昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

吹奏楽コンクール

2004-07-31 19:32:29 | 日々の雑記
今日北海道吹奏楽コンクールのK地区予選大会に行って来た。中学三年生の孫娘が出るという事で、ビデオカメラとデジカメを持って出かけた。本来ならば父親の役目なのだが、丁度月末と重なり仕事の都合が付かず その役目が私に回って来たのだ。

 初めは孫の中学校の出番だけかと思い気軽に引き受けたのだが、同じ時間帯に出場する学校全部のビデオ撮りを頼まれた。全部で十校時間にすると約二時間は軽く掛かるだろうから、私にはかなり荷の過ぎた事である。しかし日頃から孫には大甘ちゃんのジイチャンときてるから、二つ返事で引き受けた。

 ビデオカメラに三脚とデジカメは結構な荷物であり、その上場所の確保から二時間びっしりの立ちん坊はかなり応え、何とか外まで出たものの今度は陽射しにやられすっかり参って仕舞った。

 だが事はこれで終った訳ではなくて編集が残っている。それは後でゆっくりやる事にして、先ずは昼飯を食べ昼寝を済ませる事である。

最後の治療

2004-07-29 19:30:53 | 日々の雑記
今年の二月から始めていた労災病院リハビリ科の、頚椎牽引と両肩の電気治療を一応今日で終わりとして来た。決して完治した訳では無いのだが、約五ヶ月間も続けて来たので一度この辺で様子を見ようと云う事になったのである。

 昨年に較べて今年はかなり暑い日が続いていたから、自分なりにも改善されて来た様にも思えた。確かに連日の様に今年最高の気温を記録した一週間ほど前からは、食事後の急激な動きに対してもそれま感じた痛みは和らいでいた。この事からこれまでのリハビリ治療が効いて来たのか又は、高い気温の所為なのかは今の時点では判断出来ないが、取り敢えず涼しくなる秋口まで様子を見ることにして、その時の状態で治療を再開するかどうかを決めようと云う担当医師の判断でそう決めたのである。

 毎日が休日の年金生活者の身の上でも週に二回の通院はきついものがあったから内心ホットしていた。

 私はこのままどんどん良くなりもう二度と通院する事は無いだろう・・予感を感じていた。





 
            


白玉のソロバン

2004-07-28 19:39:48 | じゃこしか爺さんの想い出話
写真のソロバンは昨年まで勤務していた頃の物を一纏めにした収納箱から出て来たものである。過去約四十年間の在職中世話になったもので、私にはとにかく懐かしい代物であった。
 覚え始め頃は一般的な茶色のものだった筈だが、何故白いソロバンに変ったのかははっきりと記憶していが、昨年まで勤務した協同組合に転職した頃ではないかと思う。
 
 その頃の職場にベテランの小母さんが使って居たのを見て、単なる物珍しさから手にしたのが癖になり、それ以来白いソロバンで無ければ思うように計算が出来なくなっていた。

 私はソロバンに付いての資格は一切持っていないが、勤務中は四六時中手にしていたから、下手な資格保有者には負けない自信が有った。但し加減の速さでは職場内の女性には適わなかったが正確さでは上だったと今でも自負している。いわゆる検算で不符号の「一円・二円」を探し出すのが得意分野であった。

 「ソロバンの達者な奴は出世しない」と良く言われて私も随分迷った事もあったが、最終的にはトップの理事長までに成れたのだから、それはソロバン不得意な奴の負け惜しみに過ぎなかったのかも・・。

 今改めて手にして若い頃を事を思い出していた。事務所全員での仕事前のウォーミングウップの「読み上げ算」に打ち込む姿を・・。「ご破算に願いましては

海霧(ガス)

2004-07-26 19:26:27 | ニュース
正午の気温が約23度と晴れて居たのだが、それが夕方には20度となり、ヒンヤリとした吹き始めた途端に海上から海霧が流れ込んできて、辺りは見る見る内に乳白色の世界となった。

 もともと海霧で有名で小説や流行歌に取り入れられて名を売って来た道東の田舎都市、その反面航空便の運行欠航率の高さでも有名でもある。

 しかし時期になると観光絵葉書の「夜霧に咽ぶ幣舞橋」は今なお健在で、霧笛と共に道行く旅人のノスタルジァを誘い、3~3・5~5と写真を撮り合う観光客が絶えない。


     ★ 写真は海霧に咽ぶお馴染みの幣舞橋 ★



 
            


妻手製のかき揚げ蕎麦

2004-07-25 17:44:57 | 日々の雑記
 今日は今年一番の暑さとなった。この地方では珍しく26℃(予報) という気温、我が家の外の寒暖計(日陰)では28℃を指していた。何時ものコースを何時もの距離だけ歩いて来たのだが、何時もの倍以上疲れて仕舞った。やはりこれも気温の所為なのかも知れない。昼飯は妻の提案であっさりと蕎麦にしようという事になった。

 妻の手製と云っても手打ちでは無く、市販の蕎麦を茹でて色々な種類に仕上げるのである。この暑さだから妻は当然のように「ざる蕎麦」風の付け麺を考えての事だったのだろうが、私の場合は夏であろうと無かろうと断然暖かい蕎麦「かしわ又は天麩羅」が好みである。妻と私との主張のやりとりの後どうやら妻が折れて暖かい方に決まった。
だが出汁取り用の親鶏の買い置きが無く、先日清水市の友人から届いたサクラ海老を使ってのかき揚げ蕎麦となった。

 かくして私は妻と娘の恨みがましい目を尻目に、かき揚げ蕎麦を堪能した。その満足度は100パーセントに達した。
 
ちなみに我が家で市販の蕎麦を買う場合の基準は、産地よりも原材料の含有量が優先する。包装の裏面の「原材料名」の欄でそば粉が一番先に書いて有るのを選ぶ事にしている。

 
            


第131回芥川賞

2004-07-24 15:07:08 | 日々の雑記
今度の芥川賞受賞作品に文学界6月号に掲載の、「モブ・ノリオ」作の「介護入門」に決まったのを極く最近になって知った。如何に70歳を過ぎた老人とは云いながらその疎さを恥じ入るばかりである。今更ブログに載せるなんて遅きに失するようだが敢えて載せる事にした。

 この作品は文学界6月号で読んだのだが、どうもピンと来なくて何度も途中で止め遂に読むのを止めて仕舞ったものである。己の読解力不足の所為もあるのだろうし、又70過ぎという老年による理解力の限度にもよるのだろうと思う。
 しかし受賞作に選ばれたのだからそれなりに立派な作品に違いないのだろうが、何故か私には心から納得出来ず未だに腑に落ちないでいる。

 同じ文学界の5月号にある「佐川光晴」氏の「弔いのあと」の方が相応しいと思った。 
同じように老人介護をテーマーにしたものだが、こちらの方がはるかに読み易くて共感が持てる作品なのだが・・。こう思うのもやはり歳の所為かな・・?
 

二十日振りのウォーキング

2004-07-23 19:33:29 | 日々の雑記
道内観光に来ていた妹夫婦が我が家に十日余り滞在し、その帰った後の寝具などの整理と洗濯に、天候の悪さもあって意外と日数がかかりその間歩きに出られなかった。

 今日は霧も無く気温も上がり快適なウォーキング日和、約二十日ぶりに妻と自転車道路に出かけた。
 久しぶりに訪れた道は前とは何処か違って見えた。
それは道路添いのナナカマドなどの木々の葉が生え茂り更に緑濃くなっていた事と、 馬鈴薯(道路脇の国有地を近所の住民が勝手に耕作)の丈が伸びそれぞれの花が色鮮やかに咲いていた事である。
 たった二十日ほどの間でこうも違うのかと、植物の旺盛な成長ぶりに今更ながらただただ驚くばかりであった。それともう一つ野鳥の種類の増えていた事で、それは鳴き声の多さで分かった。

 膝の悪い妻は途中で引き返したが、私は己の体調に合わせてのんびりと休み休みして八千歩ばかり歩いた。川風が吹いているとは云いながら、二十度余りの陽射しとその照り返しはやはりこたえたようで、上半身は汗びっしょりだった。
 車に戻って早速く飲んだ愛用ドリンクは格別だった。

差し歯

2004-07-22 20:41:57 | 日々の雑記
昨日の朝食中に差し歯が外れた。別に硬い物を噛んだ訳でも無く普通の食事だった筈だが、その一瞬は口中での感覚で判った。約七年ほど前に入れてもらった差し歯だが昨年辺りから、半年ごとに外れていたのでもうそろそろだなと予感を感じていたからでも有る。たかが歯の一本くらいと云うかも知れないが、己自身の歯が上下合わせて十本となった老いの身には一本と云えどもかなり貴重で有る。早速く行き付けの歯科医電話したが生憎く今日は空きが無く、明日の十時頃でしかも「患者の状態で待って頂く事もあります」と云われた。

 私が歯科医に到着した時三台の車が同時に駐車場に乗り入れた。「一人でも早く・・」という思いは皆同じらしい・・普段なら神経質なほど駐車に気を遣うのに今日は違った。いきなり頭から乗り入れ施錠もそこそこに争うように駆け込み、我れ先にとばかりに保険証を出して受付を終えた。

 しかしそれ程まで恥ずかしい(後で反省)思いをしたにも関わらず、実際に私が呼ばれたのは三人の一番最後で約一時間ほど待たされた後であった。良く考えれば何のこと無く予約が先なことは初めから決まっていたのである。

土用丑の日

2004-07-21 19:29:43 | 日々の雑記
夕刊を見て今日が「土用丑の日」であることに気付いた。今年最高の気温が25℃一寸で殆どが20℃以下では、本州のしかも昨日の東京の40度近い気温なんかは想像したくとも全く出来ないことである。何しろ天然クーラーがしっかりと効いているのだから・・。

 そんな地域だから暑さに耐える為の栄養素である「うなぎ」などそう簡単には思い浮かばない食品で、むしろ寒さに対しての体力づくり云えば納得かも・・。

 そもそも真夏の暑気対策に「うなぎ」を食べるのを広めたのは、色々と説が在るが一般的には、江戸時代の学者「平賀源内」が売上げ不振の「うなぎ屋」の友人を助ける為とある。真偽ほどは定かでないが・・。

 しかし午前中20℃ほどあった気温が夕方五時には16℃を割り、雷雨の上がった後の風は涼しさを通り越して肌寒いばかりでとても「うなぎ」どころではない。出来る事ならこの気温を今直ぐにでも灼熱地獄の東京方面に送ってやりたい気持ちだ。
 でも慣習の手前えも有り、せめて孫たちにだけはと・・「うなぎ」求めてスーパーに走る爺ちゃん婆ちゃんであった。
 
 年寄りには解禁ホヤホヤの新秋刀魚が在るさ・・。