昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

追憶・じゃこしか一代記(5)小学校での想い出

2007-03-31 20:33:39 | じゃこしか爺さんの想い出話
 
                    ・・・通学・・・
 
 家から小学校までは2キロほどの道のりで、子どもの足で30分ほど掛けて通学していました。初めの内こそ、決められた通学路を真面目に通っていたのですが、慣れるに従い要領良く住宅街を通り抜けて行く幾つかの近道を覚えようになりました。
 たいていは、近所の級友2、3人と一緒なのですが、途中からは仲間が増えて賑やかになります。
当時は車など滅多に通りませんから、駆けっこや鬼ごっこなどで大騒ぎしながら行くのですが、あまり時間の無い時には、住宅街を縫うようにして最短の近道を走り抜けて行くのです。
またタップリと余裕がある時は、わざわざ遠回りまでして、気の合う級友を誘って通ったものです。
こうしてその頃の私たちには、通学も学校も遊び場一つとしか考えて居ませんでしたから、クラスの仲間と遊びを覚えたり作ったりして過ごす、学校とその通学が一番楽しかったのです。
ですから、夏休みや冬休みは別にして、日曜日などの休日はむしろ恨めしい存在だったのでした。


    壱~夏の通学・・・薔薇いちご 
 学校内の授業や遊びも勿論ですが、同じ方向の級友と一緒の通学時もとかく楽しいものでした。
 その楽しさは、冬の通学とは違っておりましたが、夏にはまたそれなりの楽しさがありました。

 登校時には一緒だった級友も、下校の際には掃除当番などで、別々になり独りで帰ることも少なくありませんでした。そんな時にはまた別な楽しみがありました。
 たいてい独りで帰る時には、学校横の元宮町の長屋を通り抜けて、神社の裏山を横切る近道を利用するのが普通でした。この炭砿神社の裏山には野生の苺の木があった。
 その花の形や枝に生えている鋭い棘から、私ら子どもたちは「薔薇苺」呼んで珍重したものです。その名が正しいのか如何かは分かりませんが、後年その形と味覚から「ラズベリー」であると知りました。
 独りでの下校途中山の中で、鈴生りの薔薇苺を偶々見つけることがあります。
そんな時には先ず薔薇苺を腹一杯になるまで詰め込み、残った分は弟たちへのお土産として、弁当箱に詰めて家に持ち帰ったこともありました。 
 また時には下校時間が少し遅くなることがあり、普段ならたった一人で通るのは淋しくて、とても怖い場所だったのですが、薔薇苺が熟れるこの時季だけは、真っ赤に熟れた苺の甘さに惹かれて平気になれたのでした。

 この薔薇苺は家の近くの山でも採れましたから、下校時に限らず帰宅後や休みの日などには、遊び仲間などに知られないようにこっそりと山に入ります。また時には跡をつけられ無いように、山道を大きく迂回して山に入り、独り占めして堪能したこともしばしばでした。
 


追憶・じゃこしか一代記(3)

2007-03-28 18:46:20 | じゃこしか爺さんの想い出話
 本来ならばこれが(3)として先に載せるべきところを、うっかりミスにより(4)と前後逆に載せてしまいした。なお前回分の番号は(4)と訂正いたしました。どうぞご了承下さい。
 
  ・・・住吉町にて・・・ 

 父が三菱の炭砿に就職して7年ほどの年月が経ち、一家の生活も落ち着きを取り戻していた。やがて父の一途な仕事振りが認められ、一般抗夫の上の助手という職制になり、住居も一番新しい助手長屋のある住吉町に引っ越すことになった。
 長屋の形こそ今まで同様で八軒長屋でしたが、部屋の造りが今までより大きくて、そのうえ間数が多かったのです。またそれに何よりも便利だったのは便所が室内にあったことで、更に当時の長屋には珍しい縁側が設けられていた。
 
 因みにその家の間取りを説明すると、先ず玄関が上り框を入れて三畳、また畳敷きの部屋は(十畳・八畳と四畳半の三部屋)があり、台所は三畳の広さでそこには幅一間半に高さ六尺・奥行き一尺のガラス戸棚が付いていていました。その他には、そこに裏口に接して三畳の物置があって、その一部は燃料の石炭の保管場所も兼ねていた。
 ただ水道だけは共同で長屋の端にあった。そこからの水汲みは、私と弟の役目で朝と晩の2回を交替で受け持っていました。こうした子どもの家の手伝いは、4・5年生になると何処の家でも決ってやらされていたのです。
 家の中で特に珍しかったのは、畳二枚ほどの板敷きの縁側で、夏には遊び場所として利用し、またとんでもない悪戯をして大目玉を食いそうになった時の、咄嗟に外へ逃げ出す恰好な所でもあったのです。
 なお十畳と四畳半の窓にはそれぞれ出窓があり、その下が物入れとなっていて雑多な小物入れとして利用され、またそこは私たちの簡単な予習や復習の机代わりにもなっていました。

 なおこの住吉町の家には、終戦の翌年13歳の頃まで住んでおりました。
小学校への入学や、また太平洋戦争開戦と終戦など多くのことを経験し、それに学校での友だちとの出会いや遊びなどの想い出が沢山あって、とても懐かしく忘れられない処でもあります。
 またこの住吉町時代には色々な仲間との交流が盛ん行われ、冬期間のスキー遊びや夏休み中の遊びなどは、全てここ住吉町で覚えたものでした。

    ・・・黄金の塔・・・ 
 ブログに載せるには極めて尾籠な話で恐縮ですが、これも極寒の地樺太ならでの、避けられない生活の一端として、伏してご容赦をお願いする次第です。

 樺太での少年時代の想い出には色々な事がありますが、その中でも特異なものの一つに、冬のトイレに付いても忘れられない事があります。当時の炭砿住宅、長屋の便所はいわゆる「ボットン式便所」と呼ぶ汲み取り式でした。
 普通は便槽にある程度溜まれば回収されるのですが、冬期間は積雪のために回収出来ず、大きい方がどんどん貯まって行きます。家族数が多かった分だけ便槽に貯まる量は当然多くなります。
 良く笑い話などで、北海道などの寒い地方での小便の際には、金槌を手にして凍った小便を叩き壊しながら用を足すのだと云われております。
それは冗談として、戸外は連日氷点下30度を越す酷寒ですから、大便とは云っても放って置けば、時を置かずにカチンカチンに硬く凍ってしまいます。
 それもただ凍結するだけなら未だしも、それが日を追う毎に高く積み上がり、まるで鍾乳洞の中に出来る石旬のように上に向かって伸びて来るのです。私たち家族はそれを「黄金の塔」と呼んでいました。その黄金の塔は日に日に伸びて、やがて便器を超えるほどまでになります。
 更に放って置くと、遂には尻に当るまでの高さになり、用便が落ち着いて出来ません。この対策には長い鉄棒(鏨状)で突き崩すのが最も良い方法なのですが、簡単そうで中々思う様にゆかず、狭い便所だけにかなり困難な作業でした。
 それにうっかりへまをすると、飛び散った大便の破片が顔に当たり、さらに油断していると口の中にまで飛び込んで来るのです。 
 この厄介な仕事は時々、私と弟にも回って来ることがありました。まだまだ背が低いうえに力も弱かった私たちにはかなり荷の重い作業だったのです。
 ボロ衣服を身に纏い、更に手拭などで口を覆って始めるのですが、直ぐに息苦しくなってそれも用をなさず、被害の受け方も尋常で無くとにかく閉口したものです。
 しかし「黄金の塔」を完全に突き崩した時の満足感と、その後の、上手に出来たことへの、母の労わりの言葉とお駄賃の喜びは一入のものがありました。


福寿草

2007-03-26 18:28:50 | じゃこしか爺さんの見て歩る記
 春彼岸も過ぎた先日の午後、近くの量販店の本屋へ徒歩で出掛けたついでに、散歩でもとその周辺の住宅街を歩き始めた。
 彼岸が過ぎたと云っても、高い建物や余り日の入り込まない家並みの陰などには、薄汚く汚れた雪がまだ残り、各住宅の何処の裏庭も何の見映えもしない枯れ色一色で覆われていた。
 珍しく風が和らいでいたから夕焼けの写真でもと、川岸までも足を伸ばすことにして歩き続けた。
 地区の児童公園横のとある家に裏手の方から、夫婦らしき話し声が聞えて来た。どうせ急ぐこともない時間潰しの散歩の途中だったので、その声に誘われて廻って見た。
 そこに居たのはやはり買物帰りの、私と同年輩と思われる老夫婦で、どうやらそこの家の庭に咲く「福寿草」を話していた。辺り一帯の目に付くもの全てが枯れ色ばかりのこの時季、花屋でならともかく戸外での、その福寿草の黄色はあまりにも新鮮だった。
 私たちの話し声に気付いたのか、その家の老夫婦も会話に加わった。やはり暖冬のせいで年々咲くのが早くなっているそうである。私の家にもたった一株だけあるが、日当りが悪い所為か咲くのはまだまだ先のことで、恐らく来月の20日過ぎ頃になるだろう。
 そこで一株くらいなら無心しても良いのではとの、勝手な思いからの言葉が出掛かったが、初対面でそれはあまりにも図々しいことだと、そこはぐっと堪えて写真だけにしてその場を離れた。
 
 まだ枯れたままの躑躅などの根もとに咲く今年一番の福寿草!

その家の庭の片隅には解けかかった雪がまだ残っていた


追憶・じゃこしか一代記(4)小学校で

2007-03-24 20:21:26 | じゃこしか爺さんの想い出話
  1・小学校入学
 
 やがて数え年七歳に成り、塔路尋常高等小学校への入学の日を迎えました。当時はまだ太平洋戦争こそ始まっていなかったのですが、中国との戦争が激しさを加えて、そろそろ物資も不足し始め、生活が非常時体制になりつつありました。そんな中でも真新しいランドセル(代用皮とかズック製)など、何一つ不足無く揃えて貰いました。
 入学当日の事は、今から約70年近くも昔のことですが、ある程度の事は覚えています。その頃の入学式には今のように親が付いて行くなどの事は無く、たいてい一人で行ったものです。
 私の場合は、父の同僚で日頃から親しくて良く家にも遊びに来ていた、用度課の物資運搬係りNさんが、配達帰りのオート三輪車で校門まで送ってくれました。当時はバスやトラック以外の車などは、今と違って殆ど見られない時代でしたから、例えオート三輪車とは云えながら、車で乗りつけた新入生は恐らく私一人だけだったでしょう。

 当時の塔路町は炭砿の盛況で、人口が爆発的に増えておりましたから、その生徒の数も優に三千人を超えるようになり、やがて樺太一のマンモス校と云われたほどでした。その対策のための新校舎が、旧校舎の後方に増築中でした。

 入学式を無事に終えた私たちの教室は、傷みと汚れが目立つ古くて狭い教室でした。
 受け持ちの先生は「木村ふみ」という女の先生で、太っていましたがとても笑顔がとても優しそうでした。しかし間も無く判ったのですが、見た目と違い女先生ながらもかなり怖い先生のようで、全校の生徒からはとにかく恐れられていたのです。
 この時同じクラスだったN君とは、70年近く経った今でも交流を続けています。また同じクラスで住吉町から一緒に通学し、お互いの家を往き来していた大の仲好しのK君・S君は、残念なことに戦後から今もってその消息は一切分かっておりません。


 ※・・・上の写真の旧校舎はいつ頃建てられたのか分かりませんが、かなり古びてあちこちが痛んでおりました。入学当時はこの校舎でした。

※ ・・・校庭は野球場が二面取れるほどの広さでしたから、新校舎(写真は半分)の大きさが分かると思います。また教室も広く、窓は二重でした。
冬になって積雪が、2~3メートルほどになると、教師の目を盗んで二階の窓から飛び降りたものです。半身がすっぽりと雪に埋まりとても爽快でした。落下傘部隊を真似て、度胸試しをしていたのです。



春彼岸の中日

2007-03-22 18:38:39 | じゃこしか爺さんの見て歩る記
 昨日は彼岸の中日だった。例年通り老妻とお寺参りをして来た。我が家の菩提寺は街からかなり離れた、海岸の高台にあって目の前には太平洋が広がっている。
 車で混雑する道道(北海道)を避けて、蛇行が多い裏街道を走ったのだが、暖冬の影響からか道路沿いには雪が殆ど見られなかった。2、3年前までのお寺参りでは残雪で難儀することも少なく無かったのだが、今ではまるで雲泥の差があって、まるで夏並みの道路状態だった。
 それにこのところの晴天続きのせいで、気温は殊の外暖かく、また何時もの
風の出る時間帯には、まだ少し間が在るようで快適そのものだった。
 老いの身の遠出ドライブのお寺参りには、まさに打って付けの日和である。

 お参りを済ませて外に出ると、目の前に真っ青な空と太平洋が広っていた。キラキラと陽に輝く海の光は、骨堂に慣れた目には眩いばかりでした。
 なお昨日の暖かさは、私ばかりの実感で無いようで、道新の朝刊にもその季節外れの暖かさが記事にされていた。

真っ青な空と、波一つ無くキラキラと陽に輝く太平洋!

同上


追憶・じゃこしか一代記より~(2)

2007-03-20 18:16:21 | じゃこしか爺さんの想い出話
 <塔路町・・・元宮町で>
 
 父が塔路町三菱砿業所用度課に職を得た当時は、父の職場に近い元宮町の長屋住いでした。その頃の塔路町は炭砿が主体の町でしたから、市街地とは別に、7箇所の炭住(主に8軒長屋)の集落があって町の大部分を占めていたのです。
それらの集落は、町の入り口の商店などからなる市街地から、順に山の中腹や川添などに点在し、それぞれ元宮町・松風町・山城町・神居町・高砂町・相生町・住吉町と、名付けられていました。

ここで当時の会社の構成と職制を、私の知る範囲で述べることにします。
◎砿業所所長・副所長・役職員(各部部長)~山城町一戸建て社宅。
◎ 一般職員~課長・係長・普通職員~神居町二戸建て社宅・・・旧制中学以上の学歴者
◎ 従業員・・・坑内員・抗外員・臨時夫~八軒長屋(元宮町・松風町・高砂町・相生町・住吉町)

また当時の職制は、所長・副長・部長の役員級と、その下の一般職員と一般従業員(抗内員・抗外員)と分けられ、それぞれの住宅が異なっていました。

この頃はまだ二~三歳になったばかりで、それに直ぐ下の弟も幼かったから、これと云った想い出などは余り覚えておりません。
その後3年ほどして弟や妹が生まれてから、今までの元宮町の家が益々手狭になって、高砂町に移ることになりました。そしてここでは3年ほど過ごしましたが、塔路町に来た翌年に生まれた五男の年子の弟と私は、既に腕白盛り真っ最中で、いつも2人つるんで薄暗くなるまで、戸外を遊び回っていたものでした。



塔路小教師~二の壱

塔路小教師~二の弐


追憶・じゃこしか一代記~(1)

2007-03-17 17:43:05 | じゃこしか爺さんの想い出話
  <・・・初めに・・・>

 暖冬といわれとおりに、確かに例年よりは暖かく、また降雪量も少ないようですが、日毎に吹く阿寒おろしは少しも変わらず、まるで身を切られるような冷たさです。
 加齢からの体力の劣いで、外出や外歩きが年毎に減っており、たまたま暖かさに恵まれて戸外に出たとしても、目の前に広がるのは未だ枯れ色ばかりで、他に見るべきものも無く、これではブログのネタ探しも儘なりません。
 そんなわけで家の中で無為に過ごして居るよりは、この時季を利用して、日頃から胸に温めて来た「自分史」のために、過ぎし74年生涯の想い出の整理をと思い至ったのでした。そしてそれらの想い出を先ず手始めに、「追憶・・・じゃこしか一代記」と名付けてブログに載せたいと思った次第です。
 もとより一介の田舎ジジイの生涯など、多寡が知れ、取るに足りないものなのですが、とは云うものの全世界でただ独りとも云うべき己自身の生涯ですから,ゆくゆくは「自分史」に纏めてみたいとも思っているのです。

 なお今回ブログに載せるものの中には、過去4年間のブログのものと重なるものがあります。例えば「少年の日の挫折」また「秘密基地」とか「海の日」「毛蟹釣り」などがあります。また日頃の出来事なども折を見て、今までどおり載せて行きますので、「一代記」の方は飛び飛びになるかと思います。
 どうぞ宜しくお願いいたします。


  <壱・生い立ち>
 
 私は昭和7年8月18日、父(明治29年生れ)と母(明治36年生れ)との六男三女の九人の内、5番目四男として、樺太恵須取町字白伊という、聚落の殆どが半漁半農の寒村で生まれました。
 そこは恵須取町(樺太西海岸北部一番の拠点都市)の在で、山が海岸近くにまで迫った細長い狭い土地に、大小併せて50軒ほどの家が点在する半農半漁の寒村でした。

 後年母の話によれば、私が生まれたちょうどその日に、造材運搬に携わっていた父が事故で大怪我を負って帰って来たとのことでした。ですから父の事故と出産と重なり、その時の母の苦労は並大抵のものでは無かったようです。
 その後大怪我から立ち直った父は、とかく危険の付きまとう造材の仕事に見切りつけて、職探しに転々と渡り歩いた末に、人伝に石炭産業で好況の塔路町を知り、そこで生涯の終の職を得たのでした。

 もともと両親は釧路の人間でした。母の実家は明治から大正初期にかけて、一応名の知れた釧路の網元でしたが、母の若い頃に遭難で船を失い没落したと云うことです。
 両親は釧路で大正11年に結婚して、2人の子(私には長兄と次兄)を設けました。その後当時樺太の恵須取町天内で、幅広く海運業を営んでいた母の姉を頼って釧路を離れたのでした。それは昭和の初期の頃だったと思われます。
樺太へ渡り海運業を手伝っていた頃の父は、とかく血の気が多く色々と無茶無謀ばかりを仕出かして、随分と母を困らせていたようです。
 しかしその父も歳と共に落ち着き、酒こそは界隈でも名の通った酒豪でしたが、酔えば歌い踊るといった具合で、子供心にも明るくて楽しい酒だったことを覚えております。
 その釧路出身の両親は、長兄一家の釧路への転居で、図らずも遺骨とは云いながらも40年ぶりに里帰りが叶ったのでした。恐らく泉下でホットしていることでしょう。

塔路町へ移住した翌年に年子で弟が生れ、後に弟1人と妹2人が生まれました。結局両親は併せて9人の子宝に恵まれたのです。当時でもかなりの子沢山の方でしたから、塔路時代の初めの頃は苦労の連続で、両親の苦労も大変だったと思われます。


浅春の夕焼け

2007-03-15 21:27:30 | じゃこしか爺さんの見て歩る記
 暖冬が当り前の昨今では、周知の「寒さ暑さも彼岸まで」の時候の常套句としての言葉は、今後あまり使われなくなるのでは無いかと思われます。
 事実このところの気温は、日中ともなればいつもプラス気温で推移しております。しかし日中は暖かいのですが、何故か風が強い日が続いているのです。

 この一週間の天候はだいたい晴れていたのですが、そのような晴れた日の昼間に限って、10メートル前後の強風が吹いているのです。たとえプラス気温であっても、風による体感温度は大きいですから、ましてや老いの身にはその影響は大であります。
 そんなわけで、日頃は何日も外歩きを望んでいながら、その風のために家歩きを余儀なくされていた毎日でした。ところが今夕になって何時になく風が凪いで来たのに気付いて、暮れかけていたのにあえて散歩をと、近くの新釧路川の堤防に出掛けました。
 外は暖冬のせいばかりでなく、風が落ちてきた分だけ暖かく、それに見慣れている夕焼けにも、またそれに映える川の流れにも、寒中の凄まじい大夕焼けとは違って、近づきつつある春を思わせるような優しさがありました。
 気のせいかそのように感じ、またそのように見えたのでした。
 
何処と無く春を思わせる夕焼けと川の流れ


メモリー増設

2007-03-13 18:07:51 | 日々の雑記
 一昨日の日曜日に、市内の電器店でパソコンのメモリー増設をおこなって来た。買ってから4年近くになるのだが、近頃どうも立ち上がりが遅くなり、気になって仕方が無かった。これはメモリー不足のせいだろうと、勝手な素人考えからのことだった。
 
 増設そのものはとても簡単なことだから、素人でも楽に出来ることだと聞いていたのだが、根っからの「機会音痴」の私にはとうてい無理な作業だった。
それで予算のことも考えて、家に来て貰うよりは安く付くからと、こちらから店へ持ち込むことにした。
 
 ただ問題なのは、各接続線の取り外しと再接続の場合である。
そこで接続での間違いを避けるために、小型の荷札を買って来て、説明書のそれぞれの番号を記して線の一本一本に結び付けた。また更に万全を期すことから、本体裏側の接続面をそっくりカメラに納めた。後々この写真がやはり多いに役立ってくれた。

 増設の作業は、ドライバー1本も在れば極く簡単なものだと人伝に聞いていたが、実際にはドライバーなどは一切使わずに終わっていた。
 まさに「アッと云う間」のできごとであった。

 帰宅後の再接続作業は、説明書と写真と首っ引きで慎重に行った結果、全て無事に元通りにすることが出来たので、直ぐに各分野の点検を始めた。
 最初はプロダイバーとの接続から始めた。その結果インターネット・電子メール・プリント・スキャナなどは正常に作動した。ところが最後の点検箇所のCDドライブが反応しなかった。CDをセットしても作動しないので、「マイコンピュータ」のアイコンを開いて見たが、その中の「DVD-CDドライブ(F)」の項目が表示されていなかった。
 素人なりに色々と試みたが一切判らず、ソニーのカスタマーリンクへ電話した。それによるとメモリー増設後の不具合は、追加したメモリーその物の原因で起きることがあるので、一度取り外してから確認して見て下さいとのことだった。
 しかしそうは云われてみたものの、簡単に取り外しなどは出来る筈もなく、そのうえ各線の取り外しと再接続の煩雑さを思うと、出切ることなら二度とやりたく無い操作だったから、電器店に電話して、ソニーから云われたことを伝えた。
 その結果、店側のスッタフの都合で、家での点検は今日の午前中に行われた。先ず一昨日増設したメモリーの入れ替えや、またその周辺部分の緩みなどを入念に点検したした結果、一度目では直らなかったのが、あちこちの弛みの点検を二度三度繰り返しているうちに、何故か物の見事に作動し表示も快復していた。
 やはり初めに予見したように、最初の装着の甘さか、或いは持ち運ぶ際の車の振動が原因ようだと判った。 

 一時はCDドライブそのものの交換か、またはノートパソコンで細々とやるより他は無いのかと、諦め気落ちしていただけに、再び順調に復元されたことでの、その喜びには一入のものがあった。
 まさに「万々歳」の結果に、昼食も後回しにして、その後暫らくパソコンのしがみ付いていた。






久しぶりの雌阿寒岳

2007-03-09 21:33:28 | じゃこしか爺さんの見て歩る記
 この一週間の間は、流石に暖冬だけのことがあって、暖かい日が続き中には一日中プラス気温の日もあった。しかしそうしたさ中でもこの地域特有の阿寒颪しは、連日のように吹き捲っていたので満足に出掛けられなかった。
 その間、家歩きとパソコンなどで過ごしていたが、やはり直接日光を浴びてのウキーキングには、とうてい比べようよが無くて物足りなさを感じていた。
 ところが今日に気温こそ一昨日と昨日より低かったものの、晴れ間が多く、その上問題の風も穏やかで、稀に見る絶好のウォーキング日和となった。

 日中で一番暖かいと云われる正午少し過ぎに、川向こうの自転車道路に出かけた。やはり暖かくて風が無いだけに、歩く人も数多く見受けられた。
 やがて阿寒連山が見られる地点まで来ると、いつもははっきりと姿を現さなかったのに、今日ばかりは多少靄に霞んでいたが、その雄大な姿を見せていた。
 ただ残念だったのは、右方向に姿を見せる雄阿寒だけは、何時ものように薄雲に覆われて靄っていた。
 
 少し待ったらその靄も晴れるだろと思っていたが、逆に靄が濃くなってゆくようだったので、大急ぎで写したのが下の写真です。とにかく心待ちして出掛けた甲斐があっただけに、今日のウォーキングに満足して帰ってきた。
 
何時もよりは少しはっきりと姿を見せてくれた雌阿寒岳

約10日前の雌阿寒岳、目の前の雪の量の違いが明らかに判ります。