渡る風の佇まいには、秋の序章の始まりを色濃く漂わせていた。
 その風に乗って来たのかどうかは全く分からないのだが、身体に寄って来るブヨが急に増えて来た。ブヨは正に憎っくき吸血鬼とも呼べる存在で、思い起こせば昨年もこの湿原道路でやられている。
 普通蚊の場合は刺されて血を吸われると云うが、ブヨの場合は皮膚そのものを噛み切るらしい。実際私がブヨにやられた時も正にそのとおりで、激しい一瞬の痛みで気付かされた。その時点ではもう吸われた後のことで、血の痕跡を見て「嗚呼・・・やられてしまった」との思いを抱くのみで、その後に来る激しくてしつこい痛痒さを知る由も無い。これだけは経験して見なければ、到底分からないものである。
そしてまたこの痒さは一ヶ月以上にも及ぶことがあり、更に噛み傷はしこりととなって後々まで残り、更に忘れた頃に痒みがぶり返して来ることもあり、実に厄介な吸血鬼なのである。

 今年も全く同じでこの吸血鬼ブヨは、こちらの隙を窺って執拗に追い駆けて来るのだ。またこのブヨの蚊と違って嫌らしいところは、薄物であれば衣服の上からでも簡単に攻撃して来ることである。肌を露わにしていないからと云って安心は出来ない。風の強い日ならばともかく無防備では歩けないから、虫除けは勿論だが殺虫剤さえも所持して歩くことにしている。
 しかし対策が万全だからと安心は禁物で、カメラに夢中になり暫しでも立ち止まろうものならブヨたちの総攻撃を受けてしまう。

 なお蚊の場合は汗かきの人が良く被害に遭うと言われるが、ブヨの場合はどうなのだろうか。短パンに半袖姿で平気に歩いている人も居るから、ブヨの方にでも、それなりに好みのタイプが有るのかも知れない。思うにどうやら私は蚊やブヨに好かれるタイプらしい。

続・近付く秋の気配

2005-08-26 22:37:55 | 日々の雑記
  昨日湿原を歩いて、はっきりとは目に見いないながらも、近付きつつある秋の気配についてを載せたのだが、今日はもうすっかり秋なのだと実感させられた。
 たった一日違いで気温は18度そこそこ、時折ぱらつく小雨に涼しさを通り越してもはや肌寒いまでになっていた。ストーブを点ける日が来るのはもう間近なことであろう。そう思うだけで気が沈んで来るのを、如何しようも無かった。
 道東の夏は束の間に過ぎ去ることは、疾うに分かりきった事なので、今更嘆いてみたところで仕方が無いのである。せめて今の内にせっせと歩き貯めようと、前向きの気持ちこそが正しのかも知れないと気付いた。

 しかし今日は朝から台風の影響で、小雨が降ったり止んだりの一日で、歩きはおろか外出さいも気重である。そこで仕方なく昨日載せ残した、湿原道路脇に咲いていた草花の写真の整理を始めた。
 初めから名前が分かって撮っては来たもので無いから、何時もの事ながらその名前の発見に一苦労、図鑑とパソコンと首っ引きで調べた結果が次のとおりである。私なりの苦労の結果が、全く見当違いなのか、はたまたやや近いのかは皆目分からないのだがとにかく載せてみることにした。
       コウゾリナ(顔剃菜)

             同上

            ネジバナ

           ヤマブキショウマ

           キツリフネソウ

           キンミズヒキ

   


近付く秋の気配

2005-08-25 22:18:14 | 日々の雑記
 処暑も過ぎた或る日、湿原道路に出掛けて先ず驚かされたのは、空気の変わりようだった。照る日曇り日には全く関係なく、肌にベッタリと纏わり付いていた、湿気の多い空気は一変していた。
何時ものように葦の野面を渡って来る風には、濃くて重い湿気さは跡形も無く、さらりと乾いていて正に涼風そのものだった。ホッとして見渡す葦原は何時の間にか、立ち枯れていた葦は姿を消し、瑞々しいばかりの若い葦で一面が覆い尽くされていた。また何時もは靄がかって姿を見せなかった阿寒の山々は、頂きこそ厚い雲に覆われていたが、麓方面の稜線がハッキリと見えるのも、近付く秋の現われであろうか。更に道路脇の植物群も主役交替とばかりに、何故か紫がかった花が多い。それに花の大半の佇まいは、控えめで可憐だった。

 余り野草の知識に疎い私の知るところでも、例えば、クサフジ・トリカブト・ツリガネニンジン・アザミ・シモツケソウ・ヒルガオなどがあげられる。
クサフジ

イブキトリカブト

ツリガネニンジン

ノアザミ

コヒルガオ

ヤマハギ

ホザキシモツケソウ



雨の日に写真の整理

2005-08-21 22:24:08 | 日々の雑記
 雨の日を利用して、今まで公園や湿原道路で、撮りまくって来た写真を整理した。昨年も公園や湿原を同じように歩いていたのだったが、そこに在る花木には、余程人目を惹くものでない限り、カメラを向ける気がしなかった。
ところが今年は違っていた。先輩ブロガーさん方と多く接するようになり、何時の間にか私の目の付け所がすっかり変わった。
 普段なら余り目も呉れないような、湿原道路脇の葦の茂みに隠れているようなちっぽけな花にも目が行き渡るようになった。その上撮って来たその花木の名前を知ろうと真剣に調べようとする、己自身の姿に驚く次第です。

 今日は先日ウォーキングで出かけた先の公園で見つけた、百合の花の一群を載せて見ました。「ノカンゾウ」の種類とまでは判ったのですが、図鑑やパソコンで調べても、百合の花はその種類が多過ぎて見分けられず、残念ながら正式な名前は分からずじまいでした。
 
 ノカンゾウの種類と思われるのですが・・・














やったぜ!57年ぶりの快挙

2005-08-20 22:40:02 | 日々の雑記
 2005夏の甲子園は、我が郷土の代表駒大苫小牧と京都代表京都外大西の間で争われ、2時間15分からなる熱戦の末に、我が駒苫が関西の雄京外大西を退けて、昨年に引き続いて連覇を成し遂げた。 
 この夏の甲子園2連覇は実に57年ぶり史上6校目の快挙だったという。

 今大会開催前の時点では、今年の駒苫の戦力は余り話題にならなかった。事実地区予選の決勝では、正に薄氷を踏む思いで手に入れた、代表の座であったからである。だから正直言って今日の決勝にまで進めるなんてことは夢のような話であった。

 先発投手は間隔の一番空いているエースの松橋だった。無難な立ち上がりかと思ったのも束の間で、先取点取られた時に不吉な予感さえ抱いた。
それにノーエラーの堅実の筈の守備にも、今日ばかりは大事な局面で2度ものエラーを犯していた。林主将の時にはもう完全に駄目だと頭を抱えてしまった。

 しかし終盤に入り、投手も田中に代わってからは様子が一変した。逆に相手のエラーを誘い出すようにして加点してリード、最終回には打者3人を連続3振で打ち取っての大勝利であった。
 思えば昨年の覇者としての重圧を背にしての快挙である。本当に立派だったと一人一人手をとって褒めてやりたい。

 それにしても、やはり2年生投手の田中は凄い奴である。彼ばかりではない。選手皆の力を結集して手にした57年ぶりの快挙だったのです。

 駒大苫小牧の選手の皆さん本当におめでとう!そして15日間有り難う!


夏の甲子園連覇も夢じゃない

2005-08-19 22:04:27 | 日々の雑記
 今日甲子園では準決勝2試合が行われて、その第2試合で我が郷土の代表校駒大苫小牧が、大阪代表の桐蔭に競り勝ち、明日の決勝に進んだ。
 今日の対戦相手は、エース豪腕速球王の辻内と、昨日の試合で3ホーマを記録した平田を擁する、今大会きっての強豪チームである。この2選手は共に、超校高級と呼ばれるに相応しい、記録の持ち主達である。
 
 だから昨日の試合が終った時点では、旨い具合にそれも運にも恵まれて、準決勝までは勝ち進んだものの、対戦相手が大阪桐蔭と知った時には、正直言って我が駒大苫小牧もこれまでかと腹を括った次第だ。
 しかしいざ蓋を開けてみると、150キロ超えての豪速球投手辻内を打ち込んでの、序盤で早々と5点を先取して圧倒的に優位に立った。終盤同点に追いつかれはしたもの、超校高級スラッガー平田選手をノーヒットに押さえ、更に最後には空振り三振に打ち取っての見事な勝利であった。
 まさかこれまでやれるとは誰もが予想さえしなかった快挙である。

 さて今大会開催前の駒大苫小牧に対する評価は余り良くは無かった。何故なら南北海道大会の決勝戦での苦戦振りからして、むしろ決勝で対戦した北照高校の方が代表に相応しい云う者までいたのである。
それは何故かと言うと深紅の優勝旗が初めて津軽海峡を越えた時の立役者でもある、佐々木幸介主将を初め早々たる主力メンバーの大半が卒業している。
また昨年の場合は、初めから話題に上るほどのチームで無かった。それが試合を進めてゆきながら、日に日に力を付けて勝ち進んだ末の優勝であった。
 そうした昨年のチームに較べると、見劣りするのは否めないが、今年もまたそんな開催前の評価を覆して、尻上がりに力を付けて来た。正にあれよあれよと言う間の決勝進出である。こうなると夏の甲子園連覇も夢で無くなった。選手一人一人に決してずば抜けた力量があるわけでもないが、基本どおりの野球に徹底しているのが実に清々しい限りである。その証拠が甲子園でのノーエラー試合である。

 さて明日の決勝戦だが誰が先発するのか・・・これは見ものである。エースで3年生の松橋を今日は使わずに残して来たから、当然彼だろうと思われるが、今日先発の2年生の田中も捨て難い、あの面構えが何とも頼もしい限りだ。また終盤田中をリリーフした、3年生の吉岡もいる。3人の継投策になるのは間違い無いところだが、こうなると先発選びに苦労するところでもある。

 いずれにしても夏の甲子園連覇は、もはや夢ではなくなった。平常心で実力を発揮して、是非とも深紅の優勝旗を再び北海道に持って来て欲しい。
 君らなら出来る・・・絶対に出来るのだ!

我が誕生日に思う

2005-08-18 23:11:00 | 日々の雑記
 今日は73歳の誕生日、どうにかこうにか生き延びて来た73年間を振り返ると、今更ながら感慨深いものがある。
 先ず肉親を対象にすると、親父よりもおふくろよりも、はたまた三人いる兄達よりも遥かに長生きして来た勘定だ。
それもこれも人々に与えらえたそれぞれの寿命と云われれば、それまでかもしれないが、二十歳そこそこで病死した兄達のことを思うと、己の長生きがとても済まないような、叉逆に天から与えられた寿命の有難さを、しみじみ思う今日の我が誕生日である。

 さて私の誕生日のことだが、戸籍上では昭和7年8月である。しかし何故かもう一つあって、同じ年の2月も誕生日と言われている。生まれた処は、樺太北部の拠点都市の在である。当時樺太と云えば日本国でありながらも植民地的行政化にあって、生誕死亡の届けなどは全て本籍地の送付されて初めて発効したと思われる。
 私の本籍地は山形県であったから、役場同士の手違いか、或いは親父が本家への通知が遅れたのか、または知らせを受けながら本家の方での届けが遅れ、今更半年も以前のこととは言えずに、気付いたその日を役場に届けた結果かも知れないのである。当時の樺太ではそのような事はザラに有ったという。

 だから占いなどに良く利用される星座占いは、戸籍上の「しし座」と実際の「みずがめ座」の二つになるわけで、占いなどは余り好まないから正座の振り分けなども全く分からない始末である。しかし我が女房殿は女のこと故何かと持ち出して来る。その度に戸惑いを覚えて面食らうのだが、それも女の手遊びストレス解消の手段かと思えばと、ほどほどに付きあっている。

 誕生日だからと云っても、この年では今更祝うことも無いだろう、むしろ「誕生日は正月同様であの世への一里塚でめでたいことでないから、何もしなくても良いよ」と云っていたのだが、老妻は夕食に生鮨を取り寄せていた。もともと鮨は大好物で毎日続いても平気なほどであるから、それに老妻の折角の好意を有難く頂戴した。やはり生鮨は何時食べても美味いものである。

 それにしても73年良くぞこれまで生きて来られたものである。日本男性の平均寿命は78、64歳とあるから、後6年ほどは生きられる勘定だが、それまでにならないとしても、残された日一日を大事に生きてゆきたいと真剣に思う日でもあった。

柳町公園にて

2005-08-17 21:16:07 | 日々の雑記
 迎え盆と送り盆を無事に済ませ、また其れにかかわる所用からも開放されて、今日は久しぶりに柳町公園の花壇のある区画を歩いて来た。
 来て見て花壇が一変していたのには、先ず目を瞠らせられた。花はすっかり入れ替わっていた。花壇の花は見るからに初秋の花へと衣更えされていた。

 その中でも圧巻だったのは、釧路市の花とされているキンレンカが広範囲で咲き誇っていた。これだけの見事な花を目前にしては、歩くのは二の次とばかりに写真を取りまくった。当然名前の判らない花もあったから、帰宅して早速に図鑑とパソコンを駆使して調べてみた。その結果はっきりしたものや曖昧な物、叉はまるっきり不明のままのもあった。しかしそれはそれとして一応載せてみることにした。

※追記   花の名前の訂正
 下の写真の中のピンクの花の名前ですが、同郷の先輩ブロガーK子さんより本当の名前を教えて頂きましたので、「ラバテラ」と訂正させて頂きました。

 
                    
          釧路市の花「キンレンカ」
          
        ラバテラの花
 
 ブルーサルビアの花
  
 ヒメヒマワリorルドベキア
 




 

第60回終戦記念日

2005-08-15 21:03:49 | じゃこしか爺さんの想い出話
 例え60年という永い年月が過ぎたとしても、樺太で体験した終戦の日々の事は忘れられない。あの一連の出来事は未だに消える事無く、時折り夢にまでに現われる正に悪夢である。若しもと云う仮定は理に合わないことは充分に承知しているが、若しもあの戦争末期に、ソ連軍が不可侵条約を一方的に破って、樺太に侵攻して来なかったら・・・と云う思いについついとらわれてしまう。くどいようだが本当に若し、あの時日本の弱みに付け込んで、ソ連が戦争を仕掛けて来なかったら、父が命を失いまた長兄のシベリア抑留も無ったにだろうし、またそれを苦にしての母の病気再発も起らず、モットモット長生き出来たことだろう。
 
 しかし実際には母はそうしたことからの心痛に押しつぶされて、44歳という若さで他界した。更に私たちも既に戦争が終わっていることも知らされずに、ソ連軍の侵攻に怯え、機銃掃射に追い回されて数日間も山野を彷徨ようことにもならなかった。後になって判ったことだが、機銃掃射で追い回され、命からがらジャガ芋畑の中を這いずり回って逃げていたのは、戦争が終わった15日の数日後のことであった。
 
 子どもの頃に受けた事柄が今なお心に深く残り、それ以来ソ連という国には信用が置けず許す事は出来なかった。それは今も同じで、ソ連という国が崩壊してロシアとなった現在でも全く変わらない。
 だから今ビザ無し交流とか、医療関係での援助などは以っての外だと思う。その様な考えは人道的には間違っているのだろうが、彼の国の残虐な行為を身に沁みて味わされた私としては心情的には納得出来ないのである。
 あの国が一度手に入れた領土を、簡単に手放すなんて事は絶対にあり得ないことである。それは60年を経た今でも、そうした不信感は払拭されていない。
 これは事の大小の差はあれ、今度の戦争の空襲で家を焼かれ、親きょうだいを失った人々と、人類初の被爆を体験した広島と長崎の人々がアメリカを恨む気持と変わらない。これは間違った考えなのかも知れないが・・・しかし私は神様でも仏様で無いから、特に終戦の日を迎える頃になると、こんな過激な思いに陥ってしまう。

 なお終戦記念日ついては、昨年のブログにも詳しく載せてあります。

   ※ 終戦の日に想う
   ※ 避難
   ※ 避難の果てに白旗